戦前政党政治の終焉(政治家の自殺行為1)

政党は政策論で競うべきであって相手の揚げ足取りで大臣の解任要求を主目的にするのは邪道です。
本来やるべき政治論争をしない低レベルの政府攻撃の繰り返しで、国民が政治家を信用しなくなり、政党政治が死滅していった戦前の歴史を再現したいのでしょうか?
戦前せっかく始まった政党政治が(在野政治家のレベルが低すぎたために)国民の信を失い、「レベルの低すぎる政治家よりもエリートに委ねた方が良い」と国民が思うようになって、政党政治が根元から腐っていったことは歴史上周知のことですが、戦後野党政治家、マスコミ、文化人?にはこの反省がなく、一方的に軍部が弾圧した治安維持法が悪かったという被害者意識の教育をし、国民に虚偽のイメージを植え付けてきました。
日本は明治維新以降急速な近代化に成功したとは言え、(戦後の韓国民主化・・形だけ真似して苦しんでいる今の韓国や、現在中国同様)国民意識レベルの変化は・・文化は3代と言いますが・世代交代しないと簡単に行きません。
明治の農村で行きなり洋風建築を建てても居住者の意識(はある程度「器」に影響を受けますが)がその日から欧米風になりません。
明治以降産業近代化に合わせて急いで欧米法制度の取り入れに勤しみ約20年経過でようやく国会開設しましたが、ザンギリ頭にして洋服を着たり議事堂さえ作れば政治風土が変わるものではない・・まだ政党政治をするには早すぎた・・国民意識とそれを基礎にする在野政治家の人材が育っていなかったのです。
このコラムで繰り返し書いていますが、昭和40年代中頃までは、何かある都度欧米事情に通じた「識者」が出てきて「欧米では〇〇」と解説する時代が続いていましたが、戦前は国粋主義・排外的時代だから、留学組の権威がないかというとそうではなく、今では想像もつかないほど外国風潮に通じている人の権威が高かった時代です。
中韓の反日運動を見ればわかるように、排外主義とは言い換えれば対外コンプレックスの逆表現であることが多いのです。
明治初期の大隈重信や板垣退助植木枝盛など見ればわかるように戦前政治家とは超エリート・・欧米先進事情に通じた者の仕事でしたから、欧米留学組が最権威者で結果的に、各分野の競争に負けて(板垣や大隈重信も下野したときに在野で敗者復活戦を仕掛ける仕組み)有り体に言えば落ちこぼれた2〜3流の人材・・一般人に比べて元官僚等である程度政治を知っていることを鼻にかける点は今の野党も同じです。
今後日本は欧米並みの憲法が必要という明治初年の民権論はそれ自体正しかったし政府も追いつく必要を感じて必死に準備していったのですが、憲法の下位の刑事や民事の身近な法令整備→日常的法運用に慣れさせるには教育から始めないとうまくいかないので)国民意識を徐々に涵養していく期間が必要でした。
たとえば民法を見ればわかりますが、民法制定にはその前提になる不動産登記(その前提には地番や地籍など特定制度の創設・・・江戸時代までは大名や旗本の功績を愛でて加増した時の知行地の表示を見ると「何とか庄の宮前の何反何畝」程度の特定しかなかったのです)や戸籍制度が必須です。
これらの準備期間なしに、いきなり「全国民に普通選挙権を認めろ」といっても、まだ選挙権者特定自体に無理があったし仮に選挙権を与えても小学校へ行ったこともない人口が大多数の時代に(明治初年にはまだ小学校制度が始まったばかり)猫に小判で、結局は地域有力者意見に従うしかないし結果的に政治腐敗がはびこるばかりになります。
これが後進国に対して投票箱民主主義を押し付ける米国流民主主義強制が失敗した原因です。
中国アフリカ等の後進国で腐敗指数が高い原因ですし、韓国で政権交代がある都度前政権幹部の(汚職理由の)検挙(昨日あたりから李明博元大統領の逮捕が騒がれています)が繰り返される原因です。
日本戦前の政党政治が自壊作用を起こした大元の原因は、制度設計が実力より早すぎた点は同じでしょう。
明治22年まで時間かけてようやく憲法発布になりますが、(日常生活を律するルールである民法は10年遅れの明治31年施行)それでもまだ日本社会が庶民まで参加の民主主義を運用するにまだ無理があったことがわかります。
ウイキペデイアによると以下の通りです。

