中朝・修正装置なしの体制3(北方民族の脅威)

山岳民族は守りには強いですが平原地帯に進出して直線長距離距離の大移動能力が低いのが普通です。
いかに中国地域王朝の支配力が落ちて最悪内乱状態にあっても一応大兵力を擁しているので、周辺山岳系少数民族はその一部勢力の応援する程度のことはあっても険阻な山地を越えて広大な中国地域に攻め込むに足る大兵力を移動し、その後長期支配権維持するのは不可能でした。
ベトナムは対米ベトナム戦争後中国による膺懲と称する侵略攻撃を受けて、見事に撃退・勝利していますが、逆に中国に攻め込む力まではありません。
この点は東側の沿海地域の外側も同じです。
唯一一定の規模を持つ日本がありましたが、せいぜい没交渉程度で、世界大帝国を形成したモンゴルでさえ海を渡っての大軍団による遠征が無理だった・・逆からいえば日本からの侵略軍は、帆船利用の豊臣秀吉の時代にはまだ無理・近代動力の出現までは無理だったのです。
西の方は大規模な砂漠によって隔てられているので、この砂漠の彼方に中国を凌ぐ大国(例えばササン朝ペルシャなど)が仮に誕生しても、広大な砂漠を越えて中国の大地を一挙に占領できるほどの大軍移動するのは不可能でした。
北方だけ自然の要害がない上に平原状態のために長距離移動向けの騎馬戦力中心で、一時的に攻め込み広範囲に蹂躙するには適性のあるな民族でした。
これを防ぐために万里の長城という人工物に頼りましたが、これでは守りきれずしょっちゅう北方民族に蹂躙され支配され・王昭君に限らずいつの時代にも美女を送ってご機嫌を取り結ぶなどいつもビクビクしていた関係でした。
モンゴルは西洋まで出かけていったので西の方のイメージですが、元は中国北方民族です。
北方民族は武力の精悍さで侵略してくるだけで、文化レベルや政治巧拙の比較で中原地域人民の支持を受けて支配権力を奪取したものではありません。
中国では異民族支配が繰り替えされましたが、次々とやってくる征服王朝は結局北方種族ですから、文化政治レベルででもは中国地域のレベルに及びません。
彼らは野蛮人扱いされないように、中国古来の支配体制・漢承秦制の原則を漢民族同様に・イヤ、異民族であり少数派である弱みから、漢民族以上に真面目に守って来ました。
中国の王朝で善政を布いたのは原則異民族王朝であり、漢民族時代には人民がいつも酷い目にあっています。
周辺部に成立した李氏朝鮮も異民族王朝の精神で必死に専制体制を真似してきましたが、日本が古代からの独自政治体制を維持し独自文化を発展させていたので朝鮮民族としては負け惜しみ的に?日本を野蛮人としてばかにしていた原因の一つです。
要するに中国人にとって怖いのは少数でも中原の地に侵攻できる武力を持つ勢力・・古くは匈奴・モンゴル→金や清朝、新しくはソ連〜ロシアの剥き出しの武力行使に対する恐怖があっても、正義や文化レベルなどの価値観競争が問題になったことがないのです。
現在アメリカでも中国を文化で圧倒できても、広大な中国地域と巨大人口を擁する中国を直接占領支配する目的の戦争を起こすなどは到底考えられない状態です。
このように中国は文化力で負けても武力さえ保持してれば、どんなヘマな政治をしようと心配がないという体制である点は今も同じです。
唯一例外時代は19世紀中葉からの西欧列強による香港割譲に始まる虫食い的侵略開始だったでしょう。
