新型コロナウイルス対応の巧拙4(医療崩壊2)

新型コロナウイルスは感染しても8割は軽症で普通の風邪とほぼ変わらず、死亡率は1〜2%と言われていますので、それほど恐れる必要はないので爆破的拡大を防ぎ制御しながら受け入れていく・・免疫力を高めるのが合理的です。
・・ただし現在進行中の新型ウイルスのために統計がまだ揃わないのでこれは予測に過ぎないでしょうが・・。
確かなところをこの時点で確認しておきます。
https://www.lireclinic.com/column/新型コロナウイルス

新型肺炎・コロナウイルス感染の致死率、症状、免疫などの情報
コーヴィッド19
WHOから、コロナウイルスの致死率は2%程度との見解がありました。
*致死率=死亡症例数/感染症例数
決して人口の2%の方がなくなるわけではありません
(致死率:SARS 9% MERS 10%)インフルエンザの致死率は国によって異なりますが1%未満程度です。
日本では抗インフルエンザ薬が多用されており致死率が0.1%(高齢者0.3%若年者0.01%)と諸外国より低いとされています。

上記によれば人口比ではなく症状が出て統計対象になっている人に対する死亡率のようですから人口比ではもっと低いのでしょう。
感染していても軽くて医療機関に行かないで治ってしまった人は分母に含まれていないことになります。
逆から見れば、軽症者(無症状や感染度合いの低い人?)をどんどん無制限検査して感染者にカウントして激増させれば治癒率も上がるし致死率がぐっとさがる仕組みです。
一般的な風邪ひきの場合、少しだるいかな?発熱等の症状があって、4〜5日様子見しているうちに放置できないとなってから勤務先に遅刻連絡して近隣クリニック等で受診するのが普通のパターンですし、治癒率や致死率とは、こういうフィルーターを通して選別された受診者の統計比率です。
新型コロナウイルス等大騒ぎすればするほど普通の場合受診しない程度の軽微な症状者の受診率が高まるので、放置してれば受診行動に出ないうちに治ってしまうレベルの人も感染者にカウントされるので、統計上治癒率が上がり、致死率が下がる方向に作用します。
ちょっと風邪っぽい程度の人はその何倍もいるし、感染に気付かない比率が高いとも言われるので感染者中の死亡率としても実際の死亡率はものすごく低いことがわかります。
統計の宿命ですが、・・小売販売額統計もデパートスーパーだけの統計でなくネット販売等の統計を組み入れないと実態を表さなくなっているように、調査対象をどこに置くかによって実態反映率が変わっていきます。
大規模検査の効率性判断の客観指標とすれば、国によって大量検査する国と厳選して検査する国のばらつきがある場合、人口比死亡率が最も客観性がありそうな気がしますが・・。
死亡に至る呼吸器不全の場合、この時期原則的新型コロナ感染可能性をチェックするために事前胃呼吸器障害の症状がない人を含めほぼ120%?死亡後検査しているようですから死亡数を基準にすれば統計漏れがないでしょう。
例えば名古屋市での死亡者に関するニュースです。
https://www.asahi.com/articles/ASN383FRRN38OIPE008.html

名古屋市は8日、市内在住の80代男性が7日に死亡し、直後の検査で新型コロナウイルスの感染が判明したと発表した。
男性は別の感染者との接触があり、6日夕まで目立った症状がなかったが容体が急変したという。愛知県内で感染者の死亡が明らかになったのは初めて。男性は7日午前8時ごろに県内の病院に救急搬送され、救急隊の到着時は心肺停止状態だった。離れて暮らす遺族からの聞き取りでは、6日夕の段階では発熱はなく、食事もとっていたという。

日本ではこういう人も死後検査してウイルス検出されると新型ウイルス死亡者にカウントしているので死亡者絶対数を「人口比で見るのが客観性があります。
そこで韓国の大規模検査が死亡率低下に役立ったのか?逆に医療崩壊させて(コロナ型ウイルスに限定せず)地域全体の死亡率を高めたかの疑問に入ります。
20年3月3日現在の記事です。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020030301017&g=int

