(フェイク?)報道と信用失墜2(国連特別報告1)

昨日引用の続きです。

すなわち「自民党議員らによる居丈高な物言い」がランキング下落の原因だという推定は、おそらく正しい。
というのも、「報道の自由度ランキング」は当該国の専門家へのアンケートによる質的調査と「ジャーナリストに対する暴力の威嚇・行使」のデータを組み合わせて作成される。
「専門家」とは報道関係者、弁護士、研究者などであり、彼らが前年比で報道の自由を実感できたか否かが大きなポイントとなる。なるほど、安倍政権のメディア対応は専門家の心証を害するものであろう。
ジャーナリズムの「空気」、そこで生まれる「体感自由」度が大きく順位を左右している。
体感自由とは体感治安から私が造った言葉である。体感治安は現実に発生した犯罪認知件数や検挙数とは別に、人々が日頃抱いている治安イメージである。
日本は現在も最も安全な国の一つだが、「治安が悪化している」と感じている国民は少なくない。
未成年者による殺人事件がセンセーショナルに報じられる一方、統計的に見れば少年の重大犯罪は減少している。その意味では、体感治安の悪化は犯罪ドラマや事件報道を含めメディア接触が生み出したものということができる.

上記執筆者と私は結論が微妙に違う部分がありますが、引用した記載自体は同感です。
調査する人が、国民から受け入れられなくなって不満を抱くメデイアに体感を聞き取れば「自由度が低い」となるのでしょう。
メデイアに対する国民評価のランキングと見れば合点がいきます。
言論の自由度は国の基礎的インフラですから、(トルコのエルドアンのように急激な体制変更しない限り)これが1〜2年で乱高下するわけがない・・昨日紹介したグラフを見れば乱高下しているのはメデイアに対する国民の信任度合い=人気です。
民主国家では政権は国民支持によって成り立っているので、国民がメデイア主張を信用しなくなれば、政権もそれに従う関係ですから、民主国家でメデイアの主張が政権で採用されないのは、メデイアが独占的な意見広報をしているにも拘わらず、国民(選挙によって表明される民意・サイレントマジョリティー)から支持されていないことが証明されています。
報道手段独占にあぐらをかいて、これまで国民を意のままに誘導していた彼らにとっては、「笛ふけど踊らぬ」国民の変わりようを見れば、今更ながら、情報提供方法を独占できていた過去が懐かしい・・社会から疎外されているように思うでしょう。
そういう過去系の人を対象に調査・・事情聴取すれば自分の意見がおかしすぎるので相手にされない点を棚に上げて「日本には言論の自由がない・自粛させられている」と言う意見中心になりそうです
昨日紹介したグラフによると民主党政権時が過去最高の評価であり、安倍政権になっていきなり過去最低に急降下しています。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/02/post-7031.php昨日引用の続きです。

日本の順位は二〇〇三年(小泉純一郎内閣)の四四位、二〇一〇年(鳩山由紀夫内閣)の一一位、二〇一六年(安倍晋三内閣)の七二位と大きく変動するが、この時期に「ジャーナリストに対する暴力の威嚇・行使」の量的拡大やメディア法制に大きな変化があったわけではない。
つまり、この変化の要因は専門家の体感自由、主にメディア報道に由来する印象に大きく左右されているわけである。二〇〇九年と一〇年は報道の「自由度が高く」、その前後の八年と一二年も「比較的高い」と高評価されているが、この時期はすっぽり民主党政権期に重なる。

以上を見ると聞き取り対象は報道独占にあぐらをかいてきたメデイア受けする意見を開陳してきたコメンテーターや弁護士などであり、民主党政権時代に報道の自由度ランキング急上昇・過去最高位になった理由は、メデイア界一丸となって革新系政党を応援していて、自民党政権批判一本やりできたメデイア界は民主党政権時代は夢を実現できた「我が世の春」を謳歌していた好感度によるものでしょう。
民主党政権が終わると突如好感度急落の原因をみるために、国連特別報告書の内容を見ると記者クラブ制度の弊害を強調していますが、記者クラブ制度は民主党政権でも維持されたままなのに、自民党政権になるとイキナリ弊害だとしてマイナス評価対象になるのは不思議です。
その他制度上の欠点といわれるもので自民党政権になってできたのは特定秘密保護法だけです。
その批判も、国連特別報告者意見書を読むと諸外国にある法令とどのように違うかの比較がなく、ただ「ジャーナリストが正当な目的であれば秘密を窃取しても?処罰除外すべき」と言うような偏ったジャーナリストの主張丸写しです。
世界中で一般的な戦場の売春婦を日本に限って性奴隷命名した問題同様で、秘密保護法は諸外国にもあるのに、日本が遅れて採用すると何故自由度ランクを下げねばならないかの説得的理由になっていません。
その他韓国主張そのまま?に歴史を直視して慰安婦問題を受け止めて?歴史を直視した教育すべきとかの批判もしています。
表現の自由度と関連性の薄い・検定制度を非難するならば、民主党政権でもありましたし、先進諸国だって皆一定の基準があるはずですが、(イギリスの教科書でもアヘン戦争や植民地支配の犯罪性教育をしていませんし、フランスも植民地支配を反省し償いをしていません)比較論がありません。
以上見て行くとほぼ革新系政党や文化人・・朝日新聞等の主張そのままですから、メデイア界が全面支持してきた民主党の支持率急落と一蓮托生で国民から不信の目を向けられて信用されなくなったので海外からお墨付きを得るために国連特別報告者を招請し、彼はこれに応えるために発信しているように見えます。
民主党→民進党→希望の党→国民民主党の支持率の変化を見れば、革新政党〜民主党の機関紙のような役割を果たしてきたメデイア界全体の支持率も同率で下がるのは当然です。
というよりは、メデイア界の主張をそのまま運動方針にしてきたのが旧社会党以来の革新系野党〜民主党→○△政党ですから、野党支持率の急低下と言うものの、実はメデイア界全体に対する信用低下のバロメーターというべきです。
メデイア界は、政治周辺にいて情報収集する過程でいわば評論家的立場を得たに過ぎない・政治家そのものに必要な能力がないのに、政治を主導しようとして来たことがそもそも間違いです。
昨日の日経新聞夕刊「あすへの話題」(京大教授佐藤卓己氏)に戦前の代議士に占める報道界出身者比率の多さ(37年選挙では34、1%以上)が紹介されていましたが、(論旨はオポチュニスト否定論にもっていく→民意無視政治待望のようですが・・私の意見は外部からフェイクで民意を煽るメデイアの尖兵を内部繁殖して内外呼応していたことが元凶の結論です)アマチュアが政治を牛耳った弊害が戦前の国策を誤らせた原因です。
日露講和条約反対に始まるジャーナリズムが煽る戦前の揚げ足取り政治→その都度内閣打倒繰り返し→政権弱体化の弊害を連載して来ましたが、今朝の新聞報道により、外から煽るだけではなく自ら政治家になった人が多かった(日露講和反対を煽った中心人物戸水博士も直後に政治家に転身しています・・ことがわかりました。

憲法改正3(特別多数と国民投票が必要か?1)

明治憲法は在野の憲法制定運動が奏功したかのように、自由民権運動が大きく教育されてきましたが、政府が憲法の必要性に目覚めて率先して取り組むようになったので、それに触発されて便乗意見が起きた面も否定できないでしょう。
もともと自由民権運動は、征韓論に破れて下野した板垣らによって始まったものであって、西南戦争まで連続する不平氏族の反乱を煽っていた不平勢力に過ぎません。
西南戦争でケリがついて、不平を言っても仕方がない社会になって沈静化していたのですが、昨日書いた通りいろんな法制度ができてくると、法と法の関係や上位規範の必要が出てきたところで、政府がこれに取り組むようになって内部で色んな意見が出ると早速これに飛びついた印象を受けます。
(私個人の偏った印象ですが?)
政府が先に憲法秩序の必要性を検討していて、政府内の大隈重信は早期制定論でした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%B0%91%E6%A8%A9%E9%81%8B%E5%8B%95によると自由民権運動は以下の通りです。

