予防と事後対応制度の限界2(家電蓄電方式)

発電所からの送電が止まっても各電柱が一定時間下流への送電可能にすれば家庭での停電開始が遅れ末端消費地の耐久性が増します。
(いきなり全ての電柱は無理としても町内入り口ごとの基幹的電柱を作り、そこに域外からの送電が途絶えても最低数時間〜10時間その先の家庭への送電をできるようにしておけば家電の自給発動開始が遅れるので家電利用時間・消費者の対応チャンスが増えます。
最末端の家庭引き込み口の電柱も1時間程度送電できるようにしておけば、さらに利用時間が伸びます。
現在のシステムでは送電線が切れた場所が家庭から50〜100キロ先であるとしても、その下流全部停電するように思われ(正確に知りません・電流はプラス→マイナスの出口がないと流れないのでA→B→C→D→E~Xの送電設備がある場合、BC間の電線が切れた場合B点以下が停電するイメージで書いています。)ますが、このような簡易基地を数キロごとに設けておいて、上流からの送電が途絶えても各基地で下流に対して5時間分自力送電ができるとした場合、X地域までの間に10基地があれば50時間は停電しない計算です。
こうすれば自宅から10メートルの電柱が倒れたら、即停電→家庭内家電の自給開始ですから地域住民は地域内電柱の保守管理に関心を持つでしょう。
今のように自分らの手の届かない遠距離の電柱管理不十分の影響をストレートに受けるの電線維持に関する関心を持ちにくいですが、地域内自給制度ができれば自治会ごとにあの電線は大丈夫か?などの関心が向くし、地域を大切にする気持ち・共同体意識の育成にもなるでしょう。
鉄道の場合も、相互乗り入れの結果、立川方面で人身事故があっても千葉の電車が止まったり大幅遅延するようなことが日常化しいますが、・相互乗り入れ前に元の終点駅付近にあった折り返し運転用の線路等を撤去し広大な車両基地をマンション用地等に売却してしまったのが直接的原因でないか?思っています。
今回台風後の電車の乱れの例で言えば、京成電車本線が長時間不通やダイヤの乱れが続きましたが、私の自宅と事務所往復に使っている千葉〜津田沼間の枝線の方は、上野行きの直通が少なくほとんどが津田沼との折り返し運転ですので、11時頃に家を出て自宅近くの駅に行くとほぼ通常通り電車がきました。
他の路線で樹木が倒れ込んでも千葉津田沼間で事故がなければ、ほとんど影響がなく運行できていたのは京成津田沼駅に大きな車両基地があるからできたことでしょう。
台風後約10日後に柏市から事務所に来られた人がまだ鉄道が混乱しているというのには驚いたのですが、いくつも乗り換えて来るのには、あちこちダイヤが乱れているので大変だったようです。
遠距離直通運転の場合、経路の一箇所でも倒木等の障害物があると京成全線どころか相互乗り入れしている地下鉄その先の京浜急行などまで影響が拡大します。
電気に戻しますと今回の台風では携帯やスマホ自体が不通になってしまいましたが、各家電が停電後でも1時間前後使えれば、仮に最末端電柱が倒れた場合でも被災直後通報ができるので市町村でも被害状況把握も速やかだったでしょう。
ところで今回あちこちの民家屋上に見かける太陽光発電を設置していたので停電せずに助かったという報道を見かけない(だけですが・・)ところを見ると、自宅で発電した電気を東電の電線網を通じないと自宅に通電しない仕組みになっていたのでしょうか?
せっかく自宅で発電しているのにいざという時に自宅で使えないで、冷蔵庫が止まりスマホの充電もできないのではなんのために「自家発電」を設置していたの?という印象です。
電柱ごとの備蓄は技術的に容易ではないとしても太陽光発電をそのまま自宅で使えるようにするには、電気系統の工夫次第でどうにかなるように思いますので、それをして宣伝材料にすれば、設置家庭が増えるのではないでしょうか?
水道も電気がないとポンプが動かず送水できないとのことでしたが、電気や水が4〜5時間供給できる仕組みの場合、その間にお風呂などに水を満タンにしておけば、飲用外の水だけはかなり長く使えます。
飲用ペットボトルの買いだめ程度の自助努力は大した手間ではないですが、(一回だけ買えばあとは順次古い順位使っていくだけです)困っているのはトイレや風呂食器洗い等に必要な大量の水です。
マンション戸建てを問わずそれぞれ規模に応じた井戸を掘っておけば・・・・飲用にしておくにはしょっちゅう水質検査等が必要ですが、そこまでしなくとも当面トイレ、洗濯、食器洗いや入浴に使えるだけでも大助かりです。
電気がすぐ止まる→モーターが同時に止まってしまう現状を前提に、いざという時のために井戸を掘っておく人がいなくなっています。
モーターが非常時にも最低5時間は動くなどの性能になってれば、井戸の有用性が増すでしょう。
一定規模以上のビルや人の集積場所(鉄道駅)などでは、管理者所有者に最低10日分程度の電気や必要量の水の自給(備蓄)体制を義務付けるなどの法令整備が優先事項でしょうか?
マンションでは、各人個別保有に努力するのは数日分としても一定規模以上マンションでは別に2週間程度の電気や水の備蓄(ないし自家発電装置)すべきでしょう。
焦点が災害対応にズレましたが、現在の法制度があらゆる方面で、問題が起きるのを待ってからの対応を原則としていた点の修正が必要になっている関心に戻ります。
19世紀に確立した司法制度は「事件が起きてないのに権力が介入するのを許さない」犯罪検挙は実行行為があるまで待つのが原則・社会防衛思想禁遏化の基本設計でした。
小泉改革(構造改革・規制緩和)では日本の事前チェック型→許認可制度から米国型の事後処理型→問題が起きたら、訴訟で決着する方向への転換をしきりにメデイアが宣伝していました。
単純思考の私は今後の社会はそうなるのか!くらい・何をするにも許認可基準に合わないとできない・・雁字搦めでは新しい発想で何か始める前に疲れてしまうよな!程度で受けとめていましたが・・。
その時に弁護士大増員の司法改革もセットになっていたのですが、要は、今後事後係争社会になると訴訟が激増するので弁護士大増員必要との説明もされていた記憶です。

