政府と国民の分断策(日本人の識字率・民度1)4

日本人は結婚であれ投票であれ、何であれ、個々人の心には親でさえも踏み込まないのが古代からの習慣です。
結婚は文化の融合ですから、同格の結婚が一番文化摩擦リスク回避には無難ですから結果を見れば家と家の結婚のような結果になりますが、親が頼んでも個々人がイヤだ言えばまとまらなかった点が重要です。
文化人は頭でっかちに理解しているので、西洋方式を日本に当てはめようとして無理に西洋式の階級社会を擬制し、信教の自由がなかったかのように教え、現実直視出来ないのです。
社会組織でも恰も西洋式の大地主と奴隷的小作人を措定していろんな物語が作られていますが、実際に我が国で大地主が生まれたのは明治の地租改正と同時施行にかかる江戸時代からの農地永代売買禁止令解除以降の短期間のことでしかないのです。
この弊害のために戦後の農地解放によって、農地売買が再び許可制になっています。
この辺は04/09/04「地租改正と農地売買の自由化3(大地主の誕生と小作農の出現=窮乏化)」前後のコラムで紹介しています。
信教の自由の大前提・・大名も信仰の内心にまで踏み込めない前提があってこそ、一向一揆などで戦国大名が悩まされていたのです。
歴史では、士農工商を階級制度と大げさに習いますが、一応の区分けでしかなく、江戸時代に活躍したいろんな人を見れば明らかなように、階級間の相互乗り入れ自由な緩い社会でした。
戦後イヤっと言うほど日本人は集団主義で個性がないと言う自虐史観を刷り込まれてきましたが、日本軍が最後まで戦場から逃亡せずに戦い抜いたことがアメリカでは脅威だったからです。
日本人が庶民・末端に至るまで集団での行動を一糸乱れず行なえるのは・・ゴミも散らさないし、秩序だって混雑の中で行動出来るのも・・規律を守るのは個性がないからではありません。
逆に、民族の最下層に至るまでレベルが高いし、民族一体感ひいては環境全体を愛する公徳心が強いことによるのです。
米軍は日本軍の強さを教養がないから命令に対して盲目的に従う民族と誤解して漢字からローマ字にすれば識字率あがるだろうと考えていたようです。
幕末日本にきた西洋人の観察にも多くあるように、女中でさえも命令すると働かないが、任せるとその何倍もやってくれると賞讃されています。
日本軍が強かったのは、個性のない集団主義だからではなく、逆に個々人が心底日本民族を守ると言う使命に燃えているから強かったのです。
集団主義で個性がないと批判する同じ文化人が、「西洋では街並が統一されているが日本では街並がバラバラだ」と批判するので子供心に矛盾を感じて育ちました。
日本は西洋と違って、かなり昔から庶民向けの絵草紙や江戸時代では庶民向け文芸の花が開いています。
芭蕉が奥の細道の旅に出られたのは行く先々でスポンサーが待っていたからできたことですし、それだけ文化の裾野が奥地まで広がっていたことが分ります。
西洋では20世紀の大衆社会が始まるまでは、庶民は文字すら知らず文化に接する必要もない社会でした.
音楽や絵画・演劇等文化的なものは、全て宮廷や教会でしか経験・見られないものでした。
オペラ座と言っても貴族の社交場であって、庶民が行くところではありません。
日本の歌舞伎が庶民の娯楽として始まっているのとは大違いです。
勿論相撲や文楽も俳諧も小唄、端唄、都々逸あるいは浮世絵も皆、庶民大衆向けの娯楽であり芸術でした。
西洋では、庶民にはパンとサーカスという程度の発想でした。
引用文の最後を見れば分るように文盲率が1%と言えば、知恵遅れ等がその程度いますので普通の人はほぼ100%が読み書き出来ていたことになります。
こう言う民族に対して自国の基準を持って、文字が読めないから政府に庶民がたぶらかされていると想像して日本人の知的レベルを上げるためにローマ字を教えてやろうと言うアメリカ国民の知的レベルが分ります.
うろ覚えばかりでは信用性がないので以下のデータを引用します。http://www.nipponnosekaiichi.com/mind_culture/literacy_rate.html

