税の歴史3(商業税1)

足利氏も平家同様に直轄領地を殆ど持っていない・・(一族の領地が全国的に散らばってありましたが本拠地の足利の莊自体は小さなものです)源氏の棟梁的(担がれていただけで自前の軍事力=資金源なし)役割だったので、資金的に最初から困っていて幕府自体の財政資金の出所は微々たるものでした。
南北朝の争いが終息した3代目の足利義満の時代になると権力的には頂点になりますが、その代わり領地を取ったり取られたりがなくなりますので、安定収入源としての直轄領地が殆どないマイナスが目立ってきます。
朝鮮征伐に活路を求めた秀吉同様で、義満も天下統一が終わると恩賞として与える新規占領地がなくなり行き詰まってしまいます。
そこで、資金源を清盛同様に日明貿易に求めましたが、貿易で儲けると言っても貿易商人の上前をはねるだけですから、個人収入としてはウマい方法だとしても、国家権力維持の資金としては基本的に多寡が知れています。
今のように貿易の盛んな時代でも関税収入は国家収入のホンの1部でしかないでしょう。
「金の切れ目が縁の切れ目」と言いますが、国内統一がなると恩賞を与えるべき新規領地獲得がないので大名が命令に従うメリットがなくなってきて威令が利かなくなります。
将軍家の統治能力の低下に伴い倭冦による密貿易が普通になって、政府の統制が利かなくなると貿易による収入源もなくなってしまいます。
幕府財政は手数料収入に頼るしかないので、義政の妻日野富子による関所・・通行税などに徴収に頼るようになります。
(貿易の上前をはねる方法の小型版です)
これが怨嗟の的となって彼女は歴史上守銭奴・悪女とされていますが、(資金源に困った結果でしょう)これは京の出入り口(7口らしいです)だけであって全国の通行税を取れる訳ではない・・どこの大名も関所を設けて真似する程度のことであって、中央政権独自に必要とする巨額資金源にはなりません。
日野富子死亡後ころから、資金面から中央(足利幕府)の実力が維持出来なくなって行きます。
(義政は富子との関係が冷えていたこともあって早くから竹林の7賢のように権力争い・政治から離れて行きます)
戦国時代に入ると各領国ごとに勝手に税を取る仕組みですから、中央政府・・足利政権の経済基盤がなくなってしまうと、足利氏は直轄領が殆どなかったので戦国時代の朝廷同様に悲惨です。
室町時代から商業活動が活発になり、(そもそも鎌倉政権を倒した原動力が、河内の馬借など新興産業の担い手であったことを、01/24/04「中世から近世へ(蒙古襲来と北条家)4」で少し触れました。)
室町期にはさらに商業が発達して来たので、各地領主はこれを保護する代わりに特権・独占的権利を認める形で一種の特許料を取るようになっていました。
業者は同業者間の組合である「座」を結成していましたので、言わばこうした団体を通じて統制して税・冥加金を取る仕組みでした。
今のように売上を正確に把握する帳簿もないので、多分話し合いでまとまったお金を上納してもらっていたのでしょう。
これが次第に(独占の見返りではなく市場の維持費や参加料として行くなど)合理化して行けば、今のように商売自体から税を取る方向に発達出来た可能性がありました。
上記のとおり戦国時代に入った頃には地代だけではなく、商業活動に対しても現在の税の萌芽である所場代を取るようになっていたので、このまま発展していれば、日本でも商業活動に対する税の徴収方法が発展していたと思われます。
ところが、戦国末期には信長がいわゆる「楽市楽座」制を支配下大名に布告したので、各領国・大名も競争上真似せざるを得なかったので瞬く間に全国的に「楽市楽座」になってしまい所場代の徴収方法の根がなくなってしまいました。
教科書的には、閉鎖的特権組合的権利(今で言うとギルド的特権)をなくし商業活動を自由化・活発化させた画期的な制度だと教えられますが、地代以外に税を取るシステムの萌芽だったとして見れば、楽市・楽座制は徴税方法が進歩するべき根っこをなくしてしまったことになります。

