日本で身分制度があったのか?1

日本の場合、古代から固定した身分差別らしきものがなかった・能力次第の社会でした。
欧米の真似をして江戸時代には士農工商の身分差別があったと図式化して教えてきた・・フランス革命を金科玉条のように崇拝して日本は約百年後の4民平等化だったので、日本社会はその分遅れているというのが、私の習った戦後教育でした。
この数十年ほど江戸時代文物(文化の担い手は庶民であったこと=庶民レベルが高かった)の見直しが進んでいるのは、喜ばしいこととです。
徳川政権を倒した明治政府にとっては前時代を悪く言いたかった気持ちもわかりますが、江戸時代に限らず日本は古来から実力次第でした。
古くは地下人と蔑まれていた武士が実務能力に応じて荘園貴族を押しのけて支配層にのし上がれたし、中世以降武士層がトップに立ったとは言え、その他職業人との身分格差も能力次第で流動的でした。
そもそも平安貴族の源流である藤原氏自体が、古代大和朝廷では蘇我、物部や葛城その他諸豪族の列にさえ加われない中級官僚(祭祀官)でしかなかったのが、(私の見るところ、官僚的能力に秀でていた?)能力だけで頭角をあらしたものです。
氏族制度に関するウイキペデイアの説明です。

氏姓制度の基盤は、血縁集団としての同族にあったが、それが国家の政治制度として編成し直された。その成立時期は、5~6世紀をさかのぼらない。同族のなかの特定の者が、臣、 連、伴造、国造、百八十部(ももあまりやそのとも)、県主などの地位をあたえられ、それに応ずる氏姓を賜ったところに特色がある。各姓は以下のごとくである。
臣(おみ)
葛城氏、平群氏、巨勢氏、春日氏、蘇我氏のように、ヤマト(奈良盆地周辺)の地名を氏の名とし、かつては大王家と並ぶ立場にあり、ヤマト王権においても最高の地位を占めた豪族である。
大伴氏、物部氏、中臣氏、忌部氏、土師氏のように、ヤマト王権での職務を氏の名とし、大王家に従属する官人としての立場にあり、ヤマト王権の成立に重要な役割をはたした豪族である。
伴造(とものみやつこ)
連とも重なり合うが、おもにそのもとでヤマト王権の各部司を分掌した豪族である。弓削氏、矢集氏(やずめ)、服部氏、犬養氏(いぬかい)、舂米氏(つきしね)、倭文氏(しとり)などの氏や秦氏、東漢氏、西文氏(かわちのふみ)などの代表的な帰化人達に与えられた氏がある。連、造(みやつこ)、直(あたい)、公(きみ)などの姓を称した。

上記の通りヤマト王権成立時に、徳川政権でいえば関ヶ原で味方した外様大名クラス・いわば元同輩であった群雄がオミ(臣・・葛城や蘇我氏など)であり、大臣(おおオミ)とはその中の上位者という意味でしょうか?
もっと詳しく言いえば、むかしNHKドラマ、「天と地と」で見た程度の知識ですが、上杉謙信が越後国中の諸豪族をまとめていく過程を当てはめれば、全国的な王権成立の前に足元の大和盆地周辺を統合する過程で服属した諸豪族がオミであり、諸豪族の中でも勢力の大きい豪族を大おみといったのでしょう。
連(むらじ)は、徳川でいえば譜代の臣に当たるものであり、中臣氏もそのグループです。
中臣とは大和王権の内部の臣という意味に読めます。
徳川時代が続くと、外敵と戦う必要が薄れるので外様大名は石高(戦力)が大きくても、日々の政務に関する役職がないお客様になっていたように、ヤマト王権が続きヤマト王権が列島内の外敵と戦う必要が減少すると武力を持った諸豪族の協力必要性が減少するので宮廷官僚の地位が自ずと高まります。
(その後白村江の戦い以降、列島から朝鮮半島に海を渡っていき戦う国策がなくなりました)
徳川家内でも天下取りに貢献した彦根の井伊家のような大大名は飾りとして上位に置かれていただけで実務は10万石前後の中小大名が老中として仕切り、さらにはもっと小身の田沼意次のような側用人政治(実際にはその後数万石の大名に取り立てられて老中首座になりますが)になって行ったのと同じです。
実務官僚?中臣鎌足が大化の改新で頭角を現したのは、こういう流れ(豊臣政権での石田三成も同様でしたが秀吉がすぐに死亡したので明暗が分かれたというべきでしょう)で理解すべきでしょう。
藤原氏は、一旦獲得した政権中枢への距離を位階制度や身分制度によって権力を維持できたのではなく、ひっきりなしの権力危機に見舞われながら、その都度実務能力の高さによってうまくかわすのに成功したので長期政権を維持できたにすぎません。
藤原氏は天智天皇死亡後の壬申の乱では滅ぼされた近江朝廷(天智天皇の子供)に近かったので(上記石田三成と立場が似ています)政権との距離に関して一時危機に瀕しますが、持統朝(も権力機構維持に必要な組織運営能力に秀でた藤原一門登用が必須であったと思われます)以降巧みに権力扶植に成功します。
ところが、すぐに強力な政敵長屋の王が台頭したことにより最大の危機に見舞われますが、長屋の王をうまく陥れますが、直後藤原4兄弟が天然痘だったか?で相次いで没後には、すぐに藤原広嗣の乱(天平 12 (740) 年9月)で、朝敵になりその後も光明子以降権力確立後も恵美押勝の乱(天平宝字8年(764年)9月)やその他しょっ中危機がありながら(4家に分立していたことが安全弁になっていたようです)その都度補充する有能人材を輩出したことで危機をうまく乗り切ってきました。
上記の通り藤原氏は位階制度確立によって家柄だけで貴族社会内での長期政権を維持してきたものではありません。
ところが、官僚期構内の実務能力に秀で宮廷内権謀術数に通じていた強みが、別世界で実力を蓄えた武士層の勃興に対応するには処理能力の限界がきて、ついに保元〜平治の乱では主役が武士に移っていき、王朝政治自体が力を失っていくのと並行して藤原氏自身も天皇家同様の儀式要員に下がっていくのです。
以上、古代から平安時代末までを見ただけでも日本の場合、身分制度が地位を守った歴史がなく実力次第の社会でした。

