民主主義の基礎8(信頼関係6)

アメリカ民主党・共和党の政策は、(日本民進党や社民党も似ていますが)移民を受入れて低賃金に頼って国際競争力を維持し、結果的に企業が人件費負担をしないで低賃金層を増やし社会保障を手厚くして行く社会を目指して行く・・誰が喜び、どの階層が損するかと言う単純な図式です。
マスコミは「既成政治家に対する不信感」であると解説していましたが、既成政治家と言う誤摩化しではなく「for the people」と言いながら「民衆」の立場を代弁する政党がそもそもなかったことを問題にすべきです。
そもそもアメリカ式民主主義制度では、日本のように総意で政治をするのではなく多数意見に従う「統治・支配」ですから、2大政党制では、少数派・少数民族を代弁する政党は大政党になることは出来ません。
韓国財閥で問題になっている循環投資同様で・・6対4がその選挙区で10になってしまう日本の小選挙区制・アメリカ大統領選挙の総取り方式で分るように、大政党内部で個別利害を積み上げて行くプロセスで、少数意見はゼロ査定になって消えてしまう仕組みです。
全国民の2%の人が国内資産の半分を占めて良いか?と言う2択ならば選挙で勝てない筈なのに、資金力のある勢力がいろんなテーマに影響力を及ぼして結果的に2%の階層が全分野の決定権を握る社会になっていることに対するアメリカ国民の不満です。
この是正作用を担っているのが裁判所(イギリスで発達した衡平法・エクイテー裁判所の思想)の役割になっていますが、違憲判断や行政に対する是正判断は余程でないと出ない(原則として立法権や行政行為の裁量権を尊重します)ので、中高所得者の負担を徐々に切り上げて行く政策自体は訴訟テーマになりません。
(神懸かり・憑依で決めたり、クジで決めることの合理性について数日前に書いたように、得票数と言う数字で決めて行くのは一見合理的なようでいて実は民意の擬制でしかないのですから、数量的計算によるのではなく日本社会のように「総意」を汲み取る訓練・その能力に長けた人材を育ててその人の決定には異を唱えないルール・・社会体制になる必要・・そこに到達するには今後数千年以上かかるのかも知れません。
アメリカ指導層の出身母体・・現状に戻りますと、トランプ氏自身大資本家・経営者ですし、ヒラリー氏はウオール街から巨額献金を受けていることで知られています。
本当の「民衆」の不満・怒りを王宮のような豪華な邸宅・「トランプタワー」を有する「不動産王」が代弁しているのではギャグみたいな社会です。
資本家の意向を代弁するマスコミや政党が支配するアメリカで、たとえば、移民・非正規労働者が増えて保険加入者がドンドン減って行くと、(機械工具の修理費?)医療費を誰が負担するか?となります。
これが(素人的想像で飛躍がありますが・・)オバマケアや職業訓練施設が必要となった原因でしょう。
日本の保険制度で言えば、大手企業の健保組合からの協会健保(中小企業加入)や国保(無職者中心)への負担金が何年おきに連続的に引き上げられています。
非正規雇用・保険未加入者を増やすと企業負担は減りますが、その分サラリーマンの保険負担を増やす・・中高額所得層の実質税増額です。
この結果大手企業従業員・・多くは800万前後から数千万前後)の保険料負担が数年おきに引き上げられている仕組み・・原因です。
健保組合連合会の本日現在の主張によれば以下のとおりです。
https://www.kenporen.com/public-relations/onepoint/pdf/onepoint-11.pdf
健保組合は、皆さんと事業主が納める健康保険料を財源に運営されています。
『拠出金』による現役世代の負担増
拠出金が増えたことで 全健保組合の健康保険料の平均額が上昇!
