寄留者の管理1

 

江戸時代でも宗門人別の手続きの実際は、お寺で宗派の認証を受けてそれを村役人に届けて名主等の村役人が署名して村役人が管理する仕組みでしたが、明治になって、お寺の認証を経る前段階がなくなった点が江戸時代の人別帳と庚午戸籍以降の戸籍制度の関与機関の相違と言えます。
05/09/10「お寺の役割4(宗門人別帳1)」前後で書いたように、江戸時代の人別帳制度始まりの動機が切支丹選別にあって、同時に切支丹と結びついた時には戦力になる浪人の締め付けをすることにあったのに比べれば、明治では切支丹の選別よりは、旧幕臣を中心とした不穏分子の動態把握にあったのですから、宗派の認証は二の次でした。(旧幕臣が切支丹である可能性は低いでしょう)
この時期の脱藩浪人は、失業者と言うよりは、主家に迷惑をかけないように自ら脱藩して何とか薩長土肥政権に意趣返しをしたいと言う者が多かったこともあります。
徳川政権初期も失業武士は元豊臣方残党か幕府によって取りつぶされた大名家の元家臣が中心ですから、元々徳川政権に対する不満分子でしたし、明治初期の廃藩置県前の失業武士もその多くは旧幕臣や元会津藩士などいわゆる賊軍系・・薩長土肥政権からすれば旧敵方の残党とも目される武力グループでした。
徳川初期にはこの不満分子の武力・エネルギーが切支丹と結びついて大事件になったものですし、明治では、これが新政権のお膝元となるベき東京に住み着いていたのですから、なおリスキーでした。
ちょうどエネルギーが上野の山に溜まったところで、徳川政権の残党とも云うべき者達のエネルギーをまとめて叩きつぶして、(慶応4年=明治元年5月14日僅か1日の作戦で)不満分子を江戸から潰走させ、他方で彰義隊に参加しなかったものに対しては懐柔策として前回(3月7日)書いたように静岡茶の栽培その他の開拓に誘導して行ったので、(北海道開拓などは旧賊軍系元藩士が中心でした)旧賊軍系を中心にした不満分子に対する問題は解決を見ました。
この後は、不満分子の担い手は旧幕臣系から廃藩置県(明治4年7月14日)によって失業した新政権側の失業武士、不平士族に移って行くのです。
話を戸籍整備に戻しますと、慶応4年(9月に明治への改元です)5月の彰義隊攻撃でその余燼の冷めやらぬ翌明治2年3月には前回紹介した戸籍登録開始・・言わば残党狩り的調査とも言える現況調査を始めたのが明治2年の東京での戸籍整備開始でした。
ただし、戸籍制度は職権で調査して官が作って行くのではなく、戸主による家族構成員の自主的届出制度でしたので、どこまで行っても(いくら罰則で脅しても何百万戸に上る戸主みんなを処罰することも出来ないし)正確性を確保出来ず、明治19年式戸籍の2年ほど前から壬申戸籍は行き詰まってしまっていたようです。
3月6日に壬申戸籍布告前文を紹介しましたが、そこで色々(くどいくらいに)と政府が訴えているのは、如何にして国民が戸籍から漏れないようにするかの心配ばかりです。
之だけくどくどと書いているのは、治安維持のための人民の把握や戸籍届けの脱漏による徴兵や徴税機能が空洞化しないように把握漏れを恐れていたからでしょう。
太閤検地以来現在まで実測よりも2〜3割面積が多いのが農地では普通なのは、(耕地整理した土地は正確です)面積が課税の大きな基準になるからです。
ただし、お寺の認証が不要になっただけで、戸籍簿の記載内容には構成員の宗教から人相身体の特徴まで何でも書いていたことはFebruary 17, 2011「宗門人別帳から戸籍へ」のコラムで書いたとおりです、
後のいわゆる明治19年式戸籍(内務省令や書式等を総合をして言うようです)で漸く宗派を書く欄がなくなったようです。
宗門人別帳時代には実在しても除籍してしまうなど実態に反する記録が多かったのは連座責任を免れるためでしたが、明治政府の戸籍管理は治安維持・徴税目的でしたから、(そうではないとする反論も当然あります)明治3年の庚午戸籍では一村3名の戸籍改役を置き年4回、各家ごとに戸籍と突き合わせをして確認を義務づけるなど厳しい規制が行われています。
それでも事実に反した記載(偽籍)が多かったのか、
「明治7年(1974)2月には、甲第9号を以て戸籍編製法が、「管下戸籍未タ全備ナラス随テ人員遺漏ノ弊ヲ免カレス」として、
1、戸主幼少、婦女のみの場合、空名を掲げることのあるのを、幼少戸主、婦女戸主を許容して、極力現実の人員を把握しようとしている。
 2、「人民適宜ニ任セ戸主ト家族ト東西ニ住居ヲ分ケ家産ヲ別ニスル者ハ総テ分家ト見做(な)シ一戸ヲ以テ論スヘシ」とし、現実の生活単位をそのままに把握する。
 3、各戸に標札を掲げさせ、戸内の人員を掲示する。これは本籍寄留を問わない。」
以上は、ww.town.minobu.lg.jp/chosei/…/T12_C01_S03_1.htm -からの引用です。
最近ははやりませんが、30年ほど前までは表札に家族全員を書き出す形式のものが流行っていて、門柱や玄関付近の柱に貼ってあったことがありますが、この通達によって習慣化されたものでしょう。
いまでも各戸に、苗字だけの表札を掲げる習慣が残っていますが、考えてみると不思議な習慣ですが・・これからは次第になくなって行くように思われますが・・・はこのときから始まったものです。
明治19年(1886)内務省令第19号によって、正当な理由のない未届けを過料にする規定が設けられていますから、国民の抵抗はまだまだあったようです。

