煽りが政治を左右する社会2(強訴〜一揆〜デモ1)

この悪習の起源を近くに探ると江戸時代に大名領内で一揆や騒乱が起きるとその責任を取らせて改易その他が行われたことにあるように思われます。
一揆に関するウイキペデイアの記事からです。
江戸時代には幕府が一揆を禁止し、1637年(寛永14年)の島原の乱以降は一揆は沈静化し、強訴や逃散など百姓一揆と呼ばれる闘争の形態が主流となる。
豊臣政権時代より領内の騒擾を理由とした大名改易のケースが現れたため、「領内が治まっていない」ことを公然と示すことができれば、領主側に匹敵する武力を集めずとも、責任問題を恐れる領主や代官への重大な圧力となった。
百姓一揆の闘争形態の分類として、代表越訴、惣百姓一揆、村方騒動、国訴などが挙げられる。
江戸時代の農民一揆の場合、うまくいっても一揆の首謀者は処刑されるのが原則でした。
義民で 知られる佐倉惣五郎伝は「伝」と言う通り内容の多くは創作でしょうが、ウイキペデイア紹介の一般的理解では以下の通りです。
直訴と処刑
佐倉藩主堀田正信は新たに重税を取り立て、領民の暮らしは困窮した[4]。全領の名主たちは郡奉行や国家老に重税の廃止を求めたが拒絶され[4]、さらに江戸に出て江戸藩邸に訴えても(門訴)取り上げられず[4]、惣代6人が老中に駕籠訴を行ったがこれも退けられた[4]。
このため惣五郎は1人で将軍に駕籠訴を行った[4]。『地蔵堂通夜物語』では承応2年(1653年)とされ[4]、上野寛永寺に参詣する四代将軍の徳川家綱に直訴したという。『堀田騒動記』では正保元年(1644年)とされており[4]、将軍は三代徳川家光になる。
直訴の結果、訴えは聞き届けられ、佐倉藩の領民は救われた[4]。しかし、惣五郎夫妻は磔(はりつけ)となり、男子4人も死罪となった[4]。
うろ覚えですが、しょっちゅう行っている歴博の展示では、一揆をするには集落ごとに寄り合いを重ね、集落代表同士の寄り合いに進んで徐々に一揆の準備をし、誰を責任者=成功すると磔になるかなど覚悟がいります・・の分担を決めてから押し出していく手順のようです。
絵図面のようなもので流れを説明する展示があった記憶ですが、最近もの忘れがはげしいので正確ではありません。
上記の通り地域村落住民が一致して決行するには現地農民代表者になったものが処刑される覚悟まで決めてから実行する・・それほど追い詰められている実態がある・・少数不平分子の跳ねっ返りではないので・・そこまで領民全般を追い詰めた現地支配者や 代官等の政治責任を問うのは合理的であったでしょう。
それが明治以降騒動を起こした者にお咎めなしで、逆に政府トップが総辞職に追い込まれ政策変更が多くなる逆転した運用になってきました。
1960年の安保騒動も結果は同じでした。
そうなると騒動を煽る方は気安くやれる上に英勇扱いで、参加する方も気楽になり破壊行動さえしなけば検挙されないのですから、普段から何かとうまくいってない・・・自分の意見など誰にも相手にされていない不平不満分子が、この機会に鬱憤ばらしに暴れまわろうとなります。
しかも数千〜数万人も集まって騒げば、国の重要政策さえ変更できてしまうのですから、鬱憤ばらしには効率が良く最適でしょう。
交通通信の発達した現在1億何千万の人口のうち、5000〜数万人程度の動員は簡単になってきました。
社民党だけではなく民進党や希望の党の支持率がコアの支持者中心だけかな?1%台に減ってきたとの報道がありますが、それでも1億数千万人口から見れば1%で120万の支持者ですし、しかも残っているのはコアの熱烈支持者・いわゆるプロ市民ですから、動員力が高いので500〜1000人くらいは国会周辺でも原発でも基地周辺でも簡単に集められます。
EU離脱国民投票以来、大手メデイアの世論調査と実際の投票結果が大幅に違っていることが多くなったので、メデイアの調査結果の信用が大幅に落ちています。
・・・メデイアの強調しているテーマに国民がそれほど同調していないのに、それが支持率低下に直結したと強調したいメデイアは、そもそも調査主体としては中立ではなく不適格でしょう。
トランプ氏のテレビ出演前の楽屋裏での女性に対する卑わいな言動が報じられている場合に、これを「鬼の首でも取った」ように報道しているメデイアとしては、そんなことと大統領の資質と関係ないと国民が多くが思っていても、そういう結果が出るのはメデイアに取っては大恥をかくことになりますので、世論がこうだと結果誘導したくなるのは当然です。
朝日新聞の慰安婦事件でいえば、朝日新聞が自分で世論調査してみたら批判が少なかったと調査報道しているようなものです。
そもそも政変工作を仕掛けている主役のメデイア会全体が当事者ですから、当事者が世論調査発表すること自体が選挙誘導疑惑が濃くなるので邪道です。
昨年夏の選挙前世論調査と選挙結果の大幅ギャップや、以下に紹介する最近調査結果を見るとこの1年間感じの政策論議そっちのけで「森かけ」問題ばかりで、「日本の政策停滞を目的にしているのではないか」という国民不満が結果として出て来ています。
改ざん疑惑を朝日新聞が囃し立てたのちの調査ですが、結果を見れば技術的問題であって政治家に疑惑があるような内容でなかったことがはっきりした後の4月調査であれば、もっと支持率が上がると思われます。
これをやっている政党の合計支持率が昨年の選挙頃から全く上がっていないどころか減少している現実を見れば、国民の関心がどこにあるかの真実がわかります。
メデイアがこの辺を報道しないで、自民党支持率が下がったという点ばかり強調報道していますが、メデイアがあれほど集中的報道してもそれほど下がっていないことの方が重要です。
これがトランプ氏の強調するフェイクニュース論が一定の支持をうけている基礎です・・.日本でも昨年夏衆議院選挙での直前調査結果は実際の選挙結果と大幅に違ってい他店については、17年11月5日に詳細を書いています。
選挙結果と大方一致していたのは、ニコ動だけでしたので大手報道はあてになりませんが・・以下は一応の参考です。
https://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_pol_politics-support-politicalpartyの支持率調査によれば以下の通りです。
※記事などの内容は2018年3月16日掲載時のものです
いかに掲載すべき図表(政党支持率)がなぜか今回復時(18年9月中旬以降の全面故障〜復元始めは9月26日)にははいらないので抜けています。