1873年(明治6年)、板垣退助は征韓論を主張するが、欧米視察から帰国した岩倉具視らの国際関係を配慮した慎重論に敗れ、新政府は分裂し、板垣は西郷隆盛・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣らとともに下野した。(明治六年政変)
経緯 自由民権運動は三つの段階に分けることができる。第一段階は、1874年(明治7年)の民選議員の建白書提出から1877年(明治10年)の西南戦争ごろまで。第二段階は、西南戦争以後、1884・1885年(明治17・8年)ごろまでが、この運動の最盛期である。 第三段階は、条約改正問題を契機として、この条約改正に対する反対運動として、民党が起こしたいわゆる大同団結運動を中心と明治20年前後の運動である
[1私擬憲法
国会期成同盟では国約憲法論を掲げ、その前提として自ら憲法を作ろうと翌1881年(明治14年)までに私案を持ち寄ることを決議した。憲法を考えるグループも生まれ、1881年(明治14年)に交詢社は『私擬憲法案』を編纂・発行し、植木枝盛は私擬憲法『東洋大日本国国憲按』を起草した。1968年(昭和43年)に東京五日市町(現・あきる野市)の農家の土蔵から発見されて有名になった『五日市憲法』は地方における民権運動の高まりと思想的な深化を示している。
「参議・大隈重信は、政府内で国会の早期開設を唱えていたが、1881年(明治14年)に起こった明治十四年の政変で、参議・伊藤博文らによって罷免された。一方、政府は国会開設の必要性を認めるとともに当面の政府批判をかわすため、10年後の国会開設を約した「国会開設の勅諭」を出した。
注2 ただし板垣らの民撰議院設立建白書は当時それほどの先進性はなく、自らを追放に追い込んだ大久保利通ら非征韓派への批判が主体であり、政府における立法機関としての位置づけも不明確であった。むしろ板垣や江藤・後藤らが政権の中枢にあった時期に彼らが却下した宮島誠一郎の『立国憲義』などの方が先進性や体系性において優れており、現在では民撰議院設立建白書の意義をそれほど高く認めない説が有力である。稲田 2009などを参照。

上記の通り不平士族を支持基盤にしている結果でしょうが、国民悲願の不平等条約改正に対する反対運動が活動の中心であったなど、変化に対して何でも反対・国益などどうでもいいような動き・・今の革新系文化人思想家の先祖のようです。
秩父困民党事件(1884年明治17年)10月31日から11月9日)は不正士族・自由民権団が加担したので、過激になったと言われています。
(条約改正反対とは不思議ですが、これを実現するためには外圧・欧米の要求する近代化・法制度の導入→時代不適合の旧士族が困るので反対したのでしょうか?)
この3〜4年革新系がしきりに強調する近代法の法理とか、近代立憲主義とは、絶対君主制打倒によって生まれたばかりの革命政権では、いつまたちょっとした力関係の変化で「王政復古」するかも知れない過渡期にあって革命家がハリネズミのように緊張していた時代の思想です。
革命直後の「近代憲法」と違い、明治憲法の時でさえ、対外関係上君主が自発的に憲法を制定するしかない国際状況下にあって、もはや絶対王政が復活する余地がなかったし、憲法ができる前から天皇親政などできる能力がなかったので、親政の復活など誰も心配しなかったでしょう。
まして日本国憲法では、「現代民主主義国家」になって憲法の改正発議権が政府から国民の意見を代表する議会に移っているのに、国民が自分で選んだ議会の発議→決議に国民が抵抗するために国民の同意を要件にする必要があるという考え方自体非論理的です。
民主主義国家においては、国民代表の議会が憲法も決めるのが普通で、EU加入・離脱や国自体の合併のような最重要事項について議会の都合で自信がないときに国民投票をするのが合理的です。
http://www.ndl.go.jp/jp/diet/publication/issue/0584.pdf

諸外国における国民投票制度の概要 国立国会図書館 ISSUE BRIEF N
UMBER 584(2007. 4.26.)
スペインでは、憲法の全面改正ないし特定の条項の改正の場合にのみ国民投票が義務的要件とされ、そうでないときは一院の10分の1の議員の要求により国民投票が行われる(憲法第167、168条)。
スウェーデンでは、基本法2の改正には、国会(一院制)における、総選挙を挟む2回の議決を要するが、第1回の議決の後に3分の1の議員の要求があれば、その総選挙と同時に国民投票が行われる(統治法典第8章第15条)
フランスはこれらとは異なり、国会議員が提出した憲法改正案は国民投票を要するが、政府が提出した場合は、大統領がこれを両院合同会議に付託すれば、国民投票は行われない(憲法第89条)。これまでの事例では、国民投票より両院合同会議による憲法改正の方が多い。
主要国のうち、アメリカ、オランダ、カナダ、ドイツ、ベルギーでは、住民投票は別として、憲法改正の場合も含め国レベルでの国民投票の制度は、憲法上は規定されていない。
フィンランドでは、国民投票についての規定はあるが(憲法第53条)、憲法改正は国会選挙を挟む2回の国会(一院制)の議決で成立しうる(同第73条)。

上記の通り、日本国憲法を事実上主導した米国自体が、憲法改正は国民代表の議会で行なっている(周知の通り修正◯条という付加方式です)ので日本国憲法に限って事実上不可能なほど厳しい要件にしたのは、まさに憲法前文の「われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」半永久的従属支配下におく思想の法的表現です。
国民投票をするならば、そもそも、3分の2の国会議決の必要がないでしょう。
国民投票をするのは、重要事項なので議会だけで決めてしまうのに自信がない時・たとえば49対51の僅差の時に「国民の声を聞いてみよう」という時に限るべきではないでしょうか?
そうとすれば、圧倒的多数の場合には不要な気がします。
国会議決を厳重にして即憲法改正にするか、スペインのように10分の1の提案で足りる代わりに国民投票するかどちらかにすべきでしょう。

原発特別措置法1

原発措置法を書こうと思っているうちに話が原発運転再開同意権にそれましたが、原発特別措置法でバラまかれている数字の実態はシンクタンク・・新聞社などで調査しないと簡単には分りませんが、多分大変な額になるでしょう。
沖縄の措置法も同じくあちこちに分散しているので簡単には分りません。
この特別措置法の結果、福島県で言えば、電源三法による年間130億円の給付だけではなく、これにプラスして総額不明ですが多分巨額資金が出ていることになります。
巨額迷惑料・補償金をもらっていたならばその何十分の一の資金で予め用地取得その他の準備をしておけば、今回の被害をかなり軽減出来ました。
巨額の迷惑料・補償金をもらっている以上は、
「ある程度の危機管理の準備くらいはしておいて下さいよ」と言うことです。
ここのシリーズのテーマは、準備しなかった役人や政治家を非難するのが目的ではなく、ましてや事前準備のない中で奮闘していた管政権や東電社長や幹部を非難すべきではなく、今後は危機管理システムの整備が必要と言う目的で書いています。
不安に対する補償金とは被害が具体的に生じない前段階の解決金という意味でしょう。
具体的被害があっても6月14日に紹介したように、騒音被害や電波障害が起きているなどの細かな被害に対する長期的被害の前払いもありますが、一般的には具体的な被害が出れば話は別だと言うのが正しい法律論かも知れません・・・。
我々、法律家が関与した裁判外・裁判上の和解の場合、迷惑料の対象範囲に争いが起きないようにきちっと定義しておくのが普通ですが、電源三法や特別措置法の交付金その他の補助金は、政治決着ですので法的意味が明確ではありません。
その実質的意味を探るためにここで条文を見ておきましょう。

原子力発電施設等立地地域の振興に関する特別措置法
(平成十二年十二月八日法律第百四十八号)

【 改正履歴等一覧 】
最終改正:平成二三年三月三一日法律第九号

(目的) 
第一条  この法律は、原子力による発電が我が国の電気の安定供給に欠くことのできないものであることにかんがみ、原子力発電施設等の周辺の地域について、地域の防災に配慮しつつ、生活環境、産業基盤等の総合的かつ広域的な整備に必要な特別措置を講ずること等により、これらの地域の振興を図り、もって国民経済の健全な発展と国民生活の安定に寄与することを目的とする。
(国の負担又は補助の割合の特例等)
第七条  振興計画に基づく事業のうち、別表に掲げるもので原子力発電施設等立地地域の住民生活の安全の確保に資することから緊急に整備することが必要なものとして政令で定めるもの・・・
(原子力発電施設等立地地域の振興のための地方債)
第八条 (財政赤字団体認定の数字から除外する制度)
財政上、金融上及び税制上の措置)
第九条  国は、前二条に定めるもののほか、振興計画を達成するために必要があると認めるときは、振興計画に基づく事業を実施する者に対し、財政上、金融上及び税制上の措置を講ずる・・・

上記のとおり法制定・・補助金交付の目的は第1条で「地域の防災に配慮しつつ・・」とあり、第7条では「住民生活の安全確保に資する」ためのものですから「防災」災害に備えるための特別資金援助が制度の存立目的と読むべきでしょう。
災害対策を予定しないなら、原発周辺だけに特別な資金を出す根拠がなくなりますから当然です。

