専門分化とサイレンとマジョリティ2

犯罪被害者委員会には被害者のために頑張ろうと言う意見を持っている人が多く集まるのが普通ですし、消費者対策委員会、こどもの人権、女性の人権、生活保護受給支援その他各種委員会、委員会の名称自体から推測される方向性と志を同じくする人が多く集まるのが普通です。
結果的に違った意見の人は(間違って入る以外?)参加しません。
この結果、千葉県弁護士会では、消費者系、民暴系などなど、それぞれ専門的スキルが磨かれるメリットがありますが、他方で、◯◯系と言う大きな系列化による行動パターンや党派的行動力が形成されて行きます。
自民党議員が族議員化して行った結果、省益追及機関になって行き、国益を考えなくなって行ったマイナスが噴出してかなり変わりましたが、弁護士会ではこの後追い的行動をしているように見えます。
大分前に日弁連選挙で宇都宮健児氏を担ぎ出す原動力になったのは、全国的な消費者系弁護士グループでした。
多くの弁護士は、消費者保護、少年の更生を願う、男女共同参画社会の実現、公害のない社会実現、安全な社会実現等々の基本理念に賛成していても、具体的政策・・出産時の会費免除まで必要か等々、どの程度の基準まで要求すべきかなど具体化すれば、意見が分かれるのが普通です。
公害のない社会が理想ですが、企業活動の必要性との兼ね合いでどこら辺までの規制が妥当かになると意見が分かれます。
交通事故を減らしたいから、30歳以下の免許を取り上げるべきだとは誰も言わないでしょうし、モノゴトは程度問題です。
数年前だったか?執行部提案が毎年のように否決された決議案の1つに会館建設委員会の成果を問う提案がありました。
会員が大幅に増えたことで、会館を新規に大きくする必要があることは、誰も認めるのですが、具体化になるといろんな意見があります。
専門に研究して来た委員会の意見が正しいとは限らない好事例です。
一生懸命に苦労して案を作って下さった委員の皆様には申し訳(専門バカ・視野が狭かったのでは)ないですが、偶然その後に好物件の売りが出たので、別の案にすんなり決まってしまいました。
これはタマタマの偶然だったのですが、最近専門委員会の結論が会全体の意見とあわない事例が増えて来た印象・・委員会から上がって来た決議案が総会で否決されることが続いたのは、それぞれ個別事情は違いますが、傾向としてみると専門化の進展と関係があるように思えます。
出産者に対する会費減免制度は実は日弁連会費に関しては既に成立しているので、千葉県で何故成立しないかの疑問ですが、千葉県の総会は会員の大多数が参加で、ケンケンガクガクの意見交換されますが、日弁連総会になると全国から集まるので、それぞれの代表(ノンポリの個人は滅多に参加しない)ですから、形式的議論で終わってしまう傾向が強いのとの違いでしょう。
比喩的に言えば・・公害抑制しながら生産との調整・・車の危険性と利便性・などなどモノゴトには調整が必要なことが一杯です。
女性の地位向上には管理職を半々に強制しろと言うは容易いですが、イキナリ強制して社会が成り立つのかと言う社会全体の視点も必要です。
単に「危険な車撲滅」とか「公害反対」と言っていれば、解決出来るものではありません。
原発・公害反対その他いろんな反対運動では、運動推進者にすれば、兎も角「反対していれば良いのだ、産業機械の必要性は企業が主張するから」と言うスタンスになる傾向があるように見えます。
逆に権利主張の方は「最低賃金引き上げや、生活保護対象拡大社会保障など要求だけしていれば良い、相手がセーブして来るから・・」その結果落としどころで決めれば良いと言う一方的主張になり勝ちです。
労組なども同じ傾向があって、「そんなこと言ってたら会社がつぶれてしまわないかと言う心配を気にしない」で要求だけしていた結果、自滅して行きました。
これを政党レベルで実行していたのが(何でも反対の)と揶揄された旧社会党でしたし、今でも目立つのは農林系議員と言うところでしょうか。

組織内多数意見(勇気とは?)

