健全財政論6(中央銀行の存在意義1)

我が国で言えば、大恐慌から高度成長期ころまでは国民は生活水準向上・・量的消費に飢えている時代でしたので、お金さえあれば三種の神器・・次々と提供される家電製品等を買いたい・作れば量が売れる状態でした。
ところが、今では飽食の時代ですので給与が2倍になっても嬉しくてビールや牛乳やアイスクリームを今までの2倍消費する人は滅多にいません。
(余程貧しい人だけでしょう)
量が満たされれば消費の方向性が質に転化する・・レベルアップして行くことになります・・従来型産業が国内では飽和状態になって行くので、成長が止まり不景気だと大騒ぎになりますが、国民のレベルアップに合わせて国内産業も業種転換あるいは磨きをかけて行くしかないのに、この転換に遅れを取っている嘆きと言うべきです。
この辺の意見(消費が高級化すれば供給サイドに関与するべき国民・労働者のレベルアップの必要性・・これは遅れて発達するので当初ブランド品輸入が席巻するのは当然ですが、この適応問題は別の機会に書きます。
話題を戻しますと紙幣を仮に10倍増にしても大方の国民はその殆どを預貯金するだけでこれまでの2倍、3倍もビールを飲むことはないでしょうし、仮にこれまで思うように飲めなかった国民の何%かがビールを2〜3倍飲むだけです。
車でもテレビでもビールでもスマホでも売れるならばいくらでも増産出来るので、仮に2倍売れたとしても車やテレビ、パソコンの値段が2倍になることはありません。
昨年テレビが無茶苦茶に売れましたが、値段は上がらず販売競争激化のために実質値段が下がっているのが現状です。
日銀がいくら金利下げや紙幣の量的緩和をしても、暖衣飽食(ものの行き渡った先進国)の国民は金利が下がったくらいでは買い物出動しないし、生産力超過の現在、仮に売れ行きが伸びても在庫品の減少が進み、休止中の設備が動き出す程度で物価が上がることはないことをこれまでのコラムで何回も書いてきました。
加えて現在は1国閉鎖社会と違って、国内で供給が足りなかったり値上がりすればすかさず輸入品が押し寄せて来るので、供給不足による物価上昇があり得ない構造になっています。
我が国では長期にわたる国際収支黒字の累積で資金余剰が際立っているので、金利をいくら下げても借り手・・健全な資金需要が起きません。
赤字で資金繰りに困っている企業は少しでも下がったら有り難いでしょうが、トヨタ等世界企業は(内部留保が厚く手元資金が余剰気味です)金利の上下によって新規工場建設等を決めるパターンではなく新規投資戦略が先にあってその戦略次第で資金需要が起きる仕組みです。
個人は個人で多くの国民はお金を使い切れなくて1500兆円も個人が預貯金している状態で、飽食の金融版になっていますので借りてくれるマトモな客がいない(借りに来るのは貸したら焦げ付く人ばかり)銀行は0、何%の国債を買うしかない状態です。(商品を仕入れても売れない状態)
日銀が世界最低の金利にしても投資用に借りに来る企業の需要がなく、外国人投資家が日本の銀行で借り入れて円キャリー取引に使うくらいで、(日本の銀行は世界最低金利で仕入れられるので、国際貸し出し競争に有利となって、日本の銀行はこれで潤っています)言わば国内銀行救済・国際競争上銀行に対する補助金的効果になっている程度です。
このように今や中央銀行が貨幣政策・金利政策で経済を動かすことは不可能な時代が来ているのに、未だに政府は自分で行うべき財政政策を怠って日銀の金利調節や量的緩和に頼っていますが、言わば日銀の存在は無駄な存在であるばかりかむしろマイナスです。
(私は以前から、こう言う実態を紹介して現在社会では日銀不要になっていると書いています)
この現象はここ20年来の日本だけの現象ではなく、グローバル化以降先進国ではどこでも現れ始めて来たと言えます。
恐慌以降何十年も前から金利や量的緩和は刺激効果があることが分っているのに、今でも経済学者の集まりであるIMFでは、(バカの一つ覚えのように)アジア危機・ギリシャその他何かあると緊縮経済の実行を迫るのが常です。
