班田収授法と新田開発

 

律令制・班田収授法崩壊の端緒として、新田開発をさせても私有を認めないとやる気が起きないので三世一身の法が出来たとか墾田永世私財法が出来たと言われますが、政府が何故開墾に熱心だったかの疑問は、新田にしか口分田を適用出来なかったからだとすれば理解出来ます。
元々耕すべき農地を持っていない農民がいれば生活不能ですから、それは既に農民ではなく、浮浪者・・山賊集団みたいな形でしか生きて行けない社会です。
政府は元々配ってやるような余った土地を持っていないし、仮にあって農地を新たに配ってやると言っても、健全な農民は自分の耕すべき農地を持っていて貰った土地を耕す余力も意欲もないことになります。
そもそも農民は自分が食うためにはいつも真面目に働くものですが、政府への協力事業として郡司や有力者からから命じられて開墾に従事する農民・・そして口分田を貰えたとしても彼らにとっては、一種の借り物みたいな農地のに過ぎず自分が死ねば、クニに返すことになるとすれば、元々の自己所有農地を大事にして政府から貰った土地はお義理で耕すだけになるのは当然です。
律令制施行とは言っても既存の農地には手を付けられずその成否が新田開発の進捗状態にかかっていたから、政府は新田開発に熱心だった(開発しないと配るべき農地がない)し、これが永世私有になったのでは公有の区分田の供給が出来なくなり、ひいては律令制崩壊と言うことだったのではないでしょうか?
もしも班田収授法が完全に施行されていた(全領地没収)ならば、仮に私有を認めるようになったのが律令制施行後20〜30年に過ぎなかったとしてもその間に地方豪族の経済基盤が消滅していた筈ですから、豪族が大勢を使って開墾事業を行う資力・統率力など残っていなかったことになります。
戦後の農地解放の例を見ても分りますが、農地解放後直ぐに旧地主の経済的疲弊が進み、元の使用人を維持出来ず殆ど全部を解雇してしまいましたので、2〜30年も過ぎた昭和50年代になれば、(私は既に弁護士をしていましたが・・・残っていたのは元の格式を現す門と塀くらいでした)最早何らかの政治力を持つ特定階層として存在せず歴史で習う程度の存在になっていました。
古代と戦後とは時代進行の早さが違うこともありますが、寿命の短さから見れば、逆に古代の方が2〜30年も経過すればかなりの昔のことになっていた可能性もあります。
いろんな解説を読んでも、律令制が骨抜きになって行く経過として、開墾を地方豪族に請け負わせて、その代わりに三世代だけの私有を認める三世一身法(養老7年4月17日(723年5月25日)その内に墾田永年私財法(天平15年5月27日(743年6月23日)で永世私有を認める方向になって行き、荘園が発達したと説明を受けますが、その前提として大規模事業を請け負えるだけの配下人員や経済力を持つ豪族が何故全国あちこちに存在したかの説明がありません。
墾田永年私財法には寺院や親王など身分によって、保有出来る農地の規模を規定した部分があります。

「其親王一品及一位五百町。二品及二位四百町。三品四品及三位三百町。四位二百町。五位百町。六位已下八位已上五十町。初位已下至于庶人十町。但郡司者。大領少領三十町。主政主帳十町・・」

これらは自分で耕作しない人たちですし、しかも何百町歩もの広さは個人や親族で耕作出来ないことが明らかですから、彼らの保有を制限する限度を規定することは、彼らが既にこれだけ保有出来る配下人員を抱えていることを前提にしていることになります。
以上によれば、律令制施行にも拘らず地方豪族がなお隠然たる勢力を維持し続けていたことが分ります。

班田収授法が完全施行されたのに、その後に骨抜き穴だらけになって行ったのではなく、当初から出来る限度で始めて次第に施行範囲を広げて行くつもりだったのが、途中で形勢逆転・・私荘園が増えて行くようになったと見るべきでしょう。
新田開発値を朝廷所有にしようとしたのが失敗しただけのことになります。

