裁決=立憲主義違反?5

民主党等の立憲主義違反主張は、「強行採決することが立憲主義違反」と言うのであれば、形式的に見れば全員同意して採決しないと憲法違反と言うことでしょうか?
それでは、少数派が反対さえしていれば永久に新しい法律が出来なくなる・・そんな組織体(民間団体でもどこでも)は憲法を持ち出さなくとも不合理過ぎて子供の議論(クラス会でも?)にさえなりません。
これに対して実質論を言っている・・「永久にとは言っていない・・常識的議論を尽くしていないから」立憲主義違反というならば、実質論ですから、強行裁決を一義的に立憲主義違反と決めつけてマスコミが大きく報道していることが、ミスリードだったことになります。
報道がおかしいと持って枝野幹事長の意見を見ると以下のとおりです。
http://blog.nilch.net/neko/51206.htmlによれば以下のとおりです。

「政府・与党が安保法案の採決を15日の衆院安保特別委員会で行う方針を固めていることに対し、
民主党の枝野幸男幹事長は、14日「政府の安保法案は(自民党政権で)自分たちが長年積み重ねてきた憲法解釈を勝手に都合よく変えてしまうという意味で立憲主義を破壊するもの」と改めて法案の前提とした解釈変更そのものに問題があることを指摘した。
そのうえで、枝野幹事長は「民主主義は単純多数決ではない。一定の共有を見ながら物事を決めていく、
みんなで物事を決めていくのが民主主義。議論すればするほど反対が増え、国民の圧倒的多数が説明不足と言っている状況で採決することになれば、民主主義の否定でもある。立憲主義と民主主義の双方を否定する、
近代国家自体を破壊する行為で到底許されるものではない」と厳しく政府・与党の姿勢を問題提起した。」

上記によると「十分な議論を尽くしたか」と言う良識の範囲の主張だったことが分りますが、これによると、採決拒否したのは(本来は憲法の精神違反にあたるが今回は特殊事情があるの)憲法違反にあたらない・・相手に権利の乱用があるから已むなく拒否したのだとの言い訳論になります。
裁決拒否は代議制民主主義を前提とする憲法ルール違反で許されない前提の議論ですから、私の意見とほぼ同様ですが、拒否はやむを得ないと言う言い訳は主張立証責任が外形的憲法違反行為をした方にあるので、一方的に相手が違反だと言うだけではすみません。
「どうすれば良識運営だったか」は立法府の裁量行為・委員会で決めるべきとして憲法規範解釈で争いのないことです。
三権分立の精神から司法権は議会運営の妥当性には介入出来ないのは当然です。
枝野幹事長は(弁護士ですからこの程度のことは知っている筈です)の発言は、具体的主張立証を予定しない・言いっぱなしの無責任発言となります。
限定報道を断定報道のようにマスコミが拡大報道してくれたらいいという読みが成功したのでしょう。
ちょうど慰安婦報道をマスコミがキャッチボールのように拡大して行ったのと同じやり方です。
審議拒否した方が原則として憲法違反だろうと言う私のような厳しい批判があれば、枝野氏は、そんなことは言ってない・・マスコミが勝手に誤解報道していたと言うつもりでしょう。
特別委員会の議事進行手続が濫用的だったと言うだけならば、昔から言われているとおり「丁寧な議論を求める」と言えば良いことで、難しそうな「立憲主義違反」と別の概念を持ち出す必要がありません。
野党の方がマトモな議論に応じていないで「早く質問しろ」野次られるくらいで「丁寧な議論を求める」と内容で勝負出来なくなったから、立憲主義違反などと言い出したのではないでしょうか?
簡単に誰でも分るような無茶過ぎる議論が「立憲主義違反」と言う有り難そうなお題目に切り変えて唱えれば、マスコミを賑わし、問答無用式に自己主張が正しいかのような印象を振りまいています。
多くの国民が何かおかしいな?と思ってもうっかり疑問を出すと「お前は立憲主義も知らないのか」と批判されそうで、みんなが黙ってしまう効果を生んでいます。