確かに野放図に赤字財政を繰り返すのは困りものですが、緊縮強制一点張りでは智恵が足りない印象が拭えません。
これまた繰り返し書いていますが、学者というのは過去の経験を大学等で勉強をして修得する能力の高い人材・・秀才が多く、これに反比例して現実に進行している実態に新機軸で対応する応用能力が低いことによるのでしょう。
大恐慌あるいは不景気対策としては緊急避難的に気付薬的に麻薬使用・・紙幣大量発行も許されるというのが、実務から生まれた経験的智恵です。
実際日本では大恐慌の際にこの方式でデフレ脱却に先に成功していて、これを真似して大規模にやったのがアメリカのニューデイール政策だったと言われています。
大恐慌時に戻りますと、兌換制度が停止ないし廃止されてしまうと貨幣・紙幣の信用維持をどうするかとなって来ますが、官僚個人の「貨幣価値を守る」と言う気概に頼るのでは無理が出てきます。
そこで中央銀行の独立性等の制度的保障でこれを守って行くことになったことを、07年1月16日「不換紙幣と中央銀行の独立性1」以下のコラムや08年1月17日の「国債と非兌換紙幣の違い」で紹介しました。

公約違反(無視)政党の存在意義3

今のところ代議制民主主義制度を上回る良い制度が発明されていない・・代議制民主制度でやって行くしかないとすれば、これを虚仮にするような人やグループを国民の代表に選ぶのは背理です。
こうした禁じ手を仕掛けた自民党・公明党もその道義的責任の一端を負うべきです。
自民党に関しては郵政民営化があれほど圧倒的多数で支持されたのに、これを推進した小泉氏が任期満了(国民による民営化支持を失っての退陣でもないのに)で退陣した後で民意を問い直すことなくなし崩し的にこれを後退させている前科があります。
我々弁護士でも相手の弁護士が依頼者の信頼を裏切るような行為をしようとしているのに気がつけば、それがこちらに仮に有利であるとしても、「先生それは危険じゃないですか?」と注意を促すのが弁護士の倫理です。
当該事件ではこちらに有利と思っても相手の弁護士の背進行為を野放しにすると弁護士全体の信用に関わるからです。
自民党や公明党は積極的に同業者を倫理違反・・民主制度の根幹を揺るがす背信行為に誘導し嵌め込んで行ったのですから、倫理上は同罪以上かも知れません。
谷垣氏は弁護士出身ですから、こんなことくらいは分りそうなものですが、早いうちから政治家になっていたので弁護士業務のイロハも知らないのかも知れません。
同じことは民主党の中核にいる多くの弁護士出身者にも言えます。
弁護士資格を兼有している以上は、彼らに弁護士倫理の教育を実施する必要があるのではないでしょうか?
既成政党はみんなそろって根源的な政治倫理違反で信頼出来ないとなれば、じゃあどこに・・?となりますが、実務政党は自民党以外に育っていないのが難点です。
自民党の実務能力に疑問符がついてやっと政権交代したらこの始末ですから、原発事故に対するお粗末な対策しかして来なかった東電には腹が立つが、日々の生活に電気が必要なので潰す訳に行かない・・寡占の東京電力みたいな状況です。
その上既成政党がみんなで談合して公約無視の増税路線に突っ走るようでは、政党政治自体を否定するしかありません。
原因は違うものの、政党に対する不信感が広がった閉塞状態から戦前は軍部に権力が移行して行ったのですが、今回はどうなるのでしょうか?
今後新規に結成する政党も含めて今後政治家は目的さえ正しければ(何が正しいのか誰が決めるのでしょう?・・マスコミは自分達が決めるというのでしょうか?)公約は守らなくても良いんだという社会の合意・・風潮が定着することを前提にすれば、どう言う基準で政党を選んで良いのか国民は困ってしまいます。
確かな野党と言われる共産党や社民党にしか、安心して投票出来ない時代が来るのでしょうか?
