ポンド防衛の歴史13(ポンドの威信2)

アメリカがプラザ合意以降のドル安政策(円高政策)にもかかかわらず、ビッグスリーに始まり製造業縮小がとどまらず、昨年時点では製造業従事者が全労働者の8%しかいなくなったといわれています。
この辺でアメリカがドル安政策を採用する前から、衰退を始めていたイギリスのポンド下落の歴史に戻って行きます。
ポンド下落については、December 1, 2011「ポンド防衛1」のシリーズ以降連載してきました。
2011年12月10日「ポンド防衛の歴史10(成長率格差と英国病)」に紹介したように他の欧州諸国よりもイギリスは成長率が低かったし・・さらには同年12月26日に紹介したように貿易赤字の続くイギリスポンドが欧州全体に連動して上がるのは実力からみて無理がありました。
ちなみにイギリスの国際収支を2011年12月11日「ポンド防衛の歴史12(ポンドの威信1)」のコラムで紹介した[世] イギリスの国際収支の推移ecodb.net/country/GB/imf_bca.html – キャッシュでみると、1984年以来上記の紹介した日までずっとマイナスのままです。
ポンド防衛のコラム開始冒頭前後で紹介したように、ポンドの実力以上の割高感を投資家ジョージ.ソロス氏に見抜かれて、空売りを仕掛けられてしまいます。
この結果一気にポンドが大幅下落し、僅か1週間ほどで支え切れなくなってERMから脱退し、完全な変動相場制に移行せざるを得なくなりました。
ポンド切り下げの経過を見て行くと、為替相場を自己の実力によるのではなく、自国経済力以外のものと連動するという実態を無視したやり方・半端な変動相場制は、無理が露呈するまでには時間がかかり・・時間を稼げますが、結果的に無理は無理であることが明らかです。
今で言うところのバスケット方式は自国の経済状態の短期・臨時的変動に直ぐには大きく反応しない点で利点がありますが、長期低落傾向のときには調整が長引く分だけ傷が大きくなります。
南欧諸国の経済危機も自国経済力とユーロ為替相場が直結しないところに無理があることを書いてきました。
ついでに書きますと日本で地方が衰退する一方になるのも(人材が中央に吸い上げられる外経済面に注目すると)同じ原理によります。
東京その他大都会の生産性が上がると、その地域の輸出競争力に合わせて為替相場が上がって行くのですが、生産性がそれほど上がらないその他分野の占める比重の大きい地方経済にとっては為替相場が割高になります。
農業の生産性が1〜2割しか上がらないときに、工業生産性が5〜10倍に上がって行き工業製品の競争力に合わせて為替が上がって行くと、農業その他旧来製品生産に従事する比率の大きい地方経済は大都会に合わせた高過ぎる為替相場では競争力を失って行きます。
青森等東北地域と東京圏を、今のギリシャ等南欧諸国とドイツの関係に置き換えると分ります。
イギリスはドイツ等に比べて生産性上昇率が低いのに為替相場を生産性上昇率の高い国とリンクさせると損をする関係です。
スターリング地域諸国の発展不均等が広がると全体平均相場でポンドの価値を決めること自体無理があって、それぞれの国が離脱して行って遂にスターリング地域が解体して行ったのが戦前からの歴史です。
英連邦の結成やスターリング地域の盛衰に関しては、2011年12月10〜11日ポンド防衛の歴史10〜11(ポンド管理政策の破綻1〜2)のコラム前後で連載してきました。
発展不均等によってスターリング地域が解体した経験があるのに、この経験を生かせずにイギリスが欧州グループに自分が再びリンクするようにしていたのですから滑稽な再経験・こだわりでした。
イギリスは第一次世界大戦頃から、ドイツの追い上げを受けて、次第に国際収支が赤字基調・・国力の低下基調になって来たのをカモフラージュするために、スターリング地域でのポンド・プール制を採用していました。
その無理が徐々に出て来てスターリング地域を維持出来なくなったのですが、スターリング地域・・英連邦諸国経済・栄光ある孤立から転換せざるを得なくなって、戦後は欧州諸国と自分の為替相場をリンクさせて自国通貨安の進行が明らかになるのを少しでも誤摩化し・カモフラージュしたい心理が働いていたのでしょう。
(往生際が悪すぎたことになります)
為替相場は安ければ安いほど貿易上有利ですから、イギリスによるポンドの威信維持・・実力以上のポンド高維持政策努力は、実利よりは格式にこだわる選択・経済的には大損な選択です。