この5年間で1人当たり年額5万円以上負担が増えています!」
累進性強化やこの種社会保障政策は7〜800万〜数千万の中高収入層への増税・保険負担増・手取り収入減になる仕組みです。
それ以上の高額所得者は3000万(2003年時点のコラムの引用ですので今はどの限度・・5000万になっているか知りません・・孫正義氏などにとって4000万でも5000万でも同じでしょう)で打ち止めになる累進制の影響を受けません。
これがアメリカの1%の人が全米所得の2割を占める原理です。
米国民主党の政策は、移民・難民層の比重が高いフードスタンプ受給額アップ?の受益者と天文学的巨額収入層からの天文学的巨額献金者の両端の支持によって成り立っていて、巨額献金出来ない中高収入白人層が一番割を食う社会だったコトが分ります。
格差拡大反対は非正規雇用層・・フードスタンプを既に受給している層は支給条件緩和や金額アップのバラマキで満足させることが出来るでしょうが、転落の危機に怯えている・・低賃金化の標的・・フードスタンプ受給予備軍にされている中高所得層から出ている主張だったことになります。
11月18日頃の新聞には、介護費用負担について一定額以上の年金受給者の(現役時代年収7〜800万前後以上?)の人の自己負担率を上げる方針が出ています。
今朝の日経新聞第一面には高所得高齢者への医療費負担増がトップ記事で出ています。
高校授業料補助金その他何かあると・・(7〜800〜1000万)前後のどこで切るかの議論するのが普通になっています。
そうしたテーマでは800か900で補助金をもらえるか医療負担が上がるかの関心(目先の損得・自分が助かるか?)に誘導されていますが、ソモソモ中高所得者ばかり増税や各種負担が上がる仕組みでよいかの基本議論がありません。
要は中高所得層を代弁する政党が我が国にもないからです。
旧社会党は(労働組合が)中間層の代弁者として意味があったのですが、中高所得層の代弁をするよりは、中ソ有利になるような偏った政治偏向?主張ばかりした結果消滅してしまったことに関係があります。
今の民進党も同じで、中高所得者の立場を守るよりは、すでに転落した階層保護策・・生活保護受給レベルアップ・高校授業料補助や児童手当増額+高額所得者除外などを主張する政党になっています。
社会保障赤字問題が起きて来たときに、当初高額所得者を受給資格からの除外論(医療や介護の自己負担アップや、児童手当や高校無償化や消費税負担軽減策の除外論など)だけでしたが、この数年では中高額所得者の保険料や、利用時の自己負担率アップによって,年金や保険収入増を目指すようになって来ました。
中高所得層は税金や保険料を高く払っているのに、イザ、サービスを受ける受給段階では自己負担がより高くなるのでは挟み撃ちに合う関係です。
レストランの客が、あなたはお金持ちだからと言われて定価の2倍払わされ、食べる段になると定価しか払わない人よりまずい(ワンランク下の)料理しか出て来ないような変な関係が起きています。
韓国での大統領退陣要求のデモ報道を見ると、「◯◯」日本の労働組合の旗がひらめいている不思議・・戦後折角発達した労働組合が、肝腎の労働者の生活擁護を放り投げて尖鋭?な政治団体になってしまったことが、中高所得層の立場を弱くしてしまった原因です。
労働者の生活擁護のために地に着いた運動をしないで、中ソのための「政治運動ばかりする変な方向へ行ってしまった」と国民認定?を受けてしまったように見えます。
これが自社2大政党と言われていた社会党が消滅してしまった原因ですが、社会党政治家であった議員の多くが民主党に移籍しそのときに、旧社会党と断絶するために一見マトモな意見を言っていた人が多かったので国民は期待して政権を委ねました。
一旦政権を任されてみると社会党依頼の観念的体質が全く変わっていなかった・馬脚を現したと言えます。
社会党そのものではないにしても、地道に運動すべき労組もその前から国民支持を失い、結果的に労働者を守るべき組織がなくなってしまったようにみえます。

民主主義の基礎7信頼関係5(people3)

日本では終身雇用どころか子々孫々まで堅く信頼しあった意識(だからこそ自分の命を棄てても子々孫々への名誉を選びますし、命を惜しんで逃亡するようなことはありません)で千年以上もやって来ました。
明治以降列強の植民地化の緊急事態で対外対抗・挙国一致の必要性から緊急事態としてやむなく秩禄処分をしたに過ぎず、アメリカに負けたことによって強力な外敵がいなくなって「最早戦後ではなくなった頃から、)ゆとりが出たので終身雇用の精神が復活できたと見るべきでしょう。
勿論七五三や立派なおせち料理などの行事は庶民に関係がなかったと言えばそのとおりですが、庶民もやってみたかった憧れの行事が庶民も豊かになって広がったのであって、全くなかったことが始まったものではありません。
豊かになってお祭りその他伝統行事があちこちで復活したのを見て、民族意識とは関係がない・・近年の現象に過ぎないと嘲笑しているのに似ています。
アメリカでは雇用流動性が高いと言われているように、企業が効率第一で従業員をいつでも解雇(古く効率の下がった機械を入れ替えるように)できるのは、ピープルが構成員ではなく商品の一種・支配・管理対象でしかないからです。
仮に簡単にレイオフし、経営陣は社員食堂で食べないアメリカ企業が「社員第一」と言う標語を会社の入り口に掲げていてもむなしい響きしかありません。
the peopleと対置する仕組みのgovernment(統治者)が古くなった機械設備や売れ行きの悪くなった商品のようにthe people・人民を低賃金の移民に入れ替える権利・自由がある社会では、・・for the peopleの標語は何だったのかを考え直すしかないでしょう。
民衆・人民の意味実質は支配機構であるガバメントの性質に規定される・・管理対象程度の庶民・大衆・被支配者層と言うべきでしょうか。
peopleの周辺語を見ても、多くは庶民前提の熟語ばかりです・・パブとかポピュラー、パブリックスク−ルとか・・。
その意味では「支配層に入らない人民」共和国と言う名称は言わば矛盾関係ですから、中国やソ連やロシアでも人民には何らの発言力もありません。
例えばクリミヤ半島に居住していたトルコ系住民の抵抗を抑圧するためにソ連政府はまとめてシベリアに移動させたりしていました。
共産主義と言いながら、幹部だけに富みや政府高官に就く地位が集中していたソ連や現中共政権を数日前に紹介しました。
このままでは、移民、難民に比べて割高な既存住民、先住民化しつつある白人は簡単にレイオフされて失業者〜職業訓練を受けてその中から数%だけ再雇用される繰り返し(昨日書いたようになれた職場実務から離れた機械等の操作訓練を受けても元の就労は不可能・・数ランク下の就労しか出来ないのが普通です)・・路上生活者に転落し〜フードスタンプで漸く生活する・・生き甲斐を失って最終的には麻薬やアルコール中毒の多い先住民族・・インデイアンのような境遇になって行くのでしょうか?
