民主主義と利害調整力不全3

民主党の政権を担った主な政治家は旧社会党以来の離合集散を繰り返した野党時代に国家全般の政治との整合無視で特定主張に特化してきた・・自己主張以外は何でも反対の経験しかなかったことが失速の原因でした。
その矛盾がすぐにあらわれたのが、ヤンバダムの問題でした。
野党時代には根拠なく反対さえしてれば一定の支持が得られたのですが、(どんな政治決定にも5〜10%の決定反対の立場・本当はその政策決定に反対でないが反対運動することによって保証金を引き上げたいなどいろんな思惑で普段政権党支持層でも自己利益のために社会党に応援を頼む人がいます)政権をとってみると全体ビジョンが必須(反対層数%の支持だけでは運営できません)になり破綻したのです。
まさか5〜10%の支持を頼りに政治をできません。
基礎的支持層が5〜10%しかないときに消費税反対等の大フィーバーを起こして大量得票をえて政権が転がり込んできた場合、その党のダムその他個別政策に対する支持が多かった訳ではないのですが、従来の反対派としては選挙に勝った以上反対を実行してほしいと期待するので板挟みで困ってしまいます。
経済利害の調整は簡単ですが、価値観相克になると討論による止揚はうまくいきません。
最近先進諸国では価値観にこだわる主張が増えてきたので民主主義の理念で合理的説得によって、より良い結論に至る・・価値観統合・利害調整に失敗し始めている姿が顕著です。
その原因は何か?ですが、どこに道路をつけるかなどの生活要求的意見相違は優先順位程度の問題ですので利害調整が簡単ですし、あるいは墓地等の嫌忌施設の場合相応の経済補償の上積みなどで合意可能です。
ところが、宗教や人種差別やLGBTあるいは日本で言えば嫌中嫌韓、慰安婦問題、その他欧米諸国でも民族感情や宗教論争に類する分野を政治テーマに持ってくるようになると生理的に受け入れにくい、見返り程度の穴埋め補償に馴染みません。
英国でEU離脱論が盛り上がってきて、外国人に職を奪われる・外国人が自由に入ってくるのは嫌だという議論が広がってしまうとEU離脱の経済損得の議論など吹っ飛んでしまい妥協の余地がなくなったのでしょう。
異民族との混在を嫌がる風潮が始まってからの議論では、合理的討論・説得程度で主義主張がころりと変わる訳がないので、白熱した討論をすること自体が相手に対する悪感情を煽る方向に働き対立を深刻化することになりかねません。
ヘーゲル的弁証法・・正反合の止揚が成立する余地のない分野の主張がゴロゴロ出てきて、これが表面化してきたことによって静かな議論による解決が不能になってきたというべきでしょう。
最近ヘイトスピーチ禁止の動きが出ていますが、そうせざるを得ないほど利害集団ごとの憎悪感情に基づく主張が増えてきたことよるものでしょう。
いわば、近代法が予定していた教養と財産のある合理的人間同士の対話の場合、「言って良いこと悪いことの区別」があって、「口に出さない文化」「礼儀」が保たれてきたのですが、(言いたいことがあってもモゴモゴして100分の1くらいしか発言しない文化・・)感情論むき出しで勝負してくる大衆社会化→大衆そのものの意見がストレートにツイッター等で発信されるようになってきたことが大きいように思われます。
旧態然としたある委員会で、弁護士委員だけでなく「この問題は外部(判事検事)委員の意見を特に伺いたいのですが・・」と水を向けても(よそのことにあまり言いたくないのか?)あちら立てこちら立てての立論を経た上で・・・そこはプロですので最後は自己の意見をきっちり発言してくれるのですが、ちょっと聞いていると何を言いたいのか分かりにくい発言から始める人が多いのが現状です。
途中のモゴモゴ的発言が十分に聞き取れていないこともあって、「結論として〇〇でいいのですか」と引き取ることが多いのですが・・。
ただし、上記は古すぎる委員会の特殊事例ですので、誤解のないように付言しますと公共団体での会議の場合は、もともと外部有識者100%の委員会でよそ者が発言する前提ですので初めから論旨明快・・一直線の意見が多い印象です。教養人がほんのちょっと本音を匂わせるだけで意向が通じる社会・・これの究極の姿が平安時代におこなわれていた和歌のやりとりでしょうか?

わが国では古くから露骨な表現は品がないと思われてきた歴史で、平安時代にはこれが極まった時代であったと言えるでしょうか?
和歌というと恋や心の内を吐露する歌ばかり紹介されていますが、政治家はいつも和歌に託して間接的婉曲的表現をしていたのです。
いつも例を引く源三位頼政の以下の歌はその一例です。
平家一門の栄華の陰でいつまでの四位のままで三位(殿上人)に上がれない気持ちを読んだところ、清盛が驚いてすぐに官位を三位に引き上げた故事が知られています。

のぼるべきたよりなき身は木の下に 椎(四位)をひろひて世をわたるかな
— 『平家物語』 巻第四 「鵺」

明治以降言いたいことをいうのが正しいと教育されてきた効果が、上記公共団体での審議会や委員会での活発な議論になってきているのでしょうし、社外取締役が黙って出席しているだけの人は意味がないと言われるようになってきた状態です。
今後ネット会議になってくるとみんながうなづく程度の雰囲気では議論が進みませんので積極的・歯切れの良い発言でないと委員会に参加しているのかすら分からなくなってきます。
ここまでは相応の経験(他事業での成功者など)高度な識見を担保に選任されている以上は「職責を果たすべき」という意味で評価できるし必要な職責でしょう。

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