国会議決=立憲主義違反?4

法適用時の具体例は、事例集積や常識で決めて行くべきことで、このための判例や許認可の事例集積があるのです。
そう言う具体論は具体的事件に応じて(警官の発砲が違法だったか合法だったか)裁判で判断して行くべきことです。
これを逐一判例全部議論して行かないと採決出来ないと言うのでは、1つの法律を作るだけで司法試験の勉強以上に時間がかかってしまいます。
食品関係の衛生基準のように国民が前もって知っておけば有用な細目でさえそうですが、集団自衛権行使基準のような軍事機密・まさに軍事機密の最重要部分を国会で予め公開で議論すること自体に無理があります。
この場合はどうだと言う細かな架空の想定事例ごとの具体的議論が重要と言う野党の主張自体、法制定の一般ルールに反した主張になっています。
これに応じないと立憲主義に反すると言うならば、立憲主義のお手本になっている文化人得意の「欧米では・・」と言う欧米の法制定時の議論状況をどうして出して来ないのでしょうか?
アメリカの海兵隊創設時にどう言う状態になれば、反撃するようになっているかなど議会で予め議論している国はどこにもないと思います。
NATO創設時などの条約審議で、どう言う場合どう言う応援するのかの細かな議論をしていた国があるでしょうか?
ソモソモ日米安保条約の相手方アメリカ自体が、どう言う場合に日本の防衛に巻き込まれるか・・尖閣諸島で何が起きたらどうかとか、宮古島の場合はどうかなど具体的議論を前もって条約締結前に議会で議論しているとは思えません。
またその議事録があれば、中国関係で緊張したときに日本は「尖閣諸島が防衛対象になる」とアメリカ政府の言明を求める必要がなかったことになります。
要するに立憲主義と言う訳の分らないお題目の基に政府批判していますが、どこの国でもやっていないことを日本の学者?だけが、勝手に創作している概念ではないでしょうか?
(立憲主義の概念自体はあるでしょうが、運用の具体的場面まで議論しないと立憲主義に反すると言う無理さ加減を書いています)
彼らによれば、強行採決も立憲主義違反と言うようですが、彼らの言う立憲主義の定義がご都合的過ぎて意味不明ですが、代議制民主主義とは選挙で選ばれた代議士が手続に従って議論を尽くした後に採決してその結果に従う・・これが後に憲法に違反していると裁判所で判断されれば、効力を失うと言う制度です。
最後の採決に反対することが許されるのでは、国会の機能が果たせませんから、代議制民主主義制度に明白に反する行為・・憲法違反行為であることは確かです。
強行採決することが立憲主義違反と言うマスコミのフレーズ自体が、合理的理解不能です。
憲法上国会は採決を禁止しているとでも言うのでしょうか?
彼らの言う立憲主義とは架空の憲法を前提にしているのでしょうか、あるいはどこかにそう言う憲法を実際に持っている国があるのでしょうか?
19日に紹介しましたがもう一度再掲しておきます。
日本国憲法
第五十六条  両議院は、各々その総議員の三分の一以上の出席がなければ、議事を開き議決することができない。
2  両議院の議事は、この憲法に特別の定のある場合を除いては、出席議員の過半数でこれを決し、可否同数のときは、議長の決するところによる。

強行採決と言う熟語自体が奇異ですが、採決とは元々この辺で議論を打ち切って採決する・・その効果に強制的に従わせる意味があるのではないでしょうか?
一般的に議長・委員長等の議事主宰者がこれから採決に移りますと宣言して行なうのが普通であって、構成員が一人でも採決に反対すればこれに応じないと言う主張自体が非論理的主張です。
議論を尽くしても対立がまとまらないときには、ちょっと角が立つけれども「ここから先は採決で決めます」と言うときには、強行性があるものです。
裁決と言うのは、元々強行性を持っていると理解すべきであって、強行採決が立憲主義に反すると言う意見自体・・一人でも法案に反対していると永久に法律が作れないと言う意見自体が憲法に反しています。
裁判の「裁」は元々裁断すると言う強行性を持っている言葉です。

原理主義による支配2(恐怖政治1)

