14年政変→大隈重信下野

14年政変による大隈重信の下野と政権内復帰・・下野=反乱図式がなくなった流れの事例に戻ります。
大隈重信に関するウイキペデイアの記述からです。

立憲改進党の設立[編集]
野に下った大隈は、辞職した河野、小野梓、尾崎行雄、犬養毅、矢野文雄らと協力し、10年後の国会開設に備え、明治15年(1882年)3月には立憲改進党を結成、その党首となった。また10月21日には、小野梓や高田早苗らと「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を謳って東京専門学校(現・早稲田大学)を、北門義塾があった東京郊外(当時)の早稲田に開設した[57]。しかし党首としての大隈は、演説をすることもなく、意見を新聞等で公表することもしなかった[58]。明治17年(1884年)の立憲改進党の解党問題の際に河野敏鎌らとともに改進党を一旦離党している[59]。明治20年(1887年)、伯爵に叙され、12月には正三位にのぼっている[60]
明治20年(1887年)8月、条約改正交渉で行き詰まった井上馨外務大臣は辞意を示し、後任として大隈を推薦した[61]。伊藤は大隈と接触し、外務大臣に復帰するかどうか交渉したが、大隈が外務省員を大隈の要望に沿うよう要求したため、交渉はなかなか進まなかった[59]。明治21年(1888年)2月より大隈は外務大臣に就任した[62]。このとき、外相秘書官に抜擢したのが加藤高明である[62]。 また河野、佐野を枢密顧問官として復帰させ、前島密を逓信次官、北畠治房を東京控訴院検事長に就任させている[6

明治14年「国会開設の詔」に関するウイキペデイア引用です。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
原文(原文では句読点がないため、適宜、句読点を挿入している)

朕祖宗二千五百有餘年ノ鴻緖ヲ嗣キ、中古紐ヲ解クノ乾綱ヲ振張シ、大政ノ統一ヲ總攬シ、又夙ニ立憲ノ政體ヲ建テ、後世子孫繼クヘキノ業ヲ爲サンコトヲ期ス。嚮ニ明治八年ニ、元老院ヲ設ケ、十一年ニ、府縣會ヲ開カシム。此レ皆漸次基ヲ創メ、序ニ循テ步ヲ進ムルノ道ニ由ルニ非サルハ莫シ。爾有衆、亦朕カ心ヲ諒トセン。
顧ミルニ、立國ノ體國各宜キヲ殊ニス。非常ノ事業實ニ輕擧ニ便ナラス。我祖我宗、照臨シテ上ニ在リ、遺烈ヲ揚ケ、洪模ヲ弘メ、古今ヲ變通シ、斷シテ之ヲ行フ、責朕カ躬ニ在リ。將ニ明治二十三年ヲ期シ、議員ヲ召シ、國會ヲ開キ、以テ朕カ初志ヲ成サントス。今在廷臣僚ニ命シ、假スニ時日ヲ以テシ、經畫ノ責ニ當ラシム。其組織權限ニ至テハ、朕親ラ衷ヲ栽シ、時ニ及テ公布スル所アラントス。
朕惟フニ、人心進ムニ偏シテ、時會速ナルヲ競フ。浮言相動カシ、竟ニ大計ヲ遺ル。是レ宜シク今ニ及テ、謨訓ヲ明徴シ、以テ朝野臣民ニ公示スヘシ。若シ仍ホ故サラニ躁急ヲ爭ヒ、事變ヲ煽シ、國安ヲ害スル者アラハ、處スルニ國典ヲ以テスヘシ。特ニ茲ニ言明シ爾有衆ニ諭ス。
奉勅   太政大臣三條實美
明治十四年十月十二日

以上のように地方議会を先に開設して地方から議論の経験を積んでいくなど着実に国会開設の準備が進むにつれて不満があれば言論活動で・という動きが加速していき、実力行動が影を潜めていきます。
こういう面では板垣による自由民権運動の啓蒙的役割が大きかったと思われますし、「有司専制」を排し、庶民に政治参加経験させれば民度が上がるという板垣らの主張を政府を取り入れて板垣の言うようないきなり国会経験でなく地方議会を設立してそこで議論経験から人材を育てるという着実な運用をしてきたことが上記「国会開設の詔」の