関心のある方は上記引用先にアクセスして直接ご覧ください。

 

メデイアと学者の煽り5(煽りが政治を左右する社会1)

日米戦が仮に敗戦でなく停戦で終わったとしても、日本は停戦を奇貨として中国各地に駐屯を続け、兵士の食料や兵士の補充のために)国内需要・・日常品の製造を後回しにして)働き盛りの男子や食料や武器弾薬製造に邁進しどんどん戦地へ送っていたら、どうなったでしょうか?
国内復旧を後回しにしてさらに戦力増強が可能だったでしょうか?
停戦すれば、急いで兵力撤収して国内復旧に投資するのが普通でしょう。
日露戦争では、奉天会戦後その先もはや一歩も歩けないほど疲れ切っていたのが現状・・中堅下士官が枯渇していて(この養成には数年以上の訓練が必要で補給ができなくなっていた他に武器弾薬の補給不能になっていて、ロシアがシベリア鉄道経由で続々と陸軍増強を図っているのを黙って見ているしかなかった・・国力・体力を使い果たした状態でいわば現地でへたばっていたのが実態でした。
この辺は日米戦も同様で1年以上経過で中堅熟練パイロットの補給が間に合わなくなって、学徒出陣・予科練上がりの十分な訓練を経ていない・操縦桿を握ってまっすぐ飛行する程度しか操縦能力のない促成戦力利用→特攻機作戦に切り替えるしかなくなった原因です。
そこでほぼ無傷の海軍の決戦・・次の日本海海戦での(一種の博打でした)決着待ちで、約2ヶ月も経過していた5月に日本海海戦で大勝利した勢いを利用してうまく講和できたにすぎません。
喧嘩や戦争を止める場合、その名称が敗戦でも停戦でも、講和だろうが、まずは国力・体力回復を図るべきが優先課題です。
従来の国是であった日本列島防衛線確保のために日露戦争を戦い国力を使い果たしたのは、政府の失策でも何でもありません。
むしろ長年の準備が功を奏したのですから、めでたいことでした。
震災事故のために備蓄した食品等を使い尽くして国民の生命・健康を守れたならば、めでたいことです。
ロシア軍撃退のために(武器弾薬.中堅人材のみならず)国力を使い切ったどころか、以下の通り、巨額負債を抱えていたのです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E6%94%BF%E5%A4%89