班田収授法の対象地

 

郡司から全領地を取り上げる(計画すら)出来ずに、旧豪族には既得権として一定領域の荘園(不輸不入の特権)の保持を認めて一部だけを解放させて国有化に協力お願いをするか、豪族の領地人民は全く手を付けずに、領内の人民登録・名簿の提出を求めて、名簿の数に割当てた賦役・納税を郡司に義務づけたくらいが関の山だったのではないでしょうか?
口分田・・土地の割当をすると簡単に教科書に書いていますが、その前提としての土地面積の測量・地番の特定等は明治時代でも大変な作業でしたから、これを短期間に全国的に実施出来たと見るのは無理です。
国家が土地の特定をして帳簿に登録する作業・・今で言えば登記簿作成作業については、09/09/09「旧登記法制定と戸長からの分離コラム」前後で紹介しましたが、地形や面積を特定しその位置関係を特定する作業は大変なことで、明治になって登記法が出来たのは漸く明治19年のことでした。
その後、土地測量の正確性確保のために今でも営々と(一筆調査と言って)測量が続けられている状態ですから、如何に土地の特定が困難な作業かが分るでしょう。
これだけ困難な事業を、古代に(まだ文字すら万葉がなを使い始めた程度の時代・・しかも紙もなく木簡竹簡の時期ですから、図面など作れません)に短期間に全国で仕上げたなどと想像すら出来ないことです。
いわゆる太閤検地すら歴史に残る大事業として普通の教科書に紹介されている有名な歴史事件です。
租税目的の太閤検地は測りっ放しで終わりですが、古代の班田収授法の時には土地特定後の口分田の割当作業・・・羊羹のように切り分けることも出来ずとても複雑な作業になりますが、全国農民に割り当て出来るほどの官僚組織もなかったし、記録する文字も未発達で紙すらありません。
コンピューターの発達した現在でも国民漏れなく帳簿管理して特定物を配給するのは難しいのですが、(年金の記載漏れ事件を想起して下さい)土地のような輪切りの出来ないものを切り分けて分配するなど、どうして円滑に出来たのでしょうか?
戦後何十年もかかって(重機を利用)実施した土地改良法による改良は、莫大な資金を投下して現在の条里制とも言うべき長方形の画一的な農地に作り直す作業でしたが、これは農機具を入れる機械化農業向けであってそれなりに経済合理性があります。
これに対して古代・農機具もマトモにない・・人力中心の作業環境で、莫大なコストを掛けて何のために四角い農地に作り直す必要があったか、それのコスト負担をどうしたかを考えても気の遠くなるような財政負担です。
実は一定規模以上の四角い農地を作るのは大変な測量技術が必要です。
水田は水を入れるので文字どおり水平に地盤を作らないと,浅いところと深いところが出来て、稲の生育に適しません。
ある稲苗が殆ど水没しある場所では殆ど水がないと言うような凹凸段差があるのでは困ります。
狭いところでは何とかなりますが、広くなると水平にするには一定の技術が必要です。
完全な班田収授法の摘用は、制度発足後新田開発を豪族に命じて、その分だけを理想通りの条里制にして国直轄の口分田にして行った可能性があります。
防火基準や耐震基準が出来ると、既存の建物には適用せずに新築分から適用するようなやり方です。
古代の租庸調は人頭税中心であったことを振り返ってみると、土地面積を基準に課税する前提がない・・地図もなければ測量技術もない時代であった実態が分ります。
また、人頭税を逃れるために、戸籍記載を逃れる浮浪者(無戸籍者)の増加が問題となり、男子が生まれても女子登録するなどがはびこっていたのは、間に郡司と言う有力者が介在しているから可能だったです。
各人が不正をするのは怖くて出来ないものですが、組織が二重帳簿を作るのは昔からどこでも簡単にあり得ることです。
徳川時代の大名の石高が、表高と実高で大きく違っていたのは石高に応じた各種負担・・結局は税を逃れるための智恵でした。
また租庸調逃れのために戸籍登録から逃れることが流行ったのは、裏返せば政府から農地を貰う必要性がなかったことが推測されます。
今考えれば税を逃れる代わりに農地を貰えなければ困る筈ですが、新田開発以外の既存農地はそのまま個人所有ないし豪族所有であったとすれば、くれると言われてもありがた迷惑だったことの説明がつきます。
耕すべき農地のないもの・・一種の失業者だけが口分田を貰うメリットがあったことになります。
現在は共働きなどがあるので5%失業と言っても一家で一人しか働かない時代に直せば2、5%失業以下ですが、昔は失業保険その他の社会保障システムがないので、失業=あっという間に飢え死にする時代ですから、完全失業者が5%もいたら大変です。
ですから農地のない一家があちこちのムラに数%もいたかどうかですから、この人たちだけが口分田配給で喜ぶ対象だったことになります。