予防と事後対応制度の限界

訴訟実務家は訴訟で実績を上げて本当に社会的意義があればその結果・・19世紀型理念の破綻をどうすべきかの問題提起・・社会が考えることではないでしょうか?
サイバーテロやサウジへの無人機攻撃による国防のあり方など、攻める方法は日進月歩ですから19世型自衛概念論争・・敵国が巡航ミサイルやロケットを我が国に向けて発車しても領海侵入あるまでは何の自衛もできないのでは意味がなくなっていることは周知の通りです。
個人間の正当防衛で言えば、殺してやるなどと怒声をあげて刀を抜いて駆け寄ってきたら、走り寄ってくる相手を抜き打ちざまに相手の足を払ったら(駆け寄った方からまだ直接斬りかかられていないので)正当防衛にならないのかということでしょう。
よほど実力差のある関係でない限り斬りかかってきてからの応戦ではその間1秒あるかないかですので)先に斬りかかった方が勝つのが普通(このため相撲では同時の立会いが基本ルールです・全てのスポーツはホイッスル等による同時開始を前提にしています)ですから、素手の相撲の場合立ち上がった段階→刀槍による戦いの場合で言えば鞘を払った段階を起点にすべきでしょう。
戦闘機の場合照準を合わせるレーダー照射まで進めば瞬時に発射可能・0、何秒でも先に発車した方が勝つ精巧な戦い・誘導弾で相手機を追尾する機能があるので、射手の腕や戦闘機操縦能力の技術差による違いが大幅に下がっていて、空振り率の高い時代と違ウノで滅多にない時代にはいっていますので、相手が発射するのを待ってられません。
実際に誘導弾を発射するまで待たないで応戦すべきが標準になっていると言われます。
これが韓国機による昨年頃に発生した日本機に対するレーダー照射事件でした。
9月26日日経新聞朝刊1面には、フェイスブックの創業者「ザッカーバーグ氏に聞く」という表題で、今後は「問題が起きてから対処ではもう通じず」という副題があって、問題が起きてからでは一旦失った信頼回復が困難・・損害が巨大になるために事前の対策が必要という意見が出ています。
弁護士業務関連でも弱者救済対応としては被害相談がくるのを待っているのではなく、〇〇110番という電話相談を弁護士会が開設する積極対応が目立ってきました。
9月9日未明の千葉県を中心とする台風被害では広域停電の結果、メールはもとより電話も通じなかったことから現地(市町村自体が被害把握に手間取り)からの被害情報の収集を待っていた県の対応では後手にまわり過ぎた批判や反省の意見が頻りです。
電子機器の発達以来、リアルタイムの対応に慣れてきたこともあって何周亜kんという長期停電には何をしているの?という驚きが非難の原動力でしょうか?
いずれにせよ、「ことが起きるのを待って対処する態度がはおかしい」という風潮が一般化して来たことは確かでしょう。
ここで話題の方向性がズレますが、被害者からの救援依頼を待つのではなくプッシュ型災害対応がこの数年前から言われてはいるものの、今回の東電や政府対応を非難するのはムード的風潮に便乗した行きすぎでしょう。