大正政変
脚注
3 日露戦争の戦費は日清戦争の8倍、開戦前年の国家財政の約7倍に達した。その8割は公債であり、戦後、償還の負担等が財政を圧迫した。

・・国内経済が持たなくなったならば、戦争終結後は内政充実・復旧に向けるべきなのに、版図拡大・市場拡大→侵略国家化への変身の動きを鮮明にして行った選択の誤りがなぜ起きたかの真摯な反省こそが必要です。
米国が講和に骨折ってくれなくてそのまま戦争を継続すれば(日米戦で初戦の勝利連続中にどこも仲裁してくれずに敗戦の憂き目にあった例を見ればわかります。)ていたのは誰の目にも明らかだったのですから、講和成立に尽力してくれた米国への感謝の行動・・米国の希望(満州市場への参入門戸開放希望)を一定程度尊重する政策を採用するのは当然の流れでした。
米国は、日露戦争をはじめっから応援してくれていたのはその分け前?として戦後満州への参入を期待していたことは当初からはっきりしていたのです。
3月31日に紹介した早期開戦を求める「7博士意見書」にすら米国の意図が出ていますのでその分をここで再引用しておきます。

「米国の如きはその目的満州の開放にあり。満州にして開放せらるればその地主権者の清国たると露国たるとを問わず単に通商上の利益を失わざるをもって足れりとす。ゆえに極東の安全清国の保全を目的とせる外交においてこの国を最後の侶伴となさんと欲するは自らの行動の自由を束縛するものに外ならず。ゆえに米国の決心を待ちて強硬の態度をとらんと欲するは適切の手段に非ず。」

講和条約に向けた政府や軍部の姿勢は冷静沈着・・米国による仲裁を準備してからの開戦になったなど準備周到で外交センスも良かったのですから、(実務をよく知る伊藤博文はもともと準備無視の開戦論には否定的でした)その流れからすれば、講和成立後アメリカへの配慮をせずに遮二無二(周りの目を気にしている余裕がなく)満州進出〜日米戦争に向かうしかなくなっていった方針の急展開は、4月2日末尾に紹介したえせ学者とメデイアの合作による世論煽り(アメリカに配慮するな!という強硬意見)が政府方針の変更を招いた元凶です。
日比谷焼き討ち事件で見たように、賠償金をとれなかったことをアメリカの責任であるかのように学者が煽った民衆のアメリカに対する逆恨みは度が過ぎています。
日比谷焼き討ち事件の時にアメリカ人牧師の教会まで押しかけていますが、騒動の鎮静化のためにか?政府が総辞職に追い込まれていますが、(この逆恨み感情が背景にあって)以後の政権はアメリカに対する弱腰外交の批判を恐れてしまったのでしょう。
引用してきたポーツマス条約に関するウイキぺでイア中の「影響」では

「ルーズベルト大統領の意向を受けてエドワード・ヘンリー・ハリマンが来日し、1905年10月12日に奉天以南の東清鉄道の日米共同経営を規定した桂・ハリマン協定が調印されたが、モルガン商会からより有利な条件を提示されていた小村寿太郎外相の反対によって破棄された[3]。」

と書いていて講和条約後すぐに政府がアメリカと協定した鉄道利権共有の合意が破棄されている点を淡々と書いていますが、アメリカは多分「恩知らずめ!」と怒ったでしょう。
日比谷焼き討ち騒動とこれに続く桂内閣の辞職は、世論が極論に煽られてまちがっていることが明らかであっても、当面の混乱を鎮めるために政府が責任を取って辞職する悪習の始まりです。
民意とは国民総体の意見ですから、民意重視とメデイアに煽られたホンの数千数〜数万の不平分子の意見を聞くのとは意味が違います。
「神」の権威を嵩に着て神輿を担いで暴れ回った平安時代の僧兵のような存在ではないでしょうか?
これに味をしめた野党+学者とメデイアのトライアングルが何かと極論を煽るとその都度、沈静化するための政変・総辞職になる悪習が始まったエポックメイキングになる重要事件であったと思われます。

メデイアと学者の煽り6(国際孤立の始まり1)

昨日引用したウイキペデイアによれば日本は

「金が欲しくて戦争した訳ではない」との政府意向と共に賠償金を放棄して講和を結んだことは、日本以外の各国には好意的に迎えられ、「平和を愛するがゆえに成された英断」と喝采を送った外国メディアも少なくなかった。