宗門改めから戸籍整備4

徳川政権で認められていた仏教寺院の宗門人別改め権限(・・このときでも登録は名主層等村役人の仕事でした)を取り上げて、これを神社に移管した象徴として前回紹介した太政官布告が一般的に紹介されているようですが、実態は違うようです。
国民管理構想は壬申戸籍どころかその前の明治2年6月4四日民部官達をもって府県に対し示した、京都府編製の戸籍仕法書(長州藩の制度が採用されたとか言います)が頒布されて全国施行された庚午戸籍(明治3年3月施行)に始まるようですが、このときから既に名主等の旧組織利用による言わば行政府が独自に管理する方向で準備が進んでいたもので、江戸時代との違いはお寺抜きになっただけです。
戸籍制度の直後に布告された前回紹介の布告が宗教選別権をお寺から取り上げて神社に与えた布告であるとは一概に言えないでしょう。
全国版ではないので法令とは言えませんが、明治政府は天皇の行幸に間に合うように東京だけの戸籍管理を応急的に実施していますが、この段階で既にお寺経由ではなく、名主制に代えて年寄りの仕事になっていたこと(お寺や神社の関与がなくなったこと)が分ります。
この戸籍管理は、東京には脱藩浪人や失業武士が溢れていて治安に問題があったので、(治安維持名目に旧幕臣を中心に彰義隊が結成・鎮圧された経過を想起しても良いでしょう)彼ら旧幕臣ら失業武士の実態把握・・第一に治安確保目的に人別管理を行うために急遽実施していたのがその基礎にあります。
今でも地域の交番は、域内居住者の動静把握に熱心ですが、治安維持にとって先ずどこにどういう人が住んでいるかの情報把握こそが、基礎・第一歩です。
以下は、http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/koseki_nihon_k1.htmからの引用です。
「東京では明治2年〔1869年〕3月ころに「東京府戸籍編製法」と「戸籍書法」(以下これを二法という)が施行されていた。
 それは同月の天皇の東京行幸と遷都に関し、東京の都市下層窮民の救済と無禄無産の者の取締、総合すれば治安対策のために制定された。
 とりわけ「脱藩者」への取締が急務となっていた。彼らが生活に窮し暴動など起こされては遷都自体が無意味になるからである。
 同月10日に市中改正により旧名主が廃止され、彼らの入札により中年寄、添年寄が任命され、50区制が発足した。彼らの第一の仕事が帳籍編製だった。まず、「現在人別調」をこの時点ですでに「入別入」している者と「無人別」の者とに分け、別々の帳籍に登載して把握するというものであった。
 こうして把握された「脱藩者」などが全国各地の開墾事業に動員されたのである。
現在、静岡県では茶の栽培が有名であるが、これもそのときに行われた旧武士階級の救済のためのものである。」
とあります。
明治政府は元々脱藩者・・浪人・武士の失業者は存在自体が危険な存在としてどこに誰が住んでいるかの実態把握を急いでいたので、彼らが真言宗か浄土宗か(仮に切支丹であっても)にあまり関心がなく、先ずは誰がどこに住んでいるのかの実態把握を急いでいたのです。
その記録ついでに、宗派も分れば良い程度であって、お寺による宗教に関するチェック機能を事実上問題にしていなかったと見るべきでしょう。
宗門改めのお触れをMarch 4, 2011「牢人から浪人へ」のコラムで紹介しましたが、江戸時代初期以来刃物を持った武士の失業者は、切支丹同様に危険視されていたのです。
天草の乱も浪人が関与しなければあそこまで大きな事件にならなかったでしょうし、明治になってから起きた上野の山の彰義隊の戦い・各種不平士族の反乱は士族がいなければ事件にならなかったし、有名な秩父困民党事件も浪人・失業士族が絡んで騒ぎが先鋭化したものです。
現在のリビアの争乱も、デモ隊側に寝返った元兵士がデモ隊側に参加し、内乱の様相を呈してくると政府軍側も丸腰の民衆・デモ隊相手とは違い武装兵士相手なら思い切って銃火器の使用をしやすくなり、却って争乱が長引き・・一種の内乱状態に発展してこれまでアフリカ諸国で長引いた内乱に似た状態になりかねないリスクを抱えています。