原発特別措置法1(原子力安全協定)

福島第一原子力発電所は1号機から6号機まで、第二発電所は1号機から4号機まで合計10基あるので、立地周辺自治体には、当初20年間の補助金だけで(標準計算で)9000億円前後(年平均450億円)も出ているのですが、これは新規立地を促進するための餌みたいなものですから、新設が止まると補助金が減って行きます。
モデル計算によると原発運転前後各10年間に合計約9000億円貰う外にその後も貰い続ける電源3法による交付金の交付実績として、福島の場合2004年に130億円であったことを6月16日に紹介しましたが、最後の6号機運転開始が1979年ですから25年経過後の2004年でも、まだ130億円も貰い続けていたことがわかります。
これらの資金を避難用地取得あるいは地域離脱資金分配などに充てることなく、箱もの行政にあててきた結果その維持費がかかり過ぎて足りなくなって来たらしく、原発立地市町村はどこもかしこも財政赤字団体転落直前で苦しいらしく、2000年から圧力団体が結成されて、2003年からは電源3法だけではなく、特別措置法による別の補助金が追加されることになったことを6月9日のコラムで紹介しました。
特別措置法の条文を紹介するつもりでしたが、間にいろいろ挟まってしまいました。
2004年には年間130億円に減ってしまい苦しくなったので、(小さな町・・4ヶ町村及び周辺住民合計7万人の避難民でこれだけ貰って何故苦しいの?と言う疑問がありますが・・贅沢に馴れたのでしょう)次々と(表向き反対運動しながら)新設要求が出て来ます。
福島第1原発でも7〜8号機の誘致決議があって今年の震災時には着工に向けて進行中であったことを、6月9日に紹介しました。
福島第一原発では敷地が広くて新設余力がタマタマあったのですが、その他は敷地の広さが飽和状態とすれば、新たな立地を求めるには滅多には適地がありません。
2000年頃からは全国的に原発新設が限界になって来たらしく、既存原発立地市町村は強い立場になったのでしょうか、2000年以降全国協議会的な圧力団体が結成された結果、2003年以降原発特別措置法が制定されて新規立地がなくとも既に存在していると言うだけで、各種の補助・・立地市町村では地方債を発行しても赤字財政の認定の計算に入れない・・その分地方交付税で補填するなどの特例が生まれて来ました。
原発には定期点検や細かな事故等でしょっちゅう運転停止がありますが、その後再開するにはその都度地元自治体の同意がいる仕組みになっていて、同意を得るためのハンコ料これが大きな利権・・金の卵を産む鶏みたいな仕組みになっていますが、これをテコにこうした特別措置法が生まれたのでしょうか?
原子力安全協定は、国策としての原発推進の立場から国(経産大臣)にノミ立地や運転許可権限があって、市町村や県には何らの権限もないのに、他方で災害を受けるのは現場の地方自治体であり、災害防止・・災害対応義務が地方自治体の義務になっていることとの矛盾・・隘路にあって、これを解決するために同意権や通報義務・立ち入り調査権などが(紳士協定的に・・・私の個人的推測解釈です)結ばれたのが安全協定の始まりのようです。
このために、裏で利権を供給して「なあなあ」でうまく行っている間は問題になりませんが、住民感情が険悪になって裏取引が出来なくなる・・一旦法的紛争・・ギリギリのせめぎ合いになると、これが紳士協定に留まるのか、政治協定・行政協定かその法的効力については解釈が難しそうです。(研究したことがないので詳しくは分りませんが直感的感想です)
一般の工場の場合は、採算割れすると直ぐに工場閉鎖して他所へ移動して行けますが、原発の場合、まだ廃炉にした経験がないし、どのようにして発電所を立地前の元に戻せるかすら誰も知らない状態です。
車で言えば、走っている途中で故障したら修理する方法も分らないし、走り出したらどのようにして止めるのか分らないで、運転していたようなものと言えるでしょうか。
原発立地前の状態に戻すには運転をやめてからでも何十年もかかりそうで、(使用済み燃料棒の処置だけでも大変です)地元がうるさいからと言って安易に「じゃ、止めちゃいます」とは言えません。
この同意権があるので、地元同意がとれないと原発業者にとしては運転再開することも出来ない結果になります。
この仕組みで首根っこを抑えられていると、かなりの要求を受け入れざるを得なくなっていると言っても過言ではありません。

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