民主主義革命と正義4

中国の地では、古来から食うに困った流民が発生しては王朝が倒れることの繰り返しでしたが、飢えに苦しんだ流民の大量発生の結果王朝が何回倒れてもその都度似たような政体・専制君主制しか作れなかった・・進歩のない社会でした。
これに対してフランス革命では、国民(と言っても有産階級だけです)が為政者に言うことを聞かせるためには、今後は為政者選出方法を民選に(自分たちの意見で決める)よるしかないと決めた・・・・政治の目標を決めたのではなく為政者選出方法を世襲以外に改めた点が新しいのです。
中国の地域でも流民発生によって既存王朝を倒すと、流民のボスが毎回政権を奪って帝王になる・・これも一種の民意(天命革(あらた)まると言いました)ですが、その後は次に流民が発生して王朝が倒れるまで再び世襲でした。
北朝鮮は未だにその方法を踏襲していますし、中国共産党政権では個人の世襲はなくなったものの「党派」としての世襲が続いています。
血縁系統内の世襲から一定集団による世襲に権力選出母体を拡大したことになります。
フランス革命は、既存権威打倒勢力・革命勢力のボスが権力を握る点は、中国地域あるいは日本を含めて世界中で繰り返された古来からの王朝・支配者変更方法と同じです。
フランス革命の新しさは一旦握った権力が終身・世襲ではなく、任期満了ごとに一定階層集団(ブルジョワジー)による権力者選出方法に切り変ったことでしょう。
この唯一の利点が、ナポレオン帝政によって否定されてしまいます。
(幸いナポレオン自身の失脚によって、世襲に戻りませんでしたが・ブルボン王朝が復活しました)
為政者選出母体を血縁限定から有産階層全般に広げたことを持って「民選」と表現しているのですが、選出母体の拡大に過ぎない点は中国共産党独裁政体と大同小異です。
フランス大革命は「何と立派なものか!」と日本で教えるにあたっては、日本人の琴線に触れるもの・・日本人の価値観に合わす必要があります。
選出母体を拡大しただけであって、政治目標そのものは相手が弱ければ動物扱い・奴隷にしても良いという政治価値の国だと言うのでは、日本では有り難がって教育出来ません。
そこで日本古来からの政治道徳と同じようにフランス革命では「自由・平等・博愛を唱えた」と日本では最大最高に良いように解釈して学校で教えています。
(これが日本古来からの政治思想だから「日本流に最大限好意的に見れば・・」の話をあたかも事実であるかのように強調していることになります)
どこの世界にも探せばいろんな考えがあるものですが、社会の価値は何がそのときに主流をなしていたかによります。
今の中国や韓国にも50人や100人マトモな意見の人がいる筈ですが、それを今の中国人の意見とは言いません。
日本にも慰安婦問題の存在を認める人は何人かはいるでしょうが、だからと言って日本人の大方が認めていることにはなりません。
犯罪発生率が少ないというだけで日本人も犯罪を犯すし、日本は綺麗な国と言っても全く掃除しない人も一杯います。
社会の共有価値は、大方の意見・傾向を基礎に考えるべきものです。
日本でフランス革命を賞賛するために言われている「自由・平等・博愛の精神」を一部の思想家が書いたことがあるとしても、革命に参加した民衆や暴徒あるいは資産家・政治家には関係がなかったと思われます。
革命直後のジャコバンの恐怖支配やナポレオン帝政の成立・・フランス革命の精神を引き継ぎ発展させた筈のアメリカでは、黒人を牛や馬のように動物扱いする恐るべき奴隷制度が存在していました。
何と言っても革命後の時代は、植民地獲得競争の華やかなりし時代到来ですが、植民地政治というものは制度的に民族差別を前提としたものであって、そのどこに自由・平等・博愛の精神の一部でも体現していたと言えるのかということです。
西欧近代ではフランス革命後も産業革命の進展によって賃労働を生み出し、労働者を虫けらのごとく扱って、有産階級のための政治しかなかったことからも分ります。

