江戸時代までのムラと明治の村制度の違い(入会地)2

入会に関するウイキペデイアの続きです。

入会団体の構成員を入会権者と言い、入会権者の収益権を入会収益権という。判例によると、入会収益権が侵害された場合、入会権者は妨害排除請求の訴えを起こすことができる。入会地の実質的所有者は入会団体であるから、代表者の定めの無い入会団体の場合、民事訴訟法の規定を素直に解釈すれば、妨害排除請求には入会権者全員の同意が必要という結論に至る。

村人の誰か一人が、どこかの悪徳業者に入会地に何か施設を作って良いとか、伐採して良いとそそのかした場合、集落の一人でも裁判すノンジ反対すると何もできない・政府の工事に一人でも賛成者がいるとどうにもならないという変なパターンです。
ウイキペデイアの続きです。

この問題の解決方法は2つの説がある。
一つは、民事訴訟法にある「代表者」の解釈を広げて、「訴訟物の処分に関する権限を持つ代表者」を示すと解釈する説である。各入会権者は、入会地の所有権を処分する権限は持たないが、自己の入会収益権について妨害排除請求をすることに関しては、各入会権者は、入会団体から妨害排除請求をする権限を「代表者」として与えられていると解釈するのである。
もう一つの説は、入会収益権の侵害を不法行為としての面から捉え、既に成された不法行為から生じた不法行為債権に基づく賠償請求の一環として、妨害排除請求を解釈するものである。

※ ここで前もって書いておきますが、当時から本当に惣「村」という呼称が流通していたのか?当時は単に「惣」とか、「結い」と言っていただけでないのかの疑問を抱いていますが、已む無くそのまま「村」落共同体などのまま引用して書いていますが、学者らしい人のネット意見を見るとすべてと言って良いほど、「惣村」とか「村落」という書き方・・明治政府が創設したはずの漢字の「村」があたかも昔から漢字の「村」制度があるかのような書き方に疑問を抱いていることを断っておきます。
ただし、村落をウイキペデイアで見ると

学術用語として村が確定しているからこれを学者が使っているようです。
村落(そんらく、英語: village, hamlet)とは、人口や家屋の密度が小さく、第一次産業に従事する人の割合が高い集落を指す学術用語。一般的には農村などの呼称が用いられることが多い。対義語は都市。
地理学的概念である集落に対して、村落は、人間関係の社会的・文化的な統合状態に基づく社会学的概念である。

