社会変化2→短命な班田収授法

吉宗自身いろんなことを知りたい好奇心の塊であった結果、自由な学問領域を認めたのでしょう。
下々の意見を聞いて政治をするといっても既定の(朱子学)枠内の諮問では結果が知れています。
吉宗の改革は植木鉢の根が絡まったような窮屈な状態になっているのをほぐし直すようなものだったでしょう。
これによって幕藩体制が生き返ったようです。
千年も2千年も社会構造そのままで来た中国や朝鮮と違い日本社会は古代から絶え間なく変化していますので、6〜70年・・約2世代経過でその前の成功体験・制度構築が合わなくなります。
3代将軍家光の子供世代の最後が綱吉でしたので家宣の時代は、徳川政権成立が関ヶ原後とすればすでに3世代以上経過しています。
社会変化・現実対応力が秀才には弱いように見えます。
例えば、班田収授法が始まってから例外たる私有地公認が始まるまでの期間は以下の通りほんの数十年間あるかないかです。
班田収授法に関するウイキペデイアです。

班田収授法の本格的な成立は、701年の大宝律令制定による。班田収授制は、律令制の根幹をなす最重要の制度であった。

律令制度では年齢男女別一人当たり何反歩という面積の割り当て方式でしたが、現在基準で考えると法令ができても、全国民に配分すべき農地の登録(農地の規模を決める測量その他のルールの整備?だけ考えても・その後実際の測量図面作成や地番の付け方)や配分すべき国民の統計・戸籍簿が完備するわけではありません。
事前にこうしたインフラがあってこそ政治的可能性だけ(反対派の抵抗など)の議論ですが、前提になる全国規模の統計整備などしたこともない時代に、律令だけ作ってどうやって実行しようとしていたのか理解不能です。
ちなみに幕末頃でも地番制度がなく、知行地の書き方をみると(今はうろ覚えですが)「〇〇の庄何町何反歩」という程度の書き方です。
明治民法ができても前提になる土地登記をするには、上記の通り地番制度自体がなかったので民法に登記が対抗要件と書いてあっても同時に登記法を作ることができなかった・・・前提になる地番等の表記制度がなかった・・ボワソナード(旧)民法成立時には戸籍制度の実務基盤ができていない状態で、約10年後の現民法ができた明治30年頃にようやく関連制度が出来上がりつつあったことを明治の法制度シリーズで紹介したことがあります。
関連整備を待つ必要がったので旧民法はすぐに施行出来ず施行時の特定さえできずにいた間に民法典論争が激しくなって結果的に施行しないうちに、現行民法制定なってしまったものでした。
反対運動があったので施行しなかったのではなかったのです。
例えば消費税が正しいという意見が仮に明治初年頃にあって法律が出来たとしても、売上帳簿制度がない状態でどうやって捕捉するのか考えれば、画餅論に過ぎないことが分かるでしょう。
今でも、もしもゼロからスタートすればこんな大事業の準備が5年や10年で終わるとは思えませんが、律令制当時土地の特定方法や測量技術がどんなものだったか知りませんが、大雑把でよかったとしてもその時代に応じた場所や範囲の特定作業その国家登録制度が必要だったでしょう。
以下に見るように本当に実施できたかどうかすら不明な723年には、すでに私有を認める制度が始まっています。
この制度はあっという間に崩壊し(本当は実施不可能だったのではないか?)私有化が認められ、私有化公認されると今度は租税回避目的で荘園制に移行しました。
口分田に関するウイキペデイアです。

導入 – 衰退の経緯
記録上は、8世紀=奈良時代を通じて順調に農地の支給(班田)が行われているが、800年の記録を最後に班田は行われなくなった。これに伴い、口分田制度も急速に衰退したのではないかと見られる。
ただし、班田が規定どおり行われていた時期においても全てが順調に機能していたわけではない。水田による班田が原則でありながら、水田の不足より陸田が混ぜられて支給されたり、地域の慣習法(郷土法)によって支給面積を削減されたり、遠方に口分田を与えられるケースもあった。
特に志摩国では水田が極度に不足していることから伊勢国尾張国の水田を口分田とする例外規定が認められていた。
都城の区域内も水田の耕作が禁じられていたため、口分田が設置されておらず、京に本貫を持つ京戸は畿内に口分田が与えられていた。