税の歴史2

大名や旗本が町奉行や作事奉行に任ぜられると自分の家臣団を動員し市中取り締まりや工事(薩摩島津家で言えば長良川の堤防工事)をする必要がありました・・。
このやり方では徳川家で言えば大身旗本しか役につけないので、足し高の制・・役料制度が発達したことを03/01/04「足高の制4と新井白石の正徳の治(家禄・家臣団の不要性)」前後で連載しました。
中央政府は巨大な領地・圧倒的領地収入を前提に政権を獲得するので、その後も自腹で全国的な運営を担当するのが我が国古来からのやり方でした。
同好会その他弱小組織の場合、会長がかなりの事務量を自腹で賄う・・町内会・商店会・小さな同業組合などでもその中の比較的大きな会社が組合事務局を自社内において組合会費からではなく、自社の事務員に組合の事務を兼務させて間に合わせることが多いものです。
(勿論家賃・パソコン・コピー電話利用料など取りません)
政治家は井戸塀政治家というように、人の上に立つ以上は自腹を切り続けて損ばかりしているうちに井戸と塀しか残らないのが我が国政治の有り様です。
この点パレスチナ解放戦線議長だったアラファト議長とか、リビアのカダフィ大佐あるいは共産主義政権の崩壊したときのルーマニア大統領など世界の政治家は蓄財が得意なのには驚きます。
イザとなれば彼らが海外に何兆円と国民のために?隠し財産を溜め込んでくれているので国民は安心してまかせておけるでしょう。
日本の菅前総理や野田現総理が失脚しても何も貯めてくれていない(と思われる)ので、国民は大して期待(あてに)出来ません。
国民は、増税に反対して自分でせっせと溜め込んでおくしかないでしょう。
自腹で公務を運営する方式に戻りますと、このやり方・世話役方式では政権を取ったばかりは何とかなりますが、政府・公益的仕事が増えて来ると自分の領地からの上がりの持ち出しだけでは中央政府は維持費が賄えなくなって来ます。
同好会や自治会や組合で言えば、事務量が増えて来ると自社の事務員を何人もかかりきりにしていられなくなって、事務局を持ち回りにしようとか、会や組合の費用で事務所を借りよう・専属の事務員を雇おうとなるのが普通です。
政治の場合、単なるサービス精神による世話役ではなく自分の支配欲を満たすための政権取りですから、そのまま自腹で経費を持ち続けることが多いので経済的に参ってしまいます。
中国のように政権を取れば、中間豪族の存在を一切認めずに人民を直接支配する仕組みの国(・・皇太子以外の子供などに一部王国を認めますがそれは例外です)なら却って私腹を肥やせるので、政権は税の取り過ぎで人民が蜂起しない限り盤石です。
(異民族に滅ぼされる以外はいつも農民の流民化で政権の最後が始まるのはこうした結果です)
日本の場合、大和朝廷の始まりから諸候連合ですから、中央政府は自分の直轄領地からの上がりだけで全国支配をしなけれならないので、割が悪い仕組みでした。
日本の政府・指導者はいつも質素倹約で簡素な役所しか持てないのは、こうした違いによるものです。
神社も権威を強調するだけで、建物自体はどんな大社で質素なものです。
中央政府の経済基盤を強化するために、随・唐の律令制導入が(大化の改新)この面で必須だったでしょうが、逆から言えば豪族にとっては自己の地位が危うくなることですから、骨抜きに必死になったのは当然です。
律令制=国家全面所有・人民直接管理制は、わが国には根付かず失敗に終わったので、以来国家直接管理思想は無理がある(トラウマ)となって明治維新まで来たことになります。
律令制失敗後は全国的に荘園制となり荘園制のうえに武士団が誕生してきます。
武士団の最初に天下をとった清盛が政権維持のためには(湯水の用に資金を使ったでしょうから・・)娘盛子の夫藤原基実死亡時に子供が小さかったので、基実の弟が後見になると平家にとって大変な事態になるので、必死のがんばりで何とか摂関家の荘園財産の殆どの管理権を入手します。
清盛は(摂関家資産を多分食いつぶしたでしょう)た上で、その後は資金源を求めて安芸の守以来の瀬戸内の交易による利益だけでは足りなく日宋貿易に頼るようになりました。
(資金源がなくなったことが、平家没落の主たる原因です)
鎌倉政権・頼朝は自前の領地・収入源がなかったのが当然ですが、北条家に実権が移った後は、北条各家は経済基盤確保のために領地拡大に精出して、各自の領地を最大にしていて、執権家構成一族としての経済力が高かったので長く続いたのです。
(蒙古襲来がなければ経済基盤がしっかりしていたので、もっと続けられたかも知れません)
襲来時の北条一族の支配地が大きくなっていたことについては、01/24/04「中世から近世へ(蒙古襲来と北条家)4」で少し触れました。
徳川家もこの歴史を知っていたので直轄領地(公称800万石)にこだわっていたので、幕府財政は苦しいながらも約300年近くも続けられたことになります。
(黒船来航さえなければもっと続いたかも・・・)

税収3(税の歴史1)

