藩札処理と富裕層の没落

廃藩になった藩の発行済藩札を政府で責任を持つと言っても、現在の民事再生法による再生計画同様に殆どが棒引きされ、残った僅かの債務を長期年賦で払うようなものでしたので、各大名家に貸し込んでいた幕末の豪商だけではなく・・各藩地元の裕福な人たちは殆ど全部破綻(リーマンショックで持ち株が紙くずになったようなものです)してしまい、新興の三菱などと入れ替わってしまうので、一種の社会革命を引き起こしたことになります。
鴻池や三井家など江戸時代から生き残って現在に連なる事業家も結構いますが、その時代その時代に合わせて儲けていけるフローの事業所得能力のある事業主は生き残れて、過去の蓄積だけを頼りに生きて行く・・新たな時代に適合出来ない事業主は没落して行ったことになります。
これは敗戦後の超インフレで、新円発行による既存有価証券等保有者の権利をほぼ全面的に奪ったのと同じやり方・旧資産家の没落・・能力と乖離している現状変更・・入れ替え戦を容易にしたことになります。
薩長土肥など有力藩の場合デフォルト状態ではなかった・・その領内の豪商はそのまま返済を受けられたのに対し,財政的に行き詰まっていたその他の藩では,デフォルト率・・市場価値が低かったでしょうし,まして朝敵側の領民は殆どがデフォルト状態の藩に貸したり藩札を保有していたのですから,殆どが無一文になってしまった可能性があります。
たとえば戊辰戦争で官軍が攻めてくると言う時に,領内の資産家は返してくれるかどうかの基準ではなく、ともかく求められれば資金供出に応じたでしょう。
明治になって,元朝敵だと言うことで不利だっただけではなく,戦火で家を焼かれ経済的にも困った人が一杯出たときに、領内等しくみんな貧しくなってしまっていて,困った人を世話を出来る裕福な人がいなくなってしまったのです。
デフレは既得権(高齢者は自分の過去の能力・大名など先祖の能力に頼って生活する人=現在の能力以上の生活が出来る)人に有利で、インフレは現役・・現在の適応能力のある人に有利に働くものであることは昔も今も変わりません。
我が国高度成長期のインフレは持てるものに有利に働いたのは、土地価格の高騰による諸物価のインフレだったから、土地所有者・・概ね先祖伝来のものでしたから社会適合能力以前の既得権益層に有利に働いた例外です。
ちなみに大名家発行済の藩札・・正式には当時藩とは言ってなかったので、私発行札と言うべきでしょうが、適当な熟語がないのでここでは便宜藩札と書いていますが、兌換を表面上約束していたようですが、徳川家発行の貨幣と違い金銀の裏付けを実際上持っていなかったので・・小切手や一種の社債みたいなものだったと言えます。
(特定商品引換券的な藩札もあったようです)
今で言えば破産や会社更生法適用申請の場合経営権がなくなりますが、民事再生法による申請の場合旧経営陣は経営を続行出来ますが、大名による版籍奉還はこれの明治版を狙っていたのです。
これに対して、大和朝廷成立時に服属した各地豪族は自分の領地経営に困っていた訳ではなく、中央での大勢が決まってしまったので仕方なしの服属・・豊臣政権成立後の徳川氏その他の戦国大名や関ヶ原後仕方なしに徳川氏に服属した大名と同じでしたから、内容実質が違っていたので中央集権化の貫徹が難しかった違いとなります。
いわゆる徳政令の代わりに、今の民事再生手続きみたいに何十分の一しか支払わないことにすれば、その代わりに経営者責任をとって貰うことになるのは当然です。
大手銀行や日本航空(今後は東京電力もその仲間入りでしょうが,)その他公的資金の注入を受けたり債券カットしてもらう以上は、経営者が責任を取って退陣するのが(法律の有無にかかわらず)普通です。
大名は版籍奉還をして(債務整理の責任を逃れて)も直ぐ知藩事に任命されたのでやれやれと思っていたら、廃藩置県と同時に07/19/05「藩の消滅(廃藩置県2)」で紹介したように突如無能呼ばわり「・・然ルニ数百年因襲ノ久キ或ハ其名アリテ其実挙ラサル者アリ・・・」とされて一斉にクビになってしまいます。
「万国ト対峙セント欲セハ宜ク名実相副ヒ政令一ニ帰セシムヘシ」・・・「政令多岐ノ憂無ラシメントス」と言うのは各地別に自主的な法令が施行されているのではなく全国統一の政令による・・すなわち中央集権国家化への方針の宣言です。
廃藩置県の詔書をもう一度紹介しておきましょう。

