郡区市町村制

 

明治5年の大区小区制は地域の実情(歴史経緯など)を無視して人口数だけを基準にフランスの制度を性急に導入したもので実情に合わなかったことから、明治11年には元の郡区町村制に戻り、名称も旧によることになります。
第4条の区制は今の東京や政令市同様に人口多数の場合人工的にいくつかに区切る趣旨で、大都会にだけ区制が残りこれが現在の東京23区や政令市の区などの先祖になります。
郡区町村編制法

明治11年太政官布告 第17号  1878(明治11)年7月22日付

郡区町村編制法左ノ通被定候条此旨布告候事

第1条 地方ヲ画シテ府県ノ下郡区町村トス
第2条 郡町村ノ区域名称ハ総テ旧ニ依ル
第3条 郡ノ区域広濶ニ過キ施政ニ不便ナル者ハ一郡ヲ画シテ数郡トナス(東西南北上中下某郡ト云カ如シ)
第4条 三府五港其他人口輻湊ノ地ハ別ニ一区トナシ其ノ広濶ナル者ハ区分シテ数区トナス (※)
第5条 毎郡ニ郡長各一員ヲ置キ毎区ニ区長各一員ヲ置ク郡ノ狭少ナルモノハ数郡ニ一員ヲ置クコトヲ得
第6条 毎町村ニ戸長各一員ヲ置ク又数町村ニ一員ヲ置クコトヲ得(※

明治初期には何もかもフランス方式で始まったのですが、形式的な大区小区制も実情に合わないことから徐々に修正されているうちに地方組織はドイツの地方制度を模範とする方式に修正されて行きます。
上記郡区市町村制への変更は大日本帝国憲法がドイツ(プロイセン)式にとして決着したのを分岐点として明治20年代中期頃から完全にドイツ式に変わって行く先がけ・萌芽だったと位置づけられます。
明治維新では当初いろんな分野でフランス式の制度・文明受容で始まったのですが、そのまま模倣するのでは無理が出て来ます。
明治10年代からあちこちで修正作業が進んでいたのですが、それでも明治23年に首の皮一枚で漸くフランス式を残して・・修正思想が有力になって来たので編纂作業中に我が国の習俗に合わせた条文にかなり変更していたのですが・・成立した民法典が成立後に大反対運動が起こって明治25年には施行延期されてしまいます。
(民法典論争についてはこれまで何回も紹介しています)
西南戦争が不平士族反乱の最後の事件になったように、民法典は社会の基礎的文化のしきたりを決めるものですから、この大論争はフランス式文明受容方向で始まった明治維新が、ドイツ式文明受容へ転換する象徴的事件・・トドメであったことになります。
民法典論争は明治25年に決着がついて施行延期が決まるのですが、これこそがフランス式文明との決別が最終的に決まった瞬間と言えるように思えます。
施行延期して出来上がった改正民法(現行法)については、大騒ぎしたにしては、内容的にそれほど変わっていないと言う意見が多いのですが、私のような半素人から見れば法典編纂の形式が大幅に変わっていることがすぐ目につきます。
この形式こそフランス式からドイツ式に変わった大きな特徴です。
ところで学派的に見ると、民法典論争はドイツ法学派とフランス法学派との論争だったのではなく、英米法学派との論争だったのですが、改正作業が終わってみるとドイツ法学に入れ替わってしまい、東大の学者層もフランス法系からドイツ法学者に入れ替わって行きます。
こうして第二次世界大戦後アメリカ系の学問が入ってくるまでは法学政治学に留まらず医学であれ、科学であれ、すべてドイツ系学者が幅を利かす時代になったのです。
明治5年に大区小区制を決めたときから戸長の仕事は戸籍事務だけではなくいわゆる末端行政事務を担当するようになりますが、このときは伝統に従って名主間の推薦による戸長でしたので、地方名望家が中心・・政治意識の高い地方政治家の卵でした。
上記郡区市町村制でも町村の長を戸長とし、戸長役場を設けましたが民選でしたから、従来通り地方名望家・豪農が就任する慣例でした。
戸長役場制度を設けても予算がないので、戸長の自宅屋敷を役場に併用する例が多かったようです。
彼らは末端の行政組織員でありながら地元利益の代弁者として政府方針に逆らう・・自由民権運動(・・今で言う野党的運動)の人材供給源にもなる矛盾した関係でした。
古代以来の草の根民主主義に馴染んで来た地方有力者にとっては、今後は中央集権制だからと言って専制的に上から押し付けてくる乱暴なやり方に不満を持ちやすい立場でした。
そこで、政府は1884年町村合併標準提示(明治21年 6月13日 内務大臣訓令第352号)に基づき、約300~500戸を標準規模として全国的に行われた町村合併。結果として、町村数は約5分の1に・・・平均5町村を併合して?約500戸に戸長1名を置く(連合戸長役場)制度に変更すると共にこの時に戸長自宅を役場に併用することを禁止して、地元に根が生えていない人・・生粋の官吏を中央から派遣出来るようにしました。
戸籍簿も戸長の自宅から役場管理に移しました。
環我々事件に関連して古い記録が必要なときに戸長さんの家に行くと出てくることが多いのですが、この時に記録を移さないで戸長自宅に残ったままになっている地域が多かったことによるものです。
ここでは法に従って戸長と書いていますが、依頼者の話では区長さんの家に行くと・・・と話す人が多いです。
(私自身もMarch 10, 2011「末端行政組織の整備(区制1)」で書いたように区長を何故家を現す戸の長と言うようになったのか理解出来ていません)
文字を見ないで理解している人にとっては、区の長だから区長と理解している人の方が多いのです。
政府の末端組織である事を貫徹させるために民選から知事の任命による官選・・忠実な行政官に移行(明治17年5月)して行き、それ迄の民選との妥協として一応推薦された中から選ぶ制度も残しました(以下の太政官達を見て下さい)が、徐々に我が国の草の根の民主主義が次第に窒息して行くのです。