どこにどういう被害が発生しているか不明の状態でまず食料を送って良いのか?復旧要因も倒壊原因によって職種・準備する機械などが違いますので、どういう援助が必要か不明のまま出動すべきと言われても政府も困るでしょう。
停電と言えば、送電システムのどこかに問題が生じて電力のプロが故障箇所・理由を見つけて応急処置すればいいという従来型回復を想定していたところ、時間経過でわかったことは、房総半島のあちこちで電柱が大量倒壊していて倒壊原因が多様な原因による結果、復旧作業が多様化したために期間がかかった原因であることがわかってきました。
電柱自体が強風で倒れた程度までは、電柱設置取り替え業者の本来業務に近い(住宅で言えば、建築業者と解体撤去業とは違いますが一応近縁業種です)ので想定内作業だったでしょうが、山林の大きな樹木が倒れかかっているので樹木の伐採が必要な場合、東電が日常的発注している業界外の発注作業になります。
電気技師や電柱建て替え業者でなく林業関係者の出番・樹木が太い場合手作業的電動ノコギリではなくチェンソーなど本格的道具が必要ですし、一定の長さに切断した樹木をクレーン等で撤去する作業車も必要です。
その上電柱の倒壊回復には現場へ辿り着くべき山道が土砂崩れなどで不通になっていたなど、東電単体の作業領域を大幅に超えていたことで自衛隊出動の必要性となったのですが、大量の電柱倒壊が多様な原因によるのでどういう原因によるかなどの状況把握なしには、どの専門業者がどこへ出動すべきかも決められません。
こういう場合プッシュ型災害出動という掛け声ばかりで、メデイアが政府=県知事の対応が緩いと政府批判しても始まりません。
今回の台風対策は初めてか2回目か知りませんが、ともかく走れるだけ走って、これ以上は危険となったら「その時点で運行打ち切り」というデタラメ的?パターンが原則でしたが、首都圏の電車等を台風来襲予測時間前から全面運休して翌朝始発から運休し8時頃から再開き予定という画期的対応をしていました。この結果出勤時の大混乱を避けられたし、企業等も午前中の勤務を中止して午後からの勤務に変えていたと思われます。
千葉県弁護士会からは午後一時からの開館とネット通知がありました。
災害は毎回同じ種類によるとは限らないので、どんな災害にも耐え得る基本体力として、まずできることからやるとすれば、各自が一定の基礎的災害耐久力をつけることが先決ではないでしょうか。
数日〜10日分以上の水や食料貯蔵(日々食べるものであれば買いだめして古い順に消費する))は、各自がその気になればだれでもすぐ備蓄可能なことです。
電気備蓄・・各家庭での自家発電装置は高価な上に維持管理に無理があるので当面不可能でしょうが、一般家庭でも車のバッテリーのような蓄電設備を備えるための開発を促進すべきではないでしょうか?
家電製品については製造段階で停電があっても一定時間は運転持続できるような製品を業界で開発していく努力も必要です。
その機能のある家電設備の方が売れ行きが良いでしょうから、業界に過大な負担を強いるものではないでしょう。
当初10分〜20分程度の製品しか開発できなくとも徐々に3時間〜5〜24時間〜2日〜5日間へと伸びていくように思われます。