1896年、明治29年法律第89号により定められた民法第一編・第二編・第三編(総則、物権、債権)及び1898年6月21日の明治31年法律第9号により定められた民法第四編・第五編(親族、相続)で構成されており、また附属法例として6月15日、明治31年法律第11号民法施行令が設置され[3]、全体が7月16日から施行された。これによりいくつかのそれまでの法規が廃止された[4]。原案起草者は穂積陳重・富井政章・梅謙次郎の三名である。
この民法典は、社会情勢と価値観が大きく転換する明治維新の後に妥協的に成立したものであった
日露戦争講和条約時(1905年)にもしも普通選挙があったら、メデイアに煽られるだけの庶民が政治に直接口出しできていたら講和条約がどうなったかと思うとぞっとする人が多いでしょう。
逆の立場では、「情報を国民に知らせない方が悪い」ということでしょうが、戦争中に「日本はこれ以上継戦能力がない」と内外に明らかにするのは利敵行為ですし、軍部内で強硬論が採用されなかった不満者が一部だけメデイアにリークすることによりメデイアが極論だけ煽った結果です。
選挙でまともな判断ができる人かの基準として学歴がなくとも一定の商売等の成功者(サントリーや松下創業者のように)は相応の判断力があると見るのが普通ですから学歴で決めるよりは公平です)一定の納税者を基準にしていたのは簡単な能力の篩制度としてコストパフォーマンスもよく合理的です。
普通選挙に関するウイキペデイアの記事です。
1918年 イギリスで男子普通選挙が実施された。ただし居住地以外に財産を保有する者は複数選挙権を得る。
1919年 ドイツ共和政において、世界初の完全普通選挙が実施された。
1920年 アメリカで女性参政権を認めることが連邦憲法修正第19条により義務付けられる[3]。
1928年 日本で衆議院選挙(第16回総選挙)の際に男子25歳以上(最初の男子普通選挙)の者で実施された。(普選運動

やっと欧米並みの憲法を制定し対外的に格好をつけたのですが、(農民がいきなり背広を着たようなもので)・鹿鳴館時代がわかり良いので揶揄されますが、日本社会全体・・法制度も背伸びだったことが分かります。
文字さえ読めれば選挙民の能力があるわけではないですが、日本の江戸時代から明治にかけての識字率や就学率の研究をした論文が見つかったのでその中の表だけ紹介しておきます。
https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3735/JNK001702.pdf

表1 学齢児童就学率
出典:文部省『学制八十年史』  『学制百年史』『学制百二十年史』
年度         就学率(%)    年度    就学率(%)
1875(明治08)    35 19     1935 (昭和10)    99.51
1880(明治13) 41.0 6 1940(昭和15)   99.64
1885(明治18) 49.62 1945(昭和20)    99.79
1890(明治23)  48.93 1950(昭和25)    99.64
1895(明治28)  61.24 1955(昭和30)    99.77
1900(明治33)   81.48 1960(昭和35)    99.82
1905(明治38) 95.62 1965(昭和40)    99.82
1910(明治43) 98.14 1970(昭和45)    99.83
1915(大正04) 98.47 1975(昭和50)    99.91
1920(大正09) 99.03 1980(昭和55) 99.98
1925(大正14) 99.43 1985(昭和60) 99.99
1930(昭和05)  99.51    1990(平成02)   99.99

上記の表はその年の就学率ですから、例えば明治5年の学校制度発足後3年経過時にこれだけ就学したと言うだけのことで、(実際にはたまにしか学校に行けなかった子供が多かったでしょうし)小学1年にあがったからといってすぐに複雑な政治判断などできるはずがありませんし、みんなが卒業したわけでもありません。
この子供が3年間の義務教育を終えて大人になる20年後といえば明治28年です。