韓国感染者、5000人超 大邱で病床不足深刻―新型肺炎
2020年03月03日19時32分
韓国保健当局は3日、新型コロナウイルスの感染者が計5186人に達したと発表した。
死者は31人となった。感染者は連日急増しており、過去10日間で約10倍に膨らんだ。保健当局は現在、3万5000人以上に対し、感染の有無を検査している。
死者も大邱や慶尚北道に集中しており、同地域では感染者の急増で病床不足が深刻化。大邱では感染が判明しても、医療機関で治療を受けられずに自宅待機している感染者が2000人に達し、もともと疾患を持つ高齢者らが自宅で亡くなるケースも続出している。韓国紙は「医療体制の崩壊」(毎日経済)などと政府の対応の遅れを批判している。

それほどの重症でないものが列をなしてこれの対応に忙殺されて重症患者の診察順番が来ないとか、先着の中〜軽症者にベッドが占領されていて肝腎の重症者が入院できない弊害がいわゆるトリアージ問題ですが、社会全体の問題としてみれば新型コロナ型患者内の順位争いにとどまりません。
地域社会での医療崩壊・・日常的医療を受けられるシステム崩壊が起きれば深刻です。

新型コロナウイルス対応の巧拙3(医療崩壊の有無1)

医師の過剰労働時間が社会問題になっている現状で分かるように医療機関は日常業務で手いっぱいが普通で、余剰人員を抱えている医療機関は滅多にないでしょう。
この状態で日常業務を中止して検査業務にかり出しっぱなし(1〜2日の休日返上でなく1ヶ月規模の連続業務になると)にすると、日常的に行ってきた病人に対するケアがおろそかになる・一般病人の死亡率が上がるマイナスとの兼ね合いです。
グランドプリンセス乗員4000人弱の一斉検査に際しては、緊急に全国から検査要員を集めたのですが、船内閉鎖空間での長期担当は検査担当者の受感染リスクが高まるので2〜3日での交代ローテーションにしていたらしいのですが、担当終了後2週間の隔離期間を置かないと元の医療機関に復職できないので、感染学会からの各医療機関への人員提供呼びかけにほとんどの医療機関が(病院業務がその間維持できないので)応じられなかったという裏話が出てきました。
限られた医療資源有効活用のためには、クラスターになりそうな大型イベントあるいは中小の集まりを縮小してもらう一方で、個別対策としては濃厚接触者その他一定の疑いのある限定者に対する具体的必要に応じた検査に限定すべきで、根拠なく全国民一律に行うのは医療システム破壊リスクの方が大きくなります。
大規模災害時におけるトリアージ原則再確認の必要性です。
もともと大量の負傷者がいる場合、その場で重軽傷等の分類し限られた医療資源投入の優先順位を決める思想です。
食料も洋服や移動手段、教育のコースやエンターテーメントなどなど多様な要望に応じてどれだけきめ細かく用意できるかが豊かさの指標とすれば、これを災害現場に持ち込んだともいえるでしょう。
災害現場への食料寝具等の供給も、老人子供女子その他多様な避難者に応じたきめ細かい配布が要望されるようになっているように、細かなニーズ無視でどーんとトラック何百台分同じものを送ればいいものではありません。
きめ細かく運用するのがこの20年前後注目されるようになった傾向です。
地震/災害時に一斉に車が道路に殺到すると道路が渋滞してパンク状態になって、結局みんな逃げ損ねることや、みんなが一斉に不要不急の携帯発信するとその地域の通信機能がパンクしてしまいます。
検査して陽性になってもこれといった治療ができるわけでなくただ隔離して他への感染拡大防止程度の効能しかない程度の水際作戦→国内感染者がいない初期段階での入国者全員検査なら意味ありますが、国内で経路不明の感染者が散発的に増えてくると、やみくもに全員検査するのは医療資源の無駄遣いです。
警備担当者が、特定警備敷地内に入ろうとするものを入り口で全員チェックするのは合理的ですが、やみくもに通行人全員〜半径数キロの通行人全員の職務質問に駆り出してしまい、肝腎の門番や敷地内の衛兵がいなくなるようなものです。
入室前の手洗いや自分で機器に手をかざす程度に検査機器が簡便化して自動判定できて数十秒で入室できるようにすれば検査精度が低くても合理的ですが、専門機関に出向いて検査を受け結果が出るまで1週間かかるのが2〜3日〜数時間に短縮する程度では不便過ぎて意味がありませんし、検査判定に動員される人的資源の無駄→日常医療業務麻痺になり通常の病人が治療を受けられなくなるリスクが起きます。