「嚮ニ明治八年ニ、元老院ヲ設ケ、十一年ニ、府縣會ヲ開カシム。此レ皆漸次基ヲ創メ、序ニ循テ步ヲ進ムルノ道ニ由ルニ非サルハ莫シ。爾有衆、亦朕カ心ヲ諒トセン。」

によって分かります。
昭和の頃には地元政治経験・現場を経て・市町村〜県会→国会→派閥領袖に成長後国家基本を論じるパターンができていました。
現在の菅官房長官も地方議会出身ですし自民党元幹事長の野中努氏もそうでした。
企業で言えば若手の頃には営業現場や地方(今では海外子会社も含む)経験を積ませその実務経験をもとに本社企画部等に抜擢されて最後は社長になるパターンが多く見られるのと同じです。
地方議会もない社会でいきなり国会だけ作っても空理空論の激突しかないので明治政府は発足直後から廃藩置県に始まり地方制度創設、村〜郡単位の地元民の意思決定経験〜日常決定参加から始めて行ったようです。
こうして着実に国民に政治経験を積ませた上で、明治23年に帝国議会開設になるのですが、自由民権運動は国会開設にこぎつけたことで国民啓蒙的運動としては目的を達したので本来の使命は終わったことになります。
コストカッターとしてのゴーン氏はリストラ成功で役割が終わったことになるのと同じです。
住宅公団が戦後住宅不足対応の役割を終えたのに、都市整備公団という名に変えて生き残ろうとしているものの、都市整備?この数十年何をしているのか不明・・を批判したことがあります。
日本も民選議員が必要という西洋の聞きかじりを吹聴する程度でも明治維新当時はそれでも新知識だったでしょうが、大久保らが数十年も行ってきた啓蒙運動の成果でそういう制度がある程度のことは誰でも知るようになり、具体的にどう運用するかの実用段階に入ると草分けを自慢しても時代遅れになります。
実務運用・「罵り合いではなく対話が必要」という書物の受け売りではなく、自分が対話力があるかは別です。
政治家と評論家とでは能力の方向が違います。

大臣・官と公僕思想の両立?

ここで本来のテーマ・公僕と臣・官の関係に戻ります。
現憲法では国家公務員は国民全体の公僕であって天皇の臣や官ではなくなったように思ってきたのですが、憲法に大臣や官名を残した以上、「大臣や官名のある公務員に限っては、戦後も天皇の臣であり官僚は臣下である大臣の任命する官である」と言うDNAを残した印象になります。
国民主権や法の下の平等原理と天皇の存在は一見矛盾するものの、憲法が天皇制度を残した以上は、その限度で憲法違反にならないというのと同じ解釈をすべきでしょうか?
ちなみに大臣とは大和朝廷始まって以来いつの頃からか不明なほど古くから、「おおまえつぎみ」だったかの万葉カナで表記される地位でこれに「大臣」という漢字を当てるようになっていたようで由来がはっきりしないほど古くからの地位です。
神話段階ですが、武内宿禰が初代の大臣でその後ウイキペデイアヤマト王権の大臣によると以下の通りです。

武内宿禰の後裔を称する葛城氏(かつらぎし)、平群氏(へぐりし)、巨勢氏(こせし)、蘇我氏(そがし)などの有力氏族出身者が大臣となった。

と言われます。
(神話)以来、天皇の代変わりごとに天皇によって親任される臣下トップの地位であり続け、代々(よよ)を経て蘇我馬子など蘇我氏の特別な地位に連動して行ったようです。
600年頃に冠位12階を定めた時も蘇我氏は冠位12階の埒外・・誰を冠位(のちの官位?)12階の冠位に就けるかの人事権は大臣である蘇我氏と皇族トップの聖徳太子の連名で行なっていたと言われ、皇族と大臣蘇我氏とは、冠位12階に優越する地位だったと言われています。
大臣は天皇の臣に官位を授ける実質的権限者だったようです。
冠位12階に関するウイキペデイアの解説によれば、以下の通りです。