明治17年太政官達第四十一号
 戸長ハ府知事県令之ヲ選任ス 
 但町村人民ヲシテ参人乃至五人ヲ選挙セシメ府知事県令其中ニ就イテ選任スル事ヲ得ベシ此旨相達候事

この戸長制度は明治22年の市制・町村制の施行(明治21年4月17日法律第1号)によって廃止される迄続きますが、市町村制に移行すると推薦の制度がなくなり100%サラリーマン・官吏になって行ったようです。
ただし、この法律の作り方は、市制と町村制を区別して事実上二つの法律のような条文構成になっていて、地方行政組織の長は官選化したとは言うものの、独立の法主体としての規定の仕方になっているようです。
(条文自体を今のところ入手していないので、本当のところは分りません。)

区制3

区と言えば今では東京23区や、政令指定都市内の行政区の専売特許みたいな印象ですが、特別な政策目的達成に合わせて人工的に作った区域と言う意味がその始まりでしょう。
東京都や政令市の区は特殊目的限定ではなく一般行政区域として存在しているのですが、これは自然発生的な政治単位・・集落とは違います。
小さすぎる集落を行政目的に合わせていくつか併合して区にしたのと同じ考えで、大きくなり過ぎた東京市街を管理しやすくするために人工的に区切ったのですから、その本質は同じです。
今でも残る選挙区や学区等は元々は特別な制度目的に応じて形成されて来たし、今でも歴史的要因を少しは加味しますが、基本的には行政管理しやすいように人口数で割り切って行く点は同じです。
東京23区に議会がありますが、政令市の区は行政の便宜のために区割りした地域センター同様で、区長は市長によって任命される下級吏員でしかありません。
区と言う漢字の意味は区切る・区分けする・・自然発生的な地域ではなく、自然にあるいは既に存在するものを人為的に細かく区切ることですから、当然それには区切る必要性・・目的があることになります。
一体のものを事業・施策目的に合わせて、必要な規模・区域に区切って行くのが区制の意味です。
従来の日本は各地各藩の連合体であって、・・幕府は戦国大名の筆頭としてヘゲモニーを握っていただけで、地域の意見を聞いてやって行く仕組みでしたが、明治政府は国のあり方として国は連合体の積み上げではなく一体である・一体化するべき思想を前提に、一体化すると大きくなりすぎる内部を区切って行く方式を考えていたのです。
これに一番近い・・地方ごとに政治主体のないのが専制君主制の中国や朝鮮の政体ですが、それでは進歩がないので絶対王制・ナポレオン帝政の歴史があるフランスに範を取ろうとしていたのです。
村八分に関連して村の意味を後に別に書いて行く予定ですが、我が国の「むら」は自然発生的なムレから来た言葉でしょうから、明治政府は中央集権国家に変革して行くためには、国内の地方行政組織が自然発生的集落の連合体では具合が悪いと思っていたようです。
自然発生的な集落では、意思決定が全員参加の寄り合い形式で決まり、ここで決まった内容・・地元意見の積み上げでその地域全体の方向性が決まって行くのが基本的思考様式ですから、上からの号令をしても各集落の納得を得る手順では行き届くのに時間がかかりすぎる上に集落の規模もマチマチですから、国家統一的施策の迅速な貫徹には無理があります。
いわゆる啓蒙的立憲君主制・中央集権国家制には不向きと考えたのでしょう。
実際、地方自治制に戻った現在では、何をするにも時間がかり過ぎて、世界の潮流に遅れを取るようになっています。
この点、元々王朝制の歴史しかない韓国では、何事も決断・実行が迅速です。
これは民主主義かどうかの違いではなく、草の根の寄り合いによる合議から積み上げて行く歴史があるかどうかの違いです。
中央集権国家化・・区制に戻しますと・・・明治初期にはフランス行政区域制度に範を取って今後は各地域を行政単位として再編成・区分けしようとして、郡町村制を一旦廃して合理的な大区小区制にしようとする思想が政府の主流でした。
歴史要因を無視して数字だけで割り切って行く方式を視覚的比喩すれば、・・複雑な日本庭園を、ベルサイユ宮殿やヨーロッパの幾何学的な庭園に作り替えてしまおうとするようなものです。
これを合理化と言うかどうかは別として、戸籍整備・義務教育制度構築を急いでいた政府は、さしあたり戸籍整備用の区と学区制から始めたともいえます。