寄留者の管理と神社1

大正3年成立翌4年施行の寄留法(各種文献では施行日を基準にして紹介していますので、大正4年式と紹介されています・・壬申戸籍も同じで、前年の布告ですが、施行が翌年の壬申の年だったので、壬申戸籍と一般に言われます)では既に市町村長への届出になっているので、前回紹介した神社からお札を貰う仕組みとの関連がその後どうなったのか、少し気になるところです。
ちなみに歌の文句では「お札を納めに参ります・・・」と言うのですが、法的には、お札を納めるのではなく、守札を貰い所持する仕組みですから、(しかも6年に一回の検査ですから)一種の身分証明書の機能を期待したのでしょう。
江戸時代には領域を出るときだけ道中手形・・一種のパスポートが必要でしたので、移動自体に許可が要ったとも言えますが、明治になると守札さえ所持していれば移動が自由になったとも言えます。
封建制社会では農民の移動を極端に嫌い土地に縛り付ける事が重視されていたのに対し、明治政府の目指す商業社会化への幕開けの思想的基盤の闡明です。
その代わり明治ではどこか他所へ行く予定のない者(老幼を問わず)までこの所持を強制したと言えますがので移動の自由を縛る目的ではなく、移動の自由を認める代わりに国民一人一人の登録・・管理が重視されていた事になります。
お札不所持に対する効力を書いていないし、居住地内外を問わずお札の所持を強制するのは実情にも合わないので、これがいつの間にかうやむやになったような印象です。
江戸時代までの禁令は禁止するばかりで違反したときの効力が決まっていなかったことを、02/17/04「罪刑法定主義と公事方御定書7(知らしむべからず)」のコラムで紹介しましたが、明治4年太政官布告はまだ西洋式の刑法の出来る前のことで江戸時代のお触れと同じ形式です。
ただし、いわゆる壬申戸籍も同じ年・明治4年4月の太政官布告第170号で、翌明治5(壬申・ミズノエサル)年2月1日から施行されたので壬申戸籍と言われているものですが、壬申戸籍管理は大蔵省租税寮管理(実務は地方吏員)で神社の管轄ではなかったので、上記神社に関する太政官布告(も同じ明治4年ですが7月4日に第322号で後から出来たことになります)と同時並行だったことになります。
それどころか7月の布告では「来申年正月晦日迄ヲ期トス」・・来たる申年正月晦日までに届け出が命じられ、他方で壬申戸籍の施行がその翌日の2月1日からですから、連携関係にあったことが明らかです。
行政下部組織(当時はまだ市町村制は構想段階程度だったでしょうが・・・庄や郷の村方)管理の戸籍制度と神社のお札(神社も記録して行くでしょう)との併存をどう理解すべきでしょうか?
壬申戸籍の布告を法令全書の手写しでしたものをFebruary 15, 2011「戸籍制度整備1」で紹介しましたが、ここで再度紹介しておきましょう。
前文によれば、管内社寺ヘ達しておくようになっていますが、これは人生の始終を詳らかにする・・・生死の行事は古来から社寺で執り行っていたからでしょうか?
但し、中には神社へ参りしない人もいたでしょうから、その脱漏を防ぐために神社へのお参りを強制したのが同年7月4日の太政官布告第322号だったかもしれません。
そうとすればお寺も神社もそれぞれの役割を期待されていた事になります。
(ただし、神社は生まれた子供が漏れないようにするので、政府に取っては重要ですが、寺は死亡者の届け出だけですから現世の政治には関係がなかった・・死亡者が戸籍に残ったからと言って政治的に重要性がなかった事になりますが・・・。)
とは言え、前回(3月5日)紹介の太政官布告第322号では戸長の証書を持って神社へいくのですから、その条文から云えば、先に戸長への届け出が義務づけられたことになります。
政府としてはその最末端の行政組織である戸長への届出さえあれば、それだけで国民把握は十分ですから、その後の神社の協力は不要だった筈ですから、何のために神社の協力が必要だったのか不明です。
この間の政治の動きを見れば、壬申戸籍の草案〜布告(4月)段階ではまだ社寺の協力必要との認識であったので、社寺へのお達しをし、そうすると神社側では「神社へお参りをしない人までは分りませんよ」となります。
神社側の要望で「法でお参りを強制してくれないと困る」となって王政復古のスローガンとの兼ね合いもあって7月の太政官布告になったのでしょう。
その追加的太政官布告322号が出来上がる間での間に、既に次年から全国的に制度化される「戸長」制度が一部動き出していたので、その布告の中にまだ制度化されていない「戸長」の認証を要する旨が書き込まれてしまったのではないでしょうか。(莊屋から戸長制度への変遷については、この後にざっと紹介します)
今の法制定実務からすれば、来年何月の戸長制度実施のときからは、戸長の認証がいるとしておけば良かった事です。
戸長制度が動き出すとそこで出生から死亡前の登録もみんな戸長の行う戸籍登録で間に合うのですから、神社へお参りをするように命じた太政官布告は、この時点で不要になった筈です。
言わば蛇足・・結局王政復古のスローガンに合わせたリップサービスの域を出なかったことになります。
前書きが長くなりましたが、、壬申戸籍発布の布告の大部分を紹介しておきます。
この冒頭に府藩縣とあるのは、廃藩置県がこの年7月14日ですから4月はまだいわゆる3治体制下でまだ藩が残っていたからです。
(原文は縦書き・旧字体が簡単に出ない漢字は現在の漢字になっていますが原文は全部旧字体です・文中◯は写真なのではっきりしないのですが、欠字のような印象で空白がある部分です)