大量検査よりクラスターになりそうなイベント縮小の方が、患者を急激増加させない効果が大きいでしょう。
アメリカでは50人以上の集会禁止〜10人以上になり今朝の日経新聞朝刊では、今朝の日経新聞朝刊では、イタリア全土で12日から、生活必需品のスーパーが開いているが、小売店喫茶店など全面営業禁止が報じられ、続いてフランスも同様の措置に入ったようです。
検査しても治療法がない以上は、全面的体制としては人の移動制限が伝染阻止に有効でしょう。
検査動員で医療従事者が疲弊してしまい医師看護師など要員の病欠等を増やす・・いわゆる医療崩壊を起こすよりも、濃厚接触の疑いのある人・感染症と確定している人の同居人だけ検査し、全面移動制限できない社会では、ある程度熱があっても大した負担のない元気な人は、出歩かないで自宅に止まるなどの協力お願いが合理的か?という問題です。
今回の新型コロナ型ウイルス騒動以前・・ちょっとした風邪をひいたかな?と思った場合、早めに帰るなど負荷をかけないで様子を見る・・4〜5日経過で早めに寝る程度では治りそうもないと思ってからクリニックに行くのが普通でした。
今回の新型コロナ型ウイルスの場合も、無症状で終わる人については統計の取りようがないので不明ですが、症状の軽い人は風邪ひき程度の症状で終わる人が8割(高齢者や病人を除けばほぼ100%?)というのですから、普通の風邪気味同様に周りに感染させないように気をつける程度のマナーをより厳重にする程度の対応が合理的でしょう。
マスク着用や外出後入室前に入り口で必ず手洗いするなど、できる程度のことをして自分を守るより周囲の人に自分が感染させない目的のマナー遵守が重要です。
普通の風邪の場合仕事を休まない程度の軽い症状でも(自分の健康を守る目的だけなら無理して出勤を続けるかどうかは自己判断ですが)今回は蔓延を防ぐための観点が重要ですのでちょっとでも疑わしいと思ったら早めに仕事を休むなど・・「企業も風邪によるお休みを取り易くしましょう」という程度のことではないでしょうか?
濃厚接触の心配のない人でもいつ濃厚接触したか不明なために、(クラスターとなった市川市のフィットネスクラブ〜さっぽろ雪まつりや大阪のライブなどもともと元気な人が集まったもので、当時その中に無症状の?感染者がいるとは知らなかったでしょう)そういうリスクを減らすための大規模イベントや学校などの閉鎖空間での集団で長時間一緒になるのを自粛してくださいとなったようです。
日本国民は冷静(政府・地域共同体への信頼性が高いということでしょう)ですので、大震災や津波その他非常事態が起きてもパニックになりにくい社会です。日韓は対中人的交流が大量且つ密ですが、いきなりの全面出入国禁止をしなかったのは、相応の対応力をもっているから制御可能という対応だったのですが、韓国の場合大邱での大規模発生を受けて、擬似的先進国?である韓国民の本性が吹き出してパニック化したようです。
政府は大邱の特定宗教団体をスケープゴートのした上でパニックを抑えるために無駄な大規模検査実施に踏み切るしかなかったのではないでしょうか?
以下のとおり急激な政府批判の噴火がおきていました。
https://www.zakzak.co.jp/soc/news/200228/for2002280004-n1.html

韓国・文大統領“弾劾”請願に120万人超が賛同 新型コロナの1日の感染者数「世界で最も多い国」に
2020.2.28

アメリカも大災害があると軍隊がまず展開する必要のある民度です。
トランプ氏は非常事態宣言をしたり、大量検査システムが整っていると政府発表していますが、合理的に行動できる国民レベルでない弱点を表しているにすぎません。
これと言った防疫能力のない国では、大量の軍動員による中国の武漢の物理的封鎖に倣ってロシアに始まりモンゴルや北朝鮮・フィリッピン等は直ちに対中全面国境閉鎖しましたが、これしかない国はこれが最良の対処策と言うことでしょう。
国境閉鎖どころか、国内でも特定地域を閉鎖して孤立させる強制力行使が一般的ですが、こうした乱暴な施策を必要とする国は本来の民度レベルに比例していることになります。
いわゆる独裁国家や民主国家といっても乱暴な政治をするしかない社会は、相応の社会実態が背景にあるのであって、政府がきめ細かい対応をするには国民もこれに見合った相応のレベルが必要です。