荘園パターンも内容は時期によって異なり同じ状態が続いたのではありません。
荘園_(日本)に関するウイキペデイアです。

日本の荘園は、朝廷が奈良時代に律令制下で農地増加を図るために有力者が新たに開墾した土地の私有(墾田永年私財法)により始まる。
平安時代には、まず小規模な免税農地からなる免田寄人型荘園が発達し、その後、皇室や摂関家・大寺社など権力者へ免税のために寄進する寄進地系荘園が主流を占めた。

700年始めに制度導入後養老7年(723年)に出された三世一身法に続いて墾田永年私財法は743年ですから、723年にはこの前提になる制度が始まっていてこの歳になって完全な私有承認に至るのです。
墾田永年私財法のウイキペデイアです。

背景
養老7年(723年)に出された三世一身法によって、墾田は孫までの3代の間に私財化が認められていたが、それでは3代後に国に返さなければならないことが見えており、農民の墾田意欲を増大させるには至らなかった。また開墾された田も、収公の時期が迫ると手入れがなされなくなり、荒れ地に戻ってしまいがちである。それを踏まえ、食料の生産を増やす為、この法の施行をもって永年にわたり私財とすることを可能とした。
原文には「由是農夫怠倦、開地復荒(これにより農民が怠け、開墾した土地が再び荒れる)」とあるが、三世一身法の施行からまだ20年しか経っておらず、3代を経過して農民の意欲が減退するという事態が本当に生じたかは疑問が残る所である。これを根拠として、むしろ農民というより富豪や大寺院の利益誘導ではなかったかという見方もある。

「富豪や大寺院の利益誘導」と言うのですから、大富豪の下で働く仕組み・・この頃には荘園化の進行を前提にした意見に見えます。
以上のように古代においても日本では目まぐるしく社会構造が変わっています。

文化の進んだ唐の理念実現を絶対として、やみくもに進まず、我が先祖が変化に柔軟対応して来た歴史がここに見えます。
長屋の王の事件は藤原4兄弟との政争に負けた点だけ一般化されていますが、本当は最高の貴種で秀才であった長屋の王が、左大臣で権勢をにぎったときに荘園化進行中・これが社会現実だったでしょうが、これに対する否定論・・観念論にこだわって幅広く新興荘園経営層を政敵にしてしまい、バックの広がりの違いで4兄弟との政争に負けたのではないでしょうか?
長屋の王は、朝廷そのものですから藤原氏を中心に旧豪族連が推し進める荘園拡大=朝廷収入の空洞化が許せなかったでしょう。
律令制導入は中国の真似をして朝廷に収入を集中し豪族の収入源(今で言う領地)を奪い、旧豪族には八色のカバネ姓や官位を授与し単なるサラリーマン化する政策に対する旧豪族連合の抵抗が荘園化進行だったでしょう。
大化の改新は天皇権力を強めすぎ・やりすぎたので結果的に天皇家の地位を弱めたように見えます。
この辺は建武の新政で後醍醐天皇が朝廷権力回復政策を推進すると急速に武士の支持が離れ、尊氏の方にみんな寄って行ったのと同じ・歴史順に見れば建武の新政の失敗は古代律令制失敗の轍を踏んだように読めます。

  社会変化→秀才の限界 1

新井白石に関するウイキペデイアの記事からです。

新井 白石(あらい はくせき)は、江戸時代中期の旗本・政治家・朱子学者。一介の無役の旗本でありながら6代将軍・徳川家宣の侍講として御側御用人・間部詮房とともに幕政を実質的に主導し、正徳の治と呼ばれる一時代をもたらす一翼を担った。家宣の死後も幼君の7代将軍・徳川家継を間部とともに守り立てたが、政権の蚊帳の外におかれた譜代大名と次第に軋轢を生じ、家継が夭折して8代将軍に徳川吉宗が就くと失脚し引退、晩年は著述活動に勤しんだ。
引退後
致仕後、白石が幼少の家継の将軍権威を向上すべく改訂した朝鮮通信使の応接や武家諸法度は、吉宗によってことごとく覆された。また、白石が家宣の諮問に応じて提出した膨大な政策資料が廃棄処分にされたり、幕府に献上した著書なども破棄されたりしたという。
江戸城中の御用控の部屋、神田小川町(千代田区)の屋敷も没収され、一旦、深川一色町(江東区福住1-9)の屋敷に移るが、享保2年(1717年)に幕府より与えられた千駄ヶ谷の土地に隠棲した。渋谷区千駄ヶ谷6-1-1に渋谷区が設置した記念案内板がある。当時は現在のような都会ではなく、一面に麦畑が広がるような土地だったと伝わる。
晩年は不遇の中でも著作活動に勤しんだ。『采覧異言』の終訂(自己添削)が完了した5、6日後の享保10年(1725年)5月19日、死去した。享年69(満68歳没)。墓所は中野区の高徳寺にある。

外様大名や反間部詮房/新井の幕閣内の支持を受けて屁理屈先行社会の限界を根底から覆したのが想定外の野育ちの将軍吉宗の登場だったことになります。
吉宗は儒学を否定したのではありません。
吉宗も当時主流だった朱子学を学んで育っていますので、儒学者も重用されていることが紹介されています。
http://www.ne.jp/asahi/chihiro/love/ooedo/ooedo71.htmlでは以下の通り紹介されています。

同時に林信篤、室鳩巣も吉宗に重用された儒学者でした。
その室鳩巣が、吉宗の教養について「御文盲に御座なされ候」といい、6代家宣の正室天英院の父・近衛基煕も「和歌については尤も無骨なり。わらふべし〃」と酷評しています。
どうやら吉宗は、当時武家社会において教養とされた儒学や和歌については、あまり得意ではなかったようです。
しかし、先に述べたように薬学に明るかったり、また神田駿河台(後に佐久間町に移転)に天文台を作るなど、実用的な学問には非常に興味を示したものでした。
文系ではなく理数系の人であったのでしょう。

私の(思いつき)意見は上記紹介意見と違い、理系か文系かではなく現実主義政治家であったということではないでしょうか?
青木昆陽の献策を受けて馬加村・マクワリ・現在の千葉市幕張でサツマイモの実験農場を作らせて見たり、同じく房総半島で白牛を育成させてチーズを作らせるなど何かと進取の気性というか好奇心が強かったように見えます。
青木昆陽の献策はもともと目安箱に投じられた意見によると言われますが、今風に民主主義思想によるというよりは、自分のしらない意見を知りたかったのではないでしょうか?
天文方自体は渋川春海の研究業績によって、本邦初の国産歴である貞享暦がおこなわれるようになったことが知られているように、貞享年間頃からあるものです。
天文台の設置自体が、単なる移転?であったとしても、相応の出費(今でいう予算)を要することですから、この方面への好奇心や理解があったということでしょう。
個人趣味のように発達していた和算を実務で応用する体制が天文台という国立?機関設置によって活躍の場というか、研究家・レベルの高い人が集い意見交換の場ができたことによってより一層の発展ができたものと思われます。
これによって国立機関の充実によって、天文→もともと発展期にあった我が国発の和算・・数学の発達に寄与したことが後世伊能忠敬がそこに籍を置いて天文方公式職務として日本地図作成・・全国測量して歩けたことなどで分かります。
正確な地図測量には三角法の数学基礎知識が(当時プロの世界では常識?)前提ですが、(実際伊能忠敬は、岬の突端などまでの距離を三角法で測量しています。)それまでの天文学=占星学と違い、科学的に事実を知る・・数学素養が基本です。
伊能忠敬の地図作成申請目的が、子午線の距離をより正確に知るには底辺距離長い方が仰角差正確に計算できるので蝦夷地での測量が必要となったことによると言われています。
最新考古資料発掘は地元好事家の発見によることが多いのですが、そのためには基礎学力の普及が必要です。
25年ほど前に千葉県に国立の歴博ができたことによって、(正式には「独立行政法人〇〇共同研究機構」というようですが、特定大学の研究所ではなく全国研究者に開かれた機構にすることによって、歴史研研究の場が開かれるようになったことがおおきなインフラになっているのと同じでしょう。
16〜7年ほど前に岐阜県山中のプラズマ発生装置?の修習生を連れて行き見学をしたことがありますがそこは歴博同様の〇〇共同研究機構と銘打っていて日本中の研究機関が事前申し込みによって巨大装置を使った実験をできて見学時にもどこかの大学の実験中でした。
このように開放的インフラ整備は長期的には重要な役割を果たすものです。
その後の日本での数学発展(世界的に見て日本の数学水準が高いのはこの時からの基礎(インフラ整備)によると(個人思いつきですが)おもわれます。
私の理解によれば、吉宗は幼児期からの教育主流に従って従来の朱子学者を重用しながらも並行して蘭学その他実学を取り入れて、前政権の白石流儀の隅々まで朱子学に反しないか目を光らせる小うるさい政治をやめたように見えます。

朱子学原理主義(白石)→現実主義(吉宗)1

吉宗大抜擢の背景を見ていきます。
本来世襲に関して(今の天皇制継承順を見てもあるように)最も重視されるべき序列順位を大きくをひっくり返し吉宗に将軍位が転げ込んだには、それなりの政治背景があったと見るべきでしょう
私の想像ではない・一般化している事情として、外様大名の支持が吉宗に集まったことが知られています。
吉宗に関するウイキペデイアの記事です。

御三家の中では尾張家の当主、4代藩主徳川吉通とその子の5代藩主五郎太は、相次いで死去した[注釈 3]。そのため吉通の異母弟継友が6代藩主となる。継友は皇室とも深い繋がりの近衛安己[注釈 4]と婚約し、しかも間部詮房や新井白石らによって引き立てられており[注釈 5]、8代将軍の有力候補であった。しかし吉宗は、天英院や家継の生母・月光院など大奥からも支持され、さらに反間部・反白石の幕臣たちの支持も得て、8代将軍に就任した。

序列的に実はかなりの後順位であった点については以下の通りです。
同じウイキペデイアです

注 秀忠の男系子孫には他に保科正之に始まる会津松平家があり、松平容衆まで6世代が男系で続いており、清武の死後も秀忠の血筋を伝えていた。

吉宗は家康まで遡らねばならない遠い血縁でしかないし、そこまで遡れば数え切れないほどの?血筋がいます。
御三家としても筆頭ではなかったのですが、家宣・家継政権中枢(間部・新井に受けのよかった尾張家がどんでん返しで排除されたのは、なぜか?を見るべきでしょう。
家宣は、私の主観イメージですが相応のまともな政治をしてきたように思われますが、頼りないとはいえ実子がいる限り、紀州家が気に入らなくとも尾張家などから養子を入れる余地がないまま死亡してしまいました。
綱吉も家宣も世子となる前に時の将軍の養嗣子になっているように、家光の子・4代将軍の弟というだけでは家督相続できない仕組みだったのです。
家継は幼少で死亡(予定?)したので、綱吉のように次世代指名がないまま死亡する予定で家継将軍就任時から適格者同士で後継争いにしのぎを削っていた状況でした。
ちなみに年長養子禁止制度は現民法でも維持されています。
そうなると4〜5歳以下の子供では実績もなくあらかじめ養子にすることは不可能だったでしょう。