習近平氏による恐怖政治の可能性・持続性ですが、中国(韓国も別に書く機会があれば書きますが・・)の民度では、そもそもいろんな意見が並列する社会で利害調節する政治をするのは無理があると思われます。
恐怖政治・・テロの打ち合いが長続きしない社会とは、ある程度民度が進んでいる社会であって、民衆の方がテロの打ち合いに嫌気をさしてみんなで彼らを追い出す方向へ向かう場合です。
イギリスのクロムウエルやフランスのジャコバン政治はすぐに国民の支持を失ってしまいました。
中国や韓国あるいはロシアのような民度の場合、テロの打ち合いをやるだけやっても国民が蜂起しない・・その結果誰かが最後に恐怖政治の頂点・専制君主や共産党トップの独裁者の地位を確立することになります。
中韓のような民度の場合元々譲り合いが出来ない社会ですから、ややこしい利害調節よりは、おっかない権威が1つだけあってピラミッド型にびしっと服従する体制の方が分りよくて居心地が良い・・社会かも知れません。
後進国では独裁制が似合う・・これしかないと書いて来ました。
利害調節型社会の政治闘争とは、利害調節を政敵よりも上手に調節して人心をつかみ、トップに躍り出ることを目的にする政治闘争の社会です。
これに対して恐怖政治下ではトップを窺う姿勢を示すと直ぐ粛清されますから、そんなことは出来ませんし、不要な能力となります。
調整能力があること・・ちょっと芽を出しただけで、危険人物視されてしまい、出世競争の相手がご注進に及ぶ告げ口によってさっさと粛清されますので、生き延びる智恵としては自分が御注進・告げ口する方に回るしかありません。
専制政治や恐怖政治社会では、社会を良くする方向への知恵を働かすのはむしろ危険で専制君主・独裁者に対する忠誠心競争・・・・負けたら獄入ですから競争相手を如何にして蹴落とすかに腐心する権謀術数の限りを駆使することになります。
スターリンのように恐怖・専制政治が確立するとその王朝下でトップの権威を争う・・取って代わる可能性のある政治を出来ず、忠実な臣下・部下として気に入られるための出世競争をするだけですから、こう言う社会では社会の変革や経済発展は殆ど期待で来ません。
恐怖専制政治下では、いかなる高位高官・・大官といえども、朝出仕したらその日の君主のご機嫌次第で、いつクビチョッパーされるかの心配が100%ですから、国家の命運などは二の次三の次の関心です。
こうして上から下まで、データや報告は都合の悪いことは出来るだけ伏せる・・良いことは多めに報告する・・これが専制政治下にある王朝や独裁・共産主義国家の普通の姿です。
ソ連経済は虚構の大発展発表ばかりだったことが崩壊後明らかになっています・・・・。
共産党政権下の中国でも経済が解放されてみると、それまでの大躍進の発表はまるでインチキ何千万人も餓死していた大失敗だったことが分りました。
最近の高度成長の発表も、実はかなりの水増し発表の繰り返しであることが知られるようになって来ています。
政府発表に始まって、世の中全て噓で塗り込められている社会では、庶民に至るまで何から何まで噓ばかりになるのは、仕方のない社会道徳になります。
・・その結果王様も情報から裸であることに気がつかない哀れな存在になります・・裸の王様の寓話のとおり、ソ連末期にゴルバチョフが必死になって実際の経済状況を把握しようとしても官僚が従来通りの報告を上げて来るばかりでどうにもならなかったと回顧録か何かで述べているようです。)
思想の自由がないと新たな発想が生まれないと言う高尚な視点で言えば、一神教のキリスト教が国教化=自由な思考禁止された後のローマが停滞し、これを引き継いだ西洋中世は暗黒の時代と言われて殆ど進歩がありませんでした。
宗教改革・・宗教戦争が終息・・違った価値観を相互に認めあいましょうとなって、初めて産業革命期に入って行ったことになります。
思想の自由のないソ連の宇宙科学が一見発展したかのように見えるのは、アメリカの宇宙科学を必死にスパイして作り上げたものと言われていますし、中国の核兵器や宇宙開発も同様です。
独自性のない国家がどこまで真似しても世界トップになることは出来ません。