虫食い的領土侵蝕・・割譲(香港マカオ)上海青島等の租借地〜北方からロシアによる満州進出が始まると一挙全土占領をするには人口その他巨大すぎて外国が手を出せないという安全弁がなくなったことになります。
虎やであれライオン人間であれ、ちょっと小さいものとの喧嘩には勝てますが、もっと小さい細菌には体の大きさや腕力の強さでは戦えません。
これに危機感を抱いたのが昨日紹介した康有為らの変法自強運動→戊戌の変法でした。
武力侵攻以外は怖いもの無しの点は、朝鮮族も同じ価値観でやってきました。
この価値基準によれば怖いのは隣接する中国歴代王朝のみであったのが、19世紀末に至って、清朝に加えて北辺から国境に迫ったロシア帝国でしたし、(当時海を隔てた日本が強国になっていることを理解できなかったでしょう)ソ連崩壊後ロシアへの恐怖はだいぶ背景に退き、中共政権の武力侵攻と米国だけ怖いのであって人民が飢える程度では政権維持に問題がない社会です。
北朝鮮政権では、人民が飢えようが世界最貧国になろうが、武力侵攻さえ防げれば政権安泰ですから、核兵器開発〜保持さえ成功すれば全方位(中国やロシアからも自由)で安全ですから最優先事項になっているのです。
北はすでに経済制裁を受けているので、当面アメリカによる直接の武力侵攻さえ防げればあとは何の心配もない立場です。
核兵器の(実効的運用能力)保持に成功すれば、米国の直接攻撃はできなくなるのでそれまでの時間稼ぎが当面の戦略でしょう。
中国の場合、すでに核兵器の運用能力もあるので米国の武力侵攻がない点で従来(2000年来の)価値基準では米国が何を喚こうと無視していても安泰です。
この絶対安全の地位を北朝鮮も確保しようと必死になっているのでしょう。
ただし、中国の場合には改革開放後国民が豊かさを経験してしまったし国際経済活動に組み込まれてしまったので、国際経済活動から締め出されることに対する耐性が北朝鮮よりも弱くなっています。
今回の香港騒動では米国が香港に対する貿易上の特別待遇廃止を匂わせると、中国が慌てて妥協に動き始めるしかなくなったのとの違いです。
中国国民にとっては米国という強大な相手がいるので、権力の行き過ぎに対する外圧による修正の余地が出てきたのが国民にとっては全く新規なありがたいことです。
この約1週間の香港の騒乱は、国際社会の圧力がなければ中国政府とその意を受けた香港政府が強権突破予定だったでしょうが、騒ぎが大きくなったので流石に一旦棚上げにするしかなくなりました。
パリで燃え盛った黄色いベスト運動やろうそく集会は政権が時期を選んで仕掛けたものではないですが、ここ1週間ほど国際ニュースになっている香港の条例制定騒動は、政権が時期を選んで仕掛けたものですから、中国歴史によるとはいえ政府の国際動向無視の姿勢・オンチぶりには驚くばかりです。
国際動向に対する音痴ぶりは歴代どんな悪政・失政が続こうとも国内的には政権を倒す方法がなかった・外圧など気にした経験がない上に絶対に攻撃されない魔法の兵器・・核兵器を持つ国になったので、外から攻撃を受ける心配が無くなりました。
北方民族・匈奴やモンゴル金〜清〜ソ連などにビクビクしていた時代よりも今の方が安泰です・変な自信を取りもどしたことになります。