冠位を与える形式的な授与者は天皇である[11]。誰に冠位を授けるかを決める人事権者は、制定時には厩戸皇子と蘇我馬子の二人であったと考えられている。
学説としては、かつて冠位十二階はもっぱら摂政・皇太子の聖徳太子(厩戸皇子)の業績であるとみなされていたが[12]、後には大臣である蘇我馬子の関与が大きく認められるようになった。学者により厩戸皇子の主導権をどの程度認めるかに違いがあるが、両者の共同とする学者が多い[13]。
馬子とその子で大臣を継いだ蝦夷、さらにその子の入鹿の冠位は伝えられない。
馬子・蝦夷・入鹿は冠位を与える側であって、与えられる側ではなかった。厩戸皇子等の皇族も同じ意味で冠位の対象ではなかった[15]。

ということで、蘇我氏・聖徳太子(実存したとすれば)の時代には、大臣は官吏の任免や格付け等の権限を持つものだったようです。
蘇我氏が専横だったから乙巳の変が起きたかのように習いますが、いつの時代でも・・その後もいわゆる除目は天皇が一人考えて実施したのではなく、太政大臣等の時の実力者の専権事項だったでしょう。
それが今につながりますが、明治憲法以降は平安時代と違い大臣が増えて内閣の仕事が増えたので太政大臣が全て決めるのではなく、国家公務員の採用・任免権者は原則(人事院、会計検査院等の例外がありますが)として各省大臣となり所管事務職限定の任命権となっています。
いずれにせよ人事権は大臣にある点は、蘇我氏や藤原氏が大臣として事実上百官(といっても当時の規模は知れていましたので)の官位を定めていたのと同じです。

国家公務員法(昭和二十二年法律第百二十号)
(任命権者)
第五十五条 任命権は、法律に別段の定めのある場合を除いては、内閣、各大臣(内閣総理大臣及び各省大臣をいう。以下同じ。)、会計検査院長及び人事院総裁並びに宮内庁長官及び各外局の長に属するものとする。これらの機関の長の有する任命権は、その部内の機関に属する官職に限られ、内閣の有する任命権は、その直属する機関(内閣府を除く。)に属する官職に限られる。ただし、外局の長(国家行政組織法第七条第五項に規定する実施庁以外の庁にあつては、外局の幹部職)に対する任命権は、各大臣に属する。

上記の通り、大臣は冠位12階以前の大昔から現在に至るまで官吏の任命権者です。
法制度は政治権力闘争と妥協の結果であることは、国会運営を見ればわかる通りですし、現憲法制定過程も、大戦後の余韻下でのGHQと日本側との政治力学で決まったものですから、あちこちに妥協の産物・矛盾が残っていてもおかしくないでしょう。
国民主権は認めるが、民意によって選ばれる政治家トップは天皇の「大臣」であり、その大臣が官吏任免権を持つという形式的な組織関係だけは残したいという政治交渉が成立したのでしょう。
国民主権国家になっても、それと国民意識は違う・・天皇直属の官僚は天皇の臣であるという意識/誇りを残す狙いがあったのでしょうか。
日本国憲法では、総理は国会での使命に基づくものの、総理と最高裁長官だけは天皇の直接任命制としているのは、明治維新直後の二官八省制度・・神祇官と太政官の二官だけ天皇の直接任命・親任制度と外観が似ています。
太政官は今の総理大臣に該当し、神祇官は、神の裁き=最高裁長官に擬することがこじつけて的・・法律論でなく妄想的推論が可能です。
裁判所はイギリスではキングズベンチと言い、裁判結果は王権・世俗権威の発現ですからその権力を認めない人にとっては弾圧でしかないのですが、日本では「神のみぞ知る」という謙虚な気持ちが今もあり、裁判で決まれば双方不満でも裁判で決まった以上は仕方ないと受け入れる精神土壌です。
福田赳夫元総理が自民党総裁選に敗れた時に「神の声にも変な声がある」という迷言を吐きながらも「神の声」に従ったことがあります。

大臣の各省公務員任命権(忖度)

事務次官党幹部人事は、法的根拠があるか不明ですが、内閣の政治姿勢統一のために?次官〜局長までの幹部については事前閣議了解が必要の慣例?もあるらしく、次官と意見や?ソリが合わなくとも防衛大臣が一存で更迭できないことが、守屋次官と小池大臣との抗争?確執・政治問題に発展したものでした。
ウイキペデイアの記事からです。