と、日本政府が格好良く矛を収めたのは、非常に有能というか見事な交渉でしたが、国内の講和反対騒動は高度な駆け引き・・国際常識を知らない田舎者が大騒ぎしていたようなものです。
この大騒ぎを見れば、政府がせっかく紳士風に収めてもエセ学者が国内を煽ったことによって国際社会に馬脚を表していたようなものです。

「上記のような暴動・講和反対運動が日本国内で起こったことは、日本政府が持っていた戦争意図への不信感を植えつける結果になってしまった。」

とウイキペデイアにある通り、せっかくの外交交渉の成果をメデイアの煽りが裏で台無しにしていたのです。
日露戦争は基本的に明治維新以降欧米の植民地にならないように抵抗力をつける富国強兵政策の総決算的戦争・・防衛のための戦争であった本質からして、(軍の近代化による防衛力増強・・応援してくれる諸国を増やす努力を含めてギリギリ間に合って)負けないで済んだだけでよかった戦争です。
賠償金を取れない戦争はコストがかかった分だけ勝った方も負けた方もその後の経済が疲弊します。
個人でもそうですが、揉め事を起こして得はありません。
賠償金をたんまり取るべきという強盗的交渉は酷くないか?という国際世論に当時変わりつつあったのですが、エセ学者やメデイアはこの流れについていけない・・今の革新系という超保守政治運動家同様だったことがわかります。
第一次世界対戦でドイツに課した賠償金が重すぎたことが知られていますが、実は日露戦争前の1900年の義和団事件(7博士意見書に書いている日本の呼称は北清事変)の時に決めた巨額賠償金が酷過ぎるという批判を受けるようになって、日本を含めて連合国がそれぞれ)その後中国へ実質返還する動きになっていたのです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%92%8C%E5%9B%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1#%E5%8C%97%E4%BA%AC%E8%AD%B0%E5%AE%9A%E6%9B%B8

義和団事件
賠償金の返却
あまりにも過酷な賠償金請求に対し、やがて国際的な批判と反省が起こり、賠償金を受け取った各国は様々な形で中国に還元することとなった。たとえばアメリカは、賠償金によって北京に清華大学(1911年~)を創設した。この大学は北京大学と並んで中国を代表する名門大学として成長し、現在でも理系分野ではトップと言われている。
日本も1922年に賠償金の一部を中国に対する東方文化事業に使用することを決定し、中国側に通告した。日本の外務省には、対支文化事業部が新設され、日中共同による「東方文化事業総委員会」が発足した[12]。また、東亜同文会・同仁会・日華学会・在華居留民団など日本国内で日中関係進展にかかわる団体への補助を行ったり、中国人留日学生への援助を行った。