中朝・修正装置なしの体制2(漢承秦制の原則)

昨日法家の思想を紹介しましたが、中国古代に統一国家ができるまでは、多国間競争があったので統治能力や文化の高さを競う必要があったので百家争鳴・・いわゆる諸子百家の個性豊かな思想家が活躍したのですが、統一国家になると多様な意見が全面的に(焚書坑儒)禁止されて、専制君主の命令が正しいかどうかの基準によらず皇帝の命令どおりに職務を果たしたかどうかを基準にする・正しいかどうかの議論を許さない社会になりました。
以来、彼の地では中国王朝政治の基本原則として漢承秦制の原則が言われて清朝崩壊まで来たようです。
漢承秦制の原則については04/10/05「不平等条約改正に対する日本政府と清朝の違い(漢承秦制の思想と社会の停滞)」以下で何回か紹介しました。
上記で引用した中国人の論文では異民族支配化に入った時も異民族は中元の地の政治文化を尊重して政治体制は漢承秦制の原則により同じ制度枠組みでやってきたことと、19世紀以降の欧米の新文化が入ってもこの強固な枠組みを変えずに小手先の技術導入で済まそうとしたので、遅れて欧米文化に接したにもかからず国家体制まで変えた日本に清朝は遅れをとってしまったという論文です。
ここで論者が言わんとしていることは、中国は小手先の技術導入だけではなく秦朝以来の国家枠組み(基本思想そのもの)も変える必要があると言いたいようでした。
上記論文は2005年の「自由と正義」に掲載されていたものですから、当時は改革開放が進み国民が豊かになれば、国家体制も人権を尊重し自由化に向かうだろうという楽観的欧米意見の援護論文だったとも言えます。
その後習近平政権になって中華の栄光の復活・・2000年来の漢承秦制の原則・・欧米技術は専制支配支配の道具に使えば良いという思想に戻った(先祖帰り)ようです。
公務員の肩書き(〇〇弁室〇〇だったか?)で書いていたあの中国人学者の運命がどうなったか・・日本に来てしまったかな?気になるところです。
清朝末期に欧米に対抗するために体制変革を目指した変法自強運動を起こし西太后に潰された康有為の超小型版でしょうか?
康有為の漢詩があった記憶ですのでネット検索して見ました。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/fusang09.htm

戊戌八月 國變 紀事

歴歴たり  維新の 夢,
分明たり  百日の 中。
莊嚴  宣室に 對し,
哀痛  桐宮に 起る。
禍水  中夏に 滔(みなぎ)り,
堯臺  聖躬を 悼む。
小臣  東海に 涙して,
帝を 望めば  杜鵑 紅し。

私感註釈

※戊戌八月國變紀事:戊戌変法政変の記事。 *康有為、梁啓超、譚嗣同 、また、張之洞に詩作あり。 ・戊戌:1898年光緒二十四年のこと。ここでは、戊戌の変法を指す。八月國變紀事:戊戌変法が挫折した八月の出来事。戊戌の変法とは、1898年(光緒二十四年)に宣布された変法維新(欧化、近代化の改革運動)の政治運動。その由来は、アヘン戦争後、国威の衰頽が顕在化し、やがて、日清戦争(中国側の呼称:甲午戰爭)後、日本の欧化の優越性を目の当たりにしすることで、自国の後進性の改革の必要性と、西欧列強の対清朝中国蚕食という現実に直面して、危機感を持った先覚者が、政治の改革と軍備の改善を図り、日本の明治維新後の政府と帝政をモデルにした救国改良運動にある。康有為や梁啓超がその中心であった。やがて、1898年(光緒24年)に光緒帝によって宣布された変法維新は、百三日後、西太后慈禧のためにあえなく挫折する。それ故「百日維新」とも称される。なお、この政変の失敗後康有為や梁啓超は日本へ亡命、他の譚嗣同、楊鋭ら6人は処刑された。

この政変をテーマにしたというか、西太后を主役にした猿之助演出のお芝居を20年以上前に見たことがあります。
藤間紫主演の凄みのある西太后に圧倒された記憶・・いまだにその表情が目に浮かびます。
https://weblog.hochi.co.jp/uchino/2009/03/post-684f.html

2009年3月29日 (日)
藤間紫さんの「西太后」
紫さん訃報で思い出すのは舞台「西太后」の初演(95年)です。記者になってまだ数年目の若造でした。
あの時の新橋演舞場の張りつめた空気を忘れることができません。まさに観客が身を乗り出し、固唾をのんで見入るような。完成度の高い舞台だけに流れる、研ぎ澄まされた空間でした。 初演時、紫さんはすでに70歳をこえておられたわけですが、その女傑ぶりは劇場の空間をまさに圧倒し、支配するものでした。