ポンド防衛の歴史12(ポンドの威信1)

イギリスの場合、ポンドの基礎体力が回復した訳ではなく、12月10日に紹介したように成長率は低いままでしたが、戦勝国・老舗として参加しないのは格好が悪いということでのIMF8条国参加ですから、自由市場に参加すれば市場の実力試しの洗礼を受けます。
1947年の自由化のときに比べれば49年に大幅に切り下げた後ですし、既にスターリング諸国その他によるポンド保有資産(ポンド売り圧力の源泉です)が減っていたので売り圧力が低いとみたのでしょうが、それでも直ぐにポンド売りの攻勢を受けます。
これが61年から始まる外国為替市場でのポンドの売り浴びせ、と買い支え・・私が新聞に関心を持つようになった中学生〜高校ころのポンド防衛に関する連日報道に連なっていたのです。
ただし、その頃は90年代のソロス氏のようなファンドマネージャーが発達しておらず(手法も限られていたでしょう)まだ「チューリッヒの小鬼」という程度のメンバーでしたので、短期間に巨額の売り浴びせが(当時も空売りの手法があったとしても規模が小さかったでしょう)出来なかったので、かなり長期間の抵抗が可能だったようです。
1961年から長期化するポンド防衛戦争(市場の洗礼に曝されるようになった)が始まるのですが、遂にはこれに耐え切れずに1967年にポンドを1ポンド2、80ドルから2、40ドルへと約14%切り下げて漸く落ち着きます。
ただし、このときは南アフリカやインド、オーストラリアなど多くの諸国がリンクしませんでした。
こうしていわゆる英連邦諸国プラスαのスターリング地域にとって閉鎖的なポンド経済を維持するメリットがイギリス本国も構成国どちらからも次第に失われて行く流れが定着し、イギリス本国のEU加盟(1973)に繋がって行きます。
72年以降イギリスは変動相場制に移行したので、以降は市場の実力相応の変動によって上下する筈でしたので、国の威信がかかった「切り下げ」という政治ショウが不要になったはずでした。
ただ、イギリスは欧州の経済統合への参加という戦後の宿命的課題があり、(欧州の一員になるか英連邦にこだわるか)欧州には統一通貨ユーロ成立前段階の欧州通貨制度(EMS)があって、イギリスはこれとポンド相場の連動性・ERM(欧州為替相場メカニズム)を採用していました。
と言うことは、実質的にはイギリス単体の実力による変動相場制を修正して欧州全体相場にリンクする半端な変動相場制度だったと言えます。
イギリスは、一時北海油田の御陰で国際収支が堅調になったのですが、その枯渇に連れて再び戦中戦後連続していた国際収支赤字基調に戻っていたらしいのですが、上記連動性の結果、相場が経済力の変化に比例して修正されないままとなっていたのです。
東西ドイツ統一(1990年)後の復興資金需要によって高金利化していた欧州諸国の為替相場が上昇基調にあり、連動してポンド相場も上がっていました。

ポンド防衛の歴史11(ポンド管理政策の破綻2)