江戸時代までの扶養2

 

産業の中心が農業の場合、一家の労働力が増えてもその分の食料生産の増加もありません。
耕作地が一定の時代には、労働力が二倍に増えても収量は殆ど同じですから、経営効率としては家族構成員が少ないにこしたことがありません。
商店でも企業もこれ以上従業員を増やしても売上や生産が伸びないとなればそれ以上の従業員はいりません。
親夫婦の外に弟妹を養う余裕のない限界農家(・・庶民の大多数・・自分の親でさえ養いきれずに姥捨てをしていた時代です)の場合、跡を継いだ長男一家としては一家構成員が増えると消費者が増えるだけとなって死活問題です。
弟妹が外の世界で正規の職に就けようと就ける見込みなかろうと一定年齢に達したら家に残せなかったことが多かったでしょう。
ヘンデルとグレーテルの物語のように、子供が森で自活出来るかどうかが森に捨てる基準ではあり得ませんし、これは現在の企業にとって余剰労働力を解雇する場合、その労働者が次の職を探せるかどうか知ったことではないのと同じです。
力のある大手企業の場合、関連企業への出向制度などがありますが、これは江戸時代当時でもどこか養子口を探しあるいは奉公先を探してくれる能力のある人がいたのと同じです。
ですから、江戸時代まで兄弟姉妹とその一家が同居しているような大家族制が(一部裕福な家庭を除けば)庶民一般で現実に存在していたものではありません。
江戸時代に郷里を出たものの多くは、生活出来る見通しがあって押し出されたのではなく、兄(跡取り)が弟妹を食わせられないから押し出しているのですから、(彼らが家を出ればたちまちに食い詰めることが目に見えていながら(一定の資金を渡したでしょうが・・)郷里から追い出す以上は・・・江戸からの追放刑と同じ効果で、知らない世界でロクなことをしない前提となります。
仕事もないのに郷里を出て行った弟妹が犯罪を犯しても、連座責任をとらないで済ますためには、除籍してしまい無宿者にするしかなかった時代です。
(出先で死亡しても引き取り義務を免れるためにと説明されていますが、実は連座責任を免れる目的とは書けないので、上記のようにわざわざ無宿者扱い・・人別帳から消していたのです)
December 23, 2010「親族共同体意識の崩壊(盆正月の帰省)」その他でこれまで繰り返し書いていますが、いざと言う時にはいつでも跡継ぎとして声がかかるように盆暮れに毎回帰って来ているのが普通でしたが、(そのコラムで書きましたが、その頃特に信仰心があった訳ではりません)引き取り義務その他後難(何かあった場合連座責任制などあったからです)を恐れて、公式には行方不明として檀家寺の人別帳から抹消しておく習いでした。
出先で彼らが犯罪を犯しても無関係どころか、死亡しても引き取りたくない・・死者の弔いは当時としては最低の義務(だった筈)ですが、それさえもしたくないと言うくらいですから、跡を継いだ長男が外へ出て行った多くの弟妹どころかその家族全員(明治以降は弟妹も出先で結婚する時代になりました)の生活の面倒を見るようなことは、論理的に無理があり、例外中の例外で勿論義務ではありませんでした。
上記実態から見ると、江戸時代には跡継ぎ・・家計の主宰者は、家(ここでは具体的な建物の意味です)を出て行った彼らの生活の面倒を見るべきとする思想もなかったし、勿論扶養の義務を認める制度まで作るようなことはあり得なかったことになります。
この時代には、扶養は出来る限度ですれば良い・・どこまで面倒を見るかは親や子の情愛に委ねていて、家族に対する扶養「義務」などはまるで予定していなかったことになります。

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