以上によれば、歴史上古代から「村落」という用語があったかどうかではなく、「第一次産業に従事する人の割合が高い集落を指す学術用語」というのですから、「村」という漢字を使っていなかった縄文〜古墳時代(には一次産業しかないでしょうから)を表現するにも村落と書くわけです。
特定時代に置かれた制度でしかない呼称を、全時代共通の学術用語にしてしまう学界のセンスが疑われます。
しかも明治の市町村制は、縄文時代以降数千年の歴史を通底する本質を有するどころか、逆に最末端単位の慣習法上の制度(最末端組織は概ねボトムアップ型・寄り合い合議制だったと素人的推測ですが・・)を全面的に断ち切った極めて異質な制度です。
いわば民俗学的に?見れば、異質な行政目的単位です。
自然村と行政村の区別がある訳です。
行政効率の視点で見れば、単位を大きする方が合理的ですので、明治政府の地方制度発足以来合併に次ぐ合併の繰り返しで今や各県に残っている「村」は一つか二つしかない有様です。
明治政府が中央の威令が行き渡るように村「長」を置いて末端集落を支配するようになって以降の「村」を古代から連綿と村制度があったかのように誤解させてしまう魔術?学術用語にした点がどこか不思議です。
以下を見ると日本のムラ社会は鎌倉期の惣村の流れを汲み基本が自治組織でムラの乙名江戸時代以降頻繁に出てくるオトナ・長老の語源のようです)らを中心に運営していたのが、江戸時代には原則として輪番制になり、そのうち寄り合いで多数の支持を得たものになりますが、これでも3年以上続けると幕府(領主)から手当をゼロにするなどの制裁があったようです。
その他相互扶助→臨時に人手のいる家の建て替えや、道や灌漑施設の修理等の普請共同で地域を守る作業には・相応の資金が入ります。
この財源は集落有農地あるいは共同農地/入会地等の共同経費に充てる収入源・・・神社の場合神田などで知られえるように・・ありました。
中央集権化を図る明治政府が、地方制度創設により最末端基礎集落まで村として政府任命役人が支配する体制を整備すると同時に基礎集落の独自財源も奪う政策をしていきました。
病人の世話、葬式などの共済事業目的の場合、今の保険制度同様に積立金制で一定期間ごとに順に旅行するなど(お伊勢参りその他の謂わゆる講)があるほか、若者、西国では若衆組織があって自警団や、火消し等主役になるあるほか、お祭りの準備その他多角的活躍の場があったようです。
明治になってから何もかも政府の仕事になっていき、現在でも若者参加型で残っているのはお祭り程度です。
中央政府がいかに権力を持って地元の共同作業を奪っていき、財政基盤を奪っても奪いきれないのが土地神を祀るお祭りだったのでしょうか?
(その程度の費用は地元民の浄財でなんとかなりますので)
現在でも岸和田市などの激しいダンジリの動きは軍役の名残を想起したくなる・・岸和田城は、観応の擾乱の頃から軍事的重要拠点でしたし大坂の陣攻防戦の前哨戦になる地域でもありました。
防衛の必要性のない一般集落の経験しかない地域のお祭りは、激しくない単純神事の中枢的行事に細ってきました。
集落の真髄はまさにこれであり、これだけは行政によっては変えられないということでしょうか?

江戸時代までのムラと明治の村の違い1(入会地)

https://k-okabe.xyz/home/ronbun/asiajichi.html

東アジアの地方自治・試論
岡部一明 『東邦学誌』第34巻第2号(2005年12月)

明治の地方制度改革は、1887年の国会開設をはさんで、1888年に「市制・町村制」、「府県・郡制」が制定されてほぼ骨格ができあがる。自由民権運動の敗北の上につくられた官治的性格の強い地方制度であった上、その施行がはじまるとともに大規模な市町村合併が行われた。1888年末に7万1314団体だった市町村が、1年後の1889年末に1万5820と、約5分の1に減少した。その結果、これまでの自然村とは異なる新たな「行政村」ができた。集権化が一挙に進められるが、しかし、地主層を中心とする地方の有力者を中央集権的行政の末端にくみこむには、「自然村」を完全に解体するわけにはいかなかった、と重森暁は分析している。市町村内に、法人格をもたず、議会その他機関や予算制度をもたない行政区と区長を存続させることが認められ、「明治地方自治制度は、近代的地方行政組織と旧来の村落共同体的組織の二重性をもつことになった」65)とする。

従来の自治組織を破壊した町村制がうまくいかないので、現地人望家を何の権限もない名誉職的区長に任命して地元民との潤滑油を期待したものでした。
飛鳥時代の律令制定時に郡とその下位単位の里までは権力的整備したものの、自然発生的集落まで手をつけらなかったのですが、明治の地方制度改革は郡(こおり)以下の原始的共同体破壊まで目指したものでした。
律令性による全国への国司派遣が地元豪族を無視出来ず郡司を置いたのと同じパターンでやむなく「区長」(それまでの同輩の輪番制を否定して上下をはっきりさせる「区長」と名称を改めさせて)というものを並存せざるを得なかったのでしょう。
ただ、律令制の時は国家権力が弱かったので地元豪族の経済基盤を奪うことまでできなかったのですが、明治政府は各地集落運営の経済基盤である里山等の管理運営権の接収に向かいました。
これが我々法律家で有名な戒能通孝氏の研究・・入会権論争です。
中近世の集落は入会地の収益を通じて基礎集落・自治組織の運営経費を賄ってきたのですが、明治政府は、明治民法制定により「個人所有でないものは国有である」という論理でドンドン国有化して自治集団の息の根を止める政策に出たようです。
下記民法294条の適用をめぐる争いでした。
民法