江戸時代3大改革と幕藩体制崩壊への道4(秀才の限界5)

寛政の改革や天保の改革はいずれも儒教が目標とする聖人・・帝王の自己抑制・・質素倹約奢侈禁止中心で、新たな進歩の芽を規制したことが特徴です。
もっとも定信は人足寄場を作るなど一定の新規改革をしていますし、忠邦も前将軍家斉の濫費政治を徹底排除・・濫費に加担してきた閣老粛清をするなど清新政治を目指しています。
(後記庄内藩国替え騒動の時にミズノの責任を問うために登場禁止処分した老中に対する復讐だったとすれば却って恨みを買い政敵を作ります)
日本ではこういう粛清はもっとも嫌われます・・迫ってきた国防の危機対処のために国防の基礎体力増強のために、江戸大阪周辺の旗本や譜代の入り組んだ小領地を上知(と言っても取り上げっ放しではなく遠隔地との交換です)させ・・一円支配復活による幕府軍事力強化策などしていますが、こういう利害の絡んだ国内政治は人望のない場合強硬策のみでは上手くいかないものです・・。
この後で庄内藩に対する順次領地交換命令に対する地元民による反対運動を紹介しますが、同じ石高同士の交換でも実高の違いが大きいので、損をする藩が出てくる上に藩札の処理で損をする人や大名貸の取りはぐれリスクから領民も反対する・・まして幕閣に顔の効くものがうまい汁を吸える疑いまで生じると・・為政者の信用が欠かせません。
水野の場合には庄内藩騒動で裏で工作していた点を暴かれて信用失墜したばかりでしたので、人望的に無理な政策だったのでしょう。
ここでは、大方の方向性を直感的に表現したものです。
寛政〜天保の改革を見ると、なんとなく漢の王莽による儒教信奉の理念重視の新規政策が空回りに終わって、短期政権に終わったのと似た印象を受けます。
帝王は自分が奢侈に走り怠惰では困る点は今も同じ・健康のために車に乗らず自分の足を使うのも生き方の一つですが、国民が、電話やITを駆使して手間を惜しむ?便利になるのを規制する必要はありません。
朱子学エリートが紀元前の儒学を基礎にした教科書?通りの理想?実現のために政治を支配すると寛政や天保の改革?のような時代錯誤になり幕府崩壊を早めたことになります。
ちなみに徳川政権中期以降幕府に限らず各大名家も産業構造変化・・農業収入に頼る限界による財政難を克服するために各大名家では競って藩政改革・・に走ります。
藩政改革は、商業社会化に応じた前向き改革が中心・・主として特産品の産出努力に精出して相応の成功を収めていますが、幕府・定信や水野の改革は質素倹約中心でしたので方向を誤ったと言うべきでしょう。
ちなみに定信が幕政に乗り出すに当たって成功体験として喧伝されているのは、天明の飢饉に際して備荒米を放出した善政ですが、当時の経済矛盾・・産業構造変化に対応するための改革をしないと体制が持たない危機発生の原因は、貨幣経済の発達と農業依存の財政収入体制の矛盾関係にあったのですから、備荒米放出程度の実績では5〜6周回遅れの古代的政治・儒教でいう帝王学・質素倹約の儒教道徳を実践して自慢していただけのことです。
西洋列強が押し寄せてきている危急存亡のときに時代遅れの改悪?ばかりしていたので、幕府がどんどん信用をなくしていったことになります。
幕府要人は奥州白河藩主や会津やあるいは彦根など、経済変化の主流から外れた地域の経営しか知らない経営者(大名)が中心であったことが、時代逆行の安政の大獄を生み時代についていけなくなった大きな原因でしょう。
韓国文政権の最低賃金引き上げ策の頭でっかち性をどこかで書きましたが、定信や忠邦は上地令や公定賃金などで失敗ばかりである点も似ています。
親会社の改革が失敗ばかりで子会社(各大名家)の改革ばかり上手くいっている大企業の最後のようなものです。
各大名家は、9月2日に書いたように関ヶ原後、領地内の生産高アップに努力して約100年間で耕地面積を倍増していたと言われていますが、100年経過後は米の生産高競争では無理が出てきたので、新規収入源確保のために特産品創出にしのぎを削るようになっていました。
例えば水野忠邦の出身地唐津藩では表高6万石に対して、実高25万石あったと言われています。
唐津藩に関するウイキペデイア解説の一部です。