上記によると新橋演舞場で見たようです。
やはり、文字の上で歴史を知るのと舞台で見るのとでは、記憶に刷り込まれる内容・深さが違います。
東京地裁のついで(当時いつもそうしていましたので)に妻と一緒に観劇したものですが、何やかやと言っても今のみやこは東京ですので、気楽に文化の粋に触れられるのはありがたいことです。
話題がそれましたので専制支配体制に戻ります。
普通の国では国内専制権力を持っても、隣国との競争に負けると困るので周囲の反応を気にして矯正せざるを得なかったのですが、秦朝統一後の中国には周囲に競争相手がなく、お隣の関係で矯正されるチャンスがなく現在に至ったのが世界史的に見れば特異な点でしょう。
中国現在の領域を前提にまず南部から考えると、南部方面はヒマラヤや雲南の険阻な山地によって隔てられ、しかも山地の向こうはさらに山地中心の地形であって人口が少ないので、中国地域に成立している王朝がいかにデタラメをしていようとも、その王朝の存立を脅かすような大兵力を要する国ができませんでした。

中国・修正装置なしの体制1

国内で人道に反しあるいは道徳的に許されない行為でも強ければ何をしてもそのまま通用し修正されない社会・・民度・昨日紹介したルーマニアのように行き着くところまで行き着くしかない社会できたのが中国社会です。
日本では社会構造の漸進的変化に合わせて、社会や村落集合体のあり方〜その連合的仕組みも緩やかに変化して現在に至っていますので無理がない・西欧のような人民の蹶起・ダム崩壊のような革命騒ぎが不要でした。
中国2千年の政権交代の歴史では、王朝の足元が崩れるような農民の流亡化=食えなくなって命を捨てることを惜しまなくなるまで王権の無茶な支配に対する修正が効かない社会です。
中国やその小型版専制支配体制の李氏朝鮮では、人道を踏み外した権力行使に対する修正装置が無いので、国民の多くが命もいらないという大暴動に発展しない限り王朝崩壊しない仕組み・・悲惨な歴史の繰り返しでした。
このようなことが可能であったのは、一旦専制支配体制が確立すると現在の中国地域は域外から干渉される心配のない閉鎖社会であったことによるでしょう。
悪政・失政が続くと対抗勢力に挑戦されて政権交代が起きるのが日本の歴史です。
中国朝鮮ではなぜ対抗勢力が育たないかの疑問ですが、内部的には秦の始皇帝以来専制支配体制確立によって内部批判ができないことだけではなく、失政悪政をする政権を脅かす健全な外部勢力が存在しなかったからです。
春秋戦国時代には、有力諸侯が並び立っていたので、内政・治世の巧拙や諸侯の人望が一国の浮沈を決したので諸侯は競って人材を登用し、君主の評判を高めるために意を尽くしたので、百家争鳴・いわゆる諸子百家が排出するの時代になったのです。
これが秦始皇帝によって統一されると焚書坑儒で知られるように余計な議論よりは法家の思想・皇帝の命じる「法」を守ればいいのだという社会になって以来2000年あまり経過してきました。
ちなみに日本でいう「法」は仏法僧の法であり人倫の道・宇宙の真理ですが、中国では内容いかんに関わらず、皇帝の命じるところが法です。
要するに正義を守るため(権力から守るため)の法ではなく統治の貫徹 ・いちいち具体的指図なしに百官吏僚が一糸乱れずロボットのように動くようにするための道具です。
現在中国が国民便利のためのIT~AI発展を目指すのではなく、10何億人民を24時間監視するために開発しようとしているのと同じ発想です。
法家の解説を見ておきましょう。
https://www.y-history.net/appendix/wh0203-061.html

法家
諸子百家の一つ。性悪説に立ち、法による統治を重視する一派。
古代中国の戦国時代に活躍した諸子百家の一つ。孔子や孟子の儒家の説く礼によって国を治める徳治主義では人民を統治することは困難と考え、成文法によって罰則を定め、法と権力によって国家を治めようと考えたのが法家の人々である。彼らの思想で言えば、なによりも公正で厳格な法の執行が為政者にとってもっと必要なこととされた。そのような思想は斉の管仲、魏の李悝(りかい)、秦の商鞅など実務的な政治家によって行われていたが、理論化したのは儒家ではあったが孟子とは異なって性悪説にたった荀子とその弟子の韓非であった。法家の思想は、李斯が始皇帝に信任されて秦の統一国家建設の理念とされるが、秦の没落後は儒家の思想にその立場を奪われることとなる。

https://kotobank.jp/word/
法家(読み)ほうか(英語表記)fa jia
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