それでは国民にとって選択肢が狭過ぎます。
そのうえ、かれらも少数党であるから無責任に言いたいことを言い張っているのであって、政権を取れるようになると(権力を使い慣れていないので、民主党同様にブレーキの効かし方が分らないところがあります)どんな乱暴なことをやり出すか分りません。
社会党は政権党になったときに野党時代に反対していた長良川河口堰工事を実施したことでも味噌を付けてます。
世の中に利害が完全に一致する別組織など滅多にある訳がないのですが、公約を「一応」信じて何とかなっていたのです。
これを正面から堂々と政府・与党が破ってマスコミがこれを賞賛し、公約を守るべきだという勢力・・彼らこそ国士です・・に対しては、個利個略だ政局意識しかないと批判しています。
マスコミによる国民教育?を放置していると、国民が選挙に行かなくなってしまい、民主主義が危殆に瀕してしまいます。

公約違反(無視)政党の存在意義2

増税の必要性に関する意見は人によっていろいろだとは思いますが、重要事項・・とりわけ増税の可否は最重要事項として歴史上選挙で決めることになっているのですが、ルール違反によって自派の期待する結果を不正な方法で実現するのは、民主主義ルールの中の最大ルール違反と言うべきです。
(政治・経済に関してはどんな立派な学者の意見でも別の角度から見れば欠点があり得ますし、私もいろんな意見を書きますが、1つの意見として参考にして欲しいと書いているだけで、最後は選挙で決めるべきことであって不正な方法を使ってまで持論を通したいと思ったことはありません。)
マスコミはこの重大な手続き違反行為に全く触れようともせず、もっぱら「小沢新党には国民の反応が冷ややか」など(小沢氏の動きは政局ばかりで識見がないかのごとき報道も一杯されていますが)マスコミに関心がある「政局」ばかり報道していて、実質的に公約違反を論じないで黙認している状況です。
マスコミは政局あるいは増税の可否について中立であるべきですから、結果の妥当性の議論よりは私同様に公約違反という手続きの瑕疵について、世間に浸透する程度に少しは論じておくべき立場ではないでしょうか?
重大な手続き瑕疵である公約違反の重大性を全体の論調として全く論じないで、(少しは書いているかも知れませんが関心を持つ私の目にさえ留まらないということは、殆ど報じていないのでしょう)消費税増税結果(如何にも必要なことであるかのような報道姿勢)や政局の動向ばかり論じるマスコミの姿勢は、中立性を欠いているようにも思われます。
「国民は馬鹿だから選挙で重要事項は明示せずに騙せば良いんだ」「結果さえければ良い」という基本的立場がその底流にあるように見えますが、そんなことを言い出したら(絶対的な価値をマスコミが決めることとなり)民意に基づく民主主義・選挙制度自体が成り立ちません。
日本は、庶民のレベルは低いからリーダが良い場所へ引っ張って行けば良いというのは、啓蒙的専制君主制あるいは後進国で効率の良いとされる開発型独裁国家の正当化理論です。
これらは民度が低くて国民にはマトモな判断力がないことを前提に白紙委任する政治形態で、結果が悪ければ独裁者を引きずりおろして責任を問う政治形態です。
実際には失政か否かの判定がこれまで書いている通り難しい・・殆ど不可能なこともあって、簡単に引きずりおろせないので、長期政権になるのが普通で何十年単位で国民が苦労してしまい、最後に大争乱(ソビエト崩壊やルーマニア・・最近ではリビやエジプト)で幕を閉じるのが普通です。
現在でも頑張っているのが中国や北朝鮮というところですが、独裁政権が頑張る期間が長ければ長くなるほど国民は大きな代償・・大争乱による苦しみを経験することになるでしょう。
中国では歴代の王朝末期にいつも100年前後の争乱期が存在するのはこの好例です。
先進国では民度が高いので、独裁者に一任せずに事前にマニフェストを明らかにして具体的にやるべき政策を公約して当選すれば任期中は選挙民の意見に従って政治運営する時代になっている・・この方が独裁・専制君主政権に一任して後で結果が悪いからと引きずりおろすよりも社会のリスク・コストが少なく済みます。
私は民主的に政権交代することに長年期待していましたが、せっかく期待していた政権交代が実現したばかりですが、それと民主党の犯した公約違反責任を不問にして良いかは別問題でと考えています。
民主党は実務経験がないどころか権力を持ったこともないので、これを持った場合の自己抑制・運用方法に関する最低のルールすら知らなかったということでしょうか?