徴兵制から健児制へ

桓武天皇の792年に、陸奥国・出羽国(対蝦夷戦が続いていた)・佐渡国・西海道諸国(まだ新羅からの襲撃の危険に備える)を除く諸国の軍団・兵士を廃止し健児の制が出来ます。
健児(こんでい)とは、兵士の中のグループみたいなもので、弓矢武術の訓練を受けたもの・・専門家?と言う意味の呼称でしたが、これが頭割りの徴兵制の強制によって消滅していたのが復活したのです。
以下は健児に関するウイキペディアの記事です。
「天平6年4月23日(734年)に出された勅には、「健児・儲士・選士の田租と雑徭を半分免除する」とあり、健児は元々、軍団兵士の一区分だったと考えられている。天平10年(738年)には、北陸道と西海道を除く諸道で健児を停止しており、これにより健児は一旦、ほぼ廃止することとなった。」
桓武天皇は士気の上がらない徴兵制から武術が好きで訓練を受けた専門集団・健児に切り替えるのですが、ちょうど坂上田村麻呂が活躍し始める時期(・・この頃は4人ほどいた副将軍の一人?)と一致しています。
対蝦夷戦の前線である陸奥国では徴兵制を残し、その他の国から遠距離出動させるにはコストのかからない少数精鋭の専門集団化を計ったとも言えます。
この健児の母集団は、戸籍からの徴発ではなく郡司の子弟と百姓のうち弓馬に秀でた者を選抜し、この指揮権を郡司の子弟に委ねます。
結局は郡司の支配下から郡司が健児を選抜してこれを訓練し、平時は(5人一組の)一隊を作って国府その他の警備に当たっていました。
郡司は自前の兵力の外に(実際には自分の配下から選抜して供出した)国の兵士も職務上支配下に置けることになっていたことになります。
人数も出ていますので一部紹介しますと「諸国ごとの員数は、山城30人、大和30人、河内30人、和泉20人、摂津30人、伊賀30人、伊勢 100人、尾張50人、三河30・・・・」となっています。
5人一組で年間60日の勤務と決まっていたので、6班合計30人でちょうど1年が回って行く勘定です。
後に1番の人数を半分(2〜3人)にしたりしていますが、これで24時間警備では、(国府の庁だけではなく税を集めた倉庫などの警備もあり、)ちょっとまとまった数の攻撃を受けるとマトモに戦える軍隊組織だったとは言えなかったでしょう。
国内は平和だったので国内戦闘用の軍・・個別の紛争はあったでしょうが、国単位、郡単位規模の規模の領土紛争的戦争要員は不要だったとも言えます。
上記の健児制の国では一般的徴兵制がなくなりますので、百姓の負担がはぐっと軽くなりました。