   詔書
朕惟フニ更始ノ時ニ際シ内以テ億兆ヲ保安シ外以テ万国ト対峙セント欲セハ宜ク名実相副ヒ政令一ニ帰セシムヘシ朕さきニ諸藩版籍奉還ノ議ヲ聴納シ新ニ知藩事ヲ命シ各其職ヲ奉セシム然ルニ数百年因襲ノ久キ或ハ其名アリテ其実挙ラサル者アリ何ヲ以テ億兆ヲ保安シ万国ト対峙スルヲ得ンヤ朕深ク之ヲ慨ス仍テ今更ニ藩ヲ廃シ県ト為ス是務テ冗ヲ去リ簡ニ就キ有名無実ノ弊ヲ除キ政令多岐ノ憂無ラシメントス汝群臣其レ朕カ意ヲ体セヨ
七月十四日(明治4年太政官布告 第353)

続けて次の太政官布告で07/20/05「藩の消滅(廃藩置県4)」で紹介した通り、大名だけクビになって家老(大参事)以下はそのまま働くことになります。

明治4年7月14日 (太陽暦1871年8月29日)明治4年太政官布告 第354
今般藩ヲ廃シ県ヲ被置候ニ付テハ追テ 御沙汰候迄大参事以下是迄通事務取扱可致事

版籍奉還(明治2年6月17日・太陽暦:1869年7月25日)に応じた大名にとっては、僅か2年後の廃藩置県(明治4年7月14日(1871年8月29日)と同時に失職するとは、思いもよらない青天の霹靂だったようです。
久光が騙されたと怒ったことはよく知られています・・。
九州場所で魁皇が勝つと花火をあげる地元ファンがいるのは有名ですが、ヤケでも花火を上げる事例が明治初年にはあったこととなります。