時あたかもアメリカでは、精神障害者や麻薬中毒者の広がりが半端ではない・・取締コストに耐えられない州政府では大麻解禁の風潮が広がっています。
この危機感に目覚めた先住民・白人の危機感をトランプ氏が引きつけたと思われます。
選挙戦中にフリージャーナリスト?の「意外にヒスパニック系などでトランプ氏を支持している人が多い」と言う現場報告がありました。
陳腐な表現ですが、出身民族を問わず大小いろんな段階・分野で既得権の侵蝕に怯えている人がトランプ氏を支持していたのです。
最近の動きは、ナポレオン戦争で戦争するために上から与えられた「民族意識」ではなく、自発的民族意識・・・居住民を大切して欲しい意識が芽生えて来た・あるいは人民が漸く日本国民のようにホンの少し強くなって来たと言うべきでしょうか?
一見アメリカが建国五数百年を経たので、遂に先着移民と後着移民の利害対立が起きて来ただけとも見られますが、西欧では千年単位で居住していたのに居住者の権利が皆無・・エンクロージャームーブメントで追い出されてしまうほど弱かった点を見ると、アメリカでピープルの居住期間が長くなっただけの要因ではないと見るべきです。
ドイツやフランスでも同じような運動が起きたのを見れば、居住期間の長短ではなく、ギリシャローマの昔から(市民権を持つ支配層だけの民主主義でした)支配の対象でしかなかったpeopleの主体性意識の覚醒によるのではないでしょうか?
我田引水で笑われるかも知れませんが、日本で同胞を愛し合う文化がアニメその他で世界に浸透して来た・目の前にはその文化を体現した日系自動車・電気・繊維工場その他いろんな工場が一杯アメリカに出来ていて従業員と一緒に食事し仲間意識を育んで行く・・従業員を大切にする風土が広がっています・・。
この影響がじわじわとり広がって来たことにあると思われます。
トルコのエルドアンやフィッリッピンのドウテルテやロシアプーチン・・世界の異端児がこぞって日本を愛している点も共通です・安倍氏の力もありますが、背景心情が重要です。
「アメリカ第一」その他の最近の民族主義は西欧で戦争に駆り出すために支配者が作り出した好戦的意味ではなく、日本的な郷土愛・・一緒にいる人を大切にしようと言う真っ当な意味です。
中韓の場合にはまだその段階に至らない19世紀型民族主義・・外敵を作って不満を支配者に向けないようにするための民族主義ですから本質が違っています。
アメリカやオーストラリアでは先住民を可愛そうと言う「上から目線」の憐憫意見や運動はありますが、インデイアン等の先住民を代表する政党がない・・白人が追われる立ち場になってみると・・低賃金移民に追われる白人が可哀相と言う政党がないのが現状です。
何回も書きますが、米国大統領選で戦ったトランプもヒラリーも資本代表・・成功者同士の競争です。
せいぜい経営者として労働者が病気せずに働けるようにどの程度医療や福祉を与えるべきかと言う上から目線のサービス競争でしありません。
福祉を受ける立場に追い込まれる立場・・彼らを代弁する政党がないのが可哀相です。
アメリカインデアンに対するひど過ぎる仕打ち・・これが人間の出来ることか・・この世に神も仏もないのかと嘆きたくなる人が多かったと思いますが、遂に白人自身がその立場・・追われる時代が来たと実感する人が多いでしょう。
多数支配=強者支配の原理では、弱者や少数者を代表する政党が政府を握ることはあり得ない・・政府を握った方が党利党略でやりたいようにやれる政府・・せいぜい憐憫の情で先住民を稀少生物のように保護する程度です。
日本のように総合的に意見を吸収して「人間としてやって良いことと悪いことが別にある」と言う政治を行う日本型政府こそが数千年単位で進んだ社会組織です。
親や子が病気すれば精一杯協力するのみであって、そこに功利的精神が先に起きることはありません。
日本の場合日本人のための政府・企業ですから,金儲けのために日本人を羊や移民に入れ替えるなど思いつきません・・。
国際環境が変われば、日本人が日本人のママで新たな環境でやって行けるように必死になって適応出来するように工夫するのみです。
低賃金移民に追われる一方になったアメリカの中間層が、住み良い日本に来て働く場を求める時代が来るかも知れません。
日本には食べ物も人材でも・・工芸品も良い物だけが集まる・・よりよい社会になるでしょうし、アメリカには低賃金でも働きたい・・安物の方が良いと言うクズ?ばかりが集まり、人材が入れ替わって行くのかも知れません。

民主主義の基礎6・信頼関係5(people2)