徴兵制が始まり健児の制に戻るまでの間、郡司(旧豪族)が大和朝廷成立時から擁していた元々の武力はどうなっていたかです。
この辺の消息がよく分らないのですが、もしも班田収授法が郡司の領土内にも100%及んでいたとすれば、郡司の領地没収ですから経済基盤が100%損なわれてしまいます。
班田収授法とは人民に対する版籍を全部朝廷に引き渡し、豪族が丸裸・・人民に対する支配権を何も持たないと言うことです。
実際には何らかの一生分のある程度の従者を従える程度の保障をしたでしょうが、その程度で完全実施出来たのでしょうか?
明治維新の時に版籍奉還した元大名には、警備要員以外の戦闘要員(私兵)が残らなかったのと同じです。
全国が郡司(旧国造)の支配下にあった筈ですから、もしも郡司支配下の農地は公田にしない・・班田収授法が全く及ばないとすれば班田収授法の及ぶ地域は制度施行後の新田開発地域しかなかったことになります。
また政治的にこれを見ても、地方豪族は何のトガもない・・朝廷に刃向かって戦争で負けた訳でもない・・戦わずして服属した元国造(一人や二人ではなく国内の豪族全部)が領地削減だけではなく100%領地没収を受け入れるとは思えません。
かといって豪族の版籍・支配権を全部放棄させるのは政治的に無理があったでしょう
むしろ朝廷の方が、白村江の戦争で負けたばかりで逆に弱い立場のときでした。
元々対外戦争に負ければ国内権力が弱体化するのは、どこの国でもあるいは古今を問わず例外のない政治現象です。
政権維持の危機に臨んで政権側では却って中央権力の強化が必要になりますので強化・引き締め策を実施するのは当然ですが、その外形だけ見て権力が最大強力時だったと見るのは間違いです。
政権内部で見ても天武天皇の後は女帝が続く不安的・権力空白期だったとも言えます。
関ヶ原で勝ったばかりの家康でも、敵対した島津や上杉、毛利らの大名全部を没収出来ず領地削減するのが漸くだったことを思えば、まして敵対していないどころか、白村江の会戦に協力していた国内全豪族から全領地を没収するなどイキナリ出来る筈がありません。
世界中で歴史上こんな芸当を出来た皇帝・大王は一人もいない筈です。
もしも断行出来ていたら世界史的大事件ですが、この辺を全く教科書で書いていないで(明治維新の版籍奉還は大事件として書かれています)律令制・班田収受法の施行ばかり教えられるところを見ると、この時期に全面的な版籍(領土・人民の管理権)没収は出来なかったと見るのが合理的です。

