西欧近代だけでなく、今でもアメリカは自分達だけでは何も出来ない?経済・・ひいては政治決定がユダ系に実質的に握られている・・格差反対やグローバリズム反対論・・金融資本・・関係者の高額過ぎる報酬批判論は実質的には反ユダヤ論と同じと言われています。
ユダヤ人がアメリカ経済を牛耳っている証拠があるか?何が悪いのかと開き直られれば証拠を出せる人は殆どいないでしょう。
金融資本家や高報酬トレーダーのどこが非道得なのか、グローバリズムのどこが悪いのかと個別議論をして行くとそれぞれそうなっていった理屈があって言いくるめられてしまう感じでよく分らない・・しかしイギリス世論はEU離脱を選択したし、アメリカでは国民不満を代弁したトランプ氏が共和党の大統領候補選出手続きで圧倒的支持を受けました。
戦後アラブ世界のど真ん中に強引にイスラエルを建国させ、イスラエル建国以来全アラブを敵に回してでも、アメリカはイスラエルを全面支援をして来たことなどの結果からみて・・(ユダヤ人が政治家に圧力をかけた証拠がなくとも)アメリカの政治に対するユダヤ系影響力の強さを疑う人はいないでしょう。
ユダヤ人が政治経済を牛耳っている具体的証拠がなくとも、ユダヤ人がアメリカの政治経済を牛耳っていると結果から多くの人が推測しているのです。
ロシア革命とユダヤの関係に戻しますと、ロシアはやっと農奴解放が始まった程度・・半端な地位向上策が却って貴族層と農民層双方の不満を呼んで19世紀末頃から統治混乱に陥り遂に革命に至った・・社会の基礎がそんな程度でしたし,政治はまだ宮廷政治の域を脱し切れていない状態でした。
宮廷文化・・公用語?は長くフランス語であり、革命時のニコライ2世の奥さんは、ドイツのヴィルヘルム2世やイギリスのジョージ5世と従姉妹関係でした。・
近代国家の入り口・・宮廷政治しか知らない遅れたロシアが近代化の渦に巻き込まれ、混乱の末に革命が起きると政治訓練を経た人材がそもそもいませんので、アフリカ諸国が戦後イキナリ独立したバカリのような混沌状態になっていたところでした。
アフリカ諸国が戦後次々に独立すると、政治能力・・経験のなさから、血で血を洗う部族抗争が始まり、大混乱に陥って来ました。
この数年で言えば「アラブの春」の結果、アラブ諸国の庶民が意見を言えるようになると政治的大混乱に陥っているのも同じ経過です。
ロシア革命後の複雑な権力闘争・・混乱を何とかボリシェビイキがまとめられたのは、政治経験の豊富なユダヤ人が事実上握って来たから何とかなった言うのが一般的評価ではないでしょうか?
ただこのような意見は、上記のとおり証拠らしいものは当然ありませんし、膨大な下級役人等になって来ると外国にまで出て来るデータがなくて検証が難しいので、専門家の研究に委ねるとして以下名の知れた人材に焦点を当ててちょっと見て行きます。
革命騒乱時主役であるトロツキーをみておきましょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%84%E3%82%AD%E3%83%BC
「1879年、ロシア帝国時代のウクライナ南部のヘルソン県エリザヴェトグラード近郊の、最寄の郵便局から15マイル離れた小さな村ヤノフカにて父ダヴィード(1847年 – 1922年)と母アンナの第5子として生まれる。両親はユダヤ系の富農であった。
次にロシア革命の第一人者であるレーニンは引用するまでもなくユダヤ人として知られていますが、念のため引用しておきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki
ウラジーミル・イリイチ・レーニン(ロシア語: Влади́мир Ильи́ч Ле́нин、1870年4月22日 – 1924年1月21日)
アストラハン出身の物理学者イリヤ・ニコラエヴィチ・ウリヤノフとドイツ・スウェーデン系ユダヤ人(ロシア正教に改宗していた)のマリア・アレクサンドロヴナ・ブランク(英語版、ロシア語版)の間に生まれる。
コミンテルンの創設
第二インターナショナルは、加盟する社会民主主義政党が第一次世界大戦においてそれぞれ自国政府を支持したために瓦解した。再建も試みられたが、ボリシェヴィキは独自に1919年にコミンテルンを創設した。」