日本列島では組織・政府・宗教が組織構成員・国民と対立していて、国民を弾圧する、害悪を加えるなどの西洋的感覚は、古代から何千年も考えたことはありませんし、自分と所属集団は一体化しているので(お上を信頼しているから直訴はありますが)組織を敵視した打倒運動もありません。
佐倉宗吾郎その他の一揆は飽くまで「お上に声が届けば改善される期待」であって、声が届いた段階でお裁きはお上にお任せする・・その段階で引き下がる仕組みです。
忠臣蔵の討ち入りも後は御裁きを待つ・・同じ原理です。
お上はいつも民を如何にして良くするかを考えているものと言う信頼があり・・それがうまく行かないことがあるとしても・・直訴で修正してくれると信頼しています。
日本の神様は民に過ちがあっても、罰する神様ではなく許してくれる神ですし、外国から入って来た佛教でも慈愛に満ちた観音様が一番人気ですし薬師様その他優しい系が人気です。
中世以降は念仏を唱え阿弥陀さまや観音様ににすがりさえすれば救われると言う観音信仰や念仏系信仰が広がったのは、まさに助け合い社会・民族性をあらわしています。
神様も民族や地域集団から超然としている別の存在ではなく、氏神様・住民と渾然一体的存在です。
占領軍が日本から神道を排除しようとしてもうまく行かなかった所以です。
アメリカでは民族意識の強調すら出来ない関係で、民衆とは別の存在・・実在の支配機構が必須です。
政府と民衆とは主客対立関係にあるガバメント・統治機関を預かる・民主・共和両党の伝統的政治家は、民衆とは別の独立の超然たる統治機構(内部支配する企業・資本家)の発展に関心があって、国民は仕入れ原材料や工場設備的存在・・入れ替え可能な人的資源・商品であり、対象でしかありません。
民主共和両党(伝統的政治家)の本音は、企業利益・株主資本利益の最大化が目的ですから、本音・極端な話が、能力の割に高賃金の現在アメリカ人が全員出て行き、低賃金の中南米〜アジア〜アフリカ人に全部入れ替わっても、今の10〜20分の1の低賃金化実現の方が良いのでしょう。
イギリスが羊毛で儲かるとなれば羊を飼うために小作人を追い払ったエンクロ−ジャー(囲い込み?)を見ると農民が、貴族の農地経営方針転換のために簡単に追い出されてしまう弱さに驚くのが日本人です。
アメリカやEUではエンクロ−ジャーの現在版・労働現場では、(非効率な機械を最新機械に入れ替えるように)自国民と低賃金移民との入れ替えが進んでいます。
農民の弱さと言うよりも、企業や政府(お家・お城)が何のためにあるかの根本が違うからでしょう。
神社やお城が民衆威圧のためにあるのではなく、その地域の民の誇り・象徴になっている社会と被支配者を威圧・支配するための宗教施設や拒絶的な西欧各地の城がある社会とは違いがあります。
無宗教と言われる日本人が村の鎮守様や神社仏閣・・概ね質素な造りで威圧的はありません・・で思わず手を合わせるのが普通ですし、これと言った信仰心がなくともお伊勢様や出雲大社等に行く(参拝する?)人が多いのですが、西欧で古びた教会に「郷愁を感じ?)御参りする人が今どれだけいるかの違いです。
government(統治者)とは何かに戻りますと、「人民のための政府」と言っても日本の場合政府とクニの民は一体で分りよい・・古代からあたり前のことですが、アメリカの場合「人民」とは何かが問われ直さなければなりません・・。
民族国家でもないアメリカの場合、日本語の政府ではなく、government(統治者)は民族に基礎をおかない統治者観念ですから、裏から見れば人民自体の概念も「支配対象の人」と言う以外にはっきりしていない・・地に着いていません。
政治家のレトリックでは現実が分り難いのでこれを離れて労働現場で切り取って、日米で人を現にどのように扱っているかの違いを比較して見ましょう。
効率一辺倒で人間を商品化し、自由に入れ替えしたい立場・・終身雇用は戦後の高度成長期の一時的現象に過ぎないという意見がマスコミの主流であり、雇用流動化こそ進むべき道であるから、受け皿整備が主張されています。
国際潮流の変化にまけないように日本人を訓練し直す必要がありますが、企業から放り出してしまい、公的職業訓練校に任せるか、新時代適応出来るように実務を通じて社内訓練して行くかは別問題です。
私は中高年齢者を学校で教えるよりは、新しく入った機械を仕事しながら操作を身につけて行く方が何倍も効率がいいように思われるし、(多くの場合なれた古い機械と違う部分が少ないので勉強すべき新たな部分も少なくて済みます)社員の立場から見ても解雇されて失業者になってから公費で職業訓練校(同じ新式機械でももとの勤務先にあった機械と系列が違ってゼロから勉強する必要がある非効率さ)に通うよりは、精神的な負い目が全く違います。