廃藩置県と藩の負債処理

話を明治までの地方の名称であった国から縣へ変えた意味に戻しますと、半独立性の強い区域を表す国から中間管理職・任命制の地方長官が管理する「縣」の漢字の意味に合わせたことになります。
国のママでは半独立性があって中央集権を貫徹出来ない恐れ・・奈良時代の律令制導入が失敗に終わった経験から国のママでは都合が悪いと思って国を縣に戻したことになります。
我が国では縣を地方制度トップにするのは初めてのことであって旧に戻した訳ではなく、中央集権制で3000年も継続して来た本来の中国の制度に戻したと言うことでしょう。
このとき中国の古い制度を真似するのならば郡が上にくる郡県制であるべきですが、明治時代の中国では既に郡制がとうの昔になくなっていて省府縣制であったことも影響があったかも知れません。
ちなみに、真水康樹 氏の研究によりますと、秦の乾隆帝(乾隆35年といえば1770年頃?)以降の地方制度は省府縣制(直隷州を含む)だったようです。
これは府の下に縣が来る制度ですが、我が国明治以降の府縣制度は府と縣を上下関係ではなく対等にしている(今も上下関係がありません)点が違っています。
省を第1級の行政単位とする清朝の制度が、現在の中華人民共和国の省制度に繋がっているのです。
明治の版籍奉還が成功したのは、江戸時代中期以降には殆どの大名家が財政赤字に苦しんでいたことにあります。
大名家を取りつぶすだけならば、その大名の借金に将軍家は責任がありません。
しかし,版籍をそのまま引き継いだ以上・・会社で言えば吸収合併したようなものです・・引き継いだ政府の方で責任を引き継ぐしかないでしょう。
各大名家では財政改革(上杉鷹山その他が有名な大名家がいくつもあります、佐久間象山など改革で名を挙げた人物もたくさんいます)が行われていたことはご承知の通りです。
徳川家自体では享保、寛政、天保の三大改革がありますし、財政改革にある程度成功していた大名家は少数だったからこそ、彼らは幕末に発言力を持つのです。
大多数の大名家では財政赤字のために元々窮乏の極みにあって、地元商人層からの借金で首が回らなくなっていただけではなく、領内流通の紙幣類似のものを発行していて(当時は藩と言う名称がなかったので藩札と言う概念はありません)これが財政赤字に伴い累増していたのです。
成功していた大名家でも幕末動乱期になると無理して洋式兵器を買いあさったり、戊辰以降の兵役に参加せざるを得なかったりして、緊急の軍資金確保(戦争参加には巨額資金が必要です)のために大量の大名家家発行の紙幣類似のもの・・結局は借用証文みたいな効力ですから、国債や社債に似ているものの、小口ですから小切手みたいなものだったと言えます。
財政改革に成功していた大名家でも、幕末動乱で資金を使いはたしていましたので大量発行の藩札(慶応4年6月の政体書で藩と言う名称が生まれていますので、版籍奉還の頃には藩札と言うのは正しい)を償還することが不能になっていました。
朝敵になったことで有名な長岡藩(河合継之助のいた藩です)その他経済苦境にあった大名家は、一斉の版籍奉還前から独自に領地返納の申し出でをしていたくらいです。
多くの藩では発行済藩札や豪商に対する借金の支払不能状態・破綻状態でしたので経営権の返上を望んでいたことにあります。
今で言えば、経営破綻した銀行や企業を国有化してもらって自分は経営権を維持しようとする虫のいい思い込みです。
財政赤字の責任を明治政府に持って貰って、自分は責任をとらないまま藩知事に残れると言う都合(虫)の良いことを考えていたのです。
政府の方もこれに応えて版籍奉還後元藩主を知藩事に横滑りさせた(古代の国造を郡司に横滑りさせた例もありました)ので大名の方は安心したのでしょう。
政府は藩を承継した形ですから借金の責任を取るのですが、版籍奉還直後から藩札(この時には正式に藩と言っていましたので名称はあっています)回収命令を出し、これを市場価格で査定して回収することにしていました。
幕末混乱期の財政難のために各大名家では幕末から明治にかけて膨大な額の発行をしていたことから、殆どの藩ではデフォルト状態ですから、市場価格での政府負担・償還となれば、藩札保有者・債権者は表面価格の何十分の一に低下した市場価格で政府発行の紙幣を受け取ることになります。
債券が大暴落した時に額面で買い取ってこそ政府保障の意味ですから、市場価格で支払うと言うのでは、政府が責任を持ってやった事にはならないでしょう。
明治政府の紙幣発行制度について、01/16/07「不換紙幣と中央銀行の独立性1」で少し書きましたが、日銀券の発行が1885年に始まり、統一紙幣になったのは1889年のことでした。
廃藩置県(明治4年)の頃には、政府発行紙幣さえ存在しない時代でしたので、実際に政府から紙幣を受け取れたのは何十年後だったようです。