・・・・入れ替わりで土井利益が7万石で入り、利益から4代目の土井利里のとき、下総国古河藩へ移封となる。代わって水野忠任が三河国岡崎藩より移されて6万石で入った。1771年、水野忠任が科した農民への増税を契機に、虹の松原一揆が起こり、農民は無血で、増税を撤回させるに至った。忠任から4代目の水野忠邦のとき、遠江国浜松藩へ移封される。忠邦は、天保の改革を行なったことで有名である。

水野忠邦に関するウイキペデイアの引用です。

寛政6年(1794年)6月23日、唐津藩第3代藩主・水野忠光の次男として生まれる。長兄の芳丸が早世したため、文化2年(1805年)に唐津藩の世子となり、2年後の同4年(1807年)に第11代将軍・徳川家斉と世子・家慶に御目見する。そして従五位下・式部少輔に叙位・任官した。
文化9年(1812年)に父・忠光が隠居したため、家督を相続する。
忠邦は幕閣として昇進する事を強く望み、多額の費用を使っての猟官運動(俗にいう賄賂)の結果、文化13年(1816年)に奏者番となる。
忠邦は奏者番以上の昇格を望んだが、唐津藩が長崎警備の任務を負うことから昇格に障害が生じると知るや、家臣の諫言を押し切って翌文化14年(1817年)9月、実封25万3,000石の唐津から実封15万3,000石の浜松藩への転封を自ら願い出て実現させた。この国替顛末の時、水野家家老・二本松義廉が忠邦に諌死をして果てている。また唐津藩から一部天領に召し上げられた地域があり、地元民には国替えの工作のための賄賂として使われたのではないかという疑念と、天領の年貢の取立てが厳しかったことから、後年まで恨まれている。

上記の通り唐津藩は表高6万石に対して実高25万3000石ですから、この間のGDP伸び率の大きさがわかるでしょう。
同時期の転封先浜松藩の表石高は、ウイキペデイアによれば以下の通りです。

肥前唐津藩から水野忠邦が6万石で入る。忠邦は天保5年(1834年)に老中となったことから1万石の加増を受けて7万石(7万453石とも)の大名となる。しかし天保の改革に失敗したことから弘化2年(1845年)9月に2万石を減封され、さらに家督を子の水野忠精に譲って強制的に隠居の上、蟄居に処された。11月に忠精は出羽山形藩に移封となる。

浜松は同じく表向き6万石ですから唐津とは石高では同格転封ですが、実高15万三千石ですから、伸び率が唐津に比べてかなり低かったことがわかります。

江戸時代3大改革と幕藩体制崩壊の道3(秀才の限界4)

メデイアの基本論調は過疎地の集落消滅を困ったものだ・・山奥の散在した生活が理想というかのような主張です。
山奥や海辺の集落は、一定の社会状況下でそこに住むのがその人にとって合理的だったから始まったに過ぎないように思えますが・・。
平安京に人口が集中して都会になり、鎌倉に人が集まり、応仁の乱で京に住んでいると食えなくなれば食える地方に分散し、大名による地方支配が確立すれば城下町が出来たように、江戸時代といえども庶民、豪商を問わず人口の離合集散は産業構造の変化に適応していると見るのが合理的です。
「地方はいいぞ!」「地方に戻れ」と合唱するよりは、都市型産業が隆盛になれば、それに適応させる職業訓練・政策誘導が合理的です。
定信の時代には今ほど明白ではありませんが、元禄文化〜吉宗を経て1700年代末以降は産業構造ではコメ余りが始まり、農業生産力を競う時代から利便性やサービス化・文化力を競う時代に入っていたのです。
奢侈禁止という古代国家価値観で新しい文化・浮世絵〜錦絵〜歌舞伎〜意匠を凝らす都市文化を禁止弾圧し、都市住民を地方へ戻せという政策を本当に採用すれば無謀すぎるというか、狂気沙汰に近かったでしょう。
定信は教養の塊のような人物だったので「小売価格の統制や公定賃金を定め」ればそうなると思って実施するのもエリートらしい頭の構造です。
せっかく家柄に恵まれていても、秀才が政治をするのは間違いの元・・政治とエリートとは、相性が良くないのです。
過去の文物理解力が高い点が秀才の要件であって、創造力が高くて秀才になっている人は滅多にいません・・・エリート意識の強い人・・秀才が新規産業を興すには不向きです。
ウイキペデイアによれば、天保の改革は以下の通り僅か2年で忠邦が失脚しています。