アメリカ民主、共和党・資本家支持の両党の政策→非正規雇用・低賃金化して行き、その代わりに社会保障の充実を主張するのと同じで人民には不幸です。
物事の観察期間に戻しますと、気候変動や各種統計について都合の良い期間だけ切り取って異常だとか、政治経済のトレンドを評論している人がいるのと同じで、物事はテーマに応じたスパンで論じないと合理性がありません。
地震の多い地域か少ない地域か・・気候変動などは長期トレンド見てこそ分るものであり、単純そうな個人人格だって5分〜10分の観察よりも1〜2週間一緒にいた方がなお多面的観察が出来るし、その人の過去の発言など総合した方がなお分りよいものです。
民族性は、数十年や百年程度では、運悪く多民族支配を受けるなどの外部環境に支配されることがあるので、数十年〜100年スパンで見るのは間違いです。
物事の理解は今日雨が降るかどうかの判断のように直近の短期的変化を重視すべきですが・長期スパンで考えるべきときには対象期間が長期であればあるほど合理性があるでしょう。
トランプ現象も超短期で見るにはトランプ氏の個人資質や、直近で何を言い、今日何を言ったがが重要ですが、長期的に見るときにはアメリカの置かれた客観情勢のトレンドからはみ出せることはありません。
日本の終身雇用制度・・民族意識を見るには、帰属意識が歴史上明らかになっている「家人(けにん)」との堅い絆で結ばれていた源平合戦の時代から千年単位で見るべきでしょう。
明治維新に至るまで関ヶ原以降領地削減=収入激減に苦しんだ上杉や毛利の例、あるいは維新で領地を失った会津や仙台藩の家老や阿波の稲田家など家臣団を食わすために必死になった歴史を無視できません。
対アメリカ戦の敗戦にあたっても、「食糧が足りないから返って来るな」とは言いません・・むしろ必死に帰還船を出して(岸壁の母で有名なとおり)舞鶴港で迎え入れました。
ニッポン民族の一体制・信頼関係で書く予定だったのですが、ここで終身雇用・・死んだ後もでも絆を切らない民族性を紹介しておきましょう。
アメリカとの戦争に完敗しても天皇制を死守し、勇敢に戦った自分の父を尊敬している人が大多数・・そういう民族です。
まず誰かの責任追及に走る民族ではありません。
「朕はたらふく食ってるぞ!なんじ臣民飢えて死ね」と言うプラカードの標語が何故か心に残っているのは、あまりにも日本臣民の心からかけ離れた不届きで罰当たりな標語を掲げて皇居に押し掛けた違和感からでしょうか?
本日現在のウイキペデイアによると以下のとおりです。
「プラカード事件(プラカードじけん)とは、1946年(昭和21年)5月19日の食糧メーデー(米よこせメーデー、正式には「飯米獲得人民大会」)の際、参加者の一人である日本共産党員の田中精機工業[1]社員・松島松太郎が掲げた「ヒロヒト 詔書 曰ク 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」
そもそも国内の食糧総生産量が人口に見合わず、戦前は台湾や朝鮮半島から輸入していたため、また外地からの復員の分、人口が増えるわけであり、満足な供給には無理があった。農民も復員してきているとは言え、今すぐに食糧が増えるわけではなく、誰が大臣になっても解決策は無かった。大会翌日の5月20日、GHQ最高司令官マッカーサーは「組織的な指導の下に行われつつある大衆的暴力と物理的な脅迫手段を認めない」と声明を出し、社会党と共産党を牽制した。これによりデモ隊は霧散した。
既にGHQはこの食糧不足の危機的状況を把握しており、最も欠乏していた北海道から順次、食料供給を始めており、食糧問題の特別使節団として派遣されていたハーバート・フーヴァー元大統領は、90万トン近い食料を日本に供給すべき、と進言しており、実際に実行されている。 このデモはそれらを無視した形で、当初から政治的目的を持って行われた。」
戦争に負けたからと言って(恐れ多くも)天皇陛下の名を呼び捨てに書いて、皇居に押し掛け天皇に対して直截面会を求めるなどるなど日本国民の多くにとってあるまじき行為ですから・・その表現にショックを受けた人が多かった・・共産党系はソモソモ日本民族の一体感を持っていない人の集まり・・権力が弱ればその隙を突きたい人たちであることを自己証明した事件だったかも知れません。
「イザ鎌倉!」と言うときに「待ってました!」とばかりに敵方に馳せ参じる武士のような人も一定率いるでしょう。
今でもそうですが、選挙の結果を無視したデモ呼びかけで国会前に5000人〜1万人も集まると民意を証明していると左翼系文化人が自慢しますが、当時の1億人口の内暴徒が皇居前に仮に1〜2万人集まったとしてもそれが当時の日本人の大方の意思だったことには到底なりません。