日本で身分制度があったか?3

のちに平安朝の位階制を紹介しますが、箱根駅伝のシード権同様で、有能な人材が2〜3世代続かないとトップになれないし(信長や信玄、謙信の例を昨日書きました)無能者も一台限りで次の世代が有能であれば上級貴族にカンバックできるが、2〜3世代無能者が続くと下級貴族に落ちていく緩やかな仕組みでした。
徳川家だけでなく大名家・・島津家の場合、大久保や西郷など下級武士でも能力さえあれば重要役目に登用できるだけでなく、島津家の名門上級武士層自身も、自分より身分が低くても能力のあるものの意見には素直に従う価値観がもともとあってこそ下級武士が活躍できたのでしょう。
こういう価値意識は毛利その他の諸大名家でも同様でした。
徳川政権で言えば旗本でさえなかった勝海舟が才能によって取り立てられて幕府側最重要人物として徳川政権最後の大交渉の立役者になりました。
・・江戸城無血開城の講和会議は、官軍の事実上トップ西郷とのトップ?会談で取り決めたものでした。
江戸城攻防戦になれば、江戸が火の海になり多数被害が出るほか、今後長年にわたっての掃討戦など続けていた場合・・列強の迫る国家危急存亡の時に内戦に明け暮れていたのでは、対外交渉力の弱体化が必至だったでしょう。
無血開城であったことから徳川慶喜の処刑もなかったのですが、江戸城総攻撃となれば、新政府になっても構わないと持っていた人でも忠節を尽くすためには、徹底抗戦するしかなかったでしょう。
江戸城落城後もいろんな城の攻防戦が起きたでしょうから、長岡城や会津だけの攻防戦では済まなかったかったはずです。
戦後処理が仮に数年後に終わっても、元幕臣や抵抗した大名家からの人材登用(官僚機構の承継・活用に成功するかが新政権の成否にとって死活的重要です)ができなかったとすれば、明治維新後の日本の目覚ましい興隆が難しかったことになります。
その上長期戦になると残党狩りなどの結果、同一民族間の怨恨を残すのが普通ですから、(最近ようやく会津と長州の和解ができたというニュースを何年か前に見た記憶ですが・・これが会津のみでなく、広範囲で戦っていれば大変なことでした。
そこにチャンスとばかりに欧米が介入すれば、国家存亡の危機・瀬戸際でしたが、これを避けるために史上全く経験のない、無血開城という大胆な決着した両雄が、いずれも武士層の中では最下層出身であったことが象徴的です。
日本社会構造の柔軟性が、下級武士主導による明治維新→その後の近代化が成功した所以でしょう。
身分にとらわれない人材登用が幕末にいきなり柔軟になったのではなく、古代からの伝統によるところが大きいと思われますが・・一応幕末時点で比較してみましょう。
西郷や大久保、長州の高杉や大村益次郎その他は誰もが知っていますが、(もちろん彼らは代表選手であって、その下に続く大量の次世代層があってこそ明治藩閥政治を確立できたし、民間の近代産業興隆に成功したのです)幕府側でも同様で家柄にこだわらない人材登用が進んでいました。
科学部門では伊能忠敬のように商人が隠居してから天文学の専門家として日本地図作成したのが知られているように、いろんな分野での人材登用が進んでいた・・身分による縛りがない社会でした。
(その前提として庶民が美術、音楽を楽しみ、俳諧、蘭学その他関心あるもの全て身分に関係なく楽しみ、勉強できる下地があったことになります・和算で有名な関孝和に至っては生年月日さえはっきりしない程度の出自です)
江戸時代の身分とは、現在企業内の重役や部課長などの職制上の差程度の意識ではなかったでしょうか?
だからこれを西洋生まれの用語である「身分」と翻訳するのは誤訳でないかという気がします。
身分とは 言わば、生まれによる社会的地位・結局は職業が決まるということでしょうが、今でも中小企業の事業承継はほとんどが世襲です。
世襲だからこそ、相続税の特例が必要になっているのが現実です。
韓国の財閥世襲が知られていますが、日本の大企業でも創業後数世代では多くが世襲でやってきて一定期間経過でオーナー一族が徐々に経営から手を引いて行くのが普通の姿です。
サントリーでもトヨタでも、最近問題になった出光でもみな同じです。
奈良〜平安時代の身分制というか位階制度を見て行くと、親の功労によって次の世代にシード権がある程度・次世代が三位以上に登れないと次の子供(すなわち孫世代)はシード権を失う仕組みです。
企業オーナー一族が承継しても失敗すれば終わりになるのと同じではないでしょうか?
平安時代を王朝時代・貴族政治の時代と習ってきましたが、例えば三位以上が公卿に列せられるといいますが、最上級貴族の子弟であっても先ずは従五位下の叙爵から始まり、補職した職務遂行能力に応じて順次昇進して三位以上になるのであって、生まれた時からの三位はいません。
たまたま10月29日の日経新聞文化欄連載中の本郷和人氏の解説によれば、三位以上に昇進できた上級〜中級貴族の子供が成人して「ういこうぶり(初冠)」すると従5位下に叙爵されて官位が始まり、これに合わせた官職も付与されます。
同記事によれば「ういこうぶり」の時期は(一定しないものの)10代前半と記載されています)
この職務遂行能力・人望等によって官職が変わっていく、これに応じて必要な位階を付与するのが合理的であり、実際にそのように行われてきたようです。
菅原道眞の祖父菅原清公に関するウイキペデイアからです。