天保12年(1841年)に大御所家斉が薨去し、水野忠邦は林・水野忠篤・美濃部ら西丸派や大奥に対する粛清を行い人材を刷新し、農本思想を基本とした天保の改革が開始される。同年5月15日に将軍徳川家慶は享保・寛政の改革の趣意に基づく幕政改革の上意を伝え、水野は幕府各所に綱紀粛正と奢侈禁止を命じた。改革は江戸町奉行の遠山景元・矢部定謙を通じて江戸市中にも布告され、華美な祭礼や贅沢・奢侈はことごとく禁止される。なお、大奥については姉小路ら数人の大奥女中に抵抗され、改革の対象外とされた。
遠山・矢部両名は厳格な統制に対して上申書を提出し、見直しを進言するが、水野は奢侈禁止を徹底し、同年に矢部が失脚すると後任の町奉行には忠邦腹心の目付鳥居耀蔵[2]が着任する。鳥居は物価高騰の沈静化を図るため、問屋仲間の解散や店頭・小売価格の統制や公定賃金を定め、没落旗本や御家人向けに低利貸付や累積貸付金の棄捐(返済免除)、貨幣改鋳をおこなった。これら一連の政策は流通経済の混乱を招いて、不況が蔓延することとなった。
天保の改革はこうした失敗に見舞われたものの、水野は代官出自の勘定方を登用した幕府財政基盤の確立に着手しており、天保14年には人返令が実施されたほか、新田開発・水運航路の開発を目的とした下総国の印旛沼開拓や幕領改革、上知令を開始する。印旛沼開発は改革以前から調査が行われており、庄内藩や西丸派の失脚した林忠英が藩主である貝淵藩ら4藩主に対して御手伝普請が命じられ、鳥居も勘定奉行として携わり、開拓事業が開始される。また、幕府直轄領に対して同一基準で検地を実施し、上知令を実施して幕領の一円支配を目指した[3]。
上知令の実施は大名・旗本や領民双方からの強い反対があり、老中土井利位や紀州徳川家からも反対意見が噴出したため中止され、天保14年閏9月14日に水野は老中職を罷免されて失脚し、諸改革は中止された[4]。

寛政〜水野改革は全般的に素人の思いつき的施策だったように見えます。
寛政の改革で失敗したのにその後も引き続き質素倹約とか貨幣改鋳にこだわる改革政治がなぜ続いたのでしょうか?
一つには田沼意次のように下賤の身から上がったものではなかった・・定信は吉宗の孫ですから飛びぬけの貴種、役職を退いても幕閣内の地位は揺るぎません。
役職によって上に立てたのではなく、無役の時から吉宗の直系孫として城内で行き合えば、どんな大大名も権勢を振るう老中も一歩下がってお見送りしなければならない、尊貴の身分です。
老中首座をおりても思想影響力は隠然たるものものがありました。
例えば貨幣の金含有率の水増しは古代から「悪貨は良貨を駆逐する」と言われる古典的悪政でしたから、儒学秀才系にとってはこの進行をなんとか食い止めようという悲壮な使命感を持っていたからではないでしょうか?
現在の財務官僚系列が財政赤字解消にこだわるのと同じ使命感によるようです。
寛政〜天保の改革は素人の思いつき的改革に過ぎず却って幕府財政をガタガタにした原因に見えるのですが、今になっても何故これらを3大改革の2例と歴史で教えるのか不明です。
健全財政論を信奉する財務省系官僚機構(・EU官僚もおなじですが)にとっては、「質素倹約論は子供みたい!などと言われたら困るからでしょうか?
吉宗の享保の改革は質素倹約の他にいろんな制度改革が行われ、蘭学奨励などで学問研究が活発化した外、現在に至る官僚制度や訴訟制度が確立するなどの功績があります。
学問の自由化によって奔放な活躍をした平賀源内も出ましたし、浮世絵・錦絵その他百花繚乱時代のタネを蒔いたものでした。