区制2(中学)

元々江戸時代までの集落は、集落構成員が生存に必要な限度で営む水田灌漑設備の共同維持管理に必要な規模・・自然発生的な集落に過ぎず、何らかの政府の施策を貫徹する・行政に必要な単位ではなかったので、古代からの血縁中心集落のままで江戸時代まで変化せずに苦労がなかったのです。
近代国家になって政府が学校や上下水道・保険・医療その他政策実現に必要な行政単位としてこれを見ると、血縁を基本にした古代からの小規模集落では、対応しきれなくなることは明らかです。
行政単位としての市町村では対応しきれない分野に関しては、広域市町村連合や組合を構成しているのは今でも同じですが、(消防組合や広域上下水道組合や医療機関など)明治始めの集落は今の行政単位とは比べ物にならない小規模なものでしたから、行政単位を大きくして行くのは時間がかかるのと・戦国時代の豪族や国人層の連合みたいになって効率的ではない・明治政府の目指す中央集権国家向きではないので、先ず行政
目的別の区を作って行ったと思われます。
現在でも行政単位とは別の選挙区制や学区制その他が残っていますが、学区制を例としてみておきましょう。
元は江戸時代までの集落を基本にすると行政単位が小さすぎて(10数戸から数十戸の集落単位では)小学校を集落ごとに作れなかったから集落単位を超えて、おおむね500戸を基本として一つの小学校を作ったことから始まったことでした。
選挙区制も今では小選挙区ですが、それまではいくつかの市町村がまとまって一つの選挙区でした。
小選挙区制の今でも千葉市の例で言えば、千葉市の若葉区が佐倉市と同じ選挙区になっていて、緑区が市原市と同じ選挙区になるなど行政区域と選挙区は一致していません。
明治五年壬申七月太政官布告第214号で漢字仮名混じり文の優しい形で学問の必要なことを解き明かした珍しい布告がありますので、煩を顧みずそのあらましを紹介し、これを受けた明治5年8月の別冊の学区制を紹介しておきましょう。
勉強は自分のために必要なことであることを縷々述べた最後は自分でお金を出すべきである・政府に頼るなと言う諭しです。
「人々自(みづか)ら其身を立て其産(さん・しんだい)を治(をさ)め其業(げふ・とせい)を昌(さかん)にして以て其生(せい・いっしょう)を遂(とぐ)るゆゑんのものは他(た)なし身を脩(をさ)め智(ち・ちえ)を開(ひら)才芸(さいげい・きりょうわざ)を長(ちょう・まず)ずるによるなり而て其身な脩め知を開き才芸を長ずるは学(がく・がくもん)にあらざれば能(あた)はず是れ学校(がくかう・がくもんじょ)の設(もうけ)あるゆゑんにして日用常行言語書算(にちようじやうこうげんぎょしょさん・ひびのみのおこないことばづかいてならいそろばん)を初(はじ)め仕官(しくわん・やくにん)農(のう・ひゃくしやう)商(しよう・あきんど)百工(ひやくこう・しよくにん)技芸(ぎげい・げいにん)及び法律(ほうりつ・おきて)政治(せいぢ)天文(てんもん)医療(いれう・やまひいやす)等にあきんどしよくにんげいにん    