新任の小池百合子(防衛大臣)が、守屋の退官と後任に官房長(警察庁出身)を内定した旨の記事が新聞各紙に報道された。これが相談無しに行われたとして、守屋は反発。騒動の際、小池は守屋の対応に対し「夜に二度、携帯電話に電話したが出ず、折り返し電話があったのが翌日朝であり、危機管理上どうなのか」と批判した[8]。守屋は塩崎恭久(内閣官房長官)に根回しをし、塩崎長官が「小池大臣が手順を誤ったやり方をした」と批判した結果、防衛官僚人事が膠着状態となった。最終的に、事態の早期終結を図りたい安倍晋三(総理)が守屋の退官を発表し、小池・守屋双方の推す事務次官候補をそれぞれ退けて、防衛省生え抜きの増田好平(防衛省人事教育局長)を後任に内定した。

数年前の森・加計学園騒動に際してメデイアは事務官僚の忖度を批判していましたが、民間企業であれ公的組織であれ・トップの示す一定の方向性・・トップが基本方針にとどまらず細目まで全部自分で示すのは不可能ですから・・末端はトップの意を体して・・忖度して基本方針に沿うように現場ごとに具体化していくべきものです。
トップの方針が微に入り細に亘って明瞭化していないと意味不明という社員や部下ばかりでは組織が円滑に回りません。
あるいは意見が違うからといちいち反対方向の行動をする・・上司に楯突くような部下が蔓延るようでは、どんな組織でもうまくいくわけがないので、忖度による行動が嫌ならやめるしかないというのが本来でしょう。
トップが職場の整理整頓、お客様に丁寧対応するようにと言っても各店舗でこれをバカにしてまともに掃除をしないとか、ぞんざいな対応であれば直ちに業績に響きます。
このように見ていくと、なぜ官僚だけ上司の意向を忖度することが許されないという批判をするのか合理的説明が必要でしょう。
末端不祥事も末端にとどまらず、トップの政治責任に響き、民間の場合企業業績に響き、トップの経営責任が生じるようになっているのは、忖度を前提としてこそ整合性があります。
忖度があり末端にトップの意向が浸透しているはずだからこそ、直接指示していなくとも結果責任を引き受けるのがトップのありようです。
トップの決意表明と末端社員や官僚が違う行動をした場合、トップの発表は口先だけで本気でないのではないかと国民に批判され、トップの指導力不足が批判されるのもこのせいでしょう。
このように考えると忖度社会が悪いのではなく、忖度によって行われた事務官僚の行為の違法〜不当そのものを論じ、それについて大臣の監督〜忖度的政治責任があるかを論じるべきだった事になります。
メデイアもそれを言いたかったのでしょうが・・。
裁判官のように、組織意思に関係なく裁判官単独で「法と良心」のみに従う仕組みの「官」と違い、行政組織職員の場合、省大臣や長官の最終決断=外部に表明すれば直ちに効力が発生し政治責任が生じるので、発言前に各方面の調査を尽くして補助すべき役割であって自己意見を押し通すべき権能がない黒子の役割です。
末端不祥事があれば担当大臣の政治責任に響き、民間の場合企業業績に響き、トップの経営責任が生じるようになっているのは、忖度を前提としてこそ整合性があります。
忖度があり末端に大臣の意向が浸透しているはず・べきだからこそ、直接指示していなくとも結果責任を引き受けるのがトップのありようです。
トップの決意表明と末端社員や官僚が違う行動をした場合、トップの発表は口先だけで本気でないのではないかと国民に批判され、トップの指導力不足が批判されるのもこのせいでしょう。
各省職員はトップの最終決断に従いその実行役を担う役割の結果、現に実行した場合の進捗具合や実行して初めてわかる制度設計の不具合や大臣決断に対する現場や施策対象となる関連国民の反応等々の情報を整理して(大臣意向関心にとって有利不利双方を)報告するべきですから、そのためには大臣の政策実現に対する本音・意向を知ることが重要です。
とはいえ、直に下位のものが上位者に対して国民の抵抗がどの程度あってもやる気があるのか質問するのは不躾で無礼ですので、高度な政治判断が奈辺にあるかは忖度するのが合理的で望ましいものです。
ちなみに質問とは、上位者が下位者に「問い質す」ことであって、下位者が上位者に質問するものではありません。
上位者の意向を知りたい時には質問ではなく、お伺いをたてるのですが、「伺い」は「窺う」に通じる意味で気配を感じとる意味を含み下位者の職分でしょう。
ご機嫌伺いとも言い、年賀状などで「お元気ですか?」という問いかけが今でもよく使われますが、日本社会では対等者間でも直接的問いかけをしないのが礼儀で、会話の最初は「今日は良い天気で・・」など婉曲的表現から始まるのが普通です。
さらに言うと「臣」とは、目下の者が目を見開いて上を窺うさまの象形文字らしいですが、特に日本の場合椅子形式でなかったので貴人に御目通りするとき臣下は平服して上段の間にいる主君の表情・発言のニュアンス、前後の雰囲気などを必死に「窺う」能力が欠かせません。
部下は上司一人の気配を感じとれば良いのですが、指導者の方は、一度に多くの部下や聴衆を相手にするので大勢の空気を読む能力が庶民の何倍も必要です。
武家社会で言えば主君としては平服している家臣の表情が見えないし、陪席する他の家臣らもむやみに発言しないのでそれらの意向もわかりにくいので、その場の空気を瞬時に読み取る能力が求められます。
忖度、様子を窺うなどによる気配値?感得能力は、組織あるところ情報交換に必須ではないでしょうか?
国家間で首脳会談や企業トップ間の直接対話の重要性・・言語・文字化できる表現に現れない奥深い意味・信頼関係などを構築するために必須とされているのです。
組織内意思疎通も言語化されたものだけでは足りないことは当然です。