第二節 所有権の取得
(無主物の帰属)
第二百三十九条 所有者のない動産は、所有の意思をもって占有することによって、その所有権を取得する。
2 所有者のない不動産は、国庫に帰属する。
第二百九十四条 共有の性質を有しない入会権については、各地方の慣習に従うほか、この章の規定を準用する。
第七章 留置権

入会権に関するウイキペデイア解説です。

歴史的には、明治に近代法が確立する以前から、村有地や藩有地である山林の薪炭用の間伐材や堆肥用の落葉等を村民が伐採・利用していた慣習に由来し、その利用及び管理に関する規律は各々の村落において成立していた。明治期にいたり、近代所有権概念の下、山林等の所有者が明確に区分され登録された(藩有地の多くは国有地として登録された。)。一方、その上に存在していた入会の取り扱いに関し、民法上の物権「入会権」として認めた。なお、このとき国有地として登録された土地における入会権については、政府は戦前より一貫してその存在を否定していたが、判例はこれを認めるに至っている。

これが現在の町内会に繋がるようで、町内会独自の資金がない・・任意の会費支払いによる状態です。
ウイキペデイア引用続きです

入会収益権は登記することができない。また、一般の権利能力なき社団の所有地の場合と同様に、入会団体の名によって登記することもできない。
しかし、薪拾いや耕作等の入会活動が行われている場合は、信義則の働きによって、登記がなくても第三者に対抗できる。第三者が登記の不備を理由に権利を主張するためには、善意無過失である必要があり、土地を実際に見れば入会権が存在する可能性が予見できる場合は、第三者の善意又は無過失を否定できるのである(登記の欠陥の主張は、悪意者であっても理論上は認められ得るが、悪意者が登記の欠陥を主張することは、原則として信義に反すると判断されるため、信義則に照らして保護されるべき理由がない限り、悪意者は登記の欠陥を主張できる正当な権利者とは判断されない。)。

せっかく判例で認められても法制度上の鬼っ子ですから、国有地として所有権登記されるとその登記抹消も認められない・上記条文の通り地役権でしかないので使っても良いという程度です。
政府は関連法令を整備しないで放置したまま現在にいたり、この数十年では里山に経済価値がないので地元民も薪をとり薪炭を焼く経済効用もないし荒れるに任せている状態です。
登記制度もないので登記できないし、裁判するにしても部落民権利者全員でないと出来ない?
村から出ていった人の権利はどうなる・次男以下の新宅がある場合長男の家だけ一票なのかなど調査も複雑で(鉄道用地買収の相手方として弁護士実務でやったことがありますが、被告としてどこまで把握すべきかもはっきりしない)、誰の名で裁判できるかもはっきりしないなど、権利行使阻害要因がいっぱいありました。

「さと」(郷と里)3

律令制では日本の自然発生的集落を漢字の村にする・・中国の邑の制度を取り入れなかったようですが、邑は訓読みでムラとなりますが、元々は原始的氏族共同体だったようですが、次第に家父長的支配関係〜専制支配構造を有するものになっていったので、700年頃の邑は日本の原始的ムラ社会(原始共同体)と実態が合わないので採用しなかったのでしょう。
この辺は郡県制のうち官僚支配の明確な「県」の制度を採用しなかったのと同様でしょう。
中国戦国時代の改革派商鞅(公孫鞅)の故事では彼が賜った領地を商邑と読んだ記憶です。
商鞅に関するウイキペデイアの記事からです