助け合いや地域のことを、何もかも税でやらなければならないと思い込んでいる人が多いと思いますが、そんなことは、元々ないのです。
近代国家になって国家権力が強大になったので、政府の入り用は何でも強制的な税に頼るようになっていますが、全く強制力によらず国債を資金力のある人に買ってもらって資金を獲得するのが最もソフトな民間からの資金徴収方法と言えます。
イヤならば国債を買わなきゃ良いのですから、100%自発的拠出に頼ることになります。
何事も強制よりは自発的行為の方がスムースですから、国債による資金徴収方法はソフトな良い制度だと思います。
政府費用や所得再分配資金として「国民からお金を集めるのは税だけだ」と錯覚している人が多いと思いますが、税だけで運営するようになったのは明治維新による近代国家成立以降に限られています。
そもそも中国式の中央集権国家・・政府が直接国民を把握して徴税する仕組み・・・律令制は導入しても、我が国の実情に合わないことから直ぐに破綻してしまったことを01/09/06「律令制の崩壊1(豪族のしたたかさ)」その他関連のコラムで紹介しました。
平安朝以降は荘園や大名小名領地に編成されて行き、次第に中央政府自体が直接徴税出来る仕組みがなくなって行きました。
秀吉が後陽成天皇に寄進したのが僅か3000石であり、家康が関ヶ原後に征夷大将軍に任ぜられたお礼は、秀吉の寄進した旧領安堵でしかなかったのです。
家光の上洛(1634年)の引き出物として後水尾天皇に7000石を寄進して漸く合計1万石の生活費を得たに過ぎません。
(外に5摂家に各1000石していますが・・武士で言えば中級の上の旗本程度です・・高家筆頭の吉良家は4200石程度でした)
徳川時代には公家諸法度で朝廷が政治に口出しさせないように儀式を多くやるように強要していたので、その代わりその経費を見る必要・・・を賄う程度・・今の皇室経費の発想です。
05/22/04「皇室祭祀令 4と雅子妃殿下の苦悩23 (天皇家の独立)」前後で連載しましたが、今の皇室もこの歴史を引きずっているので行事儀式だらけで忙しすぎることを書きました。
徳川政権自体も自分の領地から上がる地代・税によって運営されていて、諸大名には堤防工事や駿河台の石垣積みをやらせたり何かの義務・・たとえば浅野内匠頭に接待供応・・を命じるだけで国税として(大名が自分の領地で取る税は今で言えば地方税に該当するでしょうが・・・)徴収する方法がありませんでした。
大名も支配内で固有の領地を持つ豪族的・・大身家臣の領地内での収入は、その重臣の固有収入であってその何割かを大名家に納める仕組みがなかったことは、徳川家と大名・旗本等の関係と同じです。
元々平安末からの武士団・・鎌倉時代から徳川時代終わりまでの中央・地方の政府組織は、戦闘集団から始まっているので、家臣は命じられれば戦闘だけではなく何でも無償で人的サービスを履行する義務を負うだけで、金品を納付する義務がありませんでした。

ポンド防衛の歴史12(ポンドの威信1)

イギリスの場合、ポンドの基礎体力が回復した訳ではなく、12月10日に紹介したように成長率は低いままでしたが、戦勝国・老舗として参加しないのは格好が悪いということでのIMF8条国参加ですから、自由市場に参加すれば市場の実力試しの洗礼を受けます。
1947年の自由化のときに比べれば49年に大幅に切り下げた後ですし、既にスターリング諸国その他によるポンド保有資産(ポンド売り圧力の源泉です)が減っていたので売り圧力が低いとみたのでしょうが、それでも直ぐにポンド売りの攻勢を受けます。
これが61年から始まる外国為替市場でのポンドの売り浴びせ、と買い支え・・私が新聞に関心を持つようになった中学生〜高校ころのポンド防衛に関する連日報道に連なっていたのです。
ただし、その頃は90年代のソロス氏のようなファンドマネージャーが発達しておらず(手法も限られていたでしょう)まだ「チューリッヒの小鬼」という程度のメンバーでしたので、短期間に巨額の売り浴びせが(当時も空売りの手法があったとしても規模が小さかったでしょう)出来なかったので、かなり長期間の抵抗が可能だったようです。
1961年から長期化するポンド防衛戦争(市場の洗礼に曝されるようになった)が始まるのですが、遂にはこれに耐え切れずに1967年にポンドを1ポンド2、80ドルから2、40ドルへと約14%切り下げて漸く落ち着きます。
ただし、このときは南アフリカやインド、オーストラリアなど多くの諸国がリンクしませんでした。
こうしていわゆる英連邦諸国プラスαