壬午事変2(騒乱の功罪1)

事大主義・保守派の大院君(高宗の父)が壬午事変(1882)で大衆騒乱を陰で操り事実上のクー・デ・ターを起こして権力奪取したのもつかの間でした。事件後(本当はバックで軍事的承認・後押しをした筈の)袁世凱の軍が彼を捉えて(日本の批判をかわす目的だったのでしょう・・)天津へ送って李鴻章が査問したのは、儀礼的朝貢国から法的属国支配へと変更したことを内外に示した象徴的事件となりました。
朝鮮国王の父親を拉致して本国へ移送した点では、清朝の支配権を内外に誇示出来たでしょうが、駐留していた袁世凱の軍は騒乱になす術もなく(彼が煽動している以上は当然・黙認ですが・・)日本人を保護しなかった国際政治上のマイナスに気づかなかったのです。
昨年の中国での反日デモでも、中国政府はこれを規制しないでやりたい放題させていた結果、平和堂・パナソニック等の工場が焼き討ちに遭いましたが、この手の政府主導デモ・騒乱の最初の方式と言えるでしょう。
この騒乱の結果政府の信用・カントリーリスクが世界中に広まったマイナスを全く気にしない・・信用という価値を知らないのが中国です。
彼らは「ザマーミロ、中国の怖さを思い知っただろう」と溜飲を下げているのでしょう。
この心理はヤクザなどが「ここぞ!」というときに目に余る乱暴狼藉をしないと示しがつかないという意識で乱暴をするのと共通です。
正しいことを通すために敢然と悪に立ち向かうなら良いですが、理不尽な要求を通すために「国を挙げて違法行為に走る性癖があることを証明して何になるの?」という問題です。
違法行為実現のためにはどんな乱暴なことでもすると言う本質的怖さ(獰猛な猛獣と同じであること?)を市民や諸外国に植え付けることが、長期的にプラスになるかマイナスになるかの価値判断が狂っているのです。
思慮のある人間と見られるか、獰猛な猛獣と同じ・野蛮人と見られるべきか、どちらが人間として望ましいかは、誰も目にも明らかでしょう。
この程度の単純な利益考量すら出来ないで、「舐められてはならない」・・と威張り散らすことが長期的利益になると思って行動しているのが、このとき以来今に続く中国の心です。
尖閣諸島や南沙諸島その他中国が示威・威嚇行動をすればするほど、彼ら自身は「どうだ!」とばかり自慢しているのでしょうが・・自分の国際的信用・評価を落としていることに気づかないのですから哀れです。
弱い相手・・例えばフィリッピン対しては、中国海軍が現地紛争海域に長期常駐体制を続けていて事実上その海域を自国領土のように実効支配してしまっています。
現在海軍力では日本には叶わないのを知っているので、海軍自体が出て来ないで訳の分らない公船と言う名目で海軍艦艇のお古で事実上の海軍見たいな多数の船が尖閣諸島の日本領海侵犯を繰り返しています。
日本には力が及ばないとなれば、国境線では軍隊ではないと言う名目で海軍のお古の船を、海軍の軍籍から外して多数利用して領海侵犯を繰り返し、自国内で日本企業に対するデモの威嚇で嫌がらせを続けています。
戦前ならば,現地政府が外国人の安全を守らないと言うならば・・ということで、日本を含め西洋列強は中国に自国民保護のために軍を駐留させていました。
今ではそう言うこと(自国民保護のための軍の駐留)が出来なくなったのを良いことに中国は気に入らない外国があれば、好き勝手にデモ等の名目で破壊活動を行って威嚇するようになっています。
世界中ではデモは反政府活動として本来発生するものですが、中国の場合官製のデモばかりで反政府活動のデモは弾圧が厳しいので存在しません。
フィリッピンのように相手が弱ければ剥き出しの軍事力行使をして、日本のように少し強い相手には(これは海軍ではありませんという言い訳しながら挑発を続ける・・)そして相手が中国国内で手を出せないデモという「民主主義的手段は仕方がないでしょう・・」という建前で、相手国企業に対する嫌がらせを仕掛けるのが中国政府の手口です。