公孫鞅は商・於という土地の15邑に封ぜられた。これより商鞅と呼ばれる
漢字邑に関するウイキペデイアです

漢字の邑は区画や囲壁をあらわす「囗(くにがまえ)」にひざまずいた人をあらわす「巴(卩)」をあわせた会意文字で、この全体を略した部首が「阝(おおざと)」である。邑の社会は同姓の一族による氏族共同体で大抵は土塁よりなる囲壁をめぐらし、周囲に氏族民共有の耕作地が展開した。 [1] [2]
やがて大邑が小邑を従えるようになり、また邑どうしを結ぶネットワーク状の社会が形成されるようになる。またその中から特定の大邑の君主は殷や周の様に王および天子を称して諸々の大邑を従え、邑社会に盟主として臨むようになる。ここで殷王や周王の権威に服した大邑の君主が「諸侯」、王や諸侯の君臨する大邑が「國(コク)」である。
戦国時代の領域国家の時代から秦漢帝国の統一王朝の時期に出現した県、郷、聚、亭と称せられるものは邑の発展によって規模や性格が分化して成立したものである。こうした邑の後身の都市的集住地のなかでも県の雅称として邑を用いることが多くなっていく。[1] 領域国家への発展とは邑の氏族共同体の解体による家父長的支配の台頭であった。

まさに日本列島の原始的集落発展段階の中国版ですが、古代集落の原型が漢字の作りからして「膝まずく」上下関係から始まっているのには驚かされます。
日本の縄文時代集落のあり方から見ると支配者がいてそれに膝まづく上下関係から始まったとは到底想像できません。
東京大空襲後に母方実家/郷里で私が育った集落は「字〇〇」という地名でしたが、まさに明治新政府が合成した村の中に取り込まれた里でした。
その字では「東」と「西」」という2集落(各8〜10戸前後)に分かれていてその境目に幅1メートル足らずの小川がありその水源地付近にお寺が一つありました。
江戸時代に各集落に戸籍役場代わり(宗門人別帳)や、埋葬管理(衛生感の発達)のお寺が各地に設けられ(集落の寄り合い場所になるなど公的機能を果たしてきました)たのに合わせて、維持可能なように集落の統合が行われたようです。
現在、いくつかの市町村共同上下水道事業や共同消防組合等の走りです。
わたしが幼児〜学童期に育った集落「字」では東西2集落が、お寺を村の寄り合いの場として、10人程度の大人が集まり入会地の管理や道路普請〜水路の石垣の手入れ等の手はずを決めていましたし、女性は女性で観音講という夫人の集まり..茶話会の場葬儀やお寺の年中行事その他の共同化事業により、江戸200年余りでだいぶ一体化が進んでいたようですが、それでも「東ら」と「西ら」という区別意識が(幼心に残るほど)濃厚でした。
こういう「字」が数十個集まっているのが、明治以降に出来上がった「村」のイメージで、私の育った村は水田地帯の真ん中にあって正方形に近かったので子供心の記憶(自転車で走り回った記憶)では村の端から端まで3〜4キロ前後でしたので、1里四方→まさに日本古代の「さと」の規模でした。
近隣の村や町も皆似たような広がりのある地形でした
それぞれの村や町に一つの小学校、中学校があり、明治の学校制度創設に合わせてこれを維持するに必要な経済力・いわば学区ごとに最小単位を設けた(江戸時代の集落のままでは小学校すら作れません)イメージです。
小中学校では運動会等の行事が行われるので、自然に纏まり・共同体意識が仕上がる仕組みでした。
私は中学卒業と同時にその村を出たのですが、直後に昭和30年代の町村合併があり、近隣が一つの町になりました。
このように日本の行政上の地方単位は古代から大きくなる一方で、その代わり内部に旧単位が大字小字などとして残っていきます・・昨年秋香取神宮に詣でましたが、平成の大合併で佐原市と香取町が合併して由緒正しい?香取市になっていました。
平成以降の大合併では大字というより明治にできた村の元単位を残す何々地区という呼称が多いようです。
20年ほど前に仙台の泉区役所に行ったことがありますが、元は泉市か泉町で合併により区になったようでした。
政令指定都市では正規に区制を布けますが、その他の市では〇〇地区と称するようです。
弁護士になったばかりの頃の境界争い事件では当時、区長さんの家には古い地図があるという主張が多かったのですが、当時区長ってなんだろう?と思いながら聴いたものでしたが、明治の中央集権化政策で問答無用的に行政単位として江戸時代までの小さなむら( 〇〇の庄?)を統合して村を設置して事実上従来からのムラ組織が破壊されても自治組織として「区」を名乗ることが多かった・・今の町内会や自治会の始まり?という論文が出ています。