ところで、近代法・・近代国家を前提にすることがスキな左翼家文化人では、政府批判をするには勇気がいる立派なことだと自己陶酔している傾向があります。
この価値観は近代国家に到達していない言論の不自由な中国やロシア等では当てはまるでしょうが、日本は現在国家であって近代国家ではありません。
アメリカ占領軍によって、政府の日本民族のためになる政策に反対することを義務づけられて来たマスコミ界では、日本政府の民族自立に向けた施策に反対することが、より強いアメリカの意に副うことだったのです。
ですから政権反対論は常に「国際孤立する」(アメリカの後ろ盾がある!)と言うのが、金科玉条的自己正当化の宣伝になります。
日本のマスコミ界や左翼運動家は権力に刃向かう勇気ある行動をして来たと言うよりは、実はもっと大きな権力の意向で動く習性しかなく、記者や編集委員あるいはマスコミで活躍する文化人や芸能人はその企業組織内の大勢にオモネて来ただけはないでしょうか?
根拠不明ですが、朝日新聞は戦時中軍国一色で最先端を走っていたと言う意見を読んだことがあります。
当初占領軍に刃向かっていてオキュウを据えられてから、占領軍の意向宣伝一色になったと言う流れです。
占領軍によるマスメデイア支配以来、知識人?メデイア界では日本民族に対するネガテイブキャンペインすることが確立された支配的立場になっていますから、社内やマスコミ界で反日色を出すのは少数派どころか多数派ですから、何の勇気もいらない関係です。
政府批判に熱心なマスコミその他集団は、社内や組織内権威に盲目的に従っている・・根性がない人の集まりではないでしょうか?
弁護士会でもそうですが、一定の方向性が決まっている組織では、組織の大方の方向の意見にあうような、より強硬な威勢のいい発言をするのは気楽なもので、逆に組織内世論や雰囲気と違うことを言うには大きな勇気がいります。
弁護士会で言えば一定の意見で固まっている委員会に出掛けて行って一人反対論をぶっても否決されるだけで意味がない・・先が分っているので惨めさを味わうだけですから、勇気以前に意見のあわない人は誰も出席しなくなるしその委員会委員になろうとしなくなる・・結果的に威勢のいい反日本民族主義論者ばかりが発言して全会一致での決議と言うか、特定秘密保護法反対で言えば、反対を前提にしたうえでいつ街頭運動するか・集会を開くか等の打ち合わせから始まっているのが普通です。
組織内での異端の意見を言うことがまさに勇気であって、社会から孤立している組織内では国・社会全体から言えば少数意見でも、組織内多数意見・・勇ましい意見が幅を利かします。
こういうことの繰り返しによる自己満足で、旧社会党は社会全体の支持を失って来たと思われます。
マスコミや左翼系文化人は目先の小さな政府権力に反抗しているように見えて、背後の(支配国)トラの威を借りて威張っているだけであって、本当の権力者に対して抵抗する能力・度胸があるかは別問題です。
マスコミやエコノミストによる増税実行論の大合唱で言えば、一見ときの安倍政権に真っ向から反対している・・反骨のように見えますが、実は財務官僚組織と言う実質的権力者の意向に沿うように運動をしているに過ぎません。
どんな政権も最長数年〜5年前後で入れ替わって行きますが、財務官僚ににらまれると補助金その他の箇所付けで長期的影響があるから、どの政治家もその意向にそって動きます。
(異次元緩和→円安政策・・増税反対論支持で安倍総理に気に入られていても、5〜6年先には総理をやっていないことは確かですし、若手中堅はもっと長くやりたいでしょう)
次期隠退予定以外の5〜6年以上先を見据える政治家の多くは、大方が財務省の振り付けどおり増税実行論でしたが、解散になると目先の選挙で落ちるのが怖いので(財務省の主張は民意に反していることを知っているので)イキナリ増税延期論に変更したのはこうした時間軸での判断です。
政治家やマスコミ(研究助成金で縛られている学者・マスコミ採用を期待する文化人エコノミスト)は民意や日本民族の長期的利益によって動くのはなく、長期的自己保身で動いていることになります。

第三者委員会の役割8(個別意見3)