國から縣へ3

明治になって、地方制度を国制から縣制への何故移行したかの関心・・4月末から5月初めのコラムに戻ります。
ところで県の旧字体は縣で、これは間にぶら下がる意味・・すなわち中央政府と地方の間にぶら下がっている意味(今で言えば中間管理職の謂いです)で、「縣」となっているそうです。
(本来県と縣は別字ですが、戦後ごっちゃになって今では簡略化するだけのためにクビを逆さ吊りした意味の「県」を使っています)
古代において日本語のアガタに縣の漢字を当てたのは、(日本書記の頃は万葉仮名ですから、漢字を当てたのは平安時代以降になります)國の造との権力構造の若干の違いを前提にしたものです。
比喩的に言って徳川譜代大名が古代律令制開始前のアガタ主に該当するとしたら、国造は伊達や毛利、島津のように容易に転勤・国替えを命じられない地生えの豪族・・朝廷成立後に服属した朝貢国類似の豪族を意味していたのでしょう。
明治初めの版籍奉還で先祖伝来の領地を持つ大名もすべて版籍を天皇家=朝廷に差し出したので、平安中期以降荘園の増大で人民に対する直接支配権を失っていた大和朝廷(この時は東京朝廷と言うのかな?)が全国に直接支配権を再獲得した瞬間です。
大和朝廷では、理念としては中央集権でしたが、地方豪族の領地に直接手を付けられなかったのに比べれば、明治の版籍奉還は例外のない直接統治を実現したので、我が国初の快挙?となります。
(明治政府が王政復古を旗印にした所以です)
そこで、明治政府(大和朝廷)は直接支配権を明らかにするために、地方が國に別れていたのを改めて秦の始皇帝バリに縣郡制にしたことになります。
(地方の小単位として郡制度が古代から定着していたので今更郡を國よりも大きな単位に出来なかったので、縣を上に持って来たのかも知れませんし、我が国では古来から「郡」は地方豪族の単位だったこともあって、郡には良い思い出がなかったからでしょう)
しかし、國に分かれていてその上に君臨するからこそ皇帝・・帝国と言うのですから、(従来は大王・オオキミと称してしていて、大海人の皇子が政権獲得して始めて天武「天皇」と称するようになったのは、諸国を國に再編し再統一したことと無縁ではありません。)その後の大日本帝国の称号と合わなくなって行きます。
(その後植民地を持つようになって名実共に帝国になりましたが・・・)
08/04/05「法の改正と政体書」07/18/05「明治以降の裁判所の設置2(3治政治体制)」前後で何回か紹介していますが、明治の三治制度以降の廃藩置県と第一次府縣統合・県内行政区域の大区小区制その後の郡区町村制(明治11年)は大和朝廷が律令制導入時に制定したままになっていた国・郡郷里制・・地方政治体制の大変更となります。
これに合わせて官名も藩主から知藩事へ、さらに知藩事(ここまでは旧藩主の名称変更)から県知事に漢字を変えたのは、県知事以降は中央の任命・官僚制に代わったので意味があっていました。
明治政府は、中央集権体制整備思想を漢字の利用・意味にまで貫徹していたのです。
戦後地方自治制度が出来た時には、中央による任命制から地元民の信望によって選任されることに変わったのですから「縣」や県知事の名称も変えるべきだったことになります。
明治憲法では中間組織の管理責任者あるいは地域としての「縣」だったのですから、これをクビを逆さにした形の県に書き換えても国民主権に切り替わった意味に変更したことにはなりません。
この種の意見は天皇主権下での総理や大臣の名称を、国民主権になった戦後もそのまま使っているのはおかしいのではないかと言う意見として、09/17/03「日本国憲法下の総理 3(憲法30) 「新しい酒は新しい皮衣に3」前後のコラムで書いたことがありますが、これもその一例です。
版籍奉還により国内全部が朝廷に直属するようになった結果、従来の各大名の領域や国名の領域にこだわらず・・過去の元領主の意向を気にせずに、純粋に統治の便宜のための基準で地方行政区域を決めることが可能になりました。
政体書発布によって始めて藩概念が生まれた事については、07/19/05「藩の始まり(政体書)1」以下のコラムで紹介しましたが、領地を藩と称するようにお触れを出したこと自体、(版図はマガキで囲うことですから)領主ごとの飛び地経営はまずい・・一円支配へ変更したいとする思考が生まれていたことが読み取れます。
廃藩置県によって、抜本的地方組織の改編が可能になったので、明治4年11月の第一次府縣統合によって、(廃藩置県時には大名家・旗本領ごとの飛び地経営だったのが)先ず一円政治が可能になりました。
この後順次地方行政組織の整備が進んで行くのですが、その後の地方単位は行政の便宜を中心にして自然発生的範囲・歴史経緯をある程度尊重する程度にとどめて行政区域は政府の都合で統治し易く区切るものに変わったのです。
この端的な実現が県内の行政区域として人工的な大区小区制から始めたことと、関東の都県境でしょう。
以前書きましたが、千葉と東京の間は江戸川で区切り、東京と神奈川の間は下流では多摩川で区切り、東京と埼玉の下流では荒川で区切り、千葉県と茨城は利根川で区切るなどそれまでの歴史経緯・・郡制を100%無視です。
江戸川両岸は葛飾地方として1つの文化圏ですし、10年ほど前の金融界の再編成で市川東葛信金や船橋信金と東京の何とか信金が合併して東京東信金となりましたが、これなどはもとの葛飾地方の江戸川両側経済一体制を基礎とするものです。
利根川両岸も銚子と鹿島市、佐原と潮来などは1つの水郷文化圏(下総の国)で、今でも人的交流は盛んです。
その辺の人は今でも殆どみんな千葉の弁護士(佐原や成田方面所在弁護士が中心ですが、私の事務所の依頼者になることも結構あります)に相談にきます。