民法
(養親となる者の年齢)
第七百九十二条 成年に達した者は、養子をすることができる。
(尊属又は年長者を養子とすることの禁止)
第七百九十三条 尊属又は年長者は、これを養子とすることができない。

当時の養子制度を検索すると江戸時代中後期以降の研究論文があっても家の維持を前提にした研究・末期養子禁止や養子適格の範囲がどのように変遷したか、養子の破談・離縁が意外に多かったなどのほか「内分」などの非公式処理の実態・制度が後追いで緩やかに変えていくなどの紹介ばかりで年長者養子禁止のデータは見当たりません。
動物の掟として「当然のことで資料に当たるまでもない」と学者らは理解しているのでしょう。
養子制度の論文をみたついでに横道ですが、以下感想を紹介しておくと、日本では制度があっても内分(関係者間では了承されているが公式手続きに乗せず内分に止める)運用が一般化していたようです。
税務申告で言えば、1種の2重帳簿?的道義に反することではなく、私の想像ですがよく知られているところでは、死後養子を生前養子にする他、一定の近親外の養子でも仮親を利用するなど不都合なことは内々にすますなどの便宜扱いが公然化し、幕府や大名家ではこれら実態を後追い的に追認的に、徐々に要件緩和をしていたようです。
今の社会でこういうのが発覚すると、関係者を処分せよとメデイアは大騒ぎですが、現場の裁量の利く社会だったようです。
・・村役人の私利私欲のためではなく、実態からしてやむを得ないと現場判断する事例が増えれば、社会変化をそのまま反映し、正義が行われる社会・ダム決壊・革命まで待つ必要がない・・変化阻害要因にならず、社会変化と制度が同時並行的に変化していくので庶民の政府に対する不満がたまりません。
幕府や大名家がこの変化を追認していく展開のようです。
このシリーズで強調している融通のきく緩やかな社会が養子縁組制度の運用でも維持されていたように思われます。
ドイツのユダヤ迫害に関し杉浦千畝大使が、本国訓令に反して?最大限時間の許すかぎり日本国への出国許可の文書発給し続けた人道的行為が今になって賛美されていますが、日本では現場価値判断・正義を自己責任で遂行すべきという価値観が基礎にあったからできたことでしょう。
日本では緩やかに社会変化しこれを最初に受け止める現場で柔軟対応していくので、少し遅れて公式制度も緩やかに変わっていくので、ダムの決壊のような暴力的革命不要でやってこられた基礎です。
江戸時代にも年長者養子禁止の倫理があったとすれば、家継が7代将軍になったのが3〜4歳くらいで死亡7歳(満年齢では6歳)の家継より年少養子を迎えることができなかった・政権中枢の意見(尾張家の方が良いと思っても尾張家を養子にできなかった点が隘路だったのでしょうか。
側近が幅を利かせるのは主君の意向を伝える立場を利用できる・・・老中会議で決まっても「上様の御意」ですと拒否できるのが強みでしたが、その主人が世子決定することなく死亡すれば、老中合議が最高意思決定機関になります。
この権力空白をなくすためには、将軍生前に綱吉のように世子 を決定し養子にしておくべきでしたが 、家継が幼児すぎてできなかった以上は、老中会議(閣議)に権力が戻ってしまうことが事前にわかっていたはずです。
家継死亡後は、誰の側近でもない・・いわば失職状態で軽輩の彼らが次の世子を決めるべき重要協議・・幕閣協議に参加できないし、幕閣が事情聴取すべき徳川御一門でもありません。
すなわち何の影響力もない状態におかれました。
尾張家が現政権中枢(幼児=後見?間部/新井連合)に取り入り、彼らに気に入られていても世子指名権がないどころか意見も聞かれない側用人等側近に食い込んだのは愚策だったことになります。
軽輩の側用人が本来の権限もないのに公式機関を無視して幕政を壟断していることに対する幕閣の不満派や新井白石の厳しすぎる政策に対して不満を抱く諸大名支持を失った戦略ミスが想定されます。