第三者委員会は国民の本来の期待(昨日書いたように合理的期待と言えないかも知れませんが・・)をはぐらかすための役割を見事に果たした・・国民の期待に反して社内手続を延々と記載していて筋違いの検証をしていたに過ぎませんから、(低レベル?)フラストレーション解消に殆ど役立っていません。
公式見解だけでは、このフラストレーションが収まらないのが分っていて、今回は昨日紹介したように異例の委員個人の補足意見発表があったのが、新機軸と言え・ある程度評価出来ます。
こんな形式調査とりまとめでは国民が納得しないと言う強い個人意見があって、委員会見解読者を冷静合理的国民を前提とする法律家としては、これ以上踏み込んだ意見は書けないので、「どうしても・・」と言うならば、個人意見を別に書いたらどうですかと言う流れがあったのでしょうか。
岡本委員個人意見にあるように「角度をつける」から朝日のような大失態になるのですが、そうなると「朝日の角度はどう言う角度か」と言う疑問が起きます。
角度の傾向については、北岡委員の個人意見が参考になります。
林彪事件を例に書いていますが、中国に不利なことは、(朝日の押し進める立場を主張するためには、)事実を隠蔽する(逆から言えば中国有利にするためには虚偽報道もすると姿勢と紙一重です)ことを朝日新聞が明白に正当化していることが北岡意見書で明らかにされています。
ここまで来れば、報道機関と言えるのか疑問です。
北岡委員の個人意見よりますと、元々朝日新聞は自己主張正当化のために既に取材しているので存在している事実でも否定し続けることが正しいとする社内教育をしていることになります。
社の方針に合致しないときには「あることをない」と報道することの正当化が行なわれて来たとすれば、裏返しに存在しないことでも社の方針貫徹のためには「存在する」と報道する勇み足に繋がるのは紙一重・・暗黙のうちの奨励しているようなものです。
委員会見解では吉田調書報道の虚偽性が分った後の対応が悪かったと強調していて何故虚偽意見に(裏付け取材しないで)あっさり乗ったかを書いていませんが、委員会の事実認定経過だけを見ても、朝日の社内対応は「国民に如何に対応するか、どの程度で誤摩化すことが可能か」の対処方針の検討に努力して来たことばかりが伝わって来ますが、「真実を追究しよう」とする姿勢が殆ど伝わって来ません。
原発吉田調書事件では、産経が入手するまで(どうせ非公開だから、誰も具体的反論が出来ないだろうと言う読みで?)社内では誰も調書自体を読もうともせずにいたことを、2015-1-6「マスコミの情報操作6(「報道と人権委員会」朝日新聞吉田調書1)」に書きました。
報道の使命は権力に屈せずに真実を報道するところにあって、そのためにこそ報道の自由が尊重されるのですが、朝日新聞は、真実報道の使命を捨て置いて真実よりは自己主張=「角度」を貫徹するためにどう利用するかの関心・・政治団体同様の役割になっている・・報道の自由と言う名で権利濫用しているような印象です。
朝日新聞の検証委員の岡本氏の個人意見で明らかにされた「角度をつける」社風・体質こそ恐るべしです。
「角度」万能になると、恣意的虚偽・誇大報道の連続発生は当然の帰結であり、たまたま国益に大きく絡んだ結果国民の反発によって裏付け調査する人が出て来て事実誤認が判明したのですが、こう言うことが可能なのは、偶然判明した大事件だけです。
国民的関心を集めない雑多な報道では、やらせに類する虚偽報道体質・・この周辺の虚偽とまで言えないまでも、どちらでも言えることは出来るだけ角度をつけて一定方向への誘導する目的報道が蔓延していると見るべきでしょう。
これがマスコミによる情報操作の危険性です。
元々「角度をつける」特定方向に向けた報道をしたい意欲が先にあったので、(でっち上げとは知らなかったとしても)十分な裏付け取材する必要もないし、(裏付け取材すると虚偽性が分りそうなので、敢えてしなかった?)社内で多角的検討もしないで待ってましたとばかりに、飛びついたのだろうと穿った見方をする人が多くなります。
「角度」はどのようにして決まって行ったかこそ、検証するべき重要テーマだったのではないでしょうか?
慰安婦報道や吉田調書事件で世論が知りたがっているのは、植村氏など特定個人に責任があるかどうかではありません。
マスコミ界全体の角度付け傾向に対して、どのように国民が不満表明して良いか分らないために、目に見える個人が攻撃対象になっているに過ぎない面があります・・。
マスコミ界は個人問題に矮小化・・スケープゴート化すれば、当面の火の粉を振り払えるメリットがあります。
右翼が・・暴発してくれて刑事事件化してくれれば、暴力は許されないと言う大キャンペインで(在特会で言えばヘイトスピーチ批判にすり替えた批判が盛んです)世論批判を逆転させられるので、それで問題収束が図れると期待していたのでしょうが、意外に暴発しない・・右翼と言っても跳ねっ返りは少なくなりましたので待ち切れなくなって、植村記者からの民事訴訟提起・大々的記者会見となったと思われます。
いずれにせよ焦点を個人攻撃にずらして行くのが、マスコミ界の戦略のように見えます。