憲法学の有用性?2

名誉革命や清教徒革命や産業革命で社会変化が先行していたイギリスでは、先頭走者として実践しながら考えて行くしなかったので法制度も実践によって不都合が起きる都度修正して行くしかないので、判例法の国と言われていました。
(現在のイギリス社会は、世界先端社会ではなく諸外国の事例を取り入れる方に回っているので、今や成文法中心になっています)
大陸諸国は最先頭のフランスでもイギリスより遅れて革命を起こし、産業革命も遅れて導入したことから分るように、思想家の観念構築が先行しての革命でしたので、「自由平等博愛」など華々しい標語等が歴史に残って有名ですが、要は遅れていたからに過ぎません。
ドイツにあってはフランスよりももっと遅れて参加した分、観念的思惟が更に深まった状態であった・・更に遅れて勉強を始めた日本人にとって、立派な観念体系の完成したドイツの観念論はもの凄く立派に見えたに過ぎません。
これを評してイギリス人は歩いてから考える、フランスは考えながら走る、ドイツ人は考えてから走る」と比喩的に言われていました。
哲学的基準では、「イギリスの経験論・判例法主義」に対して「大陸の観念論・(体系的)成文法主義」先行社会と未経験行為に一足飛びに挑戦する遅れた社会との対比で考えても分ります。
観念論や立派な観念体系の輸入が、役立つのは後進国社会であることが分ります。
佛教でもキリスト教でも、草創期には未完成で始まったに決まっていますし、遅れた社会が受け入れるときには、既に立派に教典になっているに過ぎません。
実際、観念論のドイツが今回の難民殺到に対して、無制限受け入れの原理原則(人道主義?)をメルケル首相が表明して、数日も持たないで、難民殺到に恐れをなして前言撤回するはめに陥っています。
良いことばかりではなく難民殺到と言うマイナス極面においても、最先端社会になれば観念論・原理原則論ではどうにもならないことが、今、正に証明されています。
日本社会は、江戸時代から庶民文化が花開いていたことから分るように、庶民レベルのもの凄く高い世界先進社会・ボトムアップ社会ですから、西欧にもアフリカにも良いところがあれば、部分的に摂取する程度が合理的であって、観念や制度の丸ごと導入・・「モンク言わずに従えば良い」と言うやり方は無理があります。
後進国が先進国の先端工場を丸ごと一足飛びに導入するだけではなく、最近では新幹線、原子力発電などその後の運営まで請け負うやり方と同じではありません。
日本が、古来から和魂洋才・・古代中国からでも良い部分だけ取り入れる・・律令制を丸ごと採用しなかったことを既に紹介してきました・・妥当であった根拠です。
幕末以来洋画の遠近法を取り入れても、日本画はなくなりません。
アメリカでは、ビル解体方法として大規模爆破するのが普通に見られますが、日本の場合時間がかかっても東京駅改造のように一日も運行を休まずに少しずつやって行く社会の違いです。
上海や香港・シンガポールのように高層ビルが良いとなれば、すぐに林立する社会とは、全く違います。
法制度も日本社会に適合する限度で徐々に良いところを日本社会に馴染むように変容させてから、採用して行けば良いのであって未消化状態でそのママ「ゴロッと」取り入れるとぎくしゃくして社会軋轢が生じるばかりです。
憲法解釈論に戻りますと、戦後アメリカによる憲法強制を例外(自主憲法を原則)としてみれば、憲法や社是等の基本精神は本来その社会の到達点の解釈であるべきです。
社是・社訓・憲法は各種分野・法律・実務到達点を制定当時に抽象化したものであるべきですから、法律の勉強で言えば憲法はスベテの法律(国民総意に基づく少しずつ修正の集大成))のまとめ・・法学概論にあたるもので、概論の専門家って必要なのか?ということになります。
フランス革命のように、「自由・平等・博愛」その他一人二人の思想家が何か言って、国民が反応する・・知識・技術を輸入に頼る後進国では、輸入思想の解釈論・・実務を知らない学者の出番ですが先進国社会には対応しません。
わが国の場合では、哲学者や宗教家の発言力の変遷を見ると、江戸時代初期の天海僧正などの宗教家から荻生徂徠や新井白石などの儒学者に移り、吉宗以降実務家に移って行った「御定書・先例集の編纂)経緯を紹介したことがあります。
我が国では、高名な思想家が立派な意見を発開陳して、大衆がこれに反応するような社会はフランス革命のずっと前に卒業しているのです・・。