日本は世界一の識字率を誇る。
江戸時代の日本は、庶民の就学率、識字率はともに世界一だった。
嘉永年間(1850年頃)の江戸の就学率は70~86%で、裏長屋に住む子供でも手習いへ行かない子供は男女ともほとんどいなかったという。
また、日本橋、赤坂、本郷などの地域では、男子よりも女子の修学数の方が多かったという記録もある。
もちろん、寺子屋は義務教育ではない。寺子屋制度は、庶民自身の主体的な熱意で自然発生した世界的にも稀有なものだった。 当時の日本は、重要なことは役所や国がやるべきだなどという発想はなく、自分にとって重要であるならば、自分たちで自治的に運営するのが当たり前という感覚を持っていた。
これに対し、1837年当時のイギリスの大工業都市での就学率は、わずか20~25%だった。
19世紀中頃の、イギリス最盛期のヴィクトリア時代でさえ、ロンドンの下層階級の識字率は10%程度だったという。
フランスでは1794年に初等教育の授業料が無料となったが、10~16歳の就学率はわずか1.4%にすぎなかった。<『大江戸ボランティア事情』(石川英輔・田中優子著、講談社)より>
江戸時代の幕末期では、武士階級はほぼ100%が読み書きができたと考えられている。
町人ら庶民層でみた場合も、男子で49~54%、女子では19~21%という推定値が出されている。
江戸に限定すれば70~80%、さらに江戸の中心部に限定すれば約90%が読み書きができたという。<『「奇跡」の日本史』(歴史の謎研究会編、青春出版社)より>
また、1860(万延元)年に日本との間に通商条約を結ぶために来日したプロイセン海軍のラインホルト・ヴェルナー(エルベ号艦長)は、航海記で次のように述べた。
「子供の就学年齢はおそく7歳あるいは8歳だが、彼らはそれだけますます迅速に学習する。民衆の学校教育は、中国よりも普及している。
中国では民衆の中でほとんどの場合、男子だけが就学しているのと違い、日本ではたしかに学校といっても中国同様私立校しかないものの、女子も学んでいる。日本では、召使い女がたがいに親しい友達に手紙を書くために、余暇を利用し、ボロをまとった肉体労働者でも、読み書きができることでわれわれを驚かす。民衆教育についてわれわれが観察したところによれば、読み書きが全然できない文盲は、全体の1%にすぎない。世界の他のどこの国が、自国についてこのようなことを主張できようか?」<『エルベ号艦長幕末記』(ラインホルト・ヴェルナー著、新人物往来社)より>

民度5(孔孟の教え3)

中国では儒学の良さをそれほど自覚していなかった・・そもそも実学理解でしかなく、この世をうまく立ち回る打算術程度にしか考えない国民性でしたので、これでは息苦しくて仕方がないことから、他方で浮き世・現実離れした老荘の思想が並立するようになったのです。
日本の儒教理解から見ると精神論中心ですので、老荘思想は浮き世から離れ過ぎて見えるのですが、あちらでは儒教理解があまりにもあくせくとした現実的打算ばかりだったから、現実にあり得ないような老荘思想や仙人願望が精神の均衡(少しはマトモな精神を持っている人がいるとした場合の話ですが・・・)を保つために必要になったのでしょう。
この傾向は、すでに竹林7賢人の時代から現れているのですから、彼の地の精神世界はずっと昔から中庸を欠いて(極端に走る国民性)いたことになります。
玄宗皇帝も晩年は儒学の息苦しさから逃れて道教に凝って政治混乱を引き起こしています。
中国の改革開放(これも極端なカジきりです)にあたって、日本がその主たる援助支援国でしたが、我が国は長年中国伝来の儒学の教えを大切にしてきた・中国を尊敬しているという姿勢でしたので、中国はこのときにこれは使えると感じたのでしょう。
この結果、中国政府は自分たちも誇りを持っても良い・・これは売り物になる・・利用出来ると分ったので、(それまでは共産主義に反する教えとして厳しく批判して来たのですが・・・)それ以来孔子を自分たちの誇りと言い出したに過ぎません。
尖閣諸島近辺に石油が埋蔵されていると分ってから、イキナリ領有を主張し始めたのと同じです。
この点は日本が統治をしたときに韓国民にも日本人同様の教育をするために各地に日本から費用持ち出しで学校を作りましたが、(世界中で植民地にこのような制度を普及させた国があるでしょうか?)そのときに漢字しかないのでは庶民に対する教育にならないので、勉強の手がかりを与えるために日本のひらがなみたいなものを必要としていました。
ひらがなを強制するよりは民族性を尊重した方が良いということで「韓国にもこう言う良いものがあるじゃない・・」と一般に使用されていなかったハングルの良さを強調して完成させて学ばせたのと似ています。
戦後、韓国/北朝鮮は日本の推奨でハングルの一般普及が始まったことなど国の恥だと隠蔽して自国の偉大な発明として満足していますが・・・。
現在もしも中国が本気で孔孟の教えを尊重しているならば、その教え・精神は日本人の築き上げた価値観を逆輸入して学んでいることになります。
最近の中国での近代漢字熟語は、約7割が日本からの逆輸入品であるのと根本が同じです。
中国地域では10月16日に書いたとおり、民族支配が交互にあったことから2千年単位で戦略的・打算的行動だけが主たる行動理念として身に付いてしまっています。
自国文明の偉大さを宣伝するのに利用出来ることが分ったから(それまでは文化大革命では、最重要排撃対象でした)手のひらを返したように「孔孟は偉い」と世界に宣伝し始めました。
(ノーベル賞に対抗して孔子賞まで始めたのは。韓国並みの精神構造ではないでしょうか?)
彼らは孔孟は偉かったと利用したいだけで、心から孔孟の教えを尊重する気持ちもないし、本当に良い部分を真摯に学ぶ気持ちのないひとが99、99%ではないでしょうか。
実際に日本で理解しているような「仁」を中心とする孔孟の教えを理解するようになれば、現在中国人のように、目先の私利私欲・打算による行動ばかりで、守銭奴のような行動(金のためなら知財盗用どころか本当の泥棒でも何でもする民族です)を恥ずかしくって出来ない筈です。
ちなみに中国何千年の歴史と世上(中国贔屓のマスコミ・文化人だけの言い方ですか?)言われますが、これは中国独特のプロパガンダに過ぎません。
嘘でも何でも現在の政権に都合の良い主張(プロパガンダ)を繰り返していれば、それが歴史になるというのが、韓国・中国の歴史に関する基本的思考方式です。
個々人で言えば自分が得だと思えば「明白な嘘」を言うのさえを恥ずかしく思わない道徳?の社会になっています。
順次地位が上って行って政権を取って行く我が国のような形式の場合、自分を引き立てくれた先の権力者やその周辺の価値観すべて否定することは出来ません。
これに対して流民が王朝をひっくり返して権力者になるか、異民族の侵入・占領による新王朝樹立を繰り返して来たこの地域では、前王朝に義理があるどころかむしろ全否定したくなるのでしょう。
この繰り返しの結果、現在の中国のある地域では前時代の全否定・・歴史は現王朝が嘘でも何でも都合よく創作して国民に強制すれば良いという習慣になってしまいました。
中国や朝鮮においては歴史とは客観的事実・我が国で考えている史実ではなく、現政権の都合を宣伝する道具・プロパガンダであるという意識ですから、我が国で考える歴史・「真実は1つ」を前提に話し合っても解決にはなりません。
中国や韓国、北朝鮮では歴史とは史実を明らかにすることではなく、明白な嘘・あり得ないことでも自国に都合の良いことを主張して相手に認めさせる行為であり、プロパガンダであるという割り切った社会です。
史実は1つ・正しいことは1つだから粘り強く話し合えば、必ず解決出来る筈という我が国流の思考方式では話がかみ合いません。
両国が日本に対して「正しい歴史認識を持て・・」と主張するのは、14日に趙高の故事を紹介しましたが、両国が「鹿を馬」と言えば、本当は鹿でも馬ですと言うしかない・・慰安婦問題や尖閣諸島の領有を主張しさえすれば「日本はツベコベ文句を言わずに合わせろ」という主張をしているに過ぎません。

民度4 (孔孟の教え2)