江戸時代3大改革と幕藩体制崩壊の道2(秀才の限界3)

定信や水野忠邦の政治はいわば時の流れに棹さす・・反動政治ですから、これを歴史家が何故改革というのか不思議です。
定信は気に入らない学問を禁止したりすること自体、広く多くの意見を元に前向きに活性化しようとする気持ちがなかったことがわかります。
吉宗が自分の知らない意見を求めて目安箱を設置して広く意見を求めたのとは大違いです。
農業生産に頼る経済構造ではなくなりつつあったから、江戸等の大都市に人が集まってきた・・地方では食えないから集まっているということは、江戸大阪等の大都市の方が食える道(職)があるという嗅覚によるのですから・これを地方に返すと言っても無茶な政治です。
「農は国家の大本なり」という漢文を高校時代に読んだことがありますが、漁労採集の生活から農耕社会に移行した移行期の思想・・文字ができるかどうかの超古代思想(先秦諸子百家時代でも古すぎる思想として重視されなかった農家思想)としては理解可能ですが、こういう超古代思想を学んで江戸時代後半期に超古代社会に戻そうとする(現実無視の)理想?政治実現に奔走したから、教養重視の)学者にとって理想的政治家像になっているのでしょうか?
徳川政権草創時には、大名その他の経済力基準を米の収穫力・・何万石とか何俵何人扶持などと表現して軍役その他の基準にしていましたし、徳川政権発足後各大名も一円支配を利用して各領地内での水田稲作拡大(新田開発)に務め1600年〜1700年頃までも大多数の大名家では耕作地をほぼ倍増させていたとどこかで読んだ記憶です。
房総半島ではこの間ほとんど生産増がなかったことを何回書いてきましたが、これは大多数が旗本領に細分化されていたために、いわゆる一円支配がなかったことによると思われます。
新田開発には前提として水路整備のインフラ工事先行が必須ですが、千葉県では旗本の知行地が細分化されていたので、(一つの集落全部ではなく共有?・・極端な場合、一つの水田を複数の旗本が領有するような事例が紹介されているように)領主側にインフラ投資資金力もなければ意欲もなかった・現状維持政策に終始していたことによるでしょう。
このために(旗本規模での新田開発は無理があるので)幕府の公共工事として椿海と言われた干潟(現在の旭市)干拓事業や印旛沼干拓事業など推進していますが、その都度失敗しています。
吉宗がこれの延長上で直轄地での新田開発・米の増産に励みましたが、その頃には米の増産による武家の収入増政策は限界に達していたので、増産すれば相場下落に苦しみ、「米将軍」と揶揄されたのです。
食料不足は生命の危機ですから絶対的不足社会(エンゲル係数重視)では増産が重要政策ですが、(戦後物不足時代には作れば儲かる時代だったので、設備投資資金さえあれば儲かる時代でした)必要を満たすようになれば、増産だけでは価格下落するだけ・大阪堂島で米相場が必要になった所以です。
今ではコメも豚肉鶏肉野菜類も全て銘柄にならないと売れないし、洋服も洋服でさえあれば売れる時代ではありません。
ブランド化が必須になってきます。
元禄以降では、飲食店も食べ物さえ供給すればいいのではなく、味の良さ、しつらえのよさ、(1800年代に入りますが)笠森お仙のような客呼び版画などが流行るようになります。
性産業でさえ高級娼婦になるには深い教養教育して、付加価値をつける必要が出ていました。
次々と都会に人が集まるのは相応の需要があるからですから、それに見合ったインフラを整え、産業を興す必要性に思い至らず元の農村に戻れという定信の政策は、改革と言えるでしょうか・・無策すぎませんか?
今の日本経済を見ればわかるように人口の9割を農業に従事させるのは無理がありますし、コンピューター化について行けない人もいますが、そういう人救済のためにコンピューター化禁止するよりは、IT化適応教育訓練する方が合理的です。
大手メデイアは過疎化を悪しきものとして、しょっちゅうUターンを奨励し、ある小都市が最も幸福度が高いとか住みやすさ日本1などと4〜5年に一回の割で報道しては、Uターンした若者を英雄のように報道します。
過疎地の集落消滅を困ったものだという一方的な視点で報道しています。

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