中国古代に興り,刑名法術を政治の手段として主張した学派。春秋時代の管仲が法家思想の祖とされ,戦国時代の李 悝 (りかい) ,商鞅,申不害,慎到らが法家の系列に属する。韓非子にいたってこの思想が集大成され,その著『韓非子』 20巻は先秦法思想の精華といわれる。法家は法と術とを重んじ,法は賞罰を明らかにして公開し,特に厳刑主義をとって人民に遵守を促すものであり,術は人主の胸中に秘して臨機応変,その意志に人民を従わせる統御術とされた。政治を道徳から切り離した実定法至上主義であり,儒家が徳治,礼治を強調したことと顕著に対立する。法家思想は秦代の政策のうえに大いに具現されたが,漢代以降,学派としては消滅した。漢代には儒法2家の融合をみて,儒家は法的制裁をかりて礼の実現に努め,礼と法とは表裏をなしつつ,その後の中国法の性格を形づくるものとなった。

有名な(私が知っているというだけのことですが)一節を紹介しておきます。
http://manapedia.jp/text/3878

「典冠。」
君因兼罪典衣与典冠。
其罪典衣、以為失其事也。
其罪典冠、以為超其職也。
非不悪寒也、以為侵官之害甚於寒。
故明主之畜臣、臣不得越官而有功、不得陳言而不当。
越官則死、不当則罪。
守業其官、所言者貞也、則群臣不得朋党相為矣。

昔者(むかし)、韓の昭侯酔ひて寝(い)ぬ。
典冠(てんかん)の者君の寒きを見るや、故に衣を君の上に加ふ。
寝より覚めて説(よろこ)び、左右に問ひて曰はく、
「誰か衣を加へし者ぞ。」と。
左右対(こた)へて曰はく、
「典冠なり。」と。
君因りて典衣と典冠とを兼ね罪せり。
其の典衣を罪せしは、以て其の事を失すと為せばなり。
其の典冠を罪せしは、以て其の職を越ゆと為せばなり。
寒きを悪(にく)まざるに非ず、以て官を侵すの害は寒きよりも甚だしと為せばなり。
故に明主の臣を蓄(やしな)ふや、臣は官を越えて功有るを得ず、言を陳(の)べて当たらざるを得ず。
官を越ゆれば則ち死(ころ)され、当たらざれば則ち罪せらる。
業を其の官に守り、言ふ所の者貞なれば、則ち群臣は朋党して相為すを得ず。

これが法家の応用事例として人口に膾炙している故事です。
「法」に従うといっても中国の「法」は内容が正しいかどうかではなく、人をロボットのように使う術を説く思想です。

個人崇拝2(毛沢東語録)

芸術品でも〇〇会の創設者など業界の力関係で高値がついている場合もあるので、死後一定期間経過+そのグループがなくなった後の評価こそが本物と言われるのと同じでしょう。
このような価値観が一般的な日本にも現世利益優先価値観の人ももちろんいますので、チュチェ思想を信奉し研究?する組織が教職員組合を中心に多い?ようです。
毛沢東語録のご利益宣伝が一時1世を風靡しましたが、文化大革命の悲惨な実態が知られるようになると、毛沢東語録を勉強していますといっても本家中国で大事にされなくなったので流石にその種の本も売れず、勉強会も減ったようですが、当時毛沢東語録を推奨していた進歩的?学者が、学者をやめたとは聞きません。
当時の有名学者を思い出せませんが、毛沢東語録でウイキペデイアを見ると当時の有名翻訳者が出ています。
賞賛していた学者とは限りませんが・・以下の通りです。

