融通むげと(田中耕太郎補足意見)ご都合的原理主義2 

以上見てきた通り、韓国が国家として賠償請求権放棄した以上は、国家権力の一部である裁判所が対日請求を受理すること自体が論理矛盾であり条約違反です。
以上見てきた通り、韓国が無償援助等と引き換えに国家として賠償請求権放棄した以上は、国民の損害に対する国内法整備すべきであり、それを怠っている韓国政府に対する不作為の違法という損害賠償で処理するのが筋でしょう。
らい病でも血液製剤でも石綿被害でも、最初から違法ではないが、一定時期以降は政府や企業の不作為の違法が追及されます。
憲法違反→条約無効論に関する日本の経験で言えば、日米安保条約が憲法に違反するかどうかの判断回避した砂川判決が妥当な扱いでしょう。
http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=55816

昭和34(あ)710
事件名
日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定に伴う刑事特別法違反
裁判年月日  昭和34年12月16日 法廷名 最高裁判所大法廷
裁判要旨
・・・・
八 安保条約の如き、主権国としてのわが国の存立の基礎に重大な関係を持つ高度の政治性を有するものが、違憲であるか否の法的判断は、純司法的機能を使命とする司法裁判所の審査に原則としてなじまない性質のものであり、それが一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外にあると解するを相当とする。
九 安保条約(またはこれに基く政府の行為)が違憲であるか否かが、本件のように(行政協定に伴う刑事特別法第二条が違憲であるか)前提問題となつている場合においても、これに対する司法裁判所の審査権は前項と同様である。

原理主義的思考の誤りについては、田中長官が以下のように同判決の補足意見で述べています。
なんでも憲法問題にする原理主義的法律家に対する警鐘でもあったでしょうが、進歩的文化人?には知られたくないことだったからか、この論旨をテーマとして論じた文献を見たことがありません。
学生時代以前の判例については教科書での紹介しか知らない・・私は(高齢化で仕事が暇になったこととネットの発達のおかげで原文に簡易に当たれるようになって)今回初めて目にしたものです。

裁判官田中耕太郎の補足意見は次のとおりである。
私は本判決の主文および理由をともに支持するものであるが、理由を次の二点について補足したい。
一、本判決理由が問題としていない点について述べる。元来本件の法律問題はきわめて単純かつ明瞭である。事案は刑事特別法によつて立入を禁止されている施設内に、被告人等が正当の理由なく立ち入つたということだけである。原審裁判所は本件事実に対して単に同法二条を適用するだけで十分であつた。しかるに原判決は同法二条を日米安全保障条約によるアメリカ合衆国軍隊の駐留の合憲性の問題と関連せしめ、駐留を憲法九条二項に違反するものとし、刑事特別法二条を違憲と判断した。かくして原判決は本件の解決に不必要な問題にまで遡り、論議を無用に紛糾せしめるにいたつた。 私は、かりに駐留が違憲であつたにしても、刑事特別法二条自体がそれにかかわりなく存在の意義を有し、有効であると考える。つまり駐留が合憲か違憲かについて争いがあるにしても、そしてかりにそれが違憲であるとしても、とにかく駐留と- 6 -いう事実が現に存在する以上は、その事実を尊重し、これに対し適当な保護の途を講ずることは、立法政策上十分是認できるところである。 およそある事実が存在する場合に、その事実が違法なものであつても、一応その事実を承認する前提に立つて法関係を局部的に処理する法技術的な原則が存在することは、法学上十分肯定し得るところである。違法な事実を将来に向つて排除することは別問題として、既定事実を尊重し法的安定性を保つのが法の建前である。それによつて、ある事実の違法性の影響が無限に波及することから生ずる不当な結果や法秩序の混乱を回避することができるのである。かような場合は多々存するが、その最も簡単な事例として、たとえ不法に入国した外国人であつても、国内に在留するかぎり、その者の生命、自由、財産等は保障されなければならないことを挙げることができる。

以下長文すぎるので引用しませんが、関心のある方は原文に当たってください。
このように韓国の主張する現在の法論理というより人権屋特有の原理主義は、鯨が哺乳動物であるから殺戮を許さないという反捕鯨団体同様に一部論理を拡張している・幼児的主張であることが明らかです。
論理には例外が必要ですが、それにはしっかりした価値観による一定の融通無碍性が必要です。
融通無碍と御都合主義的原理主義との違いは、実態に即した結果的に正義であるかどうかの価値判断を経た意見なのか、相手を批判をするための揚げ足取りかが分かれ目ではないでしょうか?
生活基礎基盤が違う人が違った生き方をするのは「お互い好きにしたら・・と寛容の精神で生きていけるかの違いではないでしょうか?
ゆるい価値観というと基準がないように見えますが自己の主観的基準を相手に押し付けない懐の深さの違いではないでしょうか?
相手批判するのが目的(一種のクレーマー的性格)の人は、硬直的原理主義の批判を受ける行動になりやすいのでしょう。
いわゆるPC・・一見して正義を標榜する行きすぎた批判が最近問題になって来たのは、半可通による「箸の上げ下ろしに類する」ことまで批判の声を挙げ、(ま、言えばクレーマーです)これをメデイア(に限らネット上の炎上騒動もこれの仲間です)が応援して吊るし上げ騒動を引き起こすようになったことによるでしょう。
話題を身分の融通制に戻します。
もともと日本では当事者の合意で婚姻し離婚する仕組み(三行半で知られています)で公権力(どころか集落リーダーの署名不要)というかっちりした権威の介在不要の制度設計(社会規範)でした。
生殖に由来する親子関係でさえ「子」であることによる法効果の相違に合わせて血縁関係重視分野でも嫡出子と非嫡出子の違いを決め、(平成25年最高裁判例でこの差別を違憲としたので法改正されましたが)格式に関する場合には「猶子」家督相続には養子制度という融通の効く体制を構築してきました。
ちなみに非嫡出子差別違憲判例の妥当性は、憲法の平等原則が貫徹されたという原理論によるのではなく、社会実態の変化に合わせた結果と見るべきでしょう。
嫡出子非嫡出子の相続分の違いは、明治30年頃の法制定当時農業人口90何%(うろ覚えの直感的数字です)の時代・家にある子と家の外にある子とでは家産の維持発展に関する貢献度合いがが99%(うろ覚えの直感的数字です)の違いがある時代を前提にしていました。
これが敗戦直後に家の制度解体による見直し時にも修正されなかったのは、家制度という観念体系によるのではなく、世帯単位の分離が進んでいなかった生活実態によるでしょう。

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