 「さと」(郷と里)2(村)

明治維新で小集落を大量に集めて現代の郡市町村制が布かれましたが、「村」や町に吸収された多くの旧集落(古代から続く「むら」)は、大字小字として名を残したのと同じです。
里部に関するウイキペデイアでは以下の通りです。

『周礼』によれば、五家を隣、五隣を里とするので、25戸であったとする。また距離の単位として300歩あるいは360歩(唐以降)を意味した(漢代頃400メートル強で唐代550メートル強)。なお現代では日本の尺貫法において4キロメートル、中国の市制において500メートルとされる。

上記の通り、中国の里は25戸ですし、日本の「さと」は50戸単位で規模が違うし、距離単位でも現在日本の1里は四キロメーターに対して現在中国の1里はわずか5百メーターです。
300歩四方といえば、日本の1町歩の面積(千坪=千歩・・1反歩=300歩・1畝30歩)に大方合いそうで・千葉市内の現在小学校の面積が大方この基準のようです。
日本では古代からムラが集落の基本単位のように理解しているのですが律令制では村の制度をそのまま取り入れず、明治の地方制度改革で初めて公式に「村」の名称が公認されたように見えるのは何故でしょうか?
村に関するウイキペデイアです。

近代化以前の「村」は自然村(しぜんそん)ともいわれ、生活の場となる共同体の単位だった。江戸時代には百姓身分の自治結集の単位であり、中世の惣村を継承していた。
江戸時代にはこのような自然村が、約6万以上存在した。また、中世初期の領主が荘園公領とその下部単位である名田を領地の単位としていたのに対し、戦国時代や江戸時代の領主の領地は村や町(ちょう)を単位としていた。
近現代の大字(おおあざ)といわれる行政区域は、ほぼかつての自然村を継承しており、自治会(地区会・町内会)や消防団の地域分団の編成単位として、地域自治の最小単位としての命脈を保っている面がある。
明治時代に入ると、中央集権化のため、自然村の合併が推進された。こうして、かつての村がいくつか集まって新たな「村」ができたが、これを「自然村」と対比して行政村(ぎょうせいそん)ともいう。

私は明治以降の村と区別するむら意識は古代からも群がる群れる・という和語から来ているので明治以降取り入れた漢字の村とは成り立ちが違うと思っていましたが、ウイキペデイアの解説では、行政村と自然村という区分けをしているようです。
古代のムラを現在用語である村と表現しているのは納得し難いですが、現在の行政単位としての村制度の中で生き残っている大字小字の原型という点は私の個人的的理解と同じです。
さらに自然村は、中世の惣村に始まるという学会?の傾向には直感的に納得し兼ねます。
それまでは散在していたが戦乱等で自衛のために?(映画7人の侍の学問的説明・・)地域共同体が強まったというのですが、古代から鎌倉時代まで人類が一匹のトラのようにバラバラに住んでいたかのような説明はいかにも不自然です。
短期的に見れば、荘園制度が発達して庶民がその下人として働く(自作農皆無?)時代には、自然発生的集落は衰亡していたかもしれない・この説明は江戸時代の商人の住み込み丁稚小僧らは自分の家を持てなかったのと同じイメージで説明されてもっともらしいのですが、安寿と厨子王の設定もそのようばイメージです・・仮にその意見が、実証研究に裏づけられているとしても、それは長い人類の発展過程では(日本の場合何千年という縄文時代の存在から考えても)荘園全盛期は一時的例外に過ぎない事象に過ぎないのではないでしょうか?
惣村に関するウイキペデイアの記事です。