我が国は律令制を導入しながらも、科挙制度を採用しなかったことを以前書きましたが、儒教を統治道具としなかった・・必要がなかったことによります。
11/27/05「日本に科挙が導入されなかった理由4(律令体制と中央集権)」でも書きましたが、科挙制度は専制君主制に必然となる官僚機構維持のための選抜試験でした。
科挙制は人材登用に優れているだけではなく、優秀な人材を抜擢しても高級官僚が世襲出来ずにしょっ中入れ替わっていると、皇帝権力を脅かす何代にも続く名門・実力者が成立出来ないので、専制君主制の維持にとって有利でした。
杜甫のお父さんかお祖父さん「杜審言」は則天武后の宮廷私人の一人でしたが、杜甫は科挙試験に合格せずに貧窮を極めていたのを想起しても良いでしょう。
我が国の司法試験でも同じですが、難しくし過ぎることによって2代連続合格は滅多にないことから、科挙制によって仮に途中失脚せずに全うしても1代で没落する仕組みが出来上がってしまいました。
「皇帝権力を内部から脅かす勢力が生まれない仕組み」ということは、どんな内部矛盾が生じても改革勢力が内部から生まれて来ない仕組みにしたと言うことです。
内部が腐り切ってもそのままですから・・・最下層民が食えなくなるまで腐敗が進む一方となり、庶民がどうせ生きて行けないならと言う捨て鉢の気持ちになるところまで追いつめられて、命知らずの流民となったときに初めて権力崩壊が始まります。
(黄巾の乱等王朝の最後はいつも同じです)
あるいは内部から腐って来て脆くなっているので、外敵・・異民族の侵攻によって容易く滅亡することも多くありました。
現在中国では薄煕来事件を通じて報道される政府高官の巨額蓄財は目に余るものですが、これは現在共産党の1党独裁権力による特性ではなく、1500年に及ぶ科挙制のもたらした負の側面です。
専制君主制下では政府高官と言えども我が国のような封建領主的先祖伝来の領地がありませんので、科挙官僚制によって抜擢されるのは有り難いですが、皇帝のお咎めを受けて失業しても帰るべき領地もありません。
そこで、いつ失業しても良いように地方の大守に就任すると、その間に目一杯蓄財に励む・・賄賂政治が習慣・伝統になってしまいました。
・・この点はお互い様ですので高官同士大めに見る・・取り締まりしない暗黙のルールになっていたので、この伝統が今の共産党幹部による(失脚を恐れる)巨額蓄財に繋がっているのです。
現在の共産党幹部の巨額蓄財は歴史?伝統・・中国人の精神性に由来することが分ります。
「恒産ありて恒心あり」とも言われますが、生活不安定な社会では恒心を保てなくなる・・目先の利益におわれる打算的人格形成に励んで来たのがこの地域の人民でした。
我が国の場合、先祖代々同じ地域に住み続ける前提でしたから、5年や10年誤摩化せば良いのではなく、100年単位でも馬脚が現れないように心がける・・名誉を重んじる生活習慣になりました。
あるいは数百年後に子孫の財産になるように植林したりしてきましたが、中国では自分一代でさえ一貫しないで、利のある方に着いたり離れたりの社会ですから、禿げ山になる一方になっているはこうした伝統に由来します。
以上のように元々中国や朝鮮では科挙試験で儒学の理解を問うたのは統治道具としての能力・学問であって、道徳・モラル教育目的ではなかった上に皇帝の機嫌次第でいつ処刑されるか知れない不安定な地位になったことから、短期的蓄財・打算的行動が基本的行動指針になってしまいました。
我が国では豪族連合による大和朝廷成立→鎌倉以降の武家政権も地方領主の連合体でしたので選抜試験制に馴染まなかったので、科挙制を採用しませんでした。
孔孟の教えが入って来ても実用に使わなかった分、中国で試験しているくらいだから。何か良いところがあるだろうと必死に良いところを無理により出して勉強してきました。
外の世界から何かが来ると悪いところを見つけるのではなく、何か良いところを見つけ出して育てるのが我が国の国民性です。
その結果、「ひとの生き方」という精神性・・モラル的に有意義な部分「仁」などだけ抜粋して勉強して来たので、「有り難い教えである」とみんなが思ってきました。
他方、専制君主制の中国や朝鮮では、官僚登用目的・モラルよりは統治技術的・実利勉強に主眼を置いて学んで来たことになります。
儒教=「ひとは如何に生くべきか」と言う基本的モラル理解を中心とする我が国の理解では、科挙試験に合格すると直ぐに地方大守等実務責任者に抜擢される中国や朝鮮の運用が理解不能ですが、(私はずっと疑問に思っていました)統治技術中心の勉強・試験であったとすれば、合格後直ぐに使い物になるので理解可能です。
経済学を究めても商売が出来る訳がないのですが、そろばん勘定や会計帳簿の付け方を学べば直ぐに役に立ちます。
車の運転免許試験に合格したら直ぐに運転出来るのと似ています。
(一応車の原理も習いますが、運転免許試験に高尚な哲理は不要です)
日本の司法試験も同様で、法の精神も少しは必要ですが大方は、実務能力を試すものですから、まさに科挙制度の現在版です。
法の精神よりは実務の勉強ですから、合格したらある程度・・ちょっと訓練したら直ぐに使い物になります。
同じ儒教国と言っても、中国や朝鮮では儒学の低レベル部分を中心に勉強して来た社会ではないでしょうか?
ひとのアラばかり探すのがうまい人がいますが、アラを探すというよりは自分のみの丈にあった部分しか理解出来ないのが普通でしょう。
世界で先に活躍するようになった日本人が道徳律の基盤は儒教であると宣伝するので、欧米人は儒教は大したものだと誤解しているに過ぎません。
日本人も儒教の本場の中国ではさぞかし立派な人が多いと思ってきましたから、何かあると「さすがに本場のひとは違うものだ」と買いかぶって良い方に誤解して来たのが、改革解放までの理解でした。