 第三者委員会の役割7(個別意見2)

最近はやっている第三者委員会と言うのは、厳しい追及逃れの時間稼ぎと自己の選任した第三者委員が悪いようにはしないだろうと言う期待があるように見えます。
「第三者委員会で検証して頂きますので、・・」といって記者会見での追及逃れです。
木村社長は何も言わないまま、検証期間中に自発的退任してしまいました。
朝日の取り消し発表が遅れた・・内部意思決定過程中心に検証したようになっているのが不思議ですが、もしかしたら・・どうせやめるつもりだから「自分の責任に集中させてくれ」と以心伝心で頼んであったかのようです。
原発吉田調書と慰安婦報道に共通している・・国民が知りたがっている「裏付けがはっきりしない段階で何故大々的報道したのか」については、まるでヤミの中にしたままで終わりです。
事実を淡々と認定すれば後は国民が考えれば良いことであって、刑事事件と違って故意や悪意まで認定する必要がない・・と言うことでしょう。
数日前のマクドナルドの異物混入騒ぎで、社長が記者会見に出ないのは何故だと言う主張がマスコミに出ていますが、((圧倒的にこう言う風潮です)誰が事実説明しても同じですが、「社長が出るべき」だと言うマスコミ要求は「社一丸の姿勢が見えない」と言うのが表向きの理由でしょう。
しかし、記者会見の模様をみていると本音は「何故こうなったのだ」と聞いても仕方がないことを延々と追及して社長に「申し訳ございません」と何回も謝罪させる・・吊るし上げている状況を視聴者に見せたいと言う非合理な欲求迎合が大部分を占めているように思われます。
社長が出ても自分から「日本国民を貶めたいと思ってやらせました」と言う訳がないのですから、結果的に庶民の鬱憤晴らしを煽っている・・吊るし上げ文化・・公開処刑のような感じで、言わばマスコミによる原始社会帰りの風潮を煽って来ただけかも知れません。
マスコミに言わせれば庶民の鬱憤拡散のためにやっているのであって、マスコミの責任ではない・・国民レベルが低いだけだと言うのでしょうか?
マスコミは、庶民大衆を相手にしているので、庶民向けに煽るだけ煽ってしまう傾向があるので、その沈静化のためには逆に大掛かりな吊るし上げ劇が必要になっていると言うことでしょう。
このような吊るし上げ劇を率先して煽って厳しい追及をして来た方法の確立こそ朝日の功績?でしたが、自分のことになると第三者委員会に逃げてしまって社長が直接謝ることもしないのが卑怯だと言われています。
こんなことを大々的にり返すのは、社会のありようとして恥ずかしいことですから、「武士の情け」で「そこまでは問いつめない」と言うのが本来の日本社会のありようです。
国民は第三者委員会の目くらましにうまく騙されたからではなく、国民レベルの矜持としてこれを受入れるのが正しい道です。
小保方氏のスタップ細胞再現検証作業でも、誰がES細胞を混入させたかの証拠までは分らないと言うだけで、小保方氏による故意混入までは認定していません。
(検証委員会の目的は犯人探しではなく、繰り返し実験しても再現出来ないとが分れば良いだけですから・・)
日弁連の政治活動に関する高裁判例や名誉毀損判例等で年末に紹介したとおり、規制しなければならない程の「違法ではない」と言うだけであって、好ましいと認定した訳ではありませんが、勝った方は裁判でお墨付きを得たかのように振る舞います。
朝日新聞の第三者委員会は国内対立を煽る目的ではない・・朝日が資料がはっきりしない中で特定政治日程にぶっつけた目的は何か?ついては、そこまで踏み込まないことになるのは依頼した段階で結果が分かっていたことになります。
国際的影響は分らないと言う見解があって、分らないから影響がなかったと言う朝日新聞の受け止め方です。
そもそも「国際的影響を証拠を持って論じよ」とならば一々朝日新聞を引用した記事は少ないのが当たり前ですから、そんな証拠はちょっとしかないのは当然です。
太平洋のど真ん中に落ちたダイヤの指輪を1年間かけて探しても見つからないから、落ちていないと結論付けるような調査です。
引用記事が何本しかないから影響はほとんどなかったと言う委員会見解は、子供騙しの結論を導くためになれ合いでやったような代物と評価されても仕方がないでしょう。