民主主義の基礎5・信頼関係4(people1)

日本では政府は国民の渾然たる一体感によって負託された世話役(町内自治会であれ、我々弁護士会であれ、基本は世話役)でしかありませんから、基本的に党派的運用に馴染みません。
衆議で決める調整型能力に優れた人材が求められているので、党派的利害を舌鋒鋭く?主張する(人の意見を汲み取るのではなく自分の主張を実現したい)政党は幅広い支持が得られない原因です。
他国では政府は人民とは別に存在する・・逆に多民族国家では特定支配民族をバックにしているソ連や中国の場合や資本・労働者対立前提のアメリカの場合、支配権力を握った方が非支配階層を最大限搾取する構造が生まれ易くなります。
異民族支配の場合、被支配民族の反乱を警戒し、選挙制度の場合、次の選挙が怖いという抑制があるだけです。
アメリカ社会を実質的に見ると周知のように黒人差別やヒスパニックやアイルランド系差別その他諸々の人種間利害があるにもからわず、彼らの声を代表する政党が事実上認められていないし、人種横断的に見れば、労使の利害対立があるにも拘らず、労働者系政党さえ許されない状態ですから、事実上の一党(資本政党)独裁体制になっています。
the peopleは、投票出来ると言っても、資本家の推薦する民主・共和両党の候補から2者択一選択しか出来ない仕組みです。
ですから、アメリカでは牛馬にも死なない程度の餌をやり健康管理,機械でも油を注し修理する必要があるように功利的目的による一定の歯止め(フードスタンプ受給資格を上下し、死なない程度に医療を施す)しか関心がないし、異民族間競争を制した中共やロシアの場合には、(大量殺戮兵器を要する近代権力は異民族の反乱が怖くないのでやりたい放題になります・・これに対してテロが発達して来たのは必然です)仕返し・報復の心配さえなければ(モンゴル族や満州(女真)族。チベット、ウイグル族に対するように)どんな残虐なことでもしてしまえる社会になります。
民族的、党派的利益実現を目指して選挙戦や内戦を勝ち抜いた以上、ガバメントは党派的、民族的利益実現を目指すのは当然の結果と言うことで、相手が仕返し出来ないとなれば国際法違反の原爆をドンドン落とす・そう言う国が、民主主義・人権尊重の先進国家と自慢しているのです。
民意を汲み取る必要を認めないで、どの程度まで社会保障するか・・支配者の憐憫・・思いやりを人道主義と言ってきたように見えます
日本の村落共同体は、構成員そのものの渾然一体たる組織・・言わば法人よりも前の組織・組合のもっと前の渾然たる集合体意識が一番似合う感じですが、主観と客観・神と人間・自他峻別世界である西欧の目から見れば、こんな集団は原始集団とバカにするだけなのでしょう。
我が国の場合・・基礎的集団である村落共同体を見れば分るように共同体と個々人との利害が峻別されないアニミズム的集団を維持して来たのは、最先端技術国家でありながら、天皇制その他古い文物行事を大量に維持伝承しているのと同じで誇るべきことであっても恥ずかしいことではありません。
日本ではちょっとした偉人がすぐに神様になって神社に祀られます。
我々法律家(その他各分野の文化人)は 西欧的基準に合わないと前近代で恥ずかしいという意識が強く、西欧基準に合わないと恥ずかしいとか否定的に見る傾向があります。
法律論としては法人実在説と擬制説との争いがありますが、日本の場合村落共同体に始まり各種組織が今風に法人化しても、法人が社員や国民とは別に超然とあるいは対立する存在するものではなく、みんなの集合体・・(これを大きくした) 象徴天皇のように考えている人が多い(西洋法を学んで来た大多数の学者はそうは言いませんが・・)でしょう。
昨日、パーテイー券が政治資金規正法の寄付にあたるか否かの論文があったので読んでいると、その中に例示として出て来た政治献金の合法性に関するリーデイングケースである八幡製鐵事件の最高裁判例が出て来て、その論者(法学者)は、最高裁の前提では何だか法人の実在性についてアニミズム的社会・法人を前提としているかのようだと言う印象?(をついでにちょこっと)書いていました。
学者からすれば、そんな時代遅れの発想が基礎にあるのはおかしいと言う意味でしょうが、西欧法に従って多くの学者が構成員である個人を超越した法人が実在するとしていても素朴な国民意識(いくら子供の人権と言われても母子一体感がなくならないように)では受入れていない実態をいみじくも最高裁が言外に匂わせたものではないでしょうか?