(押し込み強盗ではないのであたり前のことですが)第一次世界大戦では、戦勝国が賠償金を取れなくなったので、敗戦国のみならず戦勝国も双方疲弊し、世界の主導権が欧州から米国に移ってしまったと見るのが歴史上の定説でしょう。
対外的あるいは学校教育的には日露戦争戦勝のプラス面ばかり・・日本が自信をもってしまったのがその後の方向性を誤った原因のように習いますが、(実力以上の自信を持って舞上がっていたのはエセ学者とメデイアのみであって、)政府・識者としては開戦前から借款に走り回っていたことから分かるように、仮に勝ったとしてもその後の負債返済に象徴されるように戦争で失ったものの復旧など大変な国難が待ち受けていることを承知していたことは、開戦には容易に踏み切らなかったことや講和条約対応を見ても容易に推定可能です。
1日も早い講和を望み、講和成立後は戦後復旧費用・内政的に大変な状態・・これをどう乗り切るかの瀬戸際に追い込まれていたことは政府は誰よりもよく知っていたでしょう。
一等国になって実力が上がったのではなく、逆に中堅兵士が多く戦死し前線指揮官の補給が続かなくなっていたことが紹介されていることからも分かるように、戦争後は戦前よりも総合国力が落ちているのですから、本来ならば、体力回復が第一で対外活動を縮小しなければならない状態でした。
ところが軽薄学者やメデイアの方は、世界の一等国になったのだからもっと世界進出し国威発揚すべきと煽りを続けたのでそのギャップに苦しむことになります。
大災害で熟練調理師や熟練工その他の人的被害その他を受けた商店や工場は、まずは復旧に専念すべきであって、店舗拡張や海外工場新設計画があってもそれを一時中止・先送りするか他社との合弁に切り替えて資金や人的負担を分散軽減するのが普通です。
新規投資には膨大なエネルギーが必要ですから、戦争で人材を含めて体力を使い切った直後に満州に日本単独で鉄道敷設等の投資・エルギーをつぎ込むのは無理があったのですから、ここは一歩下がってアメリカの望んでいる満州の共同事業化を日本の方から提案すべきだったのです。
ところが、首の皮一枚でようやく講和を勝ち取ったにも関わらず、エセ学者やメデイアが「国民の貴重な血を流して勝ち取ったものを寸土も譲るな!」という偏狭な主張を繰り返して政府の政策選択の幅をなくしていき、常識的対応をしていた桂内閣を辞職に追い詰めていった流れが日本を破滅の淵に追い込んでいったのです。
日本戦後でいえば、日米同盟とソ連圏との同盟とどちらの選択が正しかったかは、歴史が証明しているところですが、日安保を進めた岸総理が条約成立後退陣を余儀なくされ、安保反対闘争で活躍した人たちがメデイア界で英雄扱いされる変風潮が今も続いています。
歴史を見てわかることは、日本のメデイアやこれに迎合する学者はいつも極論を主張して日本の国益に反する方向へ世論を引っ張る傾向があるように見えます。
日米戦の終戦後復興でみると(戦後国内復興に専念していたにもかかわらず)10数年かかってようやく岩戸景気に始まる成長が始まった例を見ても分かるように、これを敗戦というか終戦というかにかかわらず、もともとそれだけの痛手を受けていた事実はかわらないということです。
原爆投下や焼夷弾攻撃の結果、国内焼け野が原であっても日米講和条約で仮に対等終戦・・日米現占領地現状維持の停戦だった場合を想定すれば・中国現地に大量の兵員など釘付けのままであれば)日本国内復興がもっと遅れたどころか、もっと大変なことになっていたことがわかります。
例えば、戦中戦後の食糧難は、台湾島からの輸送船が撃沈されてことが原因のように言われますが、もともと日本は食料を自給していた上に満蒙開拓団や朝鮮半島等への移住や何百万に上る兵員の外地展開で国内需要は減っていたはずでした。
食料不足は農家の青壮年働き手を根こそぎ徴兵したために起きたことです。
工員不足を補うための女子生徒動員・韓国慰安婦騒動で有名な女子挺身隊などが多く報道されているので有名ですが、工場は10〜20日操業が止まっても目に見えて生産力が落ちますが、農地の草むしりや害虫の駆除・里山の管理など目配りはその程度の手抜きでは目に見える変化がありませんので学徒動員の対象になりません。
即時効のない農業ではつい後回しになりますが、いわゆる10年戦争をやっていると周辺山間地の手入れが後回しになり農地が痩せてきて大変なことになってきた、働き手の大部分が徴兵されてしまった事による生産減少が大きな原因でした。
現状停戦でなく全面撤兵になったことより、大量の労働力が戦地から引き上げてきたので、国内復旧が急速に進んだ面を否定できません。

メデイアと学者の煽り5(日露戦争と帝大7博士意見書2)