おぎて至る迄凡人の営(いとな)むところの事学(がくもん)あらさるはなし人能く其才のあるところに応(おう・まかせ)じ勉励(べんれい・つとめはげみ)して之に従事(じゆうじ・よりしたがひ)ししかして後初で生を治め産を興(おこ)し業を昌にするを得ベしされば学問(がくもん)は身を立るの財本(ざいほん・もとで)ともいふべきものにして人たるもの誰か学ばずして可ならんや夫(か)の道路(どうろ・みち)に迷(まよ)ひ飢餓(きが・くひものなき)に陥(おちひ)り家を破り身を喪(うしなふ・なくする)の徒(と・ともがら)の如きは畢竟(ひつきやう・つまり)不学(ふがく・がくもんせぬ)よりしてかゝる過(あやま)ちを生ずるなり従来(じうらい・もとから)学校の設ありてより年を歴(ふ)ること久しといへども或は其道を得ざるよりして人其方向(はふこう・めあて)を誤(あやま・まちがい)り学問は士人(しじん・さむらい)以上の事とし農工商及婦女子(ふじょし・をんなこども)に至っては之を度外(どぐわい・のけもの)におき学問の何者(なにもの)たるを辨(べん)ぜず又士人以上の稀(まれ)に学ぶものも動(やや)もすれば国家(こくか・くに)の為にすと唱(たな)へ身を立るの基(もとゐ)たるを知(しら)ずして或は詞章(ししょう・ことばのあや)記誦(きしよう・そらよみ)の末に趨(はし)り空理虚談(くうりきよだん・むだりくつそらばなし)の途に陥(おちい・はまり)り其論(らん)高尚(かうしよう・りつぱ)に似たりといへども之を身に行(おこな)ひ事に施(ほどこ)すこと能(あたわ)ざるもの少からず是すなはち沿襲(えんしう・しきたり)の習弊(しうへい・わるきくせ)にして文明(ぶんめい・ひらけかた)普(あま)ねからず才芸の長ぜずして貧乏(びんぼう・まずし)破産(はさん・しんだいくずし)喪家(そうか・いへをなくす)の徒(と・ともがら)多きゆゑんなり・・・・中略・・・・・・・
但従来(じうらい・これまで)沿襲(えんしう・しきたり)の弊(へい・くせ)学問は士人以上の事とし国家の為にすと唱ふるを以て学費(がくひ・けいこりよう)及其衣食(いしよく・きものくみひも)の用に至る迄多く官(くわん・やくしよ)に依頼し之を給(きふ・くださる)するに非ざれば学(まなば)ざる事と思ひ一生を自棄(じき・じぶんからすて)するもの少からず是皆惑(まど)へるの甚(はなはだ)しきもの也自今以後(いまからのち)此等の弊(へい)を改め一般(いちどう)の人民他事(たじ・ほかのこと)を抛(なげう・すてをき)ち自ら奮(ふるつ・はげみ)て必ず学(がくもん)に従事(じゆうじ・よりしたがい)せしむべき様心得べき事

右之通被 仰出候条地方官ニ於テ辺隅小民ニ至ル迄不洩様便宜解釈ヲ加へ精細申諭文部省規則ニ随ヒ学問普及致候様方法ヲ設可施行事
明治五年壬申七月
太政官
地方官において便宜解釈を加えて小民に至るまでで漏れなく申し諭し、文部省規則に従い学問普及致し候様・・・として、以下文部省布達第13号の別冊になるのです。
別冊
第五章 一大学区ヲ分テ三十二中区トシ之ヲ中学区ト称ス区毎ニ中学校一所ヲ置ク全国八大区ニテ其数二百五十六所トス
第六章 一中学区ヲ分テ二百十小区トシ之ヲ小学区ト称ス区毎ニ小学校一所ヲ置ク一大区ニテ其数六千七百二十所全国ニテ五万三千七百六十所トス
第七章 中学区以下ノ区分ハ地方官其土地ノ広狭人口ノ疎密ヲ計り便宜ヲ以テ郡区村市等ニヨリ之ヲ区分スヘシ