アメリカの南北線戦争を北軍の勝利に導いたリンカーンのゲテイスバーグ演説では、
「・・・government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth.」
for the peopleが最後に出てきて「人民のための政府」となっていますが・・・、ここで言うピープルとは誰かこそが重要です。
一般にピープルとを人民と訳していますが、(これはフランス革命を「自由/平等/博愛の理念であった」と日本人の価値観にあわせた紹介をしているのと同様に現地の語感としては違うでしょう)フランス革命とその後の社会主義革命、あるいは現在の政党政治に至る流れを見るとピープルを「選出母体」と訳すのが正しいでしょう。
次回以降に書いて行きますが、選出母体の利益を代表することこそが民主政治の本質であって、それ以上の価値(正義の実現など全く問題にしていません)はありません。

政治の担い手・・企業から個人へ1

民主党の実務能力のお粗末さにあきれて自民党政権に戻っても、(民主党よりマシかも知れませんが)自民党政権時代の約3年前に比べて企業の海外構成比率がより上がっているので、以前よりも熱心に政策実現のために応援する必要性を感じていないので、自民党にまともな実務能力が育つ訳ではありません。
自民党は政権を離れたので企業が寄り付かないと焦っているようですが、自民党が仮に政権政党になっても、企業は昔に比べて国内政治重視レベルが下がっているからあまり期待しない方が良いでしょう。
マスコミ中心の時代には左翼の評論家が幅を利かしていましたが、ここ数年ネットの発達で右翼保守系評論家の方がネット上では華々しい感じになっています。
いずれにしても企業をバックにした組織的政策提言・・地味なものがなくなったので、彼ら思いつき的発言・・極端に走りがち・・純粋な理屈だけ述べていれば良いので分り易くて脚光を浴びているに過ぎません。
・・実務能力に裏付けられない単発的評論でいくら有名になっても、誰が現実政治を担えるのかということです。
経済評論家・技術評論家がトヨタや日産の社長や現場の責任者を出来ません。
物事の決断というものは単純ないくつかの論理を突き詰めれば良いのではなく、人智の及ばない無数のファクターを総合直感力で決断して行く作業です。
料理でも健康でも分っている個別栄養素の集合さえすればおいしいものが出来たり、健康維持出来るものではありません。
評論家は政治家や経営者が意識にのぼっているいくつかの要素を取り出してその論理矛盾を論破して喝采を受けているのですが、(悪く言えば揚げ足取りみたいなものです)現実には意識下で判断している要素がその何倍もある事実・・人智ではまだ分らない物事の方が多い事実を無視した議論になりがちであることを自覚・・謙虚にする必要があります。
実務指揮者・・その他指導者には無数にある無意識下の要素を判断出来る能力に優れた人がなっていることが多いので、これを意識にのぼった要素だけで批判・討論しても本来議論がかみ合っていません。
土俵が違うのですから、マスコミ的議論の場では実務家は決断の根拠をうまく説明が出来ず(意識下の深層心理の集合的決断を言語で論理的に表現するのは無理があります)不利に決まっています。
個人企業経営の親子の議論で言えば「お前らには分らん・・」と経験豊富な親父が一喝するしかない場面です。
経営評論家が経営してもうまく行かないことが多いのは、上記理由から出て来ることで、評論家(口舌の徒)は意識に出た言語の要素分析に長けているのに反比例して無意識下の要素判断能力がその分逆に低い人が多いことに由来しています。
民主党政権で軍事評論家が、6月初めころに防衛大臣に任命されて物議をかもしましたが、(この供給源は保守系の牙城でしょうが・・・)民主党に限らず、今や、実務家ではない単発的評論家しか政治に関心を示していないことを象徴しています。
現実政治を堅実に担えるのは、もの言わない・・無意識下の要素吸収能力の高い多数の実務家ですが・・・。
話がそれましたが、企業が政治から離れつつある現象・・政治はどうなるかのテーマに戻します。
企業が以前ほど政治に熱心ではなくなり、・・熱心でなくなっただけではなく、ときに利害対立しかねない存在となって来ました。
これまでは自分の勤務している会社の命運と自分個人の損得はおおむね一致していたので、大方のことは会社の指導者の意見に任せておけば良かったのですが、今や、会社の都合で日本の労働者を見捨てて(リストラしてでも)海外生産増に動くかもしれないのでは、利害対立関係になるので安心して任せておけません。
実際、6月24日の日経新聞第一面では多くの企業が海外生産増=国内生産縮小の方向性を打ち出しています。
企業は海外に軸足を移しつつばかりではなく、昭和年代の従業員中心経営から株主重視へ軸足を移しつつあり・これの原因とも言えますが海外株主獲得へとシフトしています。
2012年6月30日日経朝刊15面「日本の株主」欄によれば、例えばトヨタ・住商などは10年前には、国内金融機関の保有率は5割をこえていたが、今では保有比率が2〜3割に下がっていて減少分の穴埋めに海外株主獲得に力を入れていると書いています。
海外株主が増えれば従業員利益よりは配当期待が高まるのは当然の帰結ですから、企業利益は従業員である自分たちの利益でもあるという蜜月関係は終わりつつある原因と思われます。
国民個々人が直接のステークホルダー・利害関係人になってしまった時代は、国民にとっても国民の福利を実現すべき政治にとっても大変です。
これがここ20年ばかり続いている内需拡大政策に関して、最近では公共工事や企業補助金支出よりは、個々人への直接バラマキ→消費拡大期待噴出の基礎となっているのでしょう。
この期待を受けて民主党は「コンクリート(企業)から人へ」と個々人への直接支出の方向性を打ち出しています。
しかし仕事の場を縮小してその分個人に対しての補助金・・失業給付や育児手当その他個人向け給付を増やす政策では産業は逃げ出すばかりで日本経済は左前になります。