第三者委員会の役割6(個別意見1)

ただし、第三者委員会の中には法律家的手堅いばかりの見解発表に飽き足らない人がいたらしく、個人意見も併記されているのでそこに法律家以外のある程度の本音が出ています。
(法律家に議論を主導してもらうのは、・・余計なことを言わないので経営者・渦中の企業には重宝な存在ですが、それでは国民の本当に知りたいことがうやむやになる・・時間稼ぎじゃないかと言う批判が起きて来るでしょう。)
以下見解中の個人意見部分抜粋です。
15 個別意見
(1) 岡本委員 記事に「角度」をつけ過ぎるな
我々の今回の検証作業に対して、朝日新聞社はまことに誠実に対応した。新しい方向へ レールが敷かれた時の朝日の実行力と効率には並々ならぬものがある。しかしレールが敷 かれていない時には、いかなる指摘を受けても自己正当化を続ける。その保守性にも並々 ならぬものがある。
吉田清治証言を使い続けた責任は重い。しかし、同様に国際的に大きなインパクトを与 えたのは、1992年1月11日の「慰安所 軍関与示す資料」と題して6本の見出しを つけたセンセーショナルなトップ記事だ。数日後の日韓首脳会談にぶつけたこの報道は、 結果としてその後の韓国側の対日非難を一挙に誘うことになった。(同記事の問題点については本報告書をお読みいただきたい)。
当委員会のヒアリングを含め、何人もの朝日社員から「角度をつける」という言葉を聞 いた。「事実を伝えるだけでは報道にならない、朝日新聞としての方向性をつけて、初め て見出しがつく」と。事実だけでは記事にならないという認識に驚いた。
だから、出来事には朝日新聞の方向性に沿うように「角度」がつけられて報道される。 慰安婦問題だけではない。原発、防衛・日米安保、集団的自衛権、秘密保護、増税、等々。 方向性に合わせるためにはつまみ食いも行われる。(例えば、福島第一原発吉田調書の 報道のように)。なんの問題もない事案でも、あたかも大問題であるように書かれたりも する。(例えば、私が担当した案件なので偶々記憶しているのだが、かつてインド洋に派 遣された自衛艦が外国港に寄港した際、建造した造船会社の技術者が契約どおり船の修理 に赴いた。至極あたりまえのことだ。それを、朝日は1面トップに「派遣自衛艦修理に民 間人」と白抜き見出しを打ち、「政府が、戦闘支援中の自衛隊に民間協力をさせる戦後初のケースとなった」とやった。読者はたじろぐ)。」

(2)北岡委員
現代におけるジャーナリズムの責任
今回の従軍慰安婦報道問題の発端は、まず、粗雑な事実の把握である。
吉田証言が怪しいということは、よく読めば分かることである。従軍慰安婦と挺身 隊との混同も、両者が概念として違うことは千田氏の著書においてすら明らかだし、 支度金等の額も全然違うから、ありえない間違いである。こうした初歩的な誤りを犯 し、しかもそれを長く訂正しなかった責任は大きい。
類似したケースはいわゆる「百人切り」問題である。戦争中の兵士が、勝手に行動 できるのか、「審判」のいないゲームが可能なのか、少し考えれば疑わしい話なのに、 そのまま報道され、相当広く信じられてしまった。