ウイキペデイアによるポーツマス条約から引用の続きです。

影響
「金が欲しくて戦争した訳ではない」との政府意向と共に賠償金を放棄して講和を結んだことは、日本以外の各国には好意的に迎えられ、「平和を愛するがゆえに成された英断」と喝采を送った外国メディアも少なくなかった。
しかし日本国民の多くは、連戦連勝の軍事的成果にかかわらず、どうして賠償金を放棄し講和しなければならないのかと憤った[20]。有力紙であった『万朝報』もまた小村全権を「弔旗を以て迎えよ」とする社説を掲載した。
しかし、もし戦争継続が軍事的ないし財政的に日本の負荷を超えていることを公に発表すれば、それはロシアの戦争継続派の発言力を高めて戦争の長期化を促し、かえって講和の成立を危うくする怖れがあったため、政府は実情を正確に国民に伝えることができなかったのである
条約締結の9月5日、東京の日比谷公園で小村外交を弾劾する国民大会が開かれ、これを解散させようとする警官隊と衝突し、さらに数万の大衆が首相官邸などに押しかけて、政府高官の邸宅、政府系と目された国民新聞社を襲撃、交番や電車を焼き打ちするなどの暴動が発生した(日比谷焼打事件)。群衆の怒りは、講和を斡旋したアメリカにも向けられ、東京の米国公使館のほか、アメリカ人牧師の働くキリスト教会までも襲撃の対象となった[11][20]。結局、政府は戒厳令をしき軍隊を出動させた。こうした騒擾は、戦争による損害と生活苦に対する庶民の不満のあらわれであったが、講和反対運動は全国化し、藩閥政府批判と結びついて、翌1906年(明治39年)、第1次桂内閣は退陣を余儀なくされた。
ルーズベルト大統領の意向を受けてエドワード・ヘンリー・ハリマンが来日し、1905年10月12日に奉天以南の東清鉄道の日米共同経営を規定した桂・ハリマン協定が調印されたが、モルガン商会からより有利な条件を提示されていた小村寿太郎外相の反対によって破棄された[3]。
清国に対しては、1905年12月、満州善後条約が北京において結ばれ、ポーツマス条約によってロシアから日本に譲渡された満州利権の移動を清国が了承し、加えて新たな利権が日本に対し付与された。すなわち、南満洲鉄道の吉林までの延伸および同鉄道守備のための日本軍常駐権ないし沿線鉱山の採掘権の保障、また、同鉄道に併行する鉄道建設の禁止、安奉鉄道の使用権継続と日清両国の共同事業化、営口・安東および奉天における日本人居留地の設置、さらに、鴨緑江右岸の森林伐採合弁権獲得などであり、これらはいずれも戦後の満洲経営を進める基礎となり、日本の大陸進出は以後いっそう本格化した。
大韓帝国皇帝高宗はロシア勝利を期待したため、深く失望したといわれる[19]。韓国に関しては、7月の桂・タフト協定でアメリカに、8月の第二次日英同盟条約でイギリスに、さらにこの条約ではロシアに対しても、日本の韓国に対する排他的優先権が認められ、11月の第二次日韓協約によって韓国は外交権を失った。12月、首都漢城に統監府が置かれ、韓国は日本の保護国となった。
この条約の結果、日本は「一等国」と自称するようになった。当時の大国に所在した日本の在外公館は、多くは公使館であったがいずれも大使館に昇格し、在東京の外国公使館も大使館に格上げされることとなった[21]。しかし、その一方、国民のあいだでは従来の明確な国家目標が見失われ、国民の合意形成は崩壊の様相を呈した[22]
上記のような暴動・講和反対運動が日本国内で起こったことは、日本政府が持っていた戦争意図への不信感を植えつける結果になってしまった。

上記最後の3行は突然の結論記事ですが、重要な指摘です。
文献の引用もあるので相応の論説を背景にしていると思われますが、紙媒体の引用文献自体にこのコラムでは入れない(このために引用されている本を買って読む暇はない)ので直接確認できません。
しかし幕末から、明治維新以降、欧米列強の植民地にされてしまわないかの恐怖心で凝り固まっていた国民意識・その恐怖心をバネに富国強兵に邁進していた当面の目標喪失はよくわかりそうな気がします。
幕末〜開国後西欧列強の餌食にならないように「頑張ろう」と言う暗黙合意で日本人民が必死に頑張ってきた・・いわば強迫神経症に陥っていたのが明治初年から日露戦争までの日本人でしたし、その代表的心情を表していたのが、夏目漱石ではないかというのが私の個人感想です。
その最後に最凶暴国ロシアとの対決になったのですから、国民あげて立ち向かったのですが、ようやく危機をしのいで世界の強国の一角を占めるようになると目標がなくなったことを言うのでしょうか?
目標喪失と一緒に戦費負担のマイナス(巨額戦費を賄うために国際金融資本からの借款取り付けに成功したことが勝因の一つとして知られています・この返済負担をどうするか)や使い切った武器弾薬.人員の補填に始まり、戦死者遺族や傷病兵の生活保障資金不足など国内経済矛盾を抱え込むようになりました。
ロシアに勝って満洲地域の利権を手に入れたと言っても目先の経済効果では、すぐに経済メリットがあったどころか中期的に見れば先行投資が必要になる関係です。
当面の効果は脅威を追い払っただけですから蒙古襲来後の北条政権崩壊原因を彷彿とさせる状態でした。
蒙古軍と戦った御家人に恩賞を与えられなかったと習いますが、恩賞というよりは防壁を築くためのコスト負担・・兵を集めて出陣すること自体で膨大なコストを負担させていました。
今風に言えば、大手ゼネコンの下請けで地元工務店が大規模受注用に機械設備を購入し人も増やしたが、施工後ゼネコン・幕府が代金を払ってくれないので地元工務店が下請けや大工職人・設備等納入業者に払えないという事態です。
モンゴル襲来時も多くの死傷者が出る=兵士=働き盛りの喪失=地域内生産力が下がる・・税収減の中での遺族や傷病兵の生活保障等がのしかかってきます。
個人間の喧嘩で言えば小競り合いの喧嘩でも怪我した方はその後全治何ヶ月かの治療で痛い思いをし、治療費がかかりその間思うように仕事ができず収入が減ります。
双方死力を尽くしての喧嘩の場合、そこへ受傷前の自分より半分以下の闘争能力しかない相手にも負けてしまう弱い立場になります。
だからこそ野生動物は滅多に喧嘩しないし、リーダーを決めるために勝負する必要がある時にもお互いに怪我しない程度で勝敗を決めて負けた方はスゴスゴと引き下がるルールになっています。
ライオンで言えば、相手を倒して勝ったとしても、ビッコになったのでは、うさぎ一匹も捕まえられませんので、10日もすれば空腹でフラフラでしょうし、他の猛獣の餌食になってしまいます。
だから猛獣といっても、死闘を挑んでくる相手と戦ったりちょっと自分より弱い程度の動物相手に日常的狩りの対象にすることができないのです。
平和を維持するには、無防備なウサギになるよりも適度な抵抗力が必要という軍事的常識はここから生まれてきます。
日本としては日清戦争の時のように領土と賠償金を欲しかったし必要だったのは確かですが、本来ヤクザの恐喝や強盗のように金を取るのを目的に戦争をするのはそもそも邪道です。
7博士の煽っていた講和条約論は「日清戦争と比べてその何倍を取るべき」という道義も何もあったものじゃない・・バナナの叩き売りのような道義を弁えないものでした。
そもそも、日本はこれ以上の継戦能力がなかったという能力限界があったかどうかよりも、(そんなことを知らないアメリカ国民が)ロシア大使ウイッテが、日本が金目的の戦争を仕掛けているかのようにアメリカ世論に訴えると、アメリカ国民の同情引きつけに成功していた経緯も出ています。