融通むげ・知恵伊豆と大和心4

松平伊豆守信綱に関するhttps://ja.wikipedia.の記述です。

行政では民政を得意としており、幕藩体制は信綱の時代に完全に固められたと言ってよい。また、慶安の変や明暦の大火などでの善処でも有名で、政治の天才とも言える才能を持っていた。幕政ばかりではなく藩政の確立・発展にも大きく寄与しており、川越を小江戸と称されるまでに発展させる基礎を築き上げ・・・・・信綱は現在でも川越市民に最も記憶されている藩主である[27]

政治の取り締まりに関して信綱は「重箱を摺子木で洗うようなのがよい。摺子木では隅々まで洗えず、隅々まで取り締まれば、よい結果は生まれないからである」と述べている。それに対してある人が「世の禁制は3日で変わってしまうことが多い」と嘆いていると「それは2日でも多いのだ」と言ったという(『名将言行録』)

数百年続く徳川体制確立に成功した稀代の政治家であったという評価の高い所以です。
彼の死亡後数十年そこらで、仁慈の実現として綱吉の生類哀れみの令になります。
(生き物すべて大切にせよというのは仁慈の実現には違いないですが、そこまでやると「〇〇キチガイ」の一種と評価されるのが日本社会の良識です)
欧米でPCの行き過ぎに対する反発が広がっているように、何かの主張が首尾一貫するように隅々までいき渡るように目を光らせると洋の東西を問わずに息苦しい世の中にするのはまちがっています。
ITが便利な時代が来てもアナログ的生活をする人がいても良いように、グローバル化やIT利用で成功する人や企業が多数としてもそれを強制する権利があるか・政治としてそこまでやって良いかは別問題です。
隅々まで厳しくやってはいけないと諭していた信綱は寛文2年(1662年)3月の死亡ですから、綱吉の生類憐みの令(1687年)までホンの短期間で細部まで徹底する政治・秀才政治・窮屈な社会が始まっていたことがわかります。
生類憐れみの令に関するウイキペデイアの記述です。

貞享4年(1687年)10月10日の町触では、綱吉が「人々が仁心を育むように」と思って生類憐れみの政策を打ち出していると説明されている[9]。また元禄4年には老中が諸役人に対して同じ説明を行っている[10]。儒教を尊んだ綱吉は将軍襲位直後から、仁政を理由として鷹狩に関する儀礼を大幅に縮小し、自らも鷹狩を行わないことを決めている[11]。

綱吉は学問好きで知られ文治政治を推進したと言われます。
綱吉に関するウイキペデイアです

戦国の殺伐とした気風を排除して徳を重んずる文治政治を推進した。これは父・家光が綱吉に儒学を叩き込んだことに影響している(弟としての分をわきまえさせ、家綱に無礼を働かないようにするためだったという)。綱吉は林信篤をしばしば召しては経書の討論を行い、また四書や易経を幕臣に講義したほか、学問の中心地として湯島聖堂を建立するなど大変学問好きな将軍であった。

中国王朝的価値観一辺倒の始まりで、この価値観によれば立派な君主に位置付けられるのでしょうが、勉強好きなら良いというものではありません。
綱吉は生き物は全て生きる権利がある倫理観?これを突き詰めれば草木も食べてはいけないのか?となるように、もともと学問やルールは末端ではゆるくしないと論理に破綻を来すのが原則です。
これを戒めたのが、知恵伊豆と言われた松平伊豆守の知恵だったでしょう。
ところが綱吉は、これを強制力・処罰を伴う生類憐みの令を次々と布告したので、行き過ぎでみんな困りましたが、このように学問的論理が隅々まで行き渡ると結果的に無理が出てきます。
欧米の勝手な論理・・牛肉を食べるのは良いが、クジラは許さないという自分勝手な論理に納得している日本人が何%いるでしょうか?
大和心と言うより以前から日本人の心はこういうものです。
朱子学全盛の結果窮屈な社会がすでに始まっていた・・生類憐みの令こそが、が朱子学が末端まで浸透しすぎていた外形的徴憑だったでしょう。
自分の気に入った学問だからと湯島の聖堂を創設し(のちの)昌平坂学問所で朱子学だけを公式学問にして事実上強制するようになったのは綱吉の時代からです。
思想支配の道具として、聖武天皇が東大寺と国分寺を配置し、明治に東京帝大を作ったように、綱吉は中央に聖堂を作りのちの(全国藩校の指標となる)昌平坂学問所の基礎を作ります。
ひ弱なイメージの強い聖武天皇がその分教養・・時の流行思想である仏教に傾倒して僧侶の公認資格を求めて戒律僧鑑真の渡日を待ち望んだのと似ています。
一つの体制が続くと中央支配意思(綱吉以降朱子学)が末端に届き朱子学の価値観にあっているかどうかの基準が幅を利かすようになります。
これに反発する朱子学対民族派(国学や陽明学の勃興)の争い→民族主義者の尊皇思想と結びつき幕末の尊皇攘夷思想に発展していったように思われます。
綱吉死後、一連の生類憐れみの令はなし崩し的に消滅していきますが、その点の修正をしたのみでしたので、次は新井白石の政治・・正徳の治に見るように朱子学的純化・一辺倒の傾向がさらに増進していきます。
新井白石に関するウイキペデイアです。

白石の政策は、旧来の悪弊を正す理にかなったものではあったが、「東照神君以来の祖法変ずべからず」とする幕閣とは齟齬をきたし、やがて両者の間には深刻な軋轢が生じるようになる。自らが主張することに信念を抱き、誰が何を言って反対しても臆することなく、最後には「上様の御意」でその意見が通るので、白石は旧守派の幕臣からは「鬼」と呼ばれて恐れられるようになった。
様々な改革を行なう一方、通貨吹替えにおいては家康の言葉に従い、失敗をしている。

正徳の治とは、紀元前から言い古された「悪貨は良貨を駆逐する」教えにこだわり、貨幣改鋳をおこなった前政権の勘定奉行荻原を厳しく責めたり、 東照君以来の祖法にこだわるなど時代の変化ついていけないのが秀才の宿命でしょう。
論争の鬼と言われ人望がなかったので、吉宗が就任すると早速お祓い箱になります。

外国文物導入と大和心2(鑑真和上とその後)

法華堂に関するhttp://www.todaiji.or.jp/contents/guidance/guidance5.htmlの解説です。

旧暦3月に法華会(ほっけえ)が行われるようになり、法華堂、また三月堂ともよばれるようになった。

2月堂の修二会に関するhttps://ja.wikipedia.org/wiki/では以下の通りです。

古来は旧暦1月に行われる法会である。
農耕を行う日本では年の初めに順調と豊作を祈る祈年祭(としごいまつり)が重要視され、神や祖霊の力で豊年を招き災いを遠ざけようとする。養老令にも記載され、8世紀には国の重要行事とされていたが、修二会は祈年祭に対応した仏教の行事として形成され定着した行事である。