日本対中朝対立の始まり2と根深さ

西洋の所有権法理の適用の1つとして、清朝はフランスの一撃であっけなくベトナムに対する朝貢関係・・支配権放棄をせざるを得なくなりました。
(仏領インドシナの成立です)
清朝はアヘン戦争やアロー号事件で権威を失った結果、ドンドンと周辺格下・朝貢国支配権を失って行く危機感によって、それならばと属国支配強化・・具体的に軍を駐留して具体的支配が必要との動きとなったものでした。
ウイキペデアによれば、1881年(光緒7年)以降は李氏朝鮮との外交も、朝貢国との関係を扱う礼部から北洋大臣・・当時李鴻章が大臣・へと移管・・直轄地に準じる扱いされ、それまでは控えられていた朝鮮の内政や外交への干渉が強まり、朝鮮の属国化が進んでいました。
学校の世界史の勉強では,中国はアヘン戦争以降なす術もなく列強に蝕まれて行くような印象ですが、結果見ればそうですが、清朝とても黙って手をこまねいていた訳ではなかったのです。
版図を守るために必死だったことは分りますが、そのためには内部改革によって筋肉質にして行くことが先決ですが、これを怠って軍を周辺に膨張させていくだけでは意味がありません。
企業で言えば、赤字体質を改めないで出店競争ばかりしていても先がないのと同じです。
第二次世界大戦後、世界の混乱を利用して中共政府はチベットを完全に属国化したのは、この文脈で理解すべきです。
ただし朝鮮半島と違い簡単にチベットを属国化出来たのは、チベットの外周はヒマラヤの向こうなので外側にちょっかいを出せる(朝鮮に対する日本のような)国がなかったのが幸いしたと言えるでしょう。
それまでチベットにはイギリスがかなりちょっかいを出して関心を示していましたが、第二次世界大戦でドイツの空爆によって疲労困憊というか国力を大幅に減じてしまったし、戦後はインドの独立運動が始まっているなどその奥にあるチベットへの介入能力がなくなっていたことによります。
中央アジアのウイグル自治共和国その他内陸少数民族への直接支配強化も似たような経緯によって完全属国化して行ったのではないでしょうか?
周辺民族にとってはそれまで儀礼的服属で済んでいたのに直接支配になって行くのでは、納得出来ませんが周辺に援助してくれる国がないので泣き寝入り状態です。
欧米流法理の影響で却って窮屈な関係になって行き・・反乱等が頻発している原因です。
アジア的曖昧さをなくして行くのは善し悪しです。
このような経緯を踏まえると習近平総書記・国家主席が唱えるようになった清朝の栄華を復活させるというスローガンは、19世紀に切り離さざるを得なかった朝鮮半島〜ベトナム支配の復権を目指しているのかも知れません。
台湾は清朝時代朝貢関係にさえなかった(朝貢するようなはっきりした王国が樹立されていなかった)のですから、その主張からは除かれることになります。
沖縄は薩摩には具体的支配を受けながら、表向きは清朝に朝貢していたので、この朝貢関係を根拠に中国政府は最近自国領土だと言い始めた根拠になっているのでしょう。
日本公使など外交団と駐在日本人に対する襲撃事件が起きた壬午事変(1882)は、清朝が朝貢国を扱う役所の管轄変更・・属国支配強化を始めた翌年のことでした。
江華島事件(1875年(明治8年)江華島条約成立(1876)後、日本の開明化の働きかけに呼応して開明派が力を得て開明派の中心であった高宗の妻ミンピを中心とする日本の軍事顧問受け入れなど改革が進み始めていました。
江華島事件以降着々と朝鮮への浸透をして行く日本に対する保守派と清朝の焦り、清朝駐留軍をバックに保守派・事大党がこの事件を引き起こしたものと思われます。