郡司6と国司

中央の下級中級貴族が地方赴任を機会に地元の豪族と姻戚関係に入り、根を下ろして行く受領階級もいましたし、中央では出世出来そうもない皇族は臣下に下って地方に実質的に流されて行きます。
これが後の武家の棟梁となる平家や源氏の先祖になって行くのです。
天下を握った藤原氏としては政敵になりそうな人材を積極的に地方へ飛ばしていたし、皇族の方も中央にいて藤原氏と張り合うと危ないので、自ら進んで臣籍降下して地方へ下って行く皇族が増えます。
(藤原氏と張り合って失脚した長屋の王の事例を危惧しているのです)
足利将軍家で次男以下が跡目争いをしない意思表示として僧籍に入っていたのと同じです。
最初に飛ばされていたのは、桓武平氏でこれが藤原氏の地盤の東国に・・中臣氏の出自は鹿島神宮の神官です・・飛ばして監視するつもりだったでしょうが、飛ばしたつもりが彼らが逆に地方で力を蓄えて今度は武士の棟梁として、藤原氏の足下を崩して行くことになろうとは予想もつかなかったでしょう。
(伊豆に流された頼朝が平家の地盤の東国で力を蓄えて逆襲するのと同じパターンです)
地方に派遣された官僚のトップ・・・律令制の地方官制から言えば、国司は中国の郡の大守や県知事と同じ役割ですが、我が国の場合地方赴任しても在地領主層(・・彼らの多くは郡司に任命されていたので実質と合っていました)の御機嫌取りに終始して大過なく任期満了をまつばかりです。
中国の州知事や県令は専制君主の代理人ですから、その焼き写しの権限がありますが、大和朝廷自体にはそんな権限が元々ないので国司(國からきた地元諸豪族合議の司会者・・5月6日に書いたように監理者?)と言う特異な用語にしたことになります。
司(つかさ)にはいろいろな意味があってややこしいのですが、古代から中国ではいろんな分野の長官を(・・軍隊の司令官がその典型ですが、指揮命令権を中核とする)意味で使っています。
これを國の司としたのは・國である以上はある程度の自由裁量権・・独立性が高いことを前提としているのですが、中央集権化のために本来の國のような裁量権までは与えない・単なる県令よりは上の裁量権のある役職として国主でもない「国司」と言う中間的名称が生まれたように思われます。
彼らは、赴任しても合議をまとめる・・ご機嫌取りしか仕事がないので赴任するのが嫌になり次第に遥任の官になって行きます。
遥任の官が普通になってくると、後世では官名は格式を現すに過ぎない制度になって行きました。
中には国司が在地領主との結びつきを深めて地盤を地方に築いて行く平将門(の台頭に連なるⅠ〜2世代前の人たち)のような事例が増えて行き、2極化して行きます。
在地領主との結びつきを深めた最初の系統が桓武(806年死亡)平氏系であり、その後に勢力を広げたのが清和(880年頃死亡)系源氏一門と言えます。
桓武平氏と清和源氏とでは、始りが約80年差となり、その差によって平氏が貴族の仲間入りにこだわったのに対して、清和源氏系の頼朝が、新しい武士の時代を切り開く時代適合が可能であったことになります。
もっと言えば清和源氏でも、本来は末流の河内源氏が武士として頭角を現して行くのは、遅くなればなるほど土着性が強くなっていたことによるでしょう。
鎌倉・室町時代まではまだ血統がものを言いましたが、戦国乱世になると実力次第ですので、(途中で上杉謙信のように名跡にこだわる武将もいましたが例外です)最後に天下を取ったのは天皇家の血統を引く源氏でも平家でもない、地生えの木下(豊臣)〜松平(徳川)でした。

郡司5(事件屋2)