清公が右京大夫の官職にあった際、嵯峨天皇に京職大夫の相当位を問われ、正五位相当であると答えたところ、直ちに京職大夫の相当位が従四位に改められた

江戸時代にも30日に紹介したように田沼意次が役職昇進に応じて最後は大名(旗本ではイクラ有能でも側用人止まり・・老中になれなかったので)になったように職務に見合うように家禄を引きあげたりしたことが知られています。
このようにデビュー・叙爵と同時に補職されるので、与えられた官職で実際にどのように仕事ができるかの評価?によって昇進していくのですから、今の幹部候補生の就職と同じです。
われわれ法律家の世界で言えば、判事補や判事や検事の官名 がつくのと補職(「〇〇裁判所判事や〇〇検察庁検事に補する辞令」は同時です。
補職による職務実績評価によって、部総括とか支部長や地裁所長等に昇進していくのです。
実際に仕事させないとその人の職務能力や人格的総合力がわからないからです。

日本で身分制度があったか?2

武士社会内の身分格差が固定的でなかった点に戻しますと、もともと武士は古代秩序の枠外に生まれて貴族社会内の秩序内での競争に関係なく、別世界・庶民から実力競争で頭角を現したものでしたから・・実力重視意識が強いのは当たり前です。
当初は各自の自衛のために自然発生した武士でしたが、長期経過で集団自営する必要から、地域武士団となりさらに大規模化適応化過程で、中央の貴種を軸に団結するようになったのが源平時代でした。
鎌倉時代に源氏の将軍が飾り物になっていたのが、足かが政権で源氏の権威が一時復活したものの、観応の擾乱を経てグチャグチャになり、義満が絶対君主的地位を誇ったのが最後の光芒であったというべきでしょうか?
すぐに嘉吉の変があり応仁の乱を経てついに中央貴種の価値がほぼゼロになって下克上の戦国時代に入っていきます。
それまでは、一定の武士団内ではいつも団結していて、その武士団トップが源平どちらにつくかを決めれば集団がそれに従うというパターンから、源氏のうち足利尊氏につくか足利直義につくかの下位基準での選択となり、応仁の乱以降は守護大名家内でこの人に任せたのでは、隣国にやられてしまいそうとなれば、もっとしっかりした人をリーダーに盛りたてたい動きが起きます。
いわゆる家人が主君を裏切るのは文字通り謀反であり、(古くは長田の庄司が主君義朝を討った)これは現在に至るまで道義的に許されないのですが、戦国時代に起きた下克上とは守護代が(ボンクラでは国が持たないという切羽詰まった状態で国人層の支持を受けて)上司の守護を放逐するものであり、正義があったのです。
すなわち幕府の威令が行き渡らなくなると、源氏との血筋の濃淡・幕府内の外交力で昇進して有力守護大名になっていたとしても・・幕府組織内で必要とする能力より、領国統治能力(家臣掌握力)自国防衛力が優先ですから、中央でこういう顔が効くという能力は地元武士団には何の効力も持ちません。
源氏の棟梁という段階から守護大名に権限がうつり、実務能力にたけた守護代が実力相応の権限を要求するようになったので・・守護大名家内の実力主義によるトップ交代が起きたというべきでしょう。