メデイアと学者の煽り4(日露戦争と帝大7博士意見書)

帝大7博士意見書に関するウイキペデイアの意見は著者不明ですが、上記7博士意見書に対する3月31に日現在では以下の通りです。

「七博士意見書」は戸水が主導した跳ね返り大学教授が、せいぜい新聞情報程度で書き上げたとしか思えない。その証拠として、次のような政府関係者ではまずしない誤りを犯している。
遼東還付条約について?であるが、日本は干渉と下関条約批准を分離したことを忘れてはならない。すなわち、三国干渉があった段階で下関条約で認められた割地を取り下げる約束を三国にしていたのである。この段階で、新たに遼東半島不割譲を清国に認めさせることは、下関条約を否定することであって、日本の行動としては自家撞着なのである。
ドイツが膠州湾を租借したとき、その弱小な海軍力に乗じ?開戦しろとの意見である。これは空論であろう。というのは、まだ2年ほどしか経過しておらず、ロシアがドイツに共同して参戦する可能性について否定できないのである。そのうえ当時、ジョセフ・チェンバレンがドイツと英独同盟をめぐり交渉中であり、イギリスの助力を得られたか疑わしい。
北清事変北京議定書評定の段階では、中国と和平について条件をつめていた。ロシア兵も北京の保障占領を実行して圧力をかけており、日本とロシアは同じ地平にたっていたのである。この段階で、ロシア兵の北京撤退を要求できない以上、満州撤兵?について圧力をかけるなどできる話ではない。
軍事力において日本が有利との指摘?であるが、間違いないことはロシア人はそうはみていなかったことである。さもなければ、開戦までの交渉においてロシアがいかなる譲歩もしなかったことについて説明がつかない。さらに、日本有利とする根拠は極東だけの比較であって、陸にせよ海にせよ、ヨーロッパからの援兵が即時あれば、不利は免れない。すなわち日本有利とするには、援兵の時間を考慮せねばならず、これは多年の研究をもってしても学徒に出来ることではない。
日英同盟条約第1条で、条約発動用件は列国の朝鮮への侵略的行動と中国における騒乱と限定しており、七博士のいうように、?単純にロシアに攻めかかっては、イギリスは局外中立を守る必要は生じない。軍事同盟は締結することによって戦争の抑止を図るが、それには日英同盟は失敗しているのである。
?はロシアの満州進出阻止を戦争の目的とせよというが、日英同盟はそれを許していなかった。さらに日本政府要路は、満韓交換論で日露が妥協できるとみていた。七博士は、そのときの外交交渉についてまったく無知であり、こういった議論するにあたっての十分な情報を欠いていたのである。
?清国の法は未だかつて露国兵の鉄道を保護することを認めず、というが、清国はロシア兵の鉄道保護のための駐兵を、李鴻章・カシニー密約で認めており、条約が国内法に優先するのは当然である。李鴻章・カシニー密約について知らないことはともかく、現状でロシア兵がいることをもって、想像をつけねばならないことと思われる。