民主主義を尊重すべき党名「民主党」を名乗っているのに、民主主義の最低ルールすら知らなかったとは驚きです。
国民の信頼によって成り立つ間接民主制・政党政治のよって立つべき原点を率先して民主党が崩壊させてしまったので、その罪・政治責任は重いと言うべきでこのようなことをする党の存在そのものが政治的に許されなくなるべきです。
これだけのことをやれば責任上、自ら解党して出直すべきです。
勿論野田総理とこれの推進に関与した一党は政治生命をかけると言明したのですから、この際責任を取って政治家を辞めることになってくれれば民主主義は信頼回復できてなお存続可能です。
株屋で言えばクビを賭けて悪事をやった以上は、解雇される前に自らクビを差し出すべき行為です。
客を裏切った営業マンを度胸があると言って出世させていたのでは、証券会社に対する信頼が地に落ちてしまいます。
選挙民の意向を気にする政治家を「選挙のことばかり気にしている」とバカにしますが、選挙民を無視した政治家を賞賛するのは、客の意向を無視する営業マンを勇気があると賞賛しているのと同じでその株屋に頼む人はいなくなるでしょう。
公約を正面から破って国民に陳謝しない・責任を取らない不正義な政党や政治家の存在が一人でも許されれば、(マスコミもこれ黙認して全く問題にしないならば)今後マニフェストや選挙公約は守らなくともよいとなって代議制民主主義制度が存続出来なくなってしまいます。

国内総生産の意義

前回みたようにフローの収入だけでなく、過去の蓄積を合わせて総合判断しなければ国民の実際の経済力を知ることが出来ませんし、適切な政策判断が出来ません。
世上高齢者=弱者とする既定観念が支配的ですが、フロー収入だけでみればそのとおりですが、日本のように長期にわたる成長期を経て来た国では、好調期の蓄積が高齢者に偏っている実態を直視しない考え方です。
フロー収入の少ない安定成長期では世襲財産の価値が大きくなりますが、江戸時代で言えばその代わり隠居制度があったので、次世代は家督を継ぎさえすれば安心でした。
家督を継げるまでは部屋住みで不安定だったのは今の若者と同じです。
ギリシャローマの昔から、このために男性は中高年(それまでは貴族の子弟は軍役・兵營生活・今でもイギリスの皇族男子は軍務についています・・ですから修道院に入ったのと結果は同じでした)になってやっと結婚出来たので、未亡人が若いツバメと恋をする物語が多いのです。
(欧米ではオナシス・ジャクリーヌ夫人の結婚やグリーンスパン元議長のように7〜80代で若い女性と結婚する例が今でも多いのはこの歴史があるからです。)
ただし江戸時代では、日本独特の知恵があって、親は隠居しなくとも子供をお城(よく知られている所では身分の高い武士ではお小姓として始まります)や役所に出仕させて仕事を手伝わせる仕組みがあったことを02/20/04「与力 2(ワークシェアリング)」のコラム以下で与力・同心の例で紹介しました。
農家・商家・職人や芸人でも息子が家督を継がなくとも農業や家業の手伝いをして充分な戦力でしたし、年齢が来れば結婚する仕組みでした。
隠居した高齢者には(隠居分を取りのけておけるほどの資産家以外では)収入源がなくなり家督を継いだ次世代の出方次第で食うや食わずになったことをSeptember 27, 2010「高齢者介護と外注1」以下で、隠居した老人の生活は悲惨・・(姥捨ての基礎)であったことを書きました。
また、September 13, 2010「能力社会の遺産価値」以下でフロー収入中心の高成長時代には遺産価値が減少して行くことを書き、逆に成長の停まった静的社会では遺産価値が高まって行くことをMay 10, 2012「労働収入の減少4(遺産の重要性1)」前後で連載しました。
いまでは家督相続・生前の隠居制度がないので、高齢者が自宅その他の資産を死ぬまで保持したままで、次世代は親が死ぬまで(生前贈与以外に)何も受け継げません。
戦後は高度成長の連続だったのでそれで何も問題が起きませんでしたが、低成長時代になると蓄積資産の活用が出来るかどうかで大きな差が出る時代です。
このために生前贈与を促進するための税制(直系卑属への自宅取得のために贈与の特例)が時限立法で出来たあと期限が来る都度延長されている状態です。
景気対策立法として始まったので時限立法になっていますが、何回も延長していることから分るように、低成長時代の世代間所得移転のための制度としてみれば半恒久的立法であるべきです。