和田武司他訳 『毛沢東語録』(河出書房新社 1966年)
社会主義研究所毛沢東語録研究会訳 『毛沢東語録』(宮川書房 1966年)
竹内実訳 『毛沢東語録』(角川文庫 1971年・平凡社ライブラリー 1995年)
中嶋嶺雄訳 『毛沢東語録』(講談社文庫 1973年)
林茉以子訳、WIPジャパン監修 『超訳・毛沢東語録』(ゴマブックス 2013年)

例えば、上記竹内実氏をウイキペデイアで見ると以下の通りです。

第二次世界大戦後、京都大学文学部中国語学文学科卒業、東京大学大学院修士課程修了と同時に社団法人中国研究所へ入所。東京都立大学助教授、1975年京都大学人文科学研究所教授、87年定年退官、名誉教授、立命館大学国際関係学部教授、北京日本学研究センター教授、杭州大学日本文化研究所、松阪大学教授[1]。
1960年(昭和35年)には野間宏などと共に中華人民共和国を訪問し、毛沢東と会見している[2]。
1992年(平成4年)に福岡アジア文化賞 学術研究賞を受賞。
1987年(昭和62年)から1994年(平成6年)まで現代中国研究会会長を務めた。2013年7月30日、京都市内の病院で死去[3]。90歳没。

毛沢東全盛時に会見したり、現代中国研究会の会長を長年やっていたようです。
中国進出企業が増えるのに比例して各種実務界で行なっている調査報告が百花繚乱状態になっていますが、目先の実務の指針のための調査と違い、本質を抉る学問的研究も必要でしょう。
「ヨイショ」するための研究会ではないとしても、研究?の成果を誰も読まない・・日本社会に還元できていないのではないでしょうか?
現代中国研究会でをイキペデイアで見るとこの約20年の業績として

1975年から1987年に竹内実が京都大学人文科学研究所において主催していた「共同研究会」を母体とする。
現代表の吉田富夫は、中国人作家の莫言とメールをやりとりしたり互いの自宅を訪問しあうなど親交が深く[1]、同会の「公開講演会」では、1999年[2]、2003年[3]、2006年[4]、2011年[5]の四回にわたり、莫言がメインゲストとして招かれ、講演を行っている

という程度ですが、この程度のために国立大学教授たちが麗々しく研究会を運営する意義があるのか不思議です。
現在中国では、主席の任期制撤廃だけではなく毛沢東以来の個人崇拝を盛り上げようとして習近平も毛沢東語録的な個人崇拝の二番煎じを画策・実行に移していますので、その思想?の勉強会が日本でもまた盛んになれるのでしょうか?
メデイアの情報独占がネットによって終わったのと同様に、中国事情も企業戦士に限らず多くの人々が自由に中国へ往来している時代に入って、中国政府お気に入りの学者による情報独占状態が終わった影響が出ているのではないでしょうか?
6月16日現在のウイキペデイアに出ている習近平氏の個人崇拝運動胎動の骨格です。

習近平による新時代の中国の特色ある社会主義思想
習近平による新時代の中国の特色ある社会主義思想(しゅうきんぺいによるしんじだいのちゅうごくのとくしょくあるしゃかいしゅぎしそう、中国語: 习近平新时代中国特色社会主义思想)は、中国共産党中央委員会総書記である習近平が2017年に打ち出した政治思想の通称である。海外メディアからは「習思想」もしくは「習近平思想」と呼ばれる。「マルクス・レーニン主義、毛沢東思想、鄧小平理論、3つの代表(重要思想)、科学的発展観」に続く、中国共産党の指導思想である。
新しい指導思想は、ゆとりある社会の全面的な実現から一歩進んで、建国100年を迎える2049年には社会主義の現代化強国を築く」と強調した。
「マルクス・レーニン主義、毛沢東思想、鄧小平理論、3つの代表(重要思想)、科学的発展観」に続き、中国共産党の党規約にも盛り込まれた[3]。そして、2018年1月18日、19日に開かれた中国共産党第19期中央委員会第2回全体会議(2中全会)で、憲法改正案が議論され、憲法に明記されることが明らかになった[4]。

https://www.bbc.com/japanese/41731590

中国共産党、「習氏思想」を党規約に盛り込む 毛沢東以来の権威
2017年10月24日
18日から北京で開催されていた第19回中国共産党大会は24日、習近平総書記(国家主席)の政治理念を党規約に盛り込む改正案を承認した。習氏は毛沢東以来の権威を手に入れた。