ちなみに上杉謙信・長尾家は越後の守護代でした、織田信長も尾張の守護大名斯波氏(足利一門)の守護代の織田一族内末席に連なる小領主でした。
織田一門内の抗争で頭角を表した信秀の子供・2代目である点は、父為景が守護代として越後を大方まとめた跡を長男を放逐して継いだ謙信同様です。
2代目という点では、武田信玄も甲斐国をほぼ統一した父信虎の跡を継いだ点では同じです。
ただし武田信虎は守護大名から戦国大名化に成功したもので、守護代が戦国大名になったものではありませんが・・・。
観応の擾乱を見てもわかるように当時は中央の政略によって朝令暮改のごとき論功行賞によって、有力御家人があちらの守護になり、こちらの守護になったりで土着する暇がなかったのですが、応仁の乱以降居場所をなくして領国に着任土着化していくのですが、(多くは内政実務能力がない・地元出身でないので浮き上がっていきます)武田家は中央から派遣されて守護大名になったのではなく八幡太郎義家の弟新羅三郎義光の時から土着していた点の強みだったのでしょうか?
土着成功していた結果、戦国大名化に成功した薩摩島津家も同様です。
幕府による平和がなくなり自力防衛が必要となりその体勢をいち早く整えた国が第二次リーグ参加資格になってきたので、(19世紀に民族国家統一に成功した国が列強になったのと同じです)統率能力が上がってきたので、家柄による形だけの上位者が邪魔になったのが武士社会内での下克上の始まりです。
このように武士は農地を守る必要に応じて生まれてきた以上は、実務能力社会ですのでいつも実務能力が落ちると下克上・地位の入れ代わりを前提にしてきました。
江戸時代の上士と下士の区別も、たまたま戦国時代末期にたまたま騎馬武士の地位を確保したに過ぎない程度の意識です。
同輩中の上下関係にすぎないという意識だったでしょう。
坂本龍馬で言えば、たまたま一領具足(いわゆる国人層)として属していた長宗我部が関ヶ原で西軍について敗軍の将となった結果、進駐してきた山内家臣団と区別されて郷士(身分階級的には下士階層)の地位でしかなかったに過ぎないという矜持があり、山内家家臣団も国人層に一目おく関係でした。
農民と武士の関係も、武士そのものが農民の中から専門化したに過ぎない点で同根でした。
実例としては将軍綱吉の母親は町人の娘でしたし、酒井抱一のように大老家の子息が市井の絵描きになったり、武士が俳諧師に転職することもあれば、伊能忠敬のように商人が隠居後に帯刀して幕府御用で全国を測量して歩くこともありました。
武士層自体の身分格差については、昨日ちょっと紹介したように井伊家や酒井家のように戦国末期の天下どりに貢献した実力者も、次の平和な時代に必要な実務処理能力が問われるようになると事実上飾り物になっていきます。
実務官僚が台頭していきます。
例えば田沼意次の相続した石高はわずか6百石の小身旗本・・出陣時の騎馬武者としては従者2〜3人(荷物持ちを含めて?)程度の最小兵力でしたのに、最後は大名になり老中首座として国政中枢を握って行ったように人材登用には積極的でした。
田沼意次に関するウイキペデイアの解説です。