上記のとおり、中区に一つの中学その中区に210の小区=小学校を置く仕組みでしたから、明治の初めには中学はかなりのエリートだけ・・・中学と小学のⅠ学年の生徒数が仮に同じ規模とすれば、小学卒業生の内210人に一人の進学率を計画していたことになります。
ちなみに現在の学制・・大学中学小学の分類は「変なものだなあ」と子供の頃から思っていましたが、生徒身体の大中小の意味ではなく元は学区が大中小に別れていてその大区に一つ作るのが大学(帝国大学)中区に一つ作るのが中学と言うのが語源であったとすれば意味が分かります。
この呼称がそのまま戦後の新制中学に引き継がれたと言う次第です。
地域の実情を無視した機械的な区割り制度は後に教育令で変更されますが、学校制度の構想が最初はこんなものだったことが分ります。
私の子供の頃・・すなわち戦後の新制中学発足後ですから、一つの村に一つの小学校校・中学校が普通でしたが、まだ高校はいくつかの村に一つでしたし警察署もそうでした。
これが行政単位の合併の繰り返しによって、今では行政単位の規模の方が学区の規模を追い越してしまい、一つの市町村にいくつも学区が出来ている状態です。
子供の進学のときに頭を悩ませる(越境入学など)ご存知の学区制・・は、このときから始まっているのです。

末端行政組織の整備(区制1)

寄留者を管理するための明治初期頃の末端行政組織がどのようなものであったかですが、村役人制度は定住者の多い地方では機能していましたが、住所まで行かないで不安定な生活をしている人の多い都会地では彼らよそ者を担当する組織がどうなっていたかです。
3月6日に引用して紹介した説明では明治2年に東京だけの戸籍整備実施にあたって市中の旧名主制をやめて入札制(今の投票制?)で年寄り・50区制を採用したと書かれていましたが、これによるとその以前から名主制が存在していたことが分ります。
明治2年の戸籍整備は脱藩浪人等不安定居住者の把握を目的で始まったとすれば、名主から発展した年寄りらは、戸籍編成時に寄留者も同時に記録するようになって行ったことになります。
そうとすれば、定住まで行かない人の現況把握にはお寺や神社の協力を必要としていなかったことになります。
ところで、3月5日に紹介した神社にお札を貰いに行くように命じた明治4年の太政官布告322では「戸長」を通じて(戸長の証書を持って)お札を貰いに行くことになっています。
この布告自体で既に戸長の人民管理が神社へのお参りに先行していることが分ります。
戸長とは何かですが、これは法的には、明治5年の太政官布告17号で、従来の莊屋、名主の制度を改めて、戸長にした結果生まれた名称であることが、この太政官布告で分ります。
法令全書のコピーがネットで見られるのですが、写真しか載っていないのでコピー出来ないので、明治5年分の法令全書から莊屋等から戸長に名称変更された布告を手写しで載せておきます。
第117号(4月9日)
「1 莊屋名主年寄等都テ相癈止戸長副戸長ト改称シ是迄取扱來リ候事務ハ勿論土地人民ニ関係ノ事件ハ一切為取扱候様可致事
 1 大莊屋ト称シ候類モ相癈止可申事
 1  以下省略