原理主義による支配1

日本人は本来の意味での無宗教ではなく、日本教とも言う強烈な宗教意識がありますが、西洋人に聞かれて答える無宗教とは、西洋流儀で言う宗教=1神教的排他的価値観を持っていない・・「私の考えは柔軟ですよ!」と言う程度の意味でしょう。
日本では、佛教徒やキリスト教徒その他あわせると人口の何倍・・何億人もいると言われますが、これは世俗的意味の宗教なら何でもありと言う程度のおおらかな気持ちを表しています。
お宮参りは神社で、結婚式は神道やキリスト系教会で、葬式は佛教で行ない、キリスト教のクリスマスを祝い、便利でありより良い知識・文化・芸術であればなんでも良いのです。
佛教導入を宗教心によるかのように扱い、蘇我対物部の氏族戦争を宗教戦争のごとく歴史で習いますが、3月1日に書いたように謙信と信玄の戦い同様に、どちらがどちらをよりどころにして戦ったかの違いでしかなかったのではないでしょうか?
佛教の本格伝来前に、よく分らない宗教のために命がけで戦う必要性が分りません。
勝ち残った最大豪族感の最終決戦・・・関ヶ原の戦いのようなものがあって、これに新知識導入論と反対派が絡んだと見るべきでしょう。
これもきっちり物部氏が保守だったとは言い切れません。
信長が鉄砲を大量に使って、武田軍団を破ったと習いますと、如何にも武田勢が保守的軍装備だったように見えますが、大人になってみると、武田家も銃の導入に必死だったのですが経済力で信長に叶わなかったと言うことらしいです。
モノゴトは程度問題と言うことがいくらもあるもので、物部氏が佛教に結びついた新兵器導入競争で蘇我氏に負けただけだったかも知れません。
今の日本では一神教・西洋的宗教関係者・・佛教系であっても特定価値観にこだわる人の方が、日本では不思議な人・・危ない人かな?と思われているでしょう。
西洋的宗教観・・1つの価値観が正しいと言う思い込みに毒されている人の中でより純粋信者=原理主義勢力・妥協を許さない勢力が「運悪く」政権を掌握した場合、民主的=利害調整的政治をすることは、その主張自体からして不可能です。
言わば軍事政権や独裁政権よりももっと、民意など気にしていられない・信教の自由は認められないと言う開き直り形態がホメイニ師の掌握したイラン革命後の政体でした。
原理主義勢力の政権が仮に出来ると、軍事政権よりも非妥協・恐怖政治になります。
テロ組織「イスラム国」が支配地域で無茶苦茶な恐怖政を布いていると報じられているのは、その典型的現れです。
先ずは、間違って支配地を確保してしまったものの、どうして良いか分らず、無茶苦茶非合理な暴力支配するしか能力がないでしょう。
日本の連合赤軍浅間山荘事件やフランス革命時のジャコバンの恐怖政治等の歴史でも分りますが、彼らは非妥協が本質ですから、支配地域の内政での利害調整に苦しむどころか、その前の自分たちの権力内闘争についての利害調整・収拾能力もありません。
ちょっとした微細な意見相違でも、すぐに内ゲバを始めてテロ活動で経験済みの凄惨な殺しあいに走ります。
これが始まるとやられる前にやるしかないと言う疑心暗鬼に陥り、血で血を洗う内部抗争が始めるしかないのですが、時間の経過でいわゆる「内ゲバ」に明け暮れることになり、この罠から逃れられない限り早晩自壊するのが普通です。
1強体制を早く作り出した方がこの内ゲバを収拾出来、その結果、恐怖体制を布くのに成功したのが、スターリンで、粛清に継ぐ粛清体制で収容所列島と言われていました。
要するに専制君主よりもっと強圧的恐怖政治を敷いていたのです。
粛清と言う特殊用語が我が国で定着したのは、スターリンの政治手法が伝わったことによります。
現在この真似をしているのが習近平政権ですが、政敵全部を粛清してしまえるか否か・・食うか食われるかのギリギリの攻防をしているところでしょう。
うまく行って政敵を倒して恐怖政治を確立してもこれでは人心がついて来ないのと、ソ連時代と違い中国は世界に開放(国民は解放)されてしまっているので、(有能な人はいくらでも海外に逃げられます)ソ連のような収容所列島と言う訳には行きません。