第170 4月4日(布)
今般府藩縣一般戸籍ノ法別紙ノ通リ改正被仰出候条管内普ク布告致シ可申事
戸籍検査編成ハ來申年2月1日ヨリ以後ノ事ニ候ヘ共右ニ関係スル諸般ノ事ハ今ヨリ処置スベシ・・・以下中略・・・
右ノ通リ被仰出候事
人生始終ヲ詳ニスルハ切要ノ事務ニ候故ニ自今人民天然ヲ以テ終リ候者又ハ非命ニ死シ候者等埋葬ノ處ニ於テ其ノ時々其ノ由ヲ記録シ名前書員数共毎歳11月中其管轄管轄庁又ハ支配所ヘ差出サセ・・・中略・・・。
右の通り管内社寺ヘ可触達候事
戸数人員ヲ詳ニシテ猥リナラサラシムルハ政務ノ最先シ重スル所ナリ夫レ全国人民ノ保護ハ大政ノ本務ナル ◯素ヨリ云フヲ待タス然ルニ其保護スへキ人民ヲ詳ニセス何ヲ以テ其保護スへキヲ ◯施スヲ得ンヤ是レ政府戸籍を詳ニセサルヘカラサル儀ナリ 又人民ノ安康ヲ得テ其生ヲ遂ル所以ノモノハ政府保護ノ庇蔭ニヨラサルハナシ
去レバ其籍ヲ逃レ其数ニ漏ルヽモノハ其保護ヲ受ケザル理ニテ自ラ国民ノ外タルニ近シ、此レ人民戸籍ヲ納メザルヲ得ザルノ儀ナリ中古以来各方民治趣ヲ異ニセシヨリ僅ニ東西ヲ隔ツレハ忽チ情態ヲ殊ニシ聊カ遠近アレハ即チ志行ヲ同フセス・・・以下省略

寄留地2(太政官布告)

寄留の話に戻します。
法の世界では、05/12/10「仏教の衰退5(廃仏毀釈4)」のコラムで既に紹介しましたが・・お寺の宗門人別帳から神社登録制度になったときの明治4年の太政官布告第二条但し書きに「寄留地」が既に現れています。
もう一度紹介しておきます。
以下の条文では生まれると先ず姓名住所を書いて届けますが、「現今修行叉ハ奉公或ハ公私ノ事務アリテ他所ニ寄留シ」ている時には寄留地最寄りの神社に(戸長に届けた上で)参ることとされています。
修行と言うと武者修行をイメージしますが、今で言う親元から離れて技術修行(・・結局は見習い・奉公人を含むでしょう)や勉学のために大都会に出ている程度の意味でしょうし、今の留学の語源はこの辺にあるのかもしれません。
この布告では、今後生まれると直ちに届けることとし、この布告の時に(まだ守札を所持していないものは老幼を問わず)住所地と寄留地の2通りの届け出があったことになります。
ここでは寄留の定義がありませんので、どの程度安定居住した場合、寄留になるのかは常識に従って届けると言う扱いだったのでしょうが、次に紹介する寄留法では90日以上の定住と決められています。