ウイキペデイアと違い、BBCは毛沢東以来の権威を入手したと明白に報道しています。
毛沢東と鄧小平以来の傑物と自己賛美し、国際社会では49年には世界の覇者になると宣言したもので漢文風に言えば「夜郎自大」の表現であり、日本風に言えば「おこがましいぞ!習近平」と言われるでしょう。
このおこがましさ(神の声?)を恐れて自粛するのが日本社会ですが、漢民族ではこのような自己規制が働かない社会・・強ければ何をしても(どんなに残酷なことでもし放題)良い社会でずっときました。

チュチェ・主体思想2と個人崇拝1

私は個人崇拝の好きな人たちは、芸能人などスターに熱を上げるファンと同じタイプか?と昨日最後に書いているときには思ったのですが、身近で知っている人たちの顔ぶれを思い浮かべるとそういうこと・・ミーハー的芸能人追っかけ系とは縁の薄そうな顔ぶればかりです。
そこで個人崇拝に関するウイキペデイアの解説に頼ります。

個人崇拝(こじんすうはい、英: Cult of personality)とは、個人を崇拝の対象に据える政治的行為、またはその様式である。ソビエト連邦指導者ニキータ・フルシチョフが1956年に「個人崇拝とその諸結果について」(ロシア語: О культе личности и его последствиях)と題された秘密演説で前指導者ヨシフ・スターリンの政治体制をこう定義したことで広く知られるようになった[1]。
一般的に革命を経験した体制下で起こりやすく、とりわけ共産主義が権力を握った国々で顕著に見られる[2]。共産主義の創始者であるカール・マルクスは生前に自身への「個人崇拝」を戒めており、政治的な意味合いで初めてこの言葉を使用した[3]。ソ連外の共産主義国・共産主義政党には特にコミンテルンを通じて拡散され、中国の毛沢東、フランス共産党のトレーズ、北朝鮮の金日成(北朝鮮の個人崇拝)などが代表的事例とされる[4]。第三世界におけるカリスマ的指導者や民族主義運動指導者たちへの英雄崇拝、ファシズム運動における指導者原理にも指導者崇拝の様式が見られる[2]。
上記ウイキペデイアの解説に行き当たって、芸能系スターに自己同一化するパターンとは何処か違う原因がようやく理解できました。

個人崇拝はスターリンの始めた支配道具であり、左翼系にこの種運動に熱を上げる人が多いことからもウイキペデイアの説明から納得できます。
スターリンに対する忠誠心を証明するためにこれに熱を上げていたところ、本家本元の個人崇拝が否定されたので、その穴埋めに北朝鮮の主体思想と言う名の将軍様崇拝運動が興り中国では毛沢東個人崇拝が起きた流れのようです。
毛沢東の個人衰廃運動が、大躍進政策失敗により本家の中国で色あせた反動で、紅衛兵運動〜文化大革命という時代錯誤運動が起きたのですが、大革命と名称だけ進歩を目指すかのように名乗りながらも、内容実質が古色蒼然たる超反動運動だったことが証明されました。
北の主体思想によって北朝鮮社会が、世界より進歩したでしょうか?
進歩という(左翼系をメデイアでは進歩派学者とか進歩的文化人と美称しますので)概念自体意味不明ですが、国民の生活が豊かになったかの基準で見れば、北朝鮮は世界の生活水準向上から取り残されて来たとは厳然たる事実ではないでしょうか?
この豊な時代に北朝鮮では餓死寸前の人々が何十マン人もいる現実を直視する必要があるでしょう。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019051300949&g=int