民度3(孔孟の教え1)

民族の資質の違いを見るには、それぞれの歴史がどうであったかを知ることが重要です。
我が国と中韓両国の歴史の違いについて見て行きましょう。
日本では社会構造の変化に合わせて古代から次順位の階層が実権を握って順繰りに権力掌握をして来た繰り返しでしたので、徐々に支配に参加する数が広がり民主的運営の基礎が自然に広がってきました。
企業内で若手が経験を積んで順次、主任、係長、課長、部長、重役社長等になって行くのと同じです。
既成権力の下積み・実務官僚としての経験のある階層に順次権力移転して行くので、政治運営のノウハウが引き継がれ・文化の継続性・・順次的に安定成長してきたことが大きな特徴です。
今回民主党政権の実務能力不足は我が国の政権交代の歴史体験から言えば、異質なものだったことによります。
これに対して中国や韓国・朝鮮半島では専制君主制と異民族支配の繰り返しだったために文化の連続性が弱いというよりはむしろ、断絶が基本でした。
清朝では公文書は満州語と漢語の二重形式でしたが、最重要文書は満州語のみで書かれていて、漢人の中のホンの数人程度しか目に触れられない仕組みだったと言われます。
異民族侵入による王朝交代では王朝が代わる都度別の人種に政権が移るので、前時代の政治経験皆無の状態で新政権での政治が始まります。
比喩的に言えば中国では異民族交代の繰り返しのために前政権時代の文化のうち自分の統治に都合の良い(神髄のようなものは無理で外形的に理解し易い)ところだけをつまみ食い的に利用する戦略的選択が行われてきました。
この繰り返しの結果、被支配者も14日のコラムの最後に書いた「個人行動指針としては目先の打算・支配者の行動指針としては戦略的行動」がこの地域に住む人々の共通価値観・処世術となって来ました。
日本では孔孟の教えは道徳的価値のある良い部分だけ抜き取って国民の個々人の生き方の基本にして来ました。(何事も良い部分だけを学ぶ姿勢が顕著です)
これに対して現中国のある地域で興亡した歴代王朝では、漢の劉邦(高祖)が儒教道徳が統治に都合の良い面があったのでこれを抜き出して、世俗的利用し始めたのが始まりです。
最下層から身を起こした劉邦は儒教的道徳・礼儀に縁遠い人物でしたが、権力を獲得した後に礼儀作法や忠孝の秩序維持にうるさい儒教が統治道具として使えるという進言に応じて、先秦諸子百家のうち儒教を便利な統治道具として採用したものでした。
論語の全体をちょっと見れば分りますが、世俗的処世術問答が中心であって、日本のようにその中のエッセンスを抜き出して、しかも日本流に高尚な視点から解釈し直さない限り、悪く使えば単なるハウツー本でしかありません。
我が国は何事も世界中から輸入しては良いところだけ昇華して日本製にして行く国です。
(スペインのカステラと日本のカステラは内容がまるで違いますし、インドのカレーと日本のカレーも違います)
同じ牛肉を食べるのでも、日本に入ると和牛ステーキとなって高級化します。
仏教は我が国独自に発展を遂げたものですし、(空海以降は日本佛教です・・だからこそ定着出来たのです)孔孟の高度な教えも我が国独自の武士道の価値観を付与して存続して来たものです。
(ちなみに武士道の美学は源平の昔から基礎があって、これに儒教的骨組みを付与したものです)
これに対して中国大陸の人民は「孔孟の教え」など2000年間にわたって政府の統治の道具に都合の良いところだけ強制されて来たに過ぎないという受け取り方・・・支配される方からすれば支配される権力に都合の良い道具でしかありませんでした。
(中国人の多くは今回の激しい対日批判を見ても日本人の大好きな「仁」・・「巧言令色鮮なし仁」などは聞いたことがなかったかも?)
共産中国(伝統的被支配者が逆転して天下を取ったことになりますので)成立後の文化大革命では儒教が最重要な排撃対象になっていたことは記憶に新しいところです。
(後に書いて行きますが、文化大革命に限らず王朝が変わる都度前時代をいつも全面否定するのが中国民族の習性になっているのですから、否定するのを「歴史」と言うのは矛盾ですが・・・悲しい民族性になってしまいました。)