第322 太政官 明治4年7月4日
今般大小神社氏子場取調ノ儀左ノ通被定候事
 
 規則
 1 臣民一般出生ノ児アラハ其由ヲ戸長ニ届ケ必ス神社ニ参ラシメ其神ノ守札ヲ受ケ所持可致事
   但社参ノ節ハ戸長ノ證書ヲ持参スヘシ其證書ニハ生児ノ名出生ノ年月日父ノ名ヲ記シ相違ナキ旨ヲ證シコレヲ神官ニ   示スヘシ
 1  即今守札ヲ所持セサル者老幼ヲ論セス生国及ヒ姓名住所出生ノ年月日ト父ノ名ヲ記セシ名札ヲ以テ其戸長ヘ達シ戸   長ヨリコレヲ其神社ニ達シ守札ヲ受ケテ渡スヘシ
   但現今修行叉ハ奉公或ハ公私ノ事務アリテ他所ニ寄留シ本土神社ヨリ受ケ難キモノハ寄留地最寄ノ神社ヨリ本條ノ手   続ヲ以テ受クヘシ尤来申年正月晦日迄ヲ期トス
 1 他ノ管轄ニ移転スル時ハ其管轄地神社ノ守札ヲ別ニ申受ケ併テ所持スヘシ
 1  死亡セシモノハ戸長ニ届ケ其守札ヲ戸長ヨリ神官ニ戻スヘシ
   但神葬祭ヲ行フ時ハ其守札ノ裏ニ死亡ノ年月日ト其霊位トヲ記シ更ニ神官ヨリ是ヲ受ケテ神霊主トナスへシ尤別ニ神   霊主ヲ作ルモ可為勝手事
 1 守札焼失叉ハ紛失セシモノアラハ其戸長ニ其事実ヲ糺シテ相違ナキヲ證シ改テ申受クヘシ
 1 自今六ケ年目毎戸籍改ノ節守札ヲ出シ戸長ノ検査ヲ受クヘシ
 1  守札ヲ受クルニヨリ其神社へ納ル初穂ハ其者ノ心ニ任セ多少ニ限ラサルへシ
右ノ通ニ候條取調相済候へハ早々可届出尤不審ノ廉有之候ヘハ神祇官へ可承合侯事

上記のとおり各地神社への寄留地登録・・氏子制度が発展して行き、(これと無関係に?)戦後住民登録制度の前身となる寄留法(大正3年・1914年法律27号)寄留手続令(大正3年勅令226号)および寄留手続細則(大正3年司法省令10号)に繋がって行くのです。
大正3年の寄留法(大正3年法律27号)同4年施行で寄留届け出義務があるのは、本籍地外で90日以上一定の場所に定住するときですから、90日も一定の場所にいれば一定の根が生えた・・寄留したと言うことでしょう。
今は住所を定めたときから届け出義務がありますが、当時は住所と言う観念的基準では分りにくいので90日以上定住すれば先ず機械的に寄留にあたると定義付け、届け出を義務づけたものと思われます。

牢人から浪人へ

 