魚などが自然に隊形を作って危機行動するように、日本社会では何かあると自然に役割分担して対応する・・今回の博多駅前の陥没事故でもあっという間にアリが群がるように集団で役割分担して治してしまいました。
これを原始的「アニミズム」とバカにするのは勝手ですが、何も恥ずかしいことではない・・他国ではこう言う能力を今後数千年かけても作り出せないのではないかと言うのが私の年来の意見です。
日本列島では組織・政府・宗教が組織構成員・国民と対立していて、国民を弾圧する、害悪を加えるなどの西洋的感覚は、古代から何千年も考えたことはありませんし、自分と所属集団は一体化しているので(お上を信頼しているから直訴はありますが)組織を敵視した打倒運動もありません。
佐倉宗吾郎その他の一揆は飽くまで「お上に声が届けば改善される期待」であって、声が届いた段階でお裁きはお上にお任せする・・その段階で引き下がる仕組みです。
忠臣蔵の討ち入りも後は御裁きを待つ・・同じ原理です。
お上はいつも民を如何にして良くするかを考えているものと言う信頼があり・・それがうまく行かないことがあるとしても・・直訴で修正してくれると信頼しています。
日本の神様は民に過ちがあっても、罰する神様ではなく許してくれる神ですし、外国から入って来た佛教でも慈愛に満ちた観音様が一番人気ですし薬師様その他優しい系が人気です。
中世以降は念仏を唱え阿弥陀さまや観音様ににすがりさえすれば救われると言う観音信仰や念仏系信仰が広がったのは、まさに助け合い社会・民族性をあらわしています。
神様も民族や地域集団から超然としている別の存在ではなく、氏神様・住民と渾然一体的存在です。
占領軍が日本から神道を排除しようとしてもうまく行かなかった所以です。
アメリカでは民族意識の強調すら出来ない関係で、民衆とは別の存在・・実在の支配機構が必須です。
政府と民衆とは主客対立関係にあるガバメント・統治機関を預かる・民主・共和両党の伝統的政治家は、民衆とは別の独立の超然たる統治機構(内部支配する企業・資本家)の発展に関心があって、国民は仕入れ原材料や工場設備的存在・・入れ替え可能な人的資源・商品であり、対象でしかありません。
民主共和両党(伝統的政治家)の本音は、企業利益・株主資本利益の最大化が目的ですから、本音・極端な話が、能力の割に高賃金の現在アメリカ人が全員出て行き、低賃金の中南米〜アジア〜アフリカ人に全部入れ替わっても、今の10〜20分の1の低賃金化実現の方が良いのでしょう。
イギリスが羊毛で儲かるとなれば羊を飼うために小作人を追い払ったエンクロ−ジャー(囲い込み?)を見ると農民が、貴族の農地経営方針転換のために簡単に追い出されてしまう弱さに驚くのが日本人です。
アメリカやEUではエンクロ−ジャーの現在版・労働現場では、(非効率な機械を最新機械に入れ替えるように)自国民と低賃金移民との入れ替えが進んでいます。
農民の弱さと言うよりも、企業や政府(お家・お城)が何のためにあるかの根本が違うからでしょう。
神社やお城が民衆威圧のためにあるのではなく、その地域の民の誇り・象徴になっている社会と被支配者を威圧・支配するための宗教施設や拒絶的な西欧各地の城がある社会とは違いがあります。
無宗教と言われる日本人が村の鎮守様や神社仏閣・・概ね質素な造りで威圧的はありません・・で思わず手を合わせるのが普通ですし、これと言った信仰心がなくともお伊勢様や出雲大社等に行く(参拝する?)人が多いのですが、西欧で古びた教会に「郷愁を感じ?)御参りする人が今どれだけいるかの違いです。

民主主義の基礎4・信頼関係3(governmentとは?1)

アメリカの場合人種のルツボであって民族主義の情緒に訴えられないので、for the people「人民のための政府」という秀逸レトリックが生まれたのですが、こうなると政府・人民とは何かが気になります。
国民を対外戦争に動員するためには人民による、人民のための政府擬制が必要なので、政府実在を強調するしかないでしょう。
政府・governmentとは何かですが、直訳すれば統治(者)ですから、これを日本の「政府」と翻訳するのは誤訳ではないでしょうか?