律令制(中央集権化)と徴兵制1

 

そこで律令制以降の軍制度がどうなっていて、それがどうして武士の勃興に繋がって来たかが気になりますので少し見ておきましょう。
徴兵制が貫徹すれば豪族の私兵は存在(両立)出来ません。
坂上田村麻呂が活躍したときの軍隊は豪族からの寄せ集めではなく、徴兵による軍団であったように見えます。
結局のところ、唐・新羅連合軍が攻めて来なかったので防人の活躍する場面がなく、徴兵制の効果があまり表面化していませんが(専門家は当然研究しているのでしょうが。我々素人には知られていないだけでしょう)一般的に知られている事例としては、蝦夷征伐で功績を上げた坂上田村麻呂の活躍が有名です。
彼は大豪族出身と言うのではなく、順次軍功を上げて昇進を重ねて(790年代から800年初頭にかけて)ついに征夷大将軍になって行ったに過ぎず、この過程で自前の兵を擁していた様子は見えません。
多分、朝廷支給の官軍の指揮命令がうまかった・・人望があったと言うことでしょう。
徴兵制が機能していた・・豪族の私兵は衰退していたのでしょうか?
7世紀中頃までの日本軍は国造の連合軍形式でしたが、新羅・唐連合に負けたので、日本列島の一体化・中央集権化ひいては軍の統一化の必要性を感じたのが大化の改新以降の方針です。
大宝律令(701年施行)では既に軍団制(国造軍ではない)が記載されているようですが、その前・・何時から軍団制になったかがはっきりしないようです。
徴兵制の前提として戸籍制度の完備が必須でしたが、天智天皇9年(670年)の庚午年籍、あるいは持統天皇の整備した持統天皇4年(690年)の庚寅年籍が基礎らしいです。
(明治の徴兵制も壬申戸籍の整備を待って始まったものです)
古代の兵制は、(養老律令の軍防令)唐の制度を真似したものだと言われますが、丁男(成人男子)3〜4人に一人を徴して各地軍団に編入して兵士としての訓練を受けさせ、3年が任期だったと言われます。(明治の徴兵制も3年任期でした)
成人男子人口の3分のⅠと言うと大変な数ですが、実際には兵役や人頭税(庸調)逃れのために戸籍記載しない人・浮浪者や男子でも女子登録(ある地域には男子が戸籍上3人しかいないなど極端な例があったようです)していることなどによって、実数はそれほどではなかったようです。
1つのクニにせいぜい1000人前後そろえるのが漸くと言うところでしたから、実際には暗黙の了解でうまくやっていたのでしょう。
軍団は郡単位で編成していたようで、しかも、軍の士官クラスは郡司層(の子弟)がなる仕組みでしたから、兵制が出来た当初は郡司・古代豪族の私兵から国軍制に名目が変わったただけの様子です。
軍団の定員は、200人以上1000人以下で平時は国司に属していたようですが、軍司令官は国司がなるのではなく専門職の大毅中毅小毅と言う士官があって、これが専門職だったようです。
600人以上の軍団は大毅1名と小毅1名、500名以下の軍団は中毅1名が率いたとありますが、その下には校尉が二百人を率い、二百長とも呼ばれます。
更にその下には旅帥が百人を率いて百長とも呼ばれ、隊正が五十人からなる「隊」を率いたので隊正は隊長とも呼ばれた。
火長は十人からなる「火」を率いた。火は兵の食事を作る火の単位・・1つの火10人分の食事を作るので言うらしいです。
各国ごとに軍団を形成し、大きな国では3〜4個の軍団があったと言います。
一個の軍団(・・実際百人単位)は国府所在の郡に配置し、その他は別の郡に配して訓練期間として順繰りに廻していたようです。
食料も弓矢などの武器も全部自弁で3年も拘束されるのでは誰でもいやですから、(先祖代々世話になっている主人のために戦うのではなく)中央からの命令でその一部は都の警備・・衛士になったり、防人になったり、あるいは見たこともない遠くの蝦夷征討軍に編入されるのでは士気が上がりません。

律令制完成と王朝政治1

 