憲法学の有用性1

憲法学は独立の学問と言えるかどうかすら、(政治学の一分野?あるいは各法律の一分野?)怪しいと思う人が増えているでしょう。
戦後アメリカがアメリカ製の憲法を強制する必要から「憲法学者」と言うアメリカ思想の伝道師を養成してこれが戦後ハバを利かしていたに過ぎないように思えます。
アメリカとしては日本占領時にアメリカが意図するように日本の法制度を完成するのは無理があるので、社会価値の基本である民法改正や農地解放あるいは教育勅語など、大急ぎで旧価値観解体を急ぎましたが、これを国民一般に浸透させるためにてっぺんの憲法学者の養成・・非武装論者や教育界の改造に取り組んで来たように見えます。
この尖兵・伝道者・・宣教師としての憲法学者や教員が養成されたのです。
・・如何に日本民族が劣っているかの教育に精出していましたし、(日本人は中学生レベルと言う有名な宣伝がでたのもこのころです)体型まで日本人の醜さはホッテントット人並みと言うマスコミ報道が・・昭和30年代後半私の高校生だったか大学生だったかの頃にはやっていました。
兎も角てっぺんの憲法からアメリカ式価値観を植え付けて行く方法として先ずは、憲法学者と言う宣教師を養成したように見えます。
朝鮮戦争が始まり、米ソ冷戦が激化して日本を自分の軍事力に組み込む必要が出て来ると、アメリカの意向で?日本の再軍備が始まり、憲法9条との矛盾を解決するために「統治行為論」が必要になって来ると、純粋培養した憲法学者や日教組が非武装論・・憲法9条をたてに中国ソ連寄りの行動をするようになって来て(左派の砦になってしまった)アメリカにとっても邪魔になってきました。
この辺はソ連抵抗勢力としてアフガンで養成したテロ組織・アルカイダグループが、ソ連崩壊後アメリカでテロをするようになったのと同じで、アメリカが力を入れて養成していた日教組と憲法学者が反米組織として最後の砦になって、残ってしまった印象です。
民法その他実務に根ざした法学系は、殆ど英米法の影響を受けませんでした。
実際日本社会の方がアメリカよりも進んだ社会ですから、数千年単位で遅れているアメリカモデルが日本社会に浸透出来る筈がありません・・・次第に日本の実態に根ざした学問になって行ったのと比較すると観念論に終始出来る憲法論や社会から遊離した観念に固まっていても子供の教育と関係がない・・小中学生はモンク言えない・・強制ですから、私立に行かない限り父兄に教師の選択権がないことから、日教組に根強く残ったのは偶然ではありません。
この後で書くように最近相次いでいる家事関係の憲法違反の最高裁判決の内容を見ると・・社会実態の変動に基づく実質的な憲法改正ですが・・これを主導して来たのは、憲法学者ではなく実務家の社会実態変動を基礎にした粘り強い運動が実を結んでいるものです。
以下(長くなり過ぎるので引用は20日のコラムになります)で非嫡出子相続分差別に対する違憲判決の詳細を紹介します。
これによると戦後の長い間の社会実態の変化やこれに合わせた戸籍規定の変更・・政府による改正案作成の経過などによる緩慢な?周辺整備の進捗具合、あるいは、過去の合憲判決の中身の変遷等を丹念に跡づけた結果、遅くとも平成◯◯年ころには、(それまでは合憲であったが)非嫡出子差別が許容されない社会意識になったと言う認定・・これによるとその時期を期して憲法が変更されたことになる・・判決ですので、煩を厭わずにお読み下さい。
要は我が国は何事も丁寧に・・観念論だけ決めるようなイキナリ乱暴なことをしない・・社会実態変化に即して修正して行く社会であることを知るべきです。
韓国では、先進国で良いとなれば、国情を無視して大幅改正していく乱暴な社会ですが・・後進国は製造設備なども一足飛びに最新技術の向上を誘致出来ますが、・・法と言うものが国民意識の上に成立していると言う意識がまだ成立していない・・エリートと庶民の意識格差が激しい・・庶民は黙って従えば良いという意識社会だから出来ることです。
憲法は国民のための憲法であり、異民族が押し付けるべきものではないと言う原理論から言えば、社会実態が数十年単位で変わって行くのに合わせて憲法解釈も徐々に変わって行くべきです。
そうなると憲法はドラスチックな憲法改正によるのではなく、判例変更に委ねるのが、合理的で国民投票による憲法改正と言う荒療治をやるのは革命的動乱時に限る(・・アラブ諸国のように数十年単位で社会が大混乱しますので・・結果的に数十年かけて徐々に運用を変えて行く方が合理的)べきでしょう。

憲法とは?4(統治行為理論1)