大臣辞任要求と審議拒否(世論調査の役割?)2

戦後は総理大臣は民意によって選ばれることになりました。
そして国務大臣を総理が議会の同意その他意見を一切聞くことなく一方的に任命する仕組みになりました。
総理→内閣が民意の代表である衆議院によって選任されている以上、衆議院の意向が変われば、いつでも不信任決議をできますが、その代わり、衆議院が民意を代表しているかを再確認するために解散総選挙することができます。
また不信任決議がなくとも、内閣には憲法7条によって裁量的な解散権(いろんな説がありますが、結論として裁量解散権があるのが通説のようです)があると言われています。
日本国憲法

第七条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
一 憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
二 国会を召集すること。
三 衆議院を解散すること。
以下省略

〔内閣総理大臣の指名〕
第六十七条 内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを指名する。この指名は、他のすべての案件に先だつて、これを行ふ。
2 衆議院と参議院とが異なつた指名の議決をした場合に、法律の定めるところにより、両議院の協議会を開いても意見が一致しないとき、又は衆議院が指名の議決をした後、国会休会中の期間を除いて十日以内に、参議院が、指名の議決をしないときは、衆議院の議決を国会の議決とする。
〔国務大臣の任免〕
第六十八条 内閣総理大臣は、国務大臣を任命する。但し、その過半数は、国会議員の中から選ばれなければならない。
2 内閣総理大臣は、任意に国務大臣を罷免することができる。
〔不信任決議と解散又は総辞職〕
第六十九条 内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。
〔内閣総理大臣の欠缺又は総選挙施行による総辞職〕
第七十条 内閣総理大臣が欠けたとき、又は衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集があつたときは、内閣は、総辞職をしなければならない。