国司は中央派遣の中下級貴族(いわゆる受領階級)ですが、中央の政争で鍛えられているので田舎の純朴な勢力間のもめ事をさばく能力は一頭地を抜いていた(権威に頼るだけで地元民の納得が得られないと逆に国司の地位が低下して行きます)のでしょう。
それでも朝廷の権威がある間は、国司の裁定・これが仮に一方への肩入れで不満・不公正でも引き下がるしかなかったのですが、公然と国司の権威に挑戦したのが承平天慶(935〜939)の乱でした。
地方で朝廷の権威が空洞化していたことが、公然となったので歴史的意義が大きいことになりますが、(それでも僅か2カ月で将門は討たれています)逆から言えば、それまでかなりの無理があっても朝廷の権威が維持されていたことになります。
この地方勢力の駆逐が進む過程で遥任の官として現地と分離して行く国司と父高望王が上総介になると一緒に下向して坂東に地盤を築く平国香などのように現地土着して行く貴族に分かれてきます。
地方の旧支配層であった郡司も二極分解し、新興荘園領主に発展し、且つ自前の武力を蓄えて行く新興勢力に発展して行ったグループと衰退して行くグループに分かれて行ったようです。
戦国時代に守護大名が戦国大名に発展変質出来たもの(今川義元など)と守護代またはその家老などに取って代わられたものがいましたが、郡司(元の國の造)や郡衙役人にも新興武士団に発展変化したグループと時代についてけないで没落して行く元の造の意識のままの2種類がありました。
ですから、鎌倉時代まで(守護地頭側と貴族側で)鎌倉の御家人を兼ねながら荘園管理者として命脈を保つ郡司層とはこの新興地元勢力層のこととなります。
この過程で国司(下級中級貴族)だけではなく、中央貴族層も地方紛争に介入してそれぞれの立場で新興勢力である地元荘園主や武士層の紛争を解決してやりながら、自分の都合によって積極的に地元武力を利用する能力も身につけていきます。貴族(元は古代豪族)層は武士(戦闘集団)を外注利用出来たので、自前の武力を必要としなかったので、いよいよ宮廷貴族化が進んだとも言えます。
5月4日に書いたように、宮廷貴族化・王朝文化時代とは中央の旧大豪族は宮廷貴族化して戦闘能力を失って行った時期と一致します。
これは律令制の成果が出た結果・中央集権化の完成期と言うべきで、中央(大豪族)・地方ともに大和朝廷成立前後の旧豪族は没落して行ったことになります。
律令制施行頃からの中央政界では、藤原氏の天下となりその他古代からの豪族はおおむね中級貴族として生き残っていただけでした。
藤原氏に対抗出来る臣下・豪族がなくなっただけではなく、王族で勢力のあった長屋の王が滅ぼされてしまうと、天皇家自体が丸裸になってしまったので以降は藤原摂関家の専横時代に入って行きます。
前漢では呉楚七王の乱の鎮圧で専制君主制が完成して皇帝本体の権力は高まったものの、皇帝権力を側近・・外戚や宦官が牛耳るようになってもこれを制御する権力・王家の藩屏がなくなって行った・・側近政治に陥ったのと同じ状態でした。
我が国で長屋の王が滅ぼされてしまった以降、中央権力の暴走を制御する機構が消滅したことになりますので、中国王朝での宦官・外戚が跋扈(有名な跋扈将軍)して行くようになったのと同じ状況になっていたと言えます。
この時点では我が国も中央集権化・専制君主制が完成していた・・天武持統朝で目指していた律令制の成果・病理現象が現れていたのですから、律令制施行自体は目的を達して成功していたと言えるのではないでしょうか。
学校では律令制が形骸化して行った歴史の結果ばかり習いますが、実は律令制導入により版籍を全部朝廷に帰属させるのに成功し、朝廷成立前後の(藤原氏を除くその他の)諸豪族を衰退させる効果・中国並みの専制君主制の卵みたいになった点では見るべきものがあったのです。
この結果中央での権力闘争に敗れると反乱・抵抗するだけの自前の武力がなくなっていたので、黙って引き下がるしかなくなっていったのが奈良時代末から平安時代でした。
こうした時代背景の下で政争に勝てば相手を左遷するだけで(菅原道真の左遷や道長と伊周の政争)政敵の命まで取らずとも事足りた時代になっていたと言えます。
この時期を王朝時代と言い宮廷貴族中心の政治になったのは、大和朝廷成立前後の中央・地方豪族が軒並み衰退しいていた・・中国並みの王朝・・専制君主制時代に突入していたことになります。

免責事項:

私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

一言でいえば、ここで書いた意見は「仕事」として書いているのではありませんので、『責任』を持てません。

また、個別の法律相談の回答ではありませんので、具体的事件処理にあたってはこのコラムの意見がそのまま通用しませんので、必ず別の弁護士等に依頼してその弁護士の意見に従って処理されるようにしてください。

このコラムは法律家ではあるが私の主観的関心・印象をそのまま書いている程度・客観的裏付けに基づかない雑感に過ぎないレベルと理解してお読みください。