 二重支配解消と日本対中朝対立の始まり1

朝鮮が日本の働きかけに煮え切らなかったのは、頑迷固陋というだけではなく、宗主国清朝の許可を得なければならないという法的言い訳もあったでしょうし、これを半ば信じていたと言うか仮に属国とすれば法的にはそのとおりですから、朝鮮独立→ロシアの南下に対する防波堤とするには日朝協調のために解決すべき法理でもあったのです。
当時清朝は前近代的朝貢関係の属国を近代法の属国へと切り替えるつもりで、以前より朝鮮支配を強化していました。
朝貢関係程度では清朝支配の領土として国際法的に認められず、侵略に対する有効な法的抗議が出来なかったことによります。
沖縄(当時琉球)の関係もどっち付かずでお互いに旗幟を明らかにせずに都合良く利用しているような・・よく言えば大人の智恵的な関係したが、当時押し寄せて来た西洋法理では所有権は絶対でこんなあやふやな関係では所有者がいないものと見なして、だれが占領しても良いという西洋に都合の良い法理でした。
この法理によってアメリカ大陸や太平洋の諸島で誰の領有かはっきりしない場所(現地住民・一定の社会組織があるのにこれを無視して)では、先に国旗を建てた方が勝ちみたいな植民地化/西洋による領有化が進んだのです。
ローマ法→ナポレオン法典を源流とする民法に書いてある「無主物先占」法理の国際法版です。
民法
(無主物の帰属)
第二百三十九条  所有者のない動産は、所有の意思をもって占有することによって、その所有権を取得する。
2  所有者のない不動産は、国庫に帰属する。
この結果、極東地域では、アヤフヤな二重支配関係をどちらに帰属するかの整理を早急にしないと西洋諸国に占領されても文句言えないことから、単一支配に整理する必要性が出て来て、日中朝鮮3ヶ国の調整を迫られました。
当時の力関係で台湾は清朝に、沖縄と対馬は完全な日本にとなりました。
樺太・千島は、日露交換条約で樺太を譲り千島列島は全部日本となって行ったのです。
日本にとっては樺太と千島列島北半分の交換では大分条件が違う・・損な印象ですが、領土の広さよりは軍事的観点から見ると当時ロシアが太平洋に出られないようにすることに英国など他の西洋諸国の関心があって,この意向を受けていた日本が受諾したのではないでしょうか?
明治新政府は清朝李氏朝鮮がこうした領土確定交渉に忙しかったことが、それまでこれと言って争いのなかった中国や朝鮮との仲違いが始まっている元凶になっているとも考えられます。
中国や朝鮮はこのときの力関係(戦争によるものではないものの)で決まったので、日本に良いようにやられた・・許せないと言うのが国論になっているのでしょう。
(とは言うものの実際上の支配の強かった方に決まって行った点では、結果妥当と思うのは日本人である私の贔屓目でしょうか?)
所有権絶対の法理は既に何回か紹介しています。
我が国ではその前には所有権概念がなかったのです。
・・農地で言えば領主のものか地主のものかはたまた地元豪族のものか・・重層的支配が普通だったこと・・・城や城下の屋敷や建物も国替えの都度売って行ったのではなく、そのままおいて行くのが普通だったし誰の所有か実ははっきりしていませんでした。
・・忠臣蔵の吉良上野の屋敷替えでもそうですが、元の屋敷の建物を取り壊して移築などせずに、ただで出て行った筈です。
赤穂藩も領地没収されるだけではなく、お城その他のものもみんな無償で引き渡し命令を受けるので自分の物という意識はありません。
この辺の法理については、07/03/07「配偶者相続と所有権の多様性4(民法207)」December 8,2010「フランス大革命と所有権の絶対4」前後で連載しました。

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