享保4年(1719年)7月27日、紀州藩士から旗本になった田沼意行の長男として江戸の本郷弓町の屋敷で生まれる。幼名は龍助。父・意行は紀州藩の足軽だったが、部屋住み時代の徳川吉宗の側近に登用され、吉宗が第8代将軍となると幕臣となり小身旗本となった。

要するに親の代まで武士どころか紀州家の足軽だったのです。
父親が偶然吉宗不遇時代に登用(初めっから吉宗が世子であれば側近.小姓は家柄の子弟がなるので登用されることもなかったでしょう)されて運がひらけ(気が利いていたのでしょう?)何人もの兄がいたのに、吉宗が紀州徳川家の家督を継ぎさらに徳川宗家を継いだことによって、父親が一緒に江戸についていき、その結果元足軽の父親が武士の中でもとびきりの格式である旗本になれたという針の穴を通すような幸運な運勢によります。

意次は紀州系幕臣の第2世代に相当し、第9代将軍となる徳川家重の西丸小姓として抜擢され、享保20年(1735年)に父の遺跡600石を継いだ[1][要

有能な父親が足軽から武士に取り立てられ、目を見張るような出世をしても石高は600石止まりだったのですが、次の意次はさらに能力発揮して最後は大名になり老中首座・平安朝でいえば太政大臣に上り詰めて幕政を切り盛りしています。

日本で身分制度があったのか?1

日本の場合、古代から固定した身分差別らしきものがなかった・能力次第の社会でした。
欧米の真似をして江戸時代には士農工商の身分差別があったと図式化して教えてきた・・フランス革命を金科玉条のように崇拝して日本は約百年後の4民平等化だったので、日本社会はその分遅れているというのが、私の習った戦後教育でした。
この数十年ほど江戸時代文物(文化の担い手は庶民であったこと=庶民レベルが高かった)の見直しが進んでいるのは、喜ばしいこととです。
徳川政権を倒した明治政府にとっては前時代を悪く言いたかった気持ちもわかりますが、江戸時代に限らず日本は古来から実力次第でした。
古くは地下人と蔑まれていた武士が実務能力に応じて荘園貴族を押しのけて支配層にのし上がれたし、中世以降武士層がトップに立ったとは言え、その他職業人との身分格差も能力次第で流動的でした。
そもそも平安貴族の源流である藤原氏自体が、古代大和朝廷では蘇我、物部や葛城その他諸豪族の列にさえ加われない中級官僚(祭祀官)でしかなかったのが、(私の見るところ、官僚的能力に秀でていた?)能力だけで頭角をあらしたものです。
氏族制度に関するウイキペデイアの説明です。

氏姓制度の基盤は、血縁集団としての同族にあったが、それが国家の政治制度として編成し直された。その成立時期は、5~6世紀をさかのぼらない。同族のなかの特定の者が、臣、 連、伴造、国造、百八十部(ももあまりやそのとも)、県主などの地位をあたえられ、それに応ずる氏姓を賜ったところに特色がある。各姓は以下のごとくである。
臣(おみ)
葛城氏、平群氏、巨勢氏、春日氏、蘇我氏のように、ヤマト(奈良盆地周辺)の地名を氏の名とし、かつては大王家と並ぶ立場にあり、ヤマト王権においても最高の地位を占めた豪族である。
大伴氏、物部氏、中臣氏、忌部氏、土師氏のように、ヤマト王権での職務を氏の名とし、大王家に従属する官人としての立場にあり、ヤマト王権の成立に重要な役割をはたした豪族である。
伴造(とものみやつこ)
連とも重なり合うが、おもにそのもとでヤマト王権の各部司を分掌した豪族である。弓削氏、矢集氏(やずめ)、服部氏、犬養氏(いぬかい)、舂米氏(つきしね)、倭文氏(しとり)などの氏や秦氏、東漢氏、西文氏(かわちのふみ)などの代表的な帰化人達に与えられた氏がある。連、造(みやつこ)、直(あたい)、公(きみ)などの姓を称した。