governmentの内容実質は、統治する機関・支配者でしかないのでしょうし、the people・ピープルは構成員?ではなく支配・管理対象でしかない、日本で言うところの国民ではなく「烏合の衆であるpeople」民衆がその対象になっています。
governmentに関するギリシャのプラトンから始まって、現在のガバナンス論まで有益な講演・質疑録が以下に載っていますので、関心のある方は参照して下さい。
専門家同士の長いやり取りがあって、これを私が勝手にまとめても間違いがあっても困りますが、運良く?まとめがありましたので、その部分だけ引用しておきます。
http://web.iss.u-tokyo.ac.jp/gov/research/dp_uno.pdf
DiscussionPaperSeries
全所的プロジェクト研究 ガバナンスを問い直す 政治思想史の観点から
東京大学社会科学研究所
InstituteofSocialScienceUniversityofTo k y o
宇野 重規(東京大学社会科学研究所)
2012年11月
「とりあえずのまとめ
(フーコーが正しいとすれば)本来は私的な財産や従属的立場にある人々を管理す
ることを意味した「統治」が、君主が自らの私的財産である領土と人民を管理する
という趣旨から、近代国家による行政、さらには公的秩序の維持一般を指す用法へ
と拡大した。と同時に、以前はさまざまな主体の実践に用いられていたのが、もっ
ぱら国家に関してのみ使われるようになった。」
欧米思想史では、日本の政府とは違い、governmentは統治、支配機関のあり方論でしかない以上は、ガバメントの特性は支配階層・・・共和党統治などで表現するしかありません。
日本の「政府」はマツリゴトをする府であり、集団員を超越したリーダーや支配者・管理者を予定していません。
古代の卑弥呼その他日本列島でのマツリゴトの本質は「憑依」に頼る点で一見非合理ですが、集団構成員の言葉にならない本音・・集団の総意を体感する儀式だったと見るべきでしょう。
「総意」については日本国憲法で書いている「総意」をどのようにして知ることが出来るかと言う関心で大分前書いたことがあります。
憲法
第一条  天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
大方の納得する総意・落としどころはその場の雰囲気?を読む能力が必要です。
多数意見であっても反対派もいるので総意ではありません・・。
多数意見で押し通すのでは、落ち着かないのである程度反対論者も納得する妥協的現実論は、選挙では知ることが出来ません。
最後まで妥協せずに(不利な判決が出れば不当判決と非難するなど)最後までいがみ合っている社会では民主主義社会は成立しませんので、本当の明主義社会が成立するには、高度な民度が必須です。
どうやって総意を探るかの智恵。民度ですが、口論の末につかみ合いの喧嘩をしているのでは社会の融和が保てないので、我が国古代には憑依に頼って、これに従うルールが出来たのです。
巫女に頼る古代社会は、現在でも冷静な話し合い解決能力がなく際限ない争いをする後進国よりも社会運営方法としては、はるかに進んだ制度です。
喩えば、スポーツ競技で0、何秒まで測定出来る時代と違い目測のときには、測定出来ないときに、判定不能な場合には勝敗をクジやじゃんけんで決めていたのと同じです。今でも相撲やスポーツでは行事や審判の判定は絶対と言う決まりがあります。
測定器あるいはDNAなどの発達によって厳密判定可能化が進んでいますが、政治意見の優劣はいくら議論しても決まらないのが普通ですから、(現在の支配的方法である多数意見だからといって正しいとはかぎりません・・クジで決めると予め決めたのと同様の一種の取り決めです)最後はクジやトランプで決めるのは意外に合理的です。
これと同じことを古代から考え出して内輪もめをやめたのですから、今でも適当なところで論争を終わりにする知恵がなく、内部紛争に明け暮れる社会に比べれば、かなり進んだ制度です。
測定機器発達同様にこれが次第に合理化されて(冷静・論理的な議論が出来るようになって)、朝廷や幕閣での合議制や村落での寄り合いによる民意集約方式に発展したものと見るべきです。
日本では組織と言えば村落集合体が基礎ですが、構成員である自分自身の意思が無下に否定されることがない融和的解決が多い社会の運営は参加人の意思をソンタクした「政(まつりごと)」であり、誰か強い人の意見で統治される対象ではなくみんなの総意、共同作業であることは古代から今も変わっていません。
日本の集団には支配・被支配という2項対立意識はありません。
ちなみに政治の「治」とは、治山治水の治であって、上から命令・支配出来るものではなく、自分より超越的な自然界に「御治め下さい」と受納して頂くものです。
結局は集団総意をルールに従って憑依して(お上の声を)聞き、これを実行しましたので嘉(よみ)して下さいと言うに過ぎないのが我が国の政治です。
「国民」と言う漢字がありますが、これは明治政府が無理に西欧流近代国家概念に当てはめただけであって、元はと言えば「くに」の民です。
「くに」とは何かと言えば、今でもクニ(郷土)に帰るとか邦人と言うように「くにを同じくするひと」「はらから」としてあい助け合う同胞を表す意味です。
郷土を同じくし、何世代にわたって維持して来た相助け合う同胞を国民と漢字表記しているのですから、支配の対象でしかなく共に助け合う存在ではない・砂粒の人達?であるpeopleをクニの民ではない「人民」と翻訳したのは誠に的を射た翻訳と言うべきです。
日本人をも欧米並みに「人民」と定義すれば、社共・文化人勢力のスキな「搾取」される被害者像がフィットする関係になります・・実際彼らは国民と言う言葉より「人民」と言う言葉が好きです。
アメリカの人たちは日本の国民に昇格していない・・工場の機械や工具・牛馬や原材料同様の支配利用の対象。商品でしかないが、タマタマ牛馬ではない「ひと科」に属すると言う意味で「人民」と言うのですが、その状態で今まで来たことになります。
フランス革命後の民主主義と言ってもgouvernement・government・統治機関を構成する支配層間のヘゲモニー争いをpeopleの選挙で決めるようになっただけのことであって、ガバメントは人民の支配(者)機構である点は変わりません。

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