(ただし、相続時精算課税制度は相続税法中に書かれているので恒久法になっています)
話がずれてしまいましたので元に戻します。
ところで、国内総生産の増加率や絶対量を国力を表すものと誤解している人が多いと思いますが、中国など住宅やインフラの未整備な国は、どろんこ道に砂利を敷いたり掘っ立て小屋を壊して普通の住居を造るだけでもこれが国内総生産にカウントされるので、必然的に年々上昇して行きます。
中国では新幹線事故に限らず、作ったばかりの橋が壊れてしまう、建てたばかりのビルが傾くなどの例が繰り返し報道されていますが、失敗して2回同じものを作れば国内生産が2倍になる仕組みです。
成熟国では、住居その他のインフラが充実しているので、こうした新設需要が少ないので、結果的に国内総生産の比較方式では成長が低調になるのは当然です。
立派な屋敷に住んでいて演劇を100回見た人よりも、最低生活をしながらでもその年に最低の安普請でも自宅を新築した方が国内生産額が増えます。
東北大震災で仮設住宅を一杯建てたり瓦礫処理しているだけでそれらがすべて国内総生産にカウントされるのですから、国内総生産額を基準に国力を比較している風潮は国力の一面しかみていないことが分るでしょう。
国債が増えれば次世代に借金を残すという議論は、国債保有者のプラス資産も次世代に残る側面を捨象しているのと同様で、復興需要で仙台の飲み屋が潤う裏側で家や家族を失い悲しんでいる人がその何倍もいるのです。
自宅の新築などは大分前に卒業して小さな盆栽を楽しみ、演劇や音楽を楽しんでいる人が多い社会では国内総生産が低くなりますが、まだ砂利道を造ったり新たに鉄道を敷設している状態の国とどちらが実際に豊かな生活かは明らかです。

戸籍制度存在意義3(相続制度改正1)

例えば乱暴な話ですが、誰かに相続させたければ遺言を書いておくのを原則にして何も書いていない人は、誰にも相続させたい人がいないとみなして死亡後すべて国庫帰属にしてしまえば、相続人を捜すための戸籍制度は不要です。
現在の法定相続制廃止と同時に先祖伝来の世襲財産継続を前提とする遺留分権制度を全面廃止すべきです。
遺言する人が少ないことと遺留分権があることから、権利者確定のために戸籍登録が必要になっているのです。
急な死亡の場合、遺言を書くヒマがないと言う意見もあるでしょうが、遺言しておかなければ駄目となれば、誰でもたとえば20歳以降は年に1回は遺言を書く習慣にすれば良いし、すぐそうなるでしょう。
それでも書かない人は(遺産と言えるほどのものはないし)誰に遺産が行っても良いと言う人と見なして行けばいいことです。
昭和50年代にサラ金禍が始まった時に私は、どんどん破産申し立てをして行きましたが、その頃はまだ殆ど破産申し立てをする時代ではなく、弁護士が親族などと協議して「出来る範囲の弁済をするから残金を免除してくれ」と言う和解交渉をするのが普通でした。
弁護士仲間からも、私のやり方では借りておいて踏み倒すのを奨励するようなもので法を悪用したやり方であるとして、弁護士倫理に反するかのような言い方をされたことがあります。
これに対して私の反論は、むしろ親族が責任を持って払うようにするから、資力のないものに貸し付けたり過剰な取り立て行為の弊害が起きるのだから、親族は敢然と断れば、次から焦げ付きを恐れてサラ金の方で支払能力のない人には、貸さない・・自己責任の経営になる筈だと主張していたことがあります。
実際私のように破産申し立てする弁護士がどんどん増えて来て、(本を書く人も出ました)困ったサラ金の方で破産されても損しないように自己責任で信用調査するようになり、無理な取り立ても収まり債権管理能力がなく取り立て方法ばかり厳しい悪質サラ金は敬遠されて淘汰されて行きました。
この辺のいきさつは、04/30/02「破産 5(破産は日本の為になるか?1)」前後のコラムに書いたことがありますが、遺言制度も同じで書いておかないと国庫に帰属してしまう分れば、その内みんなこれと言った財産のない人も毎年念のために書いておく習慣になる時代が来る筈です。
遺言が二枚以上あって矛盾する内容の場合、後から書いた方が有効ですから、半年先や5年先のことが分っている必要がないのです。
やりたい相手が代われば、(母から恋人に)そのときに相手の名前だけ書き直せば足ります。