中世初期(平安時代後期〜鎌倉時代中期)までの荘園公領制においては、郡司郷司保司などの資格を持つ公領領主、公領領主ともしばしば重複する荘官、一部の有力な名主百姓(むしろ初期においては彼らこそが正式な百姓身分保持者)が管理する「」(みょう)がモザイク状に混在し、百姓、あるいはその身分すら持たない一般の農業などの零細な産業従事者らはそれぞれの領主、名主(みょうしゅ)に家人、下人などとして従属していた。百姓らの生活・経済活動はモザイク状の名を中心としていたため、彼らの住居はまばらに散在しており、住居が密集する村落という形態は出現していなかった。

漢字になる前の集落・村に関心がない・・何でも漢字にしないと落ち着かない人が書いているのでしょうか?

https://kotobank.jp/word/%E6%9D%91-140799

むら【村】
〈むら〉とは農林水産業,すなわち第1次産業を主たる生業とするものの集落単位の総称であり,商工業者を主とする〈まち〉に対応する概念である。したがってそれは人類の歴史とともに古く,地球上どこにでも存在する普遍的かつ基本的な社会集団であるといえるが,〈むら〉のしくみや経済的機能は,民族により,また同じ民族であっても地域により,時代によって,きわめてまちまちである。ましてやその人口の多寡,村境域の構造,集落の形態,耕地のあり方,さらにはその法的な性格などということになると,〈むら〉とはこういうものだということを一律に規定することは,はなはだ困難である。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について

上記が一般的な理解でしょう。

「こおり」2と「さと」(郷と里)1

漢字の本家でさえも仏教伝来時に意味と関係ない、既存漢字の表音を音写して間に合わせていたのですから、朝鮮半島でも漢字の音を借りて朝鮮半島のいろんな言葉に漢字を割り当てる慣行があったと見てもおかしくないでしょう。
朝鮮での一定の地域単位をもしかして評と言う漢字で表していたのが日本列島に伝播してそのまま日本での利用が始まっていた場合もあるでしょうから、和語の「こおり」を何故「評」の漢字に当てていたのかを素人が詮索しても意味ないのかも知れません。
大宝律令を導入するにあたっては、社会の骨格を決める大規模な法制度導入である以上は、(今で言えば、首相や大統領、議会と言っても国によって権限が大幅に違うように)制度的にどのような権限あるかどのように運用されているかなど深い実態調査に基づく制度導入が必要ですから、表面的な漢字の意味だけでなくかなりの制度研究が進んだものと思われます。
明治時代の欧米制度導入にあたっても、西洋語の皮相的な単語翻訳だけでなく(王とか議会というだけでなく議会や総理・王にどんな権限があるかなど具体的調査を経てドイツ式の法制度導入に至ったものです)欧米の実態研究を行なってからの立案でした。
ウイキペデイアの大宝律令の記事です。

大宝律令に至る律令編纂の起源は681年まで遡る。同年、天武天皇により律令制定を命ずる詔が発令され、天武没後の689年(持統3年6月)に飛鳥浄御原令が頒布・制定された。ただし、この令は先駆的な律令法であり、律を伴っておらず、また日本の国情に適合しない部分も多くあった。
その後も律令編纂の作業が続けられ、特に日本の国情へいかに適合させるかが大きな課題とされていた。そして、700年(文武4年)に令がほぼ完成し、残った律の条文作成が行われ、701年(大宝元年8月3日)、大宝律令として完成した。