世界平準化後の世界ランキング6(民度2)

仮に国民を10段階のレベルに分類すれば、世界中どこの国でも最下位層の人材がいる・しかも最下位者のレベルも同じです。
(脳挫傷等で意識が戻らず寝たきりの場合や手術中の昏睡者の能力は世界中同じでしょう・・最下位のレベルは世界共通です。)
中〜上位者レベルもそのレベルの置き方によって世界共通基準で妥当するレベルの人が存在するでしょうが、最上位者レベルになると、誰一人もそこまで到達できない国が出てきます。
10段階にそれぞれの人材がいるとしてもそれぞれの段階ごとの構成比率も国によって違います。
これが民度差を表す指標です。
10段階の階層があるとすれば、最終国力・民度を測るには各階層にどのような比率で分布しているかあるいは分布させるか、そして上位者のレベルが重要です。
同じ学校一番の成績でも、ノーベル賞クラスの輩出する学校とその他の違いみたいなものです。
(ある学校あるいはスポーツその他の団体の最上位者がある学校またはその他の団体の3〜4番手どころか最下位と同じ程度という格差はいくらもあります)
上記のとおり、最上位者に関しては国や組織によってレベル差があることは明らかですから、最上位者のレベルその層の厚さは国のレベル・品位の指標となるので重要です。
数学その他のレベルアップは努力さえすれば良いので簡単ですが、品位のアップはその更に番外・格上の基準になるので、国力を傾けて特定分野に集中してもレベルアップ出来るものではありません。
品位こそ人間格付けの最上位に来るべき指標です。
2チャンネル的誹謗合戦はそれぞれどこの国にも存在する低レベル者同士の言い合いですから問題になりませんが、国の代表者や一定の立場にある良識のあるべき大人がする行動が、品性卑しい表現になって来るとどうでしょう?
国家元首あるいは政府公式発表や大手マスコミの表現となると、その国の最上位の文化度・品位を一応表していると見るべきでしょう。
中国に至っては国連での公式の場でさえ、「盗んだ」という品性の卑しい演説・主張を繰り返しているのですから、中国自身の品性の低さ・卑しさが世界中に発信されてしまいました。
日本政府が同じように品性の低い言葉で韓国や中国に応酬するのは同じ野蛮人と言うか非文化人の仲間に堕してしまいますから、それをしないのは賢明です。
中国は日本を目一杯非難しているつもりでしょうが、言い過ぎることによって自分の品性の低さを世界に発信している不利に気づかないほどレベルが低い・・まだ「善人」レベルに留まっていることになります。
竹島上陸時の韓国大統領の低レベルな発言(発言の真意について(日本は昨年の大地震で)国力低下しているから(叩くのは今だ)・・という発言をしています)や政府対応と言い、驚くべき低品性ではないでしょうか?
災害発生直後には同情するよりも世界市場で日本を押しのけるチャンス、日本への輸出のチャンスとする韓国マスコミの報道が目立ちましたが、この文明時代に他国の大災害を同情するよりも「やっつけるべきチャンス」だから今やったとして大統領が堂々と発言しているのです。
サッカーの試合で韓国選手だったかサポーターだったかが「福島」という文字を掲げて日本チームを侮辱したことがニュースになりましたが、(スポーツ大会でのこの種の不祥事が続いています)韓国民は上から下までこの程度のレベルです。
中国政府自身も低レベルな暴動・破壊行動を奨励して満足している状態を見ると、中韓両国は(日本が震災で困っているのにつけ込んで)上から下まで礼儀をわきまえない文化レベルの低い国である・・文明国同士としての大人の交際が出来ない国であることを世界に証明してしまいました。
同じ東洋文化圏であると言われて来たのに、我が国と両国とではこんなに大きな文化度・品性の違いが何故生じたのでしょうか?

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