小説などでは作州「牢人」などの表現を時々見かけますが、江戸時代前期頃まで・・再就職の容易な時代までは何故堅牢の「牢」になっているのか不明です。
武者修行中の宮本武蔵に対して、これを使うと何となく意志堅固な印象があって、それなりの効果はありますが、本当に当時からそう呼ばれていたのかについて不思議に思うのは私だけでしょうか?
江戸時代初期には戦国時代の生き残りで意志堅固な浪人もいたでしょうが、江戸中期になると経済成長が止まってしまったので食い詰めた長期失業者を意味するようになると浪々の身を現す浪人となり、幕末になると思想的立場で脱藩した武士も増えて来て水戸浪士や勤王の志士など再び前向きのおもむきで小説などでは表現されます。
(赤穂「義士」の表現は明治・大正になってから発達した講談で、浪人ではイメージが悪いので美化して広まった表現であって、事件のあった当時には「義士」と言っていたとは思えません)
明治の廃藩置県・廃刀令・家禄の公債化によって失業した元武士に対しては、不平士族と言うマイナス名称が付与されました。
このように見て行くと元々「浪人」と言う用例は(昔からもしかして少しくらいあったとしても)一般化していなかったように思えます。
今では、牢人は室町から江戸時代初期までの用法で、その後は浪人になったとわざわざ時代区分までされて解説されていますが・・最近の時代小説はそのように書き分けていると言うだけで、室町時代までの文書の引用もなく・・根拠不明です。
私は法律家ですので、原文らしきものの引用がない説明だけでは落ち着かない性質です。
そもそも、江戸時代に失業した武士と違い戦国時代までの武士は地盤を持った自営業でもあった(足軽とはそこが違います)ので、武士の方が主君と言うより支持していた上位者を見限ってあっちについたりこっちについたりしていたものです。
地方豪族はこうした国人層に支えられていたし、大名は小豪族の多数支持で成り立っていました。
最近上杉家重臣の直江某の物語がテレビ放映されて有名になっているので(私は見ていませんが・・・)多くの方がご存知と思いますが、武士と言えばそれぞれが大小の区別があっても自分の領地・地盤を持っているのが当時の仕組みです。
ですから地元に根付いた武士の支持を失って失業・落ちぶれるのは大名小名クラスであって、武士自体は自分の直接の耕地・耕作者・地盤を持っていた・・半農半士でしたのでどこかの家人をやめて・・出仕をしないで帰っても生活に困ることはなかったのです。
源平の合戦に参加して負けた源氏や平家自身は落ちて行くところがなくなりますが、それぞれに参加していた一段下のクラス鎌田正家などは、国許に帰ればそれぞれ安定した地盤を持っていたことを見れば明らかです。
サラリーマン化したのは、戦国末期に先祖伝来の地盤を持たないでイキナリ出世した武士・・傭兵のごとく戦闘専門化した武士に限られたでしょう。