原理主義の本籍(非妥協性)4

アラブ諸国では欧米的価値観よる侵蝕・社会風潮の変化に対して危機感が生じてテロが発生していますが、欧米先進国では、人権擁護精神が進み過ぎてこれに不満を持つ出遅れ組に自家中毒症状が出て来つつあるように見えます。
根っこ・・変化に抗いたいと言う心情に立脚している点では、アラブ諸国の不満と同根です。
・・例えば、移民(外国で移民=異教徒です・・この辺を日本人は見落とし勝ちです)優遇し過ぎるとこれに対する(基礎が一神教ですから、違う価値観を認めようとする合理精神の進行について行けない心情の持ち主は一杯残っています)不満が起きて来て1〜2年前のノルウエーだったかでの乱射事件に繋がります。
弱者・少数価値観保護・救済は、冷静・理性で考えればその適用範囲を拡大すべきですが、何事も過ぎると人心(根深い一神教価値観・心情)がついて行けなくなって、逆に排撃運動に発展することがあるので、善意でさえあれば良いものではありません。
改革は良いことであっても急速なことをしないで、(時間のかかる心情変化に合わせて)ジリジリと改善して行く方が安定的で合理的です。
急成長期の中高校生では、内部矛盾・精神葛藤が起きますし、企業や国家で言えば、急成長は華々しいですが、実は内部矛盾・・総務系人材が足りなくなるなど・・を多く抱え込むことになります。
左翼が躍進すると反発する右翼が発展するように、必ず反作用が起きます。
調整能力不足社会に話題を戻しますと、バルカン半島の旧ユーゴではチトー大統領と言う傑物がいなくなると、統一が保てなくなって(ボス二ヤヘルツエゴビナ・クロアチア・コソボ自治州)四分五裂して血を血で洗う大紛争が起きました。
世界の火薬庫とかバルカン政治家とか、バルカン化と言う否定的表現が一般的ですが、異民族・1神教同志の異宗教、モザイク型雑居状態が、異民族間で妥協し難い政治風土を作っていることが主たる原因ではないでしょうか?
今後世界中で異民族・基礎宗教の違う民族のモザイク型雑居が進むと、よほど調整能力の巧みな民族同志以外では、利害調整が困難になり、バルカン化は特異な事例ではなく、学ぶべき悪しき先進事例となって行く可能性があります。
私の年来の意見によれば、異民族モザイク型雑居は良くない・・社会運営を困難にするだけだと言うこと・・移民受入れ反対論に繋がります。
少数の人が徐々に移民してくれば、必要に応じてその移民先に溶け込んで行きます。
しかし、一定量が大量に移民して来ると現地にとけ込むよりは自分達で先に固まるので、自然とその固まりが現地住民生活習慣に馴染まないままになります。
日本人は「郷に入りては郷に従え」と言う精神で、現地に溶け込むことを優先していて、行った先で日本人街を作りませんが、中韓両国が中国人街やコリアンタウンを作りたがるのはこの逆バージョンです。
これからの時代、世界進出して現地に融合するならば良いですが中韓のように、行った先で自分のコンミューンを作るやり方は嫌われるでしょう。
ゴロゴロとした固まりになって異民族=異宗教徒が住むと違いを強調したがる結果、長期的にはきしみが生じるのは当然の結果です。
民度が調整型社会に至っていない場合、またはバルカン半島のように異民族モザイク型雑居の場合、王制または軍事政権に代表される強力指導者または宗教原理主義が必要なことは世界の歴史が証明しています。
皮肉なことですが、民度の低い地域では圧政・圧迫こそが、民衆が一々他人のことにケチを付けず(子供が怖い先生に叱られるのが授業中怖くて黙っているようなものです・・実際中高校の生徒指導は体育系教師が中心です)仲良く暮らせる合理的装置です。
この段階まで行かない民族にアメリカがおせっかいに、圧政は良くない、自分たちで決めなさい・・と民主化を強制するのは間違いです。
我が国では・今でも無宗教と答える人が多いのは、佛教伝来と言っても文化や知識吸収源・方法としての役割しか期待していなかったこと・・、古代から調整型社会で来たから特定価値観の強制を嫌う社会であったからです。
宗教と言うのは本来苦しい庶民から広がって行くべきものですが、我が国の場合官製輸入知識・・国費をかけた留学僧が輸入して来たことからもその本質が現れています。
国分寺・国分尼寺は今の国立大学を各地に作った・教育普及思想として位置づけするのが正しいでしょうし、この意味のことを大分前にこのコラムで書きました
キリスト教が大名層から広がった・・熱心だったのも、西欧の武器技術等の輸入願望が下地でした。
排他的宗教を強調した日蓮聖人が迫害されたことを2015-2-23「原理主義と利害調整3(成熟社会1)のコラムで書きましたが、人の意見を受入れない人は嫌われます。

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