税と国債の違い3(擬制的民主主義)

今の政権党は民主党・・大きな政府志向の党ですから、政権を民主党に委ねた以上は資金運用者も民から官への動きになるのは仕方がないと言うべきでしょうか?
2〜3日前には、ついに郵政民営化に逆行する法案が成立しました。
原発事故・東電に対する怒りを利用して東電の経営を事実上政府管理に移行するようですし、いろんな分野で大きな政府志向が激しい政権です。
そこで民意と民主主義の関係ですが、税や法律が如何に民主「的」に決められても、少数意見の人は強制される不都合あります。
国債による民間資金吸収の場合、反対している国民が仮に100分の1に過ぎなくともその国民は政府に運用を任せたくないと思えば、一人でも海外投資に逃げたりタンス預金しておくことも可能ですから、その時々の国民個々人の意識次第であって税(多数意見で)で強制するよりは合理的です。
まして政治の世界は、特定争点で政権を取るのではなくいろんな争点の結果政権を取って、いろんな分野の妥協の結果法の成立が決まるので、支持者多数が仮に増税反対でも他分野の妥協との絡みで増税法案が成立してしまうことがあってとても不透明です。
前回総選挙で民主党に投票した人の何割が消費税増税に賛成していたかすら分らない状態ですが、それでも国会の多数党と野党の妥協で自由に決めてしまえるところが、擬制(フィクション)的民主主義の怖いところです。
現在の民主制度は、個別テーマごとの民意を聞かないで政権を運営出来るのでフィクション的民主主義と私が言うのですが、そこが怖いところです。
郵政民営化の場合そのテーマでズバリ選挙したのですから、民意そのものですが、これに逆行する政策転換するときには少なくとも、そのテーマで民意を聞くべきです。
野田総理が消費税率アップに政治生命をかけると言うならば、消費税だけをテーマに民意を問う総選挙をすべきでしょう。
総選挙を避けるのが野田政権の第一目標でありながら、野田総理が消費税率アップに政治生命をかけると言うのは冗談または背理でしょう。
民意はレベルが低いので民意を聞いていたらいつまでたっても増税出来ない・・そこで自分は犠牲になって、増税だけして身を引きたいと言うのであれば、民意をバカにしているもので民主主義制度を根底から否定してい
ることになります。
ただし、ここでのブログのテーマは、増税の可否を直接テーマにして選挙して民意を聞いたとしても増税の場合、国債と違って反対者に強制できる点を問題にしています。
消費税増税について仮に国民多数(6〜7割)の支持を得ていたとしても、反対している残り3〜4割の人まで強制されるところが税の怖いところですが、国債の場合は買いたくない人は買わなければいいので国債で政府資金を賄うのは個人の意思を最も尊重する制度になります。
政府の運営資金を寄付による場合には、個々人の意思がそのまま貫徹出来るメリットがあることについては、10/26/03「教育改革22・・・・・寄付と所得税法2(税制の直接民主主義6)」前後で連載しました。
ですから、政府資金や会費等の資金源としては、寄付→国債→税の順に民意重視制度になります。

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