特に尖閣諸島問題は、机上の空理空論のための議論ではなく、目の前に発生している現実に対応すべき必要性から見れば、数十年以上かかる憲法改正→アメリカの占領政治における憲法制定過程・ひいては東京裁判や日米戦争の根本否定に連なる議論に火をつける・・今でも右翼系は問題にしています・・ことになりかねないことですから、そうしたリスクを踏まえて決着をつけるには、アメリカの国際影響力の消長を見極めながら慎重に対応して行くしかないことが明らかです。
要は薄皮を剥ぐように徐々にやって行くしかない分野です。
この政治的決着を図ったのが有名な砂川事件最高裁判決で、既に、このコラムで紹介しましたが・・いわゆる「統治行為」理論でした。
高度な政治判断を要することについては、「司法権は介入しない」と言う原理を宣言したものです。
今このコラムの大改造中のため、過去の検索が出来ないので、判決文自体を紹介しておきましょう。
以下は同事件判決の一部抜粋です。

日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第3条に基く行政協定に伴う刑事特別法違反被告事件
昭和34年(あ)七710号
同12月16日大法廷判決
「・・・・ところで、本件安全保障条約は、前述のごとく、主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するものというべきであって、その内容が違憲なりや否やの法的判断は、その条約を締結した内閣およびこれを承認した国会の高度の政治的ないし自由裁量的判断と表裏をなす点がすくなくない。それ故、右違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、従って、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであって、それは第1次的には、右条約の締結権を有する内閣およびこれに対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねられるべきものであると解するを相当とする。そして、このことは、本件安全保障条約またはこれに基く政府の行為の違憲なりや否やが、本件のように前提問題となっている場合であると否とにかかわらないのである。」

上記のように高度な国際情勢判断を基礎にした政治判断の是非について、高度な政治判断をする訓練を受けていない司法権・・ひいては法律学者が最終決定するのは国益に反すると言う価値判断です。
集団自衛権に関する今夏の安保法制について、政府が既に憲法論は決着済みとして砂川事件判例を持ち出しているのは、この意味で正確であり正しい引用ですし、逆にこれを正確に報道しないで、憲法学者が狭い視野で言い募る視野狭窄的意見ばかり紹介しているマスコミの方が実態をねじ曲げています。
既に社会党でさえも認めているように政治的且つ憲法論としては、統治行為論によって、法律家が意見を言う権利がないことで決着されているのですから、この分野・・集団自衛権の可否に関する専門家の意見が必要とすれば、法律家ではなく、国際政治学者の専門分野ですが、何故かマスコミは国際政治専門家の意見をまるで報道しようとしませんでした。
政策ごとにその道の専門家の意見を参考にするのは合理的ですが、それでも経済学者等の意見そのもので決める必要はありません・・政治は参酌するだけでいいのです。
まして、その都度、憲法違反かどうかを先ず議論してその決着がつくまで金融政策や税制を決められないと言うのでは、何事も進みません。
例えば、金融政策に関しては、経済学者の意見を参考にするのが普通ですが、金利下げが庶民の財産権侵害になるかどうか・・消費税が弱者に影響が大きいから法の下の平等に反するかなど、憲法違反かどうかを憲法学者が議論して憲法学者の意見で決めていい訳がありません。
憲法学者は具体的政策の専門家ではありません。
政治の基本姿勢のあり方を哲学者や高層の意見を拝聴するのは有用かも知れませんが、具体的な政治の最高決定権を哲学者や高僧の判断に委ねるのは合理的ではありません。
テロ犯に銃で応戦したり、上陸して来る侵略軍を撃退するのは、殺生禁止に反するかと?高僧に聞いているようなものです。
まして憲法学者は、高僧等の知恵者の集まりではありません。
憲法学者は「もはや用済み」として国内で決着されている(空中論争をしていると現実の必要に間に合わないのが狙いです・・憲法論の決着まで何も出来ないのでは・・政策論争で負けている方が、結果的に何でも反対して時間引き延ばしに利用出来ますので「何でも反対」の社会党や左翼系文化人が憲法論が好きでしたが、社会党ですら自衛隊違憲論を変更していることを22日のコラムで紹介します)にも拘らず、今頃亡霊のように出て来て、「先ずは、憲法改正してからにしろ」と言う意見では目先に迫っている現実をどうするかの議論にはなりません。
憲法論争を先にすべきであると言う論争方式自体も、上記砂川事件の田中耕太郎長官の補足意見で批判されています。
集団自衛権に関する憲法論は、砂川事件で勝負がついていることの蒸し返しですし、こんなバカなことばかり今でも言っているので、憲法学者をどこでも相手にしなくなっているのです。
ソモソモ憲法学者って何でしょうか?