戦国中期頃までは、普通は自分の一定の地盤を基に配下・一定武力を持って参加していたのをやめるだけですから、失業してウロウロしていたと見るのは間違いですし、この頃は仕官の口を求めて(地盤を離れて)浪々して諸国を歩く牢人などは本来存在していません・・地盤を追われてしまうのは限られた場合だけ・・例外現象だったでしょう。
職を求めるようになったのは、伝来の地盤を離れて武士がサラリーマン化した後の現象と見るべきでしょうから、浪人以前に諸国をウロウロする種類の人材が仮に存在していたとしてもごく少数でしかなく、社会現象とまでは行かなかったように思われます。
古くは山中鹿之介、戦国末期では長宗我部・真田幸村のような根拠地を追われた元武将や腕一本で世間を渡り歩く後藤又兵衛・塙団衛門などいわゆる豪傑などがいたことは確かですが・・彼らを当時世間で牢人と言っていたかは疑問です。
信州の牢人真田幸村などの表現・・名乗りを聞いたことがありません。
ただし、今日タマタマ宗門改め関係のデータを見ていたら、「牢人」と言う単語が出てきました。
以下は、http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/hozonpage1.htmの日本の戸籍制度――江戸時代からの引用です。

   寛永16年〔1639年〕の大阪の菊屋町の「宗門改帳」の例(以下省略)
  一 此以前ヨリ切々被仰付候吉利支丹宗旨御改之儀、毎年町中五人組
   借家之者共候致吟味油断不仕候事
  一 吉利支丹宗旨之者ニ家をかし候者ハ、家主たとい宗門にて無御座候
   ても御成敗、両となりハ闕所ニ可被仰付候、堅御触之上は油断ニ在間
   敷候事
  一 他所より参家買者并借屋かりニ参候もの町中立合宗旨改寺請を立たせ
   置可申候事付、牢人に宿かし候儀、大坂惣年寄印形指上切紙不申請かし候 
   ハ、五人与共ニ曲事ニ可被仰付候

1639年の宗門改めのお触れの中に「牢人に宿かし候儀」=「牢人」に宿を貸す場合の掟が書かれています。
牢人に対しては、宿を貸すだけでも惣年寄の承諾書を要求していて厳しく制限していたことが分ります。
この実例によれば牢人の呼称は、この頃までには実在していたことになります。
牢人は家を借りるところか、一晩の宿さえ簡単に借りられない仕組みですから、「どうすりやいいの!』となります。
この頃には、既に就職難の時代ですから、戦闘能力の高い武士が職を失いウロウロしているのは危険きわまりない・・・政権側では牙を持ったオオカミがウロウロしているように危険視していたのです。
失業武士に対する厳しい政策が、慶安4年(1651年)由井正雪の乱を引き起こしたので、牢人が農民等に転向して行って次第に減って行ったこともあって、幕府は藩の取り潰しを緩めるとともに宥和政策に変化して行くのです。
それにしても何故「牢」などと言う漢字が当時用いられたのか(私の国語力では)今のところ理解不能です。