韓国大統領、緊急人道支援を支持=北朝鮮の食料難
2019年05月13日20時54分

個人崇拝に戻ります。
日本でも家康が死後に「神君」と言われる絶対的崇拝対象になりましたし、熊本に行けば、清正公神社があるし、東京にも乃木神社や東郷神社などいろんな人が神になって祀られていますが、(評価は死後に定まるというルールがありますので)全て死後のことですし日本では八百万の神の一人に過ぎず絶対的権威を持つものではありません。
地方旅行すると地元の発展に尽くした人の顕彰碑があり、展示施設があるので、こういうのを見学出来るのが楽しみですが、戦後は神社から顕彰碑に変わった程度の印象です。
日本では偉かった人も死亡してから評価が定まり尊崇の対象になるだけであって、権力者自身が権力を振るうために神様扱いを要求した人はないでしょう。
ところが左翼運動家になると生身の人間への忠誠心競争のために?崇拝が重要なようです。
個人崇拝・忠誠心の証のために毛沢東語録研修会や勉強会やチュチェ思想勉強会(何を勉強するのかな?・語録の端々を暗唱したり感激したりする発表会?)などの参加率が試されるのでしょうか?
死亡後に祀るのは、自己と権力との近さによって直接利益を求めるのでなく対価を求めない純粋な尊敬のイメージですが、現在権勢を振るう人物をこれ見よがしに崇めるのって、日本人の多くは(民族の振る舞いといっても大方をいうもので例外がいます)恥ずかしく感じるでしょう。
お墓まいりや病気お見舞いが重視されるのは、生きているときには頻繁に出入りし飲食を共にしていたのに病気してこの先がないとなれば疎遠になる人や死亡後は知らん顔をするのが嫌われるのは「利害で結びついていただけ」という露骨な態度に不快感を持つ人が多いからです。
この頃お墓不要論が出てきたのは、得るところがあるから交友していたのであって利を得られなくなれば、交友がなくなるのは当たり前!という功利主義が蔓延するようになった結果でしょうか?
死亡後のお墓まいりも真意を探れば「私は義理をきちんと果たす人物です」と周囲に宣伝する長期的効果を狙っている点では同じでしょうが、そうはいっても何事も婉曲的表現が尊ばれる社会です。
あまりにも直接的な表現・ゲンキンな接し方は今でも嫌われます。
崇拝される方も現役の時に部下から銅像など立てる話が来たらキマリが悪く辞退したいのが日本人多くの感覚でしょう。
ルーマニアのチャウセシスク大統領だったか?失脚と同時に銅像が引き倒される映像が出ていましたが、現世権力の力でおべっかを強制していただけ・民の自発的尊崇心ではないのでは浅ましすぎませんか?
現世権力が亡くなった死後の顕彰こそが本物です。
チャウセシスク大統領に関する本日現在のウイキペデイアの記事です。

1980年代末、一般市民がろくに商品が無い商店の前に長い行列を作っている中、チャウシェスクが商品でいっぱいの店に入り、大量の食べ物を抱えて芸術祭を訪問する対照的な姿が国営テレビで度々放映された。
食糧配給のための軍の派遣部隊は、チャウシェスクが訪問する店へ先回りし品物を補充して「チャウシェスク政権によって達成された高い生活水準」を演出し、またある時には、チャウシェスクが訪問する農場に国中から手配した栄養十分の畜牛を放ったりもした。
1989年当時、ルーマニア国内のテレビでは「記録的豊作である」と宣伝されたが、当時の平均的なルーマニア国民が経験した窮乏との落差・矛盾はどうやっても説明がつくものではなかった。
1985年、ソ連でミハイル・ゴルバチョフが推進するペレストロイカの影響で東欧でも自由化・民主化の機運が高まると、なおも個人独裁に固執するチャウシェスクは国際社会で一層孤立することになった。東西両陣営から欧州統合の障害とみなされ、第二次大戦後初となるGCBの剥奪にまで至っている
革命と最期

    略

なんとなく今の北朝鮮社会を彷彿させる情景で、周辺におべっかの得意なものを集める危険性です。
国民利益無視で一刻でも長く政権を維持したい・・私益を守るための政権と達観すれば、意味がありますが・・。

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