以上の通り日本列島に伝わる古来からの祈願行事を、仏教行事に取り込んだにすぎません。
仏教が土着信仰に打ち勝って土着信仰行事が減ったのではなく、仏教が逆に土着信仰行事に浸透されているのが実態です。
仏教を文字その他文化吸収目的で導入したのは明治維新で、御雇外国人を導入して西洋法や科学知識導入に精出したのと本質が同じだったでしょう。
この普及を図るために国家機関としての・・東大寺と各地の国分寺→明治以降の東大と各地国立大学の関係の相似形を見ても分かります。
これを日本風にアレンジして日本の土着信仰にも合うように(各人の煩悩等からの解脱)に変更したのが、最澄や空海であり、この意味で日本の精神界の合理化に大きな影響を与えた大事件だったと思います。
合理化仕切れない人間の弱い部分・・今でも残る「叶わぬ時の神頼み」・・・「神も仏も無いものか!」とか「厄除け信仰」がなくならないのが現状です。
その救済には密教の秘法に頼る部分が必要だったのでしょう
真言宗、天台宗が日本の宗教意識の体系化の足場を築きますが、シュウアhである以上一定の競争がるのは当然として、他宗派排斥を目標にするような宗教ではなかったか乏しかったように思われます。
その結果、日蓮、浄土系民族宗教等に裾野を広げていき日本人の精神性が豊かになって行ったのでしょう。
日蓮系は日本の宗教には珍しい排他闘争的宗教でしたが、(中世に限らず戦後創価学会の「折伏が激しかったすが・・)今は創価学会もおとなしくなりました。
日本列島でいる限り、周囲と円満にやっていくのが知恵のある生き方と悟ったのでしょう。
政治の世界でも公明党が政権与党になって約15〜20年かな?すっかりおとなしくなっています。
明治維新以降のキリスト教解禁も古代の仏教導入と同じ程度の位置付けでしょう。
排斥しない・・隣人として付き合いましょう・・なにかいいことがあれば取り入れたらいいし・・という程度の位置付けです。
共産党も理屈一辺倒の強面では日本時に浸透できないとわかって、「歌って踊って民青」というフレーズがが昭和40年代のソフト路線でしたが今はどうなっているか知りません。
仏教が中国に入った時点では、環境の厳しい西域を通じて入ったことから、キリストや現在のイスラムのように戒律が厳しかったでしょう。
鑑真和上が戒律を伝えるために千里の波頭を超えて日本へ渡海した故事はよく知られています。
鳩摩羅什の漢訳は西暦400年頃で鑑真和上の来日は750〜60年ころ・・聖武上皇・孝謙天皇の時です。
中国に漢訳が伝わって数百年で鑑真が来日したことになります。
当時日本では私度僧が多く、戒律制度の確立が要望されていたと言われます。
鑑真に関するウイキペデイアの記事です。
揚州の大明寺の住職であった742年、日本から唐に渡った僧・栄叡、普照らから戒律を日本へ伝えるよう懇請された。当時、奈良には私度僧(自分で出家を宣言した僧侶)が多かったため、伝戒師(僧侶に位を与える人)制度を普及させようと聖武天皇は適当な僧侶を捜していた。
要するに聖武天皇は東大寺筆頭に全国に国分寺を設置するためには公認僧侶資格設定を急いでいたのです。
明治政府が帝大を作っても教授になる人材がいないとどうにもならないので御雇外国人を招請したのと同じでした、
南北朝時代の戦乱に明け暮れる中国に受け入れられたのでしょうが、その中国よりも日本の方が将来性があると見極めたのでしょうか?
ところで、日本仏教の礎を築いた弘法大師は私度僧出身だったのですから、皮肉なものです。
観音信仰が奈良〜平安時代に入って隆盛を見るのは、私度僧出身で人心に通じていたからこそ、なし得たのかもしれません。
日本に来た時の険しい仏教がようやく日本化したことによるものでしょう。
観音菩薩に限らず文殊、地蔵、月光や日光その他の菩薩も皆柔和な顔貌になって行きます。
救いを求める以上はごついより、美しくて優しい方が日本人なら誰にとってもいいでしょう。
仏教導入直後には土着信仰と軋轢があったとしても、結果的に神仏習合してやおよろずの神々の外側にいる別格の信仰対象(御神体の多くが背後の山になっている神様より救済してくれるお方が具象化されてよかったと思われます・)とされて現在にいたっているように見えます。
例えば東大寺法華堂(3月堂)というのは勉強会の場所名称ですがそこに参加できるのは10数人のエリート学僧だけです。
南都諸宗派というものの勉強する学科名称程度の違いでした。

法学部で言えば、民法専門や、商法専門教授という程度の違いでしょう。

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