12月10日に紹介したように、イギリスとOECD諸国との成長率格差が広がる一方で、為替取引自由化の部分を多くして行くと硬直的なポンド維持・為替管理が難しくなります。
この打開のために1949年9月には、1ポンド4、03ドルから1ドル2、80ドルへ約3割に及ぶポンド切り下げを行います。
大恐慌時のポンド切り下げと違い、戦後は域内諸国が多額のポンド預金を強制されていた(債権保有者になっていた)ので、49年の切り下げは指定諸国(元のスターリング諸国)にとっては(ポンドでの)外貨準備の対ドル価値が大幅減額・大損害になってしまいました。
今の日本や中国がアメリカドルで保有している外貨預金が3割切り下げられたようなものです。
その上イギリス及び指定諸国(主に英連邦諸国)全体が戦後では貿易赤字基調なので、今後もじり安になるリスクのあるポンド預金をするのはリスクが増えるので指定諸国のポンド離れ(ポンドにつきあっていると損をする意識)が始まりました。
大恐慌時のスターリング地域設定時には構成諸国トータルの国際収支は黒字であったので、この黒字分をロンドンに集積するメリットをイギリスは受けていたし、その結果ポンド相場が維持出来たことを既に紹介しました。
戦後はスターリング地域(戦後は指定地域)全体が対ドル圏に対して赤字機基調になって来たので、ロンドンで外貨交換してもドルを集積しなくなり(トータルで赤字であればロンドンで交換してもドル支払いの方が多くなって持ち出しになります)、むしろイギリス本国が参加国を援助しなければならなくなる方向になってきました。
参加国全体がじり貧になって来ると、参加国もイギリス本体も相互にこのシステムを維持するメリットがなくなってきました。
言わば親戚みんなが貧乏人の集まりになって来たので、お互いに他所の金回りの良い他人とつきあう方がメリットが大きくなって来たと言えます。
その結果、域内貿易よりは域外貿易の比重は上がる一方になってきます。
他方でポンドの両替が不自由・使い勝手が悪いとその不満から域内諸国のポンド離れをいよいよ加速するので、イギリスとしてはポンドの自由化を進めるしかない展開になってきます。
徐々に為替自由化を進めて行った結果が、西欧諸国一斉に行われた1958年の非居住者の換金自由化に繋がり、61年の居住者に対する制限撤廃になります。
ポンド両替が完全自由化された1961年にイギリスはIMF8条国(貿易収支の悪化を理由にする為替取引制限を出来ない国)に移行して漸く先進国のメンツを保てました。
ちなみに日本の8条国移行は1964年(昭和39年)で、戦前の一等国から敗戦による4等国への格下げ・(子供の頃には何かと言うと「4等国になったのだから・・」と大人の自重気味の話を聞いて育ちました)ここから漸く挽回しての再度の先進国(戦前の言葉で言えば列強諸国)入りを果たしたことになります。
(東京オリンピックもこの年ですし、新幹線開通もこの年でした)
日本の場合は十分な実力を蓄えた結果の8条国入りですので、参加したからと言って円の売り浴びせはなく・・、むしろ以後値上がり圧力のまま現在に至っています。

ポンド防衛の歴史10(成長率格差と英国病)

イギリスは戦前から続いていた国際収支の赤字基調が戦後も変わらず、しかもスターリング地域諸国自体もスターリング地域以外の諸国の経済復興について行けず、全体としても赤字化していきます。
ドイツに追い上げられその内アメリカに追い越され、戦後は再びドイツと日本に追い上げられ、追い越される展開ですから、新興国に追い上げられて低成長に陥っているいる今の日本同様で国内産業構造としては低成長は仕方がなかったでしょう・・。
こんな風に書くと日本も英国病と同じ道を歩むのかの心配がありますが、日本の場合は、日本の国力衰退の結果ではなく、国力は充実していてまだまだいくらでも貿易黒字を稼げたのですが、余り黒字が大きすぎて国際的に許容されなくなっていました。
デトロイトではアメリカの国会議員がハンマーで日本車をたたき壊している様子がテレビ報道されていたくらいです。
仕方なしに、アメリカ国内に工場進出したり、大きすぎる対米貿易黒字を隠すために東南アジアを迂回して輸出する構造=東南アジアへの工場進出が盛んになっていたものです。
この結果東南アジアの工業化が進みひいては、中国等新興国経済が浮上出来たに過ぎません。
日本企業が海外進出せざるを得なくなったことによる、アジア諸国の経済成長ですから、日本のさらなる成長の一変形・バージョンに過ぎないとも言えます。
中国やタイ韓国等によるアメリカ向け輸出は日本の進出企業や日本の部品を利用したダミー的輸出でもあると言われている所以です。
ですから今でも韓国などの輸出が増えると対日貿易赤字が膨らむ構造で、巨額貿易黒字を計上している中国でさえも対日関係では赤字を計上しているので、まさに日本の迂回輸出そのものです。
ただ日本からの輸入は部品ですから、完成品価格の一部に過ぎないので組み立てて完成品にして輸出する中国や韓国.タイは日本からの輸入に比べて輸出の方が大きくなるので、結果的に貿易収支が黒字になっていてアジア全体が潤う構図です。
この分、日本の貿易黒字の構造が変わっているので、従来のような大幅な黒字は完成品輸出の中進国に譲るしかなくなった・・現場系の職場が減って来ると町に活気がなくなることは事実でしょう。
ですからトータルの経済実力が衰退して、大恐慌前後から貿易赤字になりポンド下落に見舞われ続けているイギリスとは原因が違いますので、ただちにイギリスと同じような衰退を始めるとは限りません。
失われた20年と言っても、上記の通り迂回輸出構造に過ぎませんから、リーマンショックまでは巨額貿易黒字の連続だったことも繰り返し書いている通りです。
ただし、原発事故以降の輸出構造の変化・・貿易収支の悪化は、これを一時的に終わらせることが出来るのかについては注目する必要があります。
2011-12-6「ポンド防衛の歴史7(イギリスの耐乏生活1)」以下で書きましたが、英連邦諸国は、イギリスに積み上げた預金をマトモに払ってもらえずに資金不足状態にあったでしょうし、イギリス本体は借金支払に追われて新規投資資金が不足していたこともあったでしょうが、OECD諸国の戦後成長率に比べてイギリスはその約半分以下の成長しかしていません。
名古屋大学教授金井雄一氏の「基軸通貨ポンドの衰退過程の実証的研究」によれば、1950年代と60年代初期の労働生産性上昇率が紹介されていますが、日本が8.6%及び9.0%、ドイツの6.6%と6.6%、フランスの5.5%および6.5%に対して、イギリスは2.9%及び3.4%に留まっていると書いています。