これまで書いているように、中国の歴史では秦の始皇帝の創始した郡縣制は中央集権・・中央からの官僚派遣制度の顕現ですし、漢以降直轄地以外に王族や功臣を封じた國は半独立行政組織あるいは朝貢国ですから、大和朝廷成立時におけるそれぞれの地域実情に合わせて國の造と縣(あがた)ヌシの漢字を割り振ったのは中国・漢字の歴史から見てある程度正しかったことになります。
律令制以降の国司は国主と違い中央派遣官であることは中国の官吏と同じですが、国司の方は地方豪族・・いくつかの集合(いくつかの郡)の上に中央からの一種の監督機関として派遣する国家使節みたいな役割に過ぎず絶大な権力を握る訳ではありません。
近代の植民地時代には、異民族統治をするのに現地政府を容認した上で、本国派遣の総督制度が行われていましたが、それと同じ発想です。
5月16日に書きましたが、国司と言っても一人のことではなく、正使と言うか筆頭の国司・・受領階級・・の外に副使に該当する掾(じょう)、目(さかん)などの同じ階級(同階級中の先輩後輩程度)に属するグループで構成されていました。
このうち掾は文字どおり副官でしょうし、目は言うまでもなく目付の役割です。
江戸時代の朝鮮通信使が一定規模の高級貴族で三使構成されて来たのと同じです。
税の徴収機能を与えても、実際の税(租庸調)の徴収実務は従来からの勢力者・前回まで書いた郡司の性質変更の前期後期を通じて郡司さんに頼っていたし、警察権は、別途押領使(主として地元豪族がなりました)と言う令外の官が出来てそちらに移りますので、国司の権力が地域に根付かずに次第に遥任の官となり、その内形骸化して行きます。
この傾向は漢の王族が僻地の国王として封じられても、次第に任地に赴任せずにその上がりだけで都で生活するようになり、一種の年金制度化して行ったのと同じです。
朝廷の方は国府創設後、国分寺制度の創設(国立大学制度が逆に地元有力者の能力を高めます)徴税権の強化など独自の仕事を増やして地方在地豪族の骨抜きに励み努力しますが、権限強化が進むと却って実務官僚・地元中堅層の力に頼ることになり、結果的に郡司・地方実力者の役割強化に繋がって行く皮肉な関係でした。
後期の郡司は国府内実力者・役人として私荘園側と渡り合ったりするかと思えば、地元利益・私荘園側の代表として国側と交渉するなど複雑な役割になって行きます。
この複雑な役割は、鎌倉時代には守護地頭制度が出来て、(この制度が出来たこと自体、武士の領地と公私荘園側との権利関係のもめ事が多かったことをあらわしています)幕府と朝廷側(貴族を含めた)領地の権利でつばぜり合いが多くなったのですが、郡司の多くが鎌倉の御家人になっていながら、同時に国府の郡司を兼ねるものが多くなっていた面でも引き継がれて行きます。
今で言えば変な事件屋みたいな存在で、双方の実務を握っていることから、彼らを通さないとうまく解決出来ないような仕組みになっていたのでしょう。
漢のように直轄領地の一部を分割して封土した場合、そこに在地領主がいませんので、赴任すればそのまま直ぐに国王として君臨出来ます。
我が国・大和朝廷の国司は、一種の朝貢国・服属した諸豪族を一定地域ごとにとりまとめて一定地域ごとで管理者を置くための現地赴任であって、他人・在地領主が支配している土地であることから、国王としての赴任ではなく国司・・國の司(つかさ)としての赴任に過ぎませんでした。
国の制度を採用したとは言え、国王がいない・・各地に何人かの在地領主=郡司その他がいるものの、これを束ねる地元に根を生やしている領主権に基づく国主・国王はいないし、国司の中央派遣制度は県知事任命と同じ発想です。
ただ中国は民族草創の始めっから中央集権体制ですから、県知事はその地域で皇帝の代理人として絶大な権力を持ち得ますが、我が国の場合古代民族草創期から各地の連合体が基本ですので、中央で任命した管理者を派遣しても中国の知事のような絶大な権限を発揮し得ません。
管理ではなく「監理」が漸くと言うところでしょう。
中国がいくつかの郡をまとめた州単位で監察のためにおいた刺使→牧の真似をして数カ国をまとめて不正監視する安察使制度を設けますが、そもそも不正をする大きな権限が国司にはないのですから、機能しなかったのは当然です。
誤って理解して関連会社へ出向した天下り社長が、権限を振るおうとすると現地で軋轢を起こすのは今でも同じです。
有力豪族連合体であった草創期の大和朝廷では、有力豪族(中央では下級中級貴族)を地方小豪族をとりまとめる監理者として各地へ転出させることによって、遠隔支配地の一体化・融合をはかろうとしたのではないでしょうか。

免責事項:

私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

一言でいえば、ここで書いた意見は「仕事」として書いているのではありませんので、『責任』を持てません。

また、個別の法律相談の回答ではありませんので、具体的事件処理にあたってはこのコラムの意見がそのまま通用しませんので、必ず別の弁護士等に依頼してその弁護士の意見に従って処理されるようにしてください。

このコラムは法律家ではあるが私の主観的関心・印象をそのまま書いている程度・客観的裏付けに基づかない雑感に過ぎないレベルと理解してお読みください。