七博士は十分な情報がなく、また日本政府の妥協案「満韓交換論」をロシアは拒否し、あくまでも朝鮮半島全域にこだわったことについて無知であった。そのうえ当時の学問レベルでも法理を十分に理解していたとはいえない。
ジャーナリストも同様であるが、学者が基本的情報を与えられずに外交方針を論じることは危険なのである。

政治外交を論じるのは勝手としても、それは聞きかじりを前提とするに過ぎない以上は、素人の憶測と変わらないものであって「学問発表とは言えない」し、帝大教授の権威を誇ると世論を間違った方向へ誘導する危険があるということです。
まして学問研究の成果発表ではないのですから、「学問の自由」とはなんらの関係もありません。
ここで学問の自由を標榜したこと自体、その後の学問おかちおを知恵む方向の始まりになっていったでしょうし、現在もメデイアが自己主張を通すために学者意見や声明を動員するる悪習に結びついています。
信長秀吉以来宗教界が政治に口出しする悪習を完全に断ち切って来た(徳川に入って最後の事件として紫衣事件を紹介しました)のですが、今は「学問の自由」を錦の御旗にして政治に介入する悪習を断ち切る必要のある時代に入っているように見えます。
信教の自由・宗教弾圧が起きるのは宗教が政治に介入するから起きることであり、日本では「宗教家は宗教そのものしかりやれ」という信長以来その心配がなくなっています。
・・・・ここで、再び客観事実紹介に戻ります。
ウイキペデイアによるポーツマス条約から引用の続きです。

ロシア全権大使ウィッテは、7月19日、サンクト・ペテルブルクを出発し、8月2日にニューヨークに到着した。
ただちに記者会見を試み、ジャーナリストに対しては愛想良く対応して、洗練された話術とユーモアにより、米国の世論を巧みに味方につけていった[10][11]。ウィッテは、当初から日本の講和条件が賠償金・領土割譲を要求するきびしいものであることを想定して、そこを強調すれば米国民がロシアに対して同情心をもつようになるだろうと考えたのである[10]。実際に「日本は多額の賠償金を得るためには、戦争を続けることも辞さないらしい」という日本批判の報道もなされ、一部では、日本は金銭のために戦争をしているのかという好ましからざる風評も現れた[10]。
それに対して小村は、外国の新聞記者にコメントを求められた際「われわれはポーツマスへ新聞の種をつくるために来たのではない。談判をするために来たのである」とそっけなく答え、なかには激怒した記者もいたという[10]。小村はまた、マスメディアに対し秘密主義を採ったため、現地の新聞にはロシア側が提供した情報のみが掲載されることとなった[10][注釈 7]。明らかに小村はマスメディアの重要性を認識していなかった
講和会議
8月26日午前の秘密会議も午後の第9回本会議も成果なく終わった[11]。 交渉が難航し、これ以上の譲歩は不可能と判断した小村は、談判打ち切りの意を日本政府に打電した。政府は緊急に元老および閣僚による会議を開き、8月28日の御前会議を経て、領土・償金の要求を両方を放棄してでも講和を成立させるべし、と応答した。
全権事務所にいた随員も日本から派遣された特派記者もこれには一同衝撃を受けたという[1
8月29日午前の秘密会議、午後の第10回本会議では交渉が進展し、南樺太割譲にロシア側が同意することで講和が事実上成立した。
これに先だち、ウィッテはすでに南樺太の割譲で合意することを決心していた[19]。第10回会議場から別室に戻ったウィッテは「平和だ、日本は全部譲歩した」とささやき、随員の抱擁と接吻を喜んで受けたといわれている[11]。アメリカやヨーロッパの新聞は、さかんに日本が「人道国家」であることを賞賛し、日本政府は開戦の目的を達したとの記事を掲載した[18]。皇帝ニコライ2世は、ウィッテの報告を聞いて合意の成立した翌日の日記に「一日中頭がくらくらした」とその落胆ぶりを書き記しているが、結局のところ、ウィッテの決断を受け入れるほかなかった[19]。9月1日、両国のあいだで休戦条約が結ばれた。
1905年9月5日(露暦8月23日)、ポーツマス海軍工廠内で日露講和条約の調印がなされた。ロシア軍部には強い不満が残り、ロシアの勝利を期待していた大韓帝国の皇帝高宗は絶望した

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