税の歴史5(商業税2)

市場の秩序維持役を王・・権力者の始まりとして来た歴史のある中国では、「安全を買うにはお金がかかるのは当然」の意識が生まれます。
我が国の国民は何故か昔から安全は元々保障されているので、人民を守るために町を囲う城壁の習慣もないし安心は空気と水のように無料の意識が強いのです。
北京の紫禁城を見ると城門の分厚さ・・土のかたまりでトンネルに入るような分厚さに驚かされますが、日本の城や塀は約束の世界・結界に過ぎない薄っぺらな板塀などとは違う異民族相手のすごさに圧倒されます。
我が国でも唐の真似をして奈良の都に羅城門形式を輸入しますが、木造の門とその両端にちょっと塀を造っただけでした。
大徳寺や東福寺などの山門も同じで、実際にはお飾りにおいてあるだけで実際の通行はその脇を迂回して出入りする仕組みです。
日本では戦闘集団が自分を守るために城を築き兵を養っているのですから、その維持費を城下町の町人に負担させるのは理屈が合いません。
日本の都市は中国や西洋のように・市民・商人を砦の中にかくまう仕組みではなく、敵襲が城下に迫ると戦闘集団は城下の商人を守るために戦うのではなく、自分たちが安全な城に退避して篭城してしまうのが普通です。
日本軍人は明治以降お国のために、自分の母や姉妹を守るために出征したと言われますが、何千年のDNAが上記のとおりですからイザとなったとき・・満州にソ連軍が侵入を開始したときには、先ずは軍の温存を優先して・・守るべき満蒙開拓団を置き去りにして撤収(逃走)してしまったのです。
関東軍が民間人を守らないで置き去りして逃げたことをもって非難ゴウゴウ・・武士道に反する・軍人の風上におけない・・帝国陸軍は腐っていたなどの意見が普通ですが、(司馬遼太郎だったかが書いてあったと思いますが・・)日本の武士の歴史は自分達が戦うだけであって民を守った経験がないのですから仕方がありません。
国民を守るための軍隊というのは明治以降に国民皆兵・・百姓まで徴兵する大義名分のために言い出したメッキみたいなのですから、イザとなれば先祖帰りするのは仕方がないでしょう。
日本ではそもそも武士と武士が戦うものであって、背後の民まで殺したりしないことがルールでした。
武士同士でも大将の首を取るだけであって勝ち負けの結果は家臣には及ばなかったのです。
楠木正成が打ち取られても正成の一族はそのまま残るのでその子の正行の代になるとまた旗揚げしますし、あれだけ激しい気性で知られる信長に刃向かった近江の浅井長政でさえ、これが滅びるとその旧臣達はみんな秀吉の家臣団に入って石田三成を筆頭に活躍出来ます。
戦国時代と言っても、民は戦争に参加しない限りおにぎりを持って丘の上で合戦を見物していた程度ですから、安全な社会でした。
戦国時代でも商人は(貴重な商品を持っているのに)護衛なしの身1つで全国を旅していたことは、いろんな戦国時代の物語を見ても分るでしょう。
義経の物語では行商人金売り吉次が有名ですが、軍団を組んで奥州の金を運搬していた訳ではありません。
日本で商人を護衛しなければならなくなったのは護送船団方式という熟語があるように明治維新以降海外進出・・危険な異民族の世界を旅するようになってからの話です。
我が国では古代から明治まで商人が行商して歩くのに、あるいは商品輸送に一々護衛の武士団を擁してはいません。

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