ポンド防衛の歴史9(ポンド管理政策の破綻1)

戦時中の為替規制は戦時特例としての「管理令」だったのに1947年の制度は、「法」という恒久制度にしてしまったらしいのです。
日本では法と令とは格式が違う・・日本では法は国会の制定したもので、令(勅令・政令・省令・は行政府の定める法の下位規範です。
(格と式の違いについては以前律令制との関係で01/17/06「律令制の崩壊と平安遷都(格式の発達と令外官1)」前後で書きました。)
12月1日に紹介した名古屋大学教授金井雄一氏の「基軸通貨ポンドの衰退過程の実証的研究」によれば、戦時中の規制を為替管理令と翻訳して、戦後規制を為替管理法と翻訳しているのは、上記日本の法と令の格式の違いを前提としてのことなのでしょう。
これは日本法形式の違いであって、イギリスも同じような違いがあるのか(・・法制度の違いを知って翻訳しているのかまでは分りませんが・・)その論文には恒久法になったと紹介されています。
41年の管理令は戦時特別の時限立法だったので「管理令」と翻訳して戦後の47年法は戦時に限る時限立法ではない平時の法なので「管理法」と翻訳を変えているのかも知れません。
これによって域内諸国に関してはポンド利用を強制し、同時にドル・プール制も強化されて、ポンド以外の外貨との交換を許可制にして、ポンド流出防止に成功します。
英連邦諸国に対する法・強権による強制は、経済の実態に合わないと、ナポレオンの大陸封鎖令同様に無理が出てきます。
この体制はアメリカの圧力というよりは、内部事情から徐々に崩壊して行きます。
戦時中と違って、戦後世界全体が自由化に向かっている中で、(たとえば、1950年の「ヨーロッパ決済同盟」設立など戦後の為替交換性回復・貿易自由化の流れは留まるところがありません。)これに反する為替閉鎖体制の維持(スターリング地域全体が域外に対して貿易赤字化して来ていたので、一種の貧乏国・低成長国の集まりとなってしまいました。
貧乏人の集まりでは先がありません・・旧共産主義諸国の経済機構・COMECON・もやって行けないので解体していまい、中国も1980年IMF加盟国になり、未だに孤立しているのは北朝鮮くらいです。
スターリング地域を閉鎖社会にしたままでは、世界からの孤立化にも繋がり、戦後の発展から取り残されてしまいます。
1947年8月に緊急避難的に為替管理政策に戻ったイギリスは孤立し続ける訳に行かなくなって、47年のような一気の自由化ではないものの、おそるおそるの自由化を試行して行きます。
1951年には、公認為替銀行と多くの為替ブローカーに対する為替取引の自由化を部分的に認めるようになり、為替交換が徐々に再開されて行きます。
他方でポンド預金の封鎖勘定と外貨変更自由な解除残高の割合を徐々に変更して封鎖残高のポンドの比重を下げて行ったのですが、自由化が進み始めるとスターリング地域合計の国際収支赤字基調がポンド相場維持に重荷になって来るジレンマがありました。

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