上記の通りヤマト王権成立時に、徳川政権でいえば関ヶ原で味方した外様大名クラス・いわば元同輩であった群雄がオミ(臣・・葛城や蘇我氏など)であり、大臣(おおオミ)とはその中の上位者という意味でしょうか?
もっと詳しく言いえば、むかしNHKドラマ、「天と地と」で見た程度の知識ですが、上杉謙信が越後国中の諸豪族をまとめていく過程を当てはめれば、全国的な王権成立の前に足元の大和盆地周辺を統合する過程で服属した諸豪族がオミであり、諸豪族の中でも勢力の大きい豪族を大おみといったのでしょう。
連(むらじ)は、徳川でいえば譜代の臣に当たるものであり、中臣氏もそのグループです。
中臣とは大和王権の内部の臣という意味に読めます。
徳川時代が続くと、外敵と戦う必要が薄れるので外様大名は石高(戦力)が大きくても、日々の政務に関する役職がないお客様になっていたように、ヤマト王権が続きヤマト王権が列島内の外敵と戦う必要が減少すると武力を持った諸豪族の協力必要性が減少するので宮廷官僚の地位が自ずと高まります。
(その後白村江の戦い以降、列島から朝鮮半島に海を渡っていき戦う国策がなくなりました)
徳川家内でも天下取りに貢献した彦根の井伊家のような大大名は飾りとして上位に置かれていただけで実務は10万石前後の中小大名が老中として仕切り、さらにはもっと小身の田沼意次のような側用人政治(実際にはその後数万石の大名に取り立てられて老中首座になりますが)になって行ったのと同じです。
実務官僚?中臣鎌足が大化の改新で頭角を現したのは、こういう流れ(豊臣政権での石田三成も同様でしたが秀吉がすぐに死亡したので明暗が分かれたというべきでしょう)で理解すべきでしょう。
藤原氏は、一旦獲得した政権中枢への距離を位階制度や身分制度によって権力を維持できたのではなく、ひっきりなしの権力危機に見舞われながら、その都度実務能力の高さによってうまくかわすのに成功したので長期政権を維持できたにすぎません。
藤原氏は天智天皇死亡後の壬申の乱では滅ぼされた近江朝廷(天智天皇の子供)に近かったので(上記石田三成と立場が似ています)政権との距離に関して一時危機に瀕しますが、持統朝(も権力機構維持に必要な組織運営能力に秀でた藤原一門登用が必須であったと思われます)以降巧みに権力扶植に成功します。
ところが、すぐに強力な政敵長屋の王が台頭したことにより最大の危機に見舞われますが、長屋の王をうまく陥れますが、直後藤原4兄弟が天然痘だったか?で相次いで没後には、すぐに藤原広嗣の乱(天平 12 (740) 年9月)で、朝敵になりその後も光明子以降権力確立後も恵美押勝の乱(天平宝字8年(764年)9月)やその他しょっ中危機がありながら(4家に分立していたことが安全弁になっていたようです)その都度補充する有能人材を輩出したことで危機をうまく乗り切ってきました。
上記の通り藤原氏は位階制度確立によって家柄だけで貴族社会内での長期政権を維持してきたものではありません。
ところが、官僚期構内の実務能力に秀で宮廷内権謀術数に通じていた強みが、別世界で実力を蓄えた武士層の勃興に対応するには処理能力の限界がきて、ついに保元〜平治の乱では主役が武士に移っていき、王朝政治自体が力を失っていくのと並行して藤原氏自身も天皇家同様の儀式要員に下がっていくのです。
以上、古代から平安時代末までを見ただけでも日本の場合、身分制度が地位を守った歴史がなく実力次第の社会でした。

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