第二の問題は、キャンペーン体質の過剰である。新聞が正しいと信じる目的のため に、その方向で論陣をはることは、一概に否定はできない。従軍慰安婦問題を取り上 げて、国民に知らしめたことは、それなりに評価できる。
しかしそれも程度問題である。1971年9月に中国の林彪副主席が失脚したとき、 世界のメディアの中で朝日新聞だけが林彪健在と言い続けた。そして半年後に、林彪 の失脚は分かっていたが、日中関係の改善に有害なので報道しなかったと述べた。同 様のおごりと独善が、今回の従軍慰安婦報道についても感じられる。
第三に指摘したいのは、物事をもっぱら政府対人民の図式で考える傾向である。
権力に対する監視は、メディアのもっとも重大な役割である。しかし権力は制約すればよいというものではない。権力の行使をがんじがらめにすれば、緊急事態におけ る対応も不十分となる恐れがある。また政府をあまり批判すると、対立する他国を利 して、国民が不利益を受けることもある。権力批判だけでは困るのである
第四に指摘したいのは、過剰な正義の追求である。
従軍慰安婦問題において、朝日は「被害者に寄り添う」ことを重視してきた。これ は重要な点である。
しかし、被害者によりそい、徹底的な正義の実現を主張するだけでは不十分である。 現在の日本国民の大部分は戦後生まれであって、こうした問題に直接責任を負うべき 立場にない。日本に対する過剰な批判は、彼らの反発を招くことになる。またこうし た言説は韓国の期待を膨らませた。その結果、韓国大統領が、世界の首脳に対し、日 本の非を鳴らすという、異例の行動に出ることとなった。それは、さらに日本の一部 の反発を招き、反韓、嫌韓の言説の横行を招いた。こうした偏狭なナショナリズムの 台頭も、日韓の和解の困難化も、春秋の筆法を以てすれば、朝日新聞の慰安婦報道が もたらしたものである。
かつてベルサイユ条約の過酷な対独賠償要求がナチスの台頭をもたらしたように、 過剰な正義の追求は、ときに危険である。正義の追求と同時に、日韓の歴史和解を視 野にいれたバランスのとれたアプローチが必要だった。
第五に、現実的な解決策の提示の欠如である。 アジア女性基金に対して当初取られた否定的な態度は残念なものだった。 日韓基本条約によって、個人補償については解決済みであり、それ以後の個人補償については、韓国政府が対応すべきだというのが日本の立場である。この立場と、人道的見地を両立させるために、政府はアジア女性基金という民間と政府が共同で取り 組む形をとり、国家責任ならぬ公的責任を取ることとしたのである。公的責任という のは、必ずしも悪い方式ではない。ドイツのシーメンス等もこの形であった。これを 否定したことは、韓国の強硬派を勇気づけ、ますます和解を困難にしたのである。
なお、国家補償が最善であるという立場には、疑問もある。すべてを国家の責任に すると、その間で違法行為に従事し、不当な利益を得ていたブローカー等の責任が見 逃されることにつながらないだろうか。
第六は論点のすりかえである。
今年8月5日の報道で朝日新聞は強制連行の証拠はなかったが、慰安婦に対する強制はあり、彼女たちが悲惨な目にあったことが本質だと述べた。それには同感である。 しかし、第1次安倍内閣当時、安倍首相が強制連行はなかったと言う立場を示したとき、これを強く批判したのは朝日新聞ではなかったか。今の立場と、安倍首相が首相として公的に発言した立場、そして河野談話継承という立場とどこが違うのだろうか。
朝日新聞にはこの種の言い抜け、すり替えが少なくない。 たとえば憲法9条について、改正論者の多数は、憲法9条1項の戦争放棄は支持するが、2項の戦力不保持は改正すべきだという人である。朝日新聞は、繰り返しこ うした人々に、「戦争を放棄した9条を改正しようとしている」とレッテルを張って きた。9条2項改正論を、9条全体の改正論と誇張してきたのである。要するに、自らの主張のために、他者の言説を歪曲ないし貶める傾向である。 安倍内閣の安全保障政策についても、世界中で戦争ができるようにする、という趣旨のレッテルが張られている。人命の価値がきわめて高く、財政状況がきわめて悪い 日本で、戦争を好んでするリーダーがいるはずがない。これも他を歪曲する例である。 これらは、議論の仕方として不適切であるのみならず、国論を分裂させ、中道でコンセンサスが出来ることを阻む結果になっていないだろうか。」

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