スターリン政権の戦前戦後の欧米外交責任者リトヴィノフはユダヤ人でした。
https://docs.google.com/document/d/1B_k-2lcstvNhZWWRqkWpEo0Evf1mJlU7NLjlDEZOEak/edit#
マクシム・マクシモーヴィッチ・リトヴィノフ(ロシア語: Макси́м Макси́мович Литви́нов, ラテン文字転写: Maxim Maksimovich Litvinov、1876年7月17日 – 1951年12月31日)は、ソビエト連邦の政治家、外交官。外務人民委員(外務大臣)、駐米大使などを歴任した。
876年7月17日ロシア帝国の支配下にあったポーランドのビアリストクにユダヤ人の銀行家の家庭に生まれる。
外相時代
第二次上海事変により日中戦争が本格的に勃発した時はうれしくて我慢できないほどだったことをフランスのレオン・ブルム副首相に伝えてる。ブルムによると、リトヴィノフは「自分自身もソ連も日本が中国を攻撃したことをこの上なく喜ばしく思っている」、さらに「ソ連は中国と日本の戦争ができるだけ長く続くことを望んでいる」と語った。ソ連は第二次上海事変直後に第二次国共合作に動いた蒋介石の南京政府と不可侵条約を締結して軍事援助を開始し[6]、1938年9月30日には国際連盟は対日経済制裁、1939年1月20日には対中国援助の決議を可決させ、日本包囲網も順調に構築していった。」
「1941年から1943年まで駐米大使も務め、アメリカとの関係強化に努めた。」
上記記事の内で、「自分自身もソ連も日本が中国を攻撃したことをこの上なく喜ばしく思っている」と言う部分が異様です。
彼は政府意見のみならず個人的意見を敢えて外部(公式発言)に出すほど、日本を敵視していたことが分ります。
これがフランス政府宛のソ連政府の公式発言とすれば、アメリカだけではなく西欧諸国では、共産主義か否かの違いを越えてニッポン民族を如何にして殲滅させるか・・そのためには如何にして戦争に引きずり込むかの智恵を絞っていて、「遂に罠にはまった!」と仲間内での興奮を共有している印象です。
レオン・ブルムとは何者か?ウイキペデイアによれば以下のとおりです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/
レオン・ブルム(Léon Blum、1872年4月9日 – 1950年3月30日)は、フランスの政治家。社会党に属し、3度にわたって首相を務めた。とりわけ1936年に成立したフランス人民戦線内閣の首班を務めた人物として知られる。
・・・・その後に成立した急進社会党内閣にも副首相として入閣するが、急進社会党が共産党の弾圧を図るにいたってブルムら社会党は倒閣を支持した。1938年、ブルムは再び首相になるが、1ヶ月とたたずに内閣が崩壊した。こうした政治的混迷が収拾されないまま、フランスは第二次世界大戦に突入した。
第二次世界大戦が勃発し、1940年にはドイツ軍がパリを陥落させ、フランスを降伏に追い込んだ(ナチス・ドイツのフランス侵攻)が、ブルムはフランスからの亡命を図らなかった。・・・無論、ユダヤ人であり社会主義者である彼が母国に留まることは極めて危険な行為であった。まず、ブルムはヴィシー政府に「フランスを弱体化させた」という罪で逮捕された。
・・・・1943年には ドイツへと送られ、まずブーヘンヴァルト、ついでダッハウ、そしてティロルの強制収容所に収監された。ブルムの弟ルネ・ブルム(René Blum)はバレエ振付師で、オペラ・ド・モンテカルロ付属バレエ団(Opéra de Monte-Carlo)創設者であった。彼は逮捕され、1943年にアウシュヴィッツに送られて間もなく処刑された。ドイツ敗戦間際にはユダヤ人の処刑を加速化させる命令が出されるが、それがティロルでは遵守されなかったためブルムは生き延びた。やがてブルムは連合国軍による解放によって強制収容所から救出された。彼の代表的なエッセイである『À l’échelle Humaine』は、この収容所で記されたものである。」