野党による審議拒否の非常識さをマスメデイアが報じないために、国民の意見を知るために総選挙するのは解散権の乱用になるのでしょうか。
国会が、まともに働いていないために国政が停滞して国民が困っているのです。
解散風が現実化するとメデイアや野党が恐慌状態になり、急いで審議再開に応じたこと自体が、彼ら自身国民の支持を受けていないのを知っていながら、騒いでいた実態が明らかになってきました。
メデイアが煽って騒動が広がれば民意がどこにあるかに関わらず総辞職→政権交代すべきという戦前の悪習を利用再現しようとする試みがついに失敗したのです。
内閣は国民の支持によって成立しているのが議院内閣制の基本ですから、審議拒否を続けた上で内閣不信任案を出すということは「自分たちの主張は国民の支持を受けている・・今の内閣は選挙時こそ支持を受けたとしても今は支持されていない」という主張をしていることになります。
「じゃ受けて立ちます・・解散して民意を問いましょう」となると野党やメデイアが狼狽えるとは?驚きです。
まさか?
国民の支持を受けていないが、メデイア+軍部の支持をバックに辞職を迫っていた戦前の政治方式が今でも(バックの軍部がなくなっても)「メデイアの支持さえあれば」通用すると思っていたのでしょうか?
公文書保存期間や公文書の範囲をどうするかなどは平行審理すればよいことであって、公文書管理やセクハラの有無と関係のないその他法案を何故並行審議できないかの説明がありません。
民主国家においては学校の授業のように先生が正解をきめるのではなく、選挙で民意によって決めるべきとするものです。
4月中旬以降の審議拒否とメデイアを通じた不思議な解散反対論(石破氏の意見を紹介しましたが・・)→審議拒否中止の流れを見ると、メデイアや野党は解散.選挙=民意が明らかになるのを恐れていることがわかります。
民意の怖い野党が民主政党を名乗理、メデイアが民意の代表であるかのように振る舞う資格があるのでしょうか?
立憲民主党や民進党と希望の合併による新党も「国民民主党」となって、「民主」の看板をはずせないようですが・・。

大臣辞任要求と審議拒否(世論調査の役割?)1

ところで、審議拒否=優先順位の問題では全く国民意識調査をしない朝日新聞が憲法改正問題に関しては以下のような優先順位調査をしています。
https://www.asahi.com/articles/DA3S13476815.htm

政策優先度、憲法改正は最下位 朝日新聞社世論調査
2020年までの改憲をめざす安倍晋三首相と国民との隔たりがはっきり表れた。国民が求める政策優先度でも「憲法改正」は最下位。
安倍首相に優先的に取り組んでほしい政治課題をいくつでも挙げてもらうと、最も多かったのは「景気・雇用」60%、次いで「高齢者向けの社会保障」56%、「教育・子育て支援」50%。「憲法改正」を選んだ人は11%で、九つの選択肢の中で最も少なかった。