(漢文では「都テ」は「すべて」と読むことを09/15/09「都市から都会へ」のコラムで説明しております。)
上記のとおり、明治5年4月からそれまでの莊屋名主等はなくなって戸長副戸長制度が出来たのですから、明治4年には戸長の呼称がなかったかのように見えます。
莊屋名主等から戸長への名称変更の布告前の明治4年の布告の中に既に「戸長」が出てくるのは、その頃には戸長と言うものが(全国一律ではないまでもあちこちに)事実上出来ていたからでしょう。
すなわち明治4年の壬申戸籍布告の時に同時に従来の小さな村(10戸前後?)を7〜8ケ村集めて一つの区として、区ごとに戸籍編成をして行ったようですから、このときから同時に区制が行われていたことになります。
この区長を戸長と言うようになっていたのです。
区は地域の区割りのことですし、その長=区長を戸=居住の単位・・普通は建物を現す戸長と何故言ったのか今のところ私には不明です。
上記の通り従来のムラや町の集落とは別に、明治4年当時から区制が行われつつあり、莊屋名主に変わって戸長が既に一般化していたので、明治4年の太政官布告第322では戸長の証明書添付が義務づけられるようになったのかもしれません。
小さな自然発生的集落では、国家としての中央政権の施策を貫徹出来ないので、施策実行に適した人工的な区割り・区制を施行し始めていたのですが、太政官布告と言う統一的布告によらずに実施していた結果一般化していた戸長と言う呼称を明治5年4月に初めて上記太政官布告で明らかにし、国家規模の法的根拠を与えたに過ぎないと言えます。
但し、明治5年4月の布告では単に莊屋等を戸長と呼ぶと公認しただけでその前提たる区制と町村制の関係を明らかにしておらず、混乱が生じていたようです。
これは以下に書いて行くように元々、区制は、今で言うプロジェクトチームのようなもので当初は目的別にいろいろ区を作っていたようですから、まだカッチリした地方行政組織の構想が出来ていなかったので、戸長の名称だけ全国統一にしたものの地方行政組織制度まではまだ布告出来なかったことによるように思えます。
同じ年の明治5年の11月には旧来(江戸時代の)の郡町村制を廃止して大区小区制がしかれ、大区の長が戸長となり小区の長が副戸長になりましたが、地方によってはいろいろだったようです。
後に学区制も紹介しますが、小学校も従来のムラごとに作ったのでは経済的に維持出来ないし構成員も少なすぎるので、もっと広域化して・・500戸単位くらいで一つの学区を作ったようですから、この頃は近代化に追いついていない小規模な従来の単位をいろんな制度ごとに「区」と言うものを作って行った時代でした。
学区制を定めた学制(明治五年八月三日文部省布達第十三)は明治5年8月ですから、着々と「区」を基準にして政策を実現して行く思想を基礎にして実践が始まりつつあったのです。

寄留者の管理2(旅館業法1)

戸籍制度整備・・準備が進むに連れて、お寺の従来の権限をどうするかの議論が当然あったでしょうが、宗派の管理は明治政府にとって重要なことではなかったので、住所登録まで行かない現地所在場所の管理・・現況把握の必要性だけが議論になって行ったのでしょう。
現地登録制度がないままですとせっかく除籍(江戸時代の無宿者扱い)を禁止しても、親元で息子の居場所についていい加減な場所を申告しているかどうかの突き合わせが不可能になります。
寄留者の滅多にいない農村地帯は別として都会では、寄留者の比率が高かったでしょうから、これが現にどこにどのくらい住んでいるかの把握が行政上必須です。
前回書いたように代々の居住者よりは、移動性の高い人物の方が政府にとってはより把握の必要性が高かったからです。
現在でもホテル等に宿泊するには宿泊者名簿の記載が法律上要求されているのはこのためです。

旅館業法(昭和二十三年七月十二日法律第百三十八号)

第六条  営業者は、宿泊者名簿を備え、これに宿泊者の氏名、住所、職業その他の事項を記載し、当該職員の要求があつたときは、これを提出しなければならない。
2  宿泊者は、営業者から請求があつたときは、前項に規定する事項を告げなければならない。
第十二条  第六条第二項の規定に違反して同条第一項の事項を偽つて告げた者は、これを拘留又は科料に処する。

ホテルに泊まる時に、浮気がばれないように気楽に偽名で止まる人がいるかもしれませんが、上記のとおり、お上のご機嫌に触れるとこの法律を楯に言いがかりみたいな嫌疑でイキナリ身柄拘束されても文句言えません。
その議論の中で現地登録機関・・身分証明書発行程度の機能をどこに認めようかとなったと思われます。
明治初期には、行政組織による管理・把握に不安があったので、全国展開している組織であるお寺か神社に・・従来どおりお寺に任せるか、新たに神社に任せるかの議論は当然起きたと思われますが、3月5日に紹介した明治4年太政官布告322によれば、過去のいきさつがあって神社に軍配が上がったものと思われます。
徳川政権の人民管理の下請け的立場にあったお寺に対する反発と今後日本は神道で行くと決めた方向性もあり、さらにはお寺は葬式仏教化していて、お寺参りなどは先祖のあるところで行うに過ぎず、寄留地・出先にいる人がその近くのお寺には縁が薄いことから、現況把握に向かない点もあったでしょう。
どういう議論があった結果か分りませんが、結果として上記太政官布告によって神社が寄留者にお札を授けることになり、その受付簿を整備して行けば・戸籍地に同居していない寄留者管理用の名簿を現地で備えられる方向に発展可能だったことが推測出来ます。
これが寄留者登録機関として発展しないで、何故消滅してしまったかの関心でこの辺のコラムを書いています。