上記の通り丸20年かかって中国の実態研究と日本の実情のすり合わせをしています。
明治維新後明治22年の明治憲法制定までの期間とほぼ同様です。
制度研究の結果、漢字の意味を深く知って利用するようになってくるとそれまでの音を借りただけの「評」では意味のない利用法・文化的ではない・恥ずかしい利用法だとなったように思われます。
大宝律令導入にあたって中国の郡県制度の地方単位を導入するにあたって意味を含まない「こおり」に対する当て字を「評」から意味を含んでいる郡に変えたように思われます。
どの漢字であろうと和語でいう「こおり」であったことが変わりないので、日本列島では、一定の集団が固まって(こおる→塊の意味らしいですので)住む地域を単位としていたことになります。
流域文化圏を基礎としたムラ社会ほど濃密すぎない程度の地縁血縁の緩やかな集合体・・その後地域ごとに倭国100余国と言われる地域集団領域と古代の評(こおり)→郡の領域とはほぼ重なるのではないでしょうか?
郡(こおり)は、後世戦国時代の地方豪族の領域ともほぼ重なるように思われる重要な地域単位になっていた(江戸時代にも一定規模以上の藩に郡(こおり)奉行が置かれていました)と思われます。
「こおり」=隣接する郡は気候風土というほど大きな差がないのですが、どこか隣接の郡とは違う気風がある印象で、千葉県では山川で隔てられていないにも拘らず印旛郡と千葉郡、市原郡、君津郡など、郡によって気風が違う印象を受けます。
関東平野以外ではもっと大きな差があるでしょう。
「こおり」には、下位単位としてのサト(里・これも漢字表記であって和語は今もサトのままです)が、大宝律令で割り当てられていますが、日本の基礎集落はムラですから、このとき自然発生的集落をいくつか集めてサトという中間的単位を創設したように思われます。
(このコラムで「思われる」という書き方は全て調査研究した論説によらない私の直感的思いつきを書くものです)
こおり・評を郡に変えるにあたって同一支配者に属するいくつかの「こおり」を集めて大規模にしたものでしょうし、こおりの規模を大きくすればその中間的単位が必要となり律令制の模範とする中国に「里」の制度があったのでこれを律令制導入時に当てはめたようです。(条里制と学校で習う制度です)
「こおり」ごとに支配者が違えば一つにまとめるのは抵抗がありますが、大和朝廷成立前にはいくつかの「こおり」を支配する豪族の大規模化が進んでいたでしょう。
戦国時代に上杉や信長が、まず尾張国や越後国内で親世代が築いた郡単位の勢力を徐々に広げて国内統一→周辺国進出、最終段階で全国区の戦いになるのが普通ですので大和朝廷成立時には、歴史に残る出雲や吉備とか越前の勢力は数カ国にまたがる勢力を持っていたでしょうし、その配下武将も数郡程度の支配地を持つ中規模豪族がいたものと推測されます。
信長や信玄等の勢力拡大につれて配下武将も大名に成長していたように、大伴氏や葛城、蘇我等の大豪族は大和朝廷内の有力豪族としても、それでも大和朝廷が大きくなるにつれて・・本拠地以外に勢力の根を扶植していたものと思われます。
武田信玄配下の有力武将(12将)はそれぞれ勢力に応じた支配地を持っていたように、地形の複雑さから直接支配地が限られる・・足利政権の脆弱さが顕著でしたが・・中央権力の弱さが日本列島の歴史でした。
戦国時代に多い勢力拡大時における被占領地の国人層に対する本領安堵方式は、先史時代から続くものであったことは各地の神々がそのまま残っていることがその証拠でしょう。
地形の複雑さが、直接統治に無理があったために峠を越えて勢力拡大しても一次的支配しかできないので、大軍で押し寄せてもいつまでもいられないので引き上げるまでに地元に協力組織を構築視して帰るしかなかった・・いざという時に戦役に応じる義務・兵力提供義務程度にするしかなかったのが現実でしょう。
この結果負けた方の地域名も残るので、ムラの上の中規模単位もそのまま残ります。
明治維新で小集落を大量に集めて現代の郡市町村制が布かれましたが、「村」や町に吸収された多くの旧集落(古代から続く「むら」)は、大字小字として名を残したのと同じです。

免責事項:

私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

一言でいえば、ここで書いた意見は「仕事」として書いているのではありませんので、『責任』を持てません。

また、個別の法律相談の回答ではありませんので、具体的事件処理にあたってはこのコラムの意見がそのまま通用しませんので、必ず別の弁護士等に依頼してその弁護士の意見に従って処理されるようにしてください。

このコラムは法律家ではあるが私の主観的関心・印象をそのまま書いている程度・客観的裏付けに基づかない雑感に過ぎないレベルと理解してお読みください。