保険金受取人の変更は保険会社に手続きしなければならず不便ですが、遺言の場合年賀状Ⅰ枚書く程度の手間で自筆証書遺言を書けますので(一回だけ弁護士に書き方を習えば2回目からは同じように書けば良いので)書く気になれば簡単です。
その内に高校の授業で一回は、遺言書作成を実習する時代が来るかもしれません。
高校生や20代で自分の何十年先の死亡時の財産など今から考えられないと言う人がいるでしょうが、自分が「今死んだら誰にやりたいか」を考えて今書くことは簡単です。
その時の好きな人とあと半年で別れるかもしれないとしても、その時にまた書き直せば良いことですから、何年も先のことを深く考える必要がありません。
何よりも約束事と違い、何回でも自分の気分次第で書き直しが出来るのでその時々の気分であまり先のことを深く考えずに書けることが分れば、誰でも毎年(年賀状みたい、あるいは日記帳の一部としてに気楽に)書き替えておくのが普通になるでしょう。
失恋した悔しい思いを日記に書いたついでに、次のページに遺言書を書き直せば良いのです。
遺言書と言うと難しいことを書かねばならないかのように誤解している人が多いのですが、大した資産のない人にとっては「自分の遺産全部を誰にやる」と書けばいいので、実は簡単です。
ことを難しそうにしているのは、信託銀行などがあえて小難しく書いて素人には出来ないような印象を与えて巨額報酬をせしめようとしているからに外なりません。
如何にも難しそうに細かく書くと一見有り難そうですが、却って、書き間違えやその後の口座の変更などによって効力を失いかねず、その都度書き換えが必要になり・・その都度信託銀行などが巨額手数料を取るのですが、大づかみに書いておけば修正不要で、やる相手が代わったらそのことだけ書き換えて行けば良いことで簡単です。
私の考えで言えば、細かく書かずに自分の妻や夫あるいは恋人に「全部相続させる」と書いておけば(自転車しかない時に書いて、その後に車も持つようになっても)内容の変更ではなく恋人や友人が代わる都度相手を書き変えるだけで足ります。
気が変わる都度やる相手の名前の書き換えくらいなので誰でも自分で簡単に書けます。
お経も難しそうにして僧侶の価値を高めるやり方から南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経の繰り返しで足りるとしたのと同じ発想です。
現在の法制度は遺言しないことを前提・・原則にした制度設計である・・法定相続制度であるから、国民も遺言の必要性を感じないし遺言を書くのは大変なことと教育されて馴染みもないのです。
日記を書いているついでに・・・つきあっている相手が変わる都度受受遺者・やる相手を書き直しておけば、何時突然死亡しても最新の気持ちを反映出来ます。
遺言しない限り自分の好きな人に相続させられないとすれば、子供だとか兄弟と言う身分関係だけでは相続出来ませんので、(もしかしたら貰える期待と言うのも変ですが・・)親しい身近な友人が貰える可能性があるので改正後は相互に友人や高齢者を大事にする社会になるでしょう。
高齢者介護や心のよりどころを血縁に頼りすぎる弊害をこれで是正して行ける筈です。
法定相続制を廃止すると親族かどうか血縁が近いかではなく、実際に親しいかどうかにかかって来るので、少子化・・独身や子供のいない人が増えてくる実態にあった現実的な制度設計になります。
我が国の制度・・・明治31年公布の民法も戦後改正された現行法も、先祖伝来の農地や家業(造り酒屋など)等を相続財産の主たる資産として構想して、結果として戸主が自由に相続人を指定出来ない・・戦後も家督相続制から均分相続に変わっただけでした。
これからは先祖伝来の世襲財産よりは自分一代で築いた財産しか持っていない人が普通になると、子孫に受け継いで行くべき道徳的縛りがなくなり、まして子供のいない人が増えてくると自分の気に入った人に残して行きたい・・あるいは大事なペットをきちんと見てくれるところに寄付したいなどと思う人が増えて来る筈です。
そういう人や相手のいない人は国に寄付・・放置していれば国庫帰属・・・生きて来て世話になった地域・国だけが今の法定相続人の地位(国の相続分を2割、県が3割地元市町村が5割などの比率で)を取得するのが合理的です。
そうなると市町村間で高齢者の取り合いになって身寄りのない高齢者も(資産のある人は)大事にされますよ?

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