原発問題(専門家の限界)4

一人でも反対の場合、再稼働を認めないと言うときの一人とは、規制委委員の内一人だけなのか、規制委員会委員だけではなく関連学会や現場関係技術者まで含むのかにもよりますが、幅広く委員会外に反対意見があればそれを採用すべきとなれば、どの範囲までの人を加えるかの問題もあります。
国論が大きく割れているテーマでは(何百人もいる関連研究者のうちに反対論者が一人や二人いるのが当然予測出来ますから)反対論者が一人でもいたら再稼働禁止と言う法律が仮にあれば、事実上禁止法を制定したのと同じ効果になってしまいます。
福島原発大被害発生後満4年経過した現在でも、国民総意が即時廃炉、段階的廃止・・古い分は即時廃炉しても新しい分は運転していて寿命が来る都度新設しないで縮小して行く・・その他国論がまとまらず、揺れている状態です。
国論が定まらない状態では、政権も明確な意思表示出来ないのは民主国家運営としてある程度仕方のないことです。
経済運営では国論が定まらなくとも、政権はABC~Xの意見うちどれを採用するかを相当期間内に選択して行くしかありませんが、原発政策は、相稼働を認めなくとも、あるいは廃炉に決めても危険な使用済み燃料棒が即時にこの世からなくなる訳ではありません。
冷却が止まると危険性がある点は、・・急いで廃炉かどうか決めても危険な使用済み済み燃料棒をすぐにどうにか出来る性質のものではないので、国論が揺れている以上は時間軸を多くとって慎重に国論の行方を見定めること自体は妥当であり、優柔不断・・小田原評定的非難に当たりません。
国論が定まらない状態の震災直後に制定された新規制法の基準がより厳しくなったとしても、全面即時禁止法と同様の効果がある「一人でも反対意見があれば再開を許容すべきではない」と言う基準が法制定されているとは到底考えられません。
せいぜい変更あったとしても単なる多数意見(過半数)ではなく、全体の2〜3割以上反対があれば多数意見を採用しない・・危険とするなどの段階的基準設定する程度ではないでしょうか?
(憶測だけではなくこの後で規制委員会設置法の条文を見て行きます)
会社法その他の組織法(身近なところではマンション法など)では、議長の裁量に留まらず、解散その他重大決定は特別多数制度(3分の2以上や5分の4以上など・・マンション法では厳し過ぎて老朽マンションの建て替えが進まないので最近要件緩和されたと言う記憶です)が採用・・法律上強制されていますが、原発規制法に会社法のような明文の規定がない限り、大方の意見によって決めて良いことになるのでしょう。
こう言う法律がない場合に、司法が独断でもっとも厳しい少数意見によるべきだと判断することは許されません。
ですからまさか、(仮処分決定書自体見ていないので分りませんが)こう言う基準で停止命令を出した訳ではないでしょう。

会社法(平成十七年七月二十六日法律第八十六号)

(株主総会の決議)
第309条 株主総会の決議は、定款に別段の定めがある場合を除き、議決権を行使することができる株主の議決権の過半数を有する株主が出席し、出席した当該株主の議決権の過半数をもって行う。
2 前項の規定にかかわらず、次に掲げる株主総会の決議は、当該株主総会において議決権を行使することができる株主の議決権の過半数(3分の1以上の割合を定款で定めた場合にあっては、その割合以上)を有する株主が出席し、出席した当該株主の議決権の3分の2(これを上回る割合を定款で定めた場合にあっては、その割合)以上に当たる多数をもって行わなければならない。この場合においては、当該決議の要件に加えて、一定の数以上の株主の賛成を要する旨その他の要件を定款で定めることを妨げない。
以下各号省略

法の明文がない場合にも、実務上効果がはっきりしていない・よく分らないことに関する重要決定事項に付いて、多数の反対意見が噴出すると(賛成者多数の場合でも)直ちに「決」をとらないでもう少し慎重議論しましょうと議長・委員長が引き取ることが多いのですが、これは議長の裁量行為であり、一定の議論を尽くした結果であればその場で議決しても裁量権の濫用にはならないでしょう。

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