憲法改正問題は、仮に通常国会での発議になるにしても国民生活に直結する予算案や関連法案の審議を優先するに決まっています。
重要法案をスムースに採決したうえで改正発議の審議を行うか、あるいは通常国会を終えてから憲法改正発議の可否だけをテーマにした臨時国会でやればいいことですから、憲法改正国会発議は必ずしも予算審議を止めたり、各種法令審議を止めることにはなりません。
フランス大革命時のような大騒乱の結果の憲法制定の場合には、まず最高機関であるべき議会の位置付けから決める必要があって、革命は諸勢力との新政権の綱領合意・憲法が優先審議事項です(今でも新党結成や合流するときにはこれが優先決定事項です)が平時の場合、日常生活に支障がないように目先の政策を滞りなく進めながら憲法案をすり合わせるのが原則です。
昭和20年8月以降敗戦時の革命的状況下(家督相続制歯医者男女平等など民法その他法令を抜本的に変更必要な場合でも、新憲法制定のために停滞することなく逆に日常的議案の審議可決は速やかに進めて滞りなく行われていました。
まして今回の改正の大争点である憲法9条を変えるかどうかの議論が決まらなければ、その他法案審議ができない性質のものではありません。
ですから、憲法改正発議と他の一般法案審議が両立しないかのような前提を設定して優先順位を質問すること自体が変な予断を誘導している印象です。
国民は憲法改正よりも通常政策の実現を優先してほしいと思っているという宣伝意図の見え透いた調査結果発表というべきですが、この調査結果から見ると、5月4日に書いたように立憲民主その他革新系の「憲法を守れ」とか「平和主義」(文書改ざんによって)「行政の信用がなくなる)などの原理論で具体政策に何でもいちゃもんつけては審議拒否の戦術?に国民は関心が低く、具体的政策重視の国民意識が逆に出ていることがわかります。
優先順位を調査するならば、野党審議拒否戦術=ズバリ優先順位の問題ですし、山積している政策課題が置き去りにされて国民生活に対する影響が大きいのですから、これこそ即時に国民の意識調査すべきだったでしょう。
審議拒否が何と19日間に及んだとのことですから、この長期間の間に日経新聞以外のメデイアが審議拒否の可否について世論調査を何故しなかったのか不思議です。
4月23日の立憲民主党の辻元氏の強硬意見→4月25日自民国対委員長の解散選択肢発言→解散風が吹き始めるといきなり審議再開合意になったのは、世論調査結果によるのでしょうか?
日経新聞の世論調査発表がありましたが、朝日等のメデイアはダンマリでした。
与野党ともに政治家はメデイアの世論誘導目的的な世論調査をそれほど信用していない・・独自の民情把握能力によっているように見えます。
日常政策審議と憲法改正論は上記のように両立できない二択関係でないのに無駄な?優先順位の世論調査を行いながら、現に必要としている政策課題の審議が止まって国民が困っている緊急政治課題についての世論調査をしない偏った状態で大手メデイアの役割を果たせるのでしょうか?
大手メデイアの世論調査は自社の推し進める政治誘導目的に都合の良い結果が出そうなテーマだけやるものなのでしょうか?
5月8に新聞発表の国会審議再開合意によって、審議拒否について議論する必要性が薄れましたが、審議拒否の不当性についてこの機会にもう少し書いておきます。
公文書改ざんがあるとすれば、行政の信頼をなくす由々しき自体・・政府組織信頼の基礎ですから、ないがしろに出来ない点は確かですが、その議論の必要性と保育所増設やTPP参加その他の山積している財政や福祉、働き方改革、経済政策、TPPや外交課題の議論とは先後の関係がありません。
並行議論可能なテーマです。
大臣辞任がない限り審議拒否できるという主張は、野党に大臣任命拒否権を認めろという主張に等しい主張になります。
戦前軍部の協力がないと内閣が倒れてしまった・陸海軍大臣現役制の結果、組閣に協力してくれないと組閣できなかった悪弊の再現に繋がりかねない重大な憲法違反行為です。
戦後憲法の原則である多数民意よって総理が選ばれ、その総理が自分の責任で内閣を運営する担保として国務大臣任免権があるのです。
これは戦後民主主義の根幹を支える制度です。
国務大臣が無能であればその責任は内閣が負うのであって、その判断は総理がすべきことであって野党にして貰う必要はありません。
総理が「大臣辞職する必要なし」と判断したら、その結果責任は総理が負うのですから、その次に野党が迫るべきはこういう無能な大臣を罷免しないならば、国民の支持を失うぞ!」すなわち「応じないならば国民の支持を失う→「内閣総辞職を迫るぞ!」=解散できるのか!」という意味になります。
そこで、「じゃ受けて立つ!」という解散権の発動がテーマになってきたのです。
これが戦前の(軍部の協力がないと組閣できなかった)弱体内閣の反省から改革された譲ることのできない戦後の議院内閣制の基本原理です。

明治憲法
第4条天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ
第7条天皇ハ帝国議会ヲ召集シ其ノ開会閉会停会及衆議院ノ解散ヲ命ス
第10条天皇ハ行政各部ノ官制及文武官ノ俸給ヲ定メ及文武官ヲ任免ス但シ此ノ憲法又ハ他ノ法律ニ特例ヲ掲ケタルモノハ各々其ノ条項ニ依ル

上記のとおり、天皇は「統治権ヲ総攬」する結果、「天皇ハ行政各部ノ官制及文武官ノ俸給ヲ定メ及文武官ヲ任免ス」る・・すなわち総理大臣を含めた各大臣も天皇が直接任命し罷免する仕組みでした。
議会が揉めれば「天皇の行政権を委ねられた内閣の不手際」として責任を取らせて別の政治家に交代させる仕組みで、騒いでいる方が民意を代弁しているか逆に内閣の方が民意にあっているのかを問わない制度でした。
第7条で解散権が天皇にあるのは、統治の責任は天皇にあって内閣にはない以上(民意によらない天皇の任命制ですから、内閣が自分の政策の方が正しいと思っても自分の方が正しいとして地位を守るための)内閣による解散制度も予定されていませんでした。
財務大臣の辞職要求同様で、総理が守ってくれない限り「辞職を要求するなら解散する」財務大臣が言えないのと同じでした。
これでは正しいと思って信念に従った根性のある政治家が育ちません。