大化の改新と中央集権国家化

古代からずっと専制君主制・中央集権国家できた中国では地方官吏を自由に任免する制度しかないのですから、専制君主制が馴染まない風土・・地方小豪族を無視出来ない国柄の我が国の地方制度に同じ漢字を持って来て当てはめるのは、意味が分れば分かるほど無理があったことは確かです。
言うならば中央集権・専制国家の地方制度・・これに基づく熟語をそのまま我が国に持ち込むのは無理ありました。
・・このために我が国独自の造語・・後に書いて行きますが「国司」「郡司」が出来て来たと思いますが、白村江の戦い(663年)で負けた我が国としては国内一丸にならねば唐・新羅連合軍に攻め滅ぼされてしまう恐怖感があって、しゃにむに天下統一・・国内部族連合から、中央集権国家化・国軍編成が急務でした。
弱肉強食の西洋列強が押し寄せる中で、中央集権国家化を急いだ明治維新のときと状況が同じでした。
大化の改新以前には、国造よりは少し支配服従関係の強い朝廷直轄地の一部支配を認められているアガタ主(旧豪族)に縣を当てたりするなど微温的と言うか国内実情に合わせた間接統治体制だったのでしょうが、そんな悠長なことでは間に合わない緊迫感下にあったのが白村江敗戦以降の国際情勢でした。
国内再編の大型事件としては、天武・持統朝成立に関する壬申の乱でしょう。
壬申の乱は単なる朝廷内の勢力争い・・クーデ・ターに留まらず、大和朝廷の国家枠組みを変革する大事件だったことになります。
この辺に関する私独自の解釈については、02/03/04「吉宗以降の改革とフランス革命」で少し書いています。
この結果、朝廷親衛軍が強化され国内諸豪族の支配地返上の気運が盛り上がります。
この機運に乗じて先ずは、朝廷の支配領域から、アガタヌシによる間接統治をなくして行った・・模範を示した可能性があります。
薩長土肥が先ず自分の兵を明治新政府軍に差し出したのと同じ流れです。
白村江の敗戦以来、朝廷は国内統一・集権化の先がけとして、服従度・忠誠心の高いアガタヌシに率先垂範を求めた可能性があります。
ご存知の通り律令制導入の経済的基礎は、朝廷が版籍を全部把握した上で公民に区分田を支給する班田収受法ですから、中間の豪族を不要にする制度設計・・中国同様の専制君主制に編成し直す試みでした。
兵士も各部族から拠出するのではなく、朝廷が直接把握した名簿(戸口)によって防人としてあるいは租庸調の1つとして公民を個人的に徴兵して軍務につくようになります。
部族の私兵がなくなって行くので、明治維新で薩長土肥が藩兵を提供して国民皆兵制・・徴兵制に切り替えたのと同じやり方です。
これが一時的に大和朝廷成立前からの旧勢力の力を削ぐのに成功し、大和朝廷成立時の旧豪族は宮廷貴族化していきます。
彼らは最早自前の兵も地盤を持たないので、中央で失脚すればおしまいです・・この象徴的事件が菅原道真や伴大納言の失脚でしょう。
しかし、これは中央の制度問題に過ぎず、我が国の社会実態・・・・基礎的産業構造は谷津地など狭い丘陵地の間の水田を基礎とする農業社会である実態が変わったわけでないので、中央による直接管理は無理がありました。
全国一律の暦を配っても神棚に上げておくような実態については、03/04/03「桃の節句 2(旧暦と新暦)」や11/26/05「日本に科挙が導入されなかった理由2(地方分権社会2)」等で紹介しました。
10世紀頃からは旧豪族に代わって新たに生まれてくる地元勢力・荘園に蚕食される一方となり、戦国乱世以降は全部大名領地となって朝廷把握の領地は皆無・・逆に徳川家から支給される関係になってしまいました。
版籍の全面回復は、明治の版籍奉還・廃藩置県(古代史の名称で言えば荘園の廃止)まで約900年間待たねばならなかったのです。
明治の版籍奉還(荘園廃止)が、大和朝廷による中央集権の最終的完成であったことになりますから、大和朝廷の成立は明治2年(1869)と言うことになるのでしょうか?
版籍の「版」とは版図・範囲のことですから、その実務を行うためには地番を正確に付し、地積を測量して行く作業が始まり、(土地登記制度によって完成します)版籍の「籍」とは戸籍のことで戸籍整備作業が続いていたことを、February 15, 2011「戸籍制度整備1」からApril 12, 2011「戸籍制度存在意義3(相続制度改正1)」までのコラムで紹介して来た通りです。
大化の改新以降中央集権化を計る場合、大きな部族が抵抗すれば戦などで滅ぼして行けますが、小さな部族は稲作に必要な基礎集団なので残して行くしかなかったので国造から郡司さんに格下げされながらも残りましたが、それでも國のオサから郡のオサに権限を縮小して行くのです。
州や縣長官制度は、当時の唐の現役の制度でしたので我が国だけ終身制の縣の長官アガタヌシ制は誤った漢字の使用法となるので落ち着きが悪かったでしょう。
郡長官も中国では元は中央任命の官吏ですが、律令制導入時には既に郡が実在していなかったので(地名としての郡名が残っていても郡庁制度があったかどうかと言う意味です)終身乃至世襲制の郡司(国造の横滑り職)に持って来てもボカし易かったので、郡司に利用出来たのかも知れません。
世襲制(実質は民選)の郡司の下に中央から派遣した県知事を置くことは指揮命令系統上不可能ですから、この時点で縣制度は存在出来なくなりました。
その内に国司の権限を強化して郡司の権限を縮小して行く計画・心づもりではあったでしょう。
国造を横滑りさせたにも拘らず「郡主」ではなく「郡司」にしたのは、政府任命によると言う意味・・世襲出来るのは飽くまで事実上の権利・期待権でしかないことを強調したかったからでしょう。
そうは言っても徳川家家臣の形式をとっても外様大名の子孫は事実上の世襲権を持っていて、これを剥奪出来なかったのと同じです。
実際に同時に出来た国司は、任期制が貫徹されていて最後まで世襲出来なかったのですが、却って地元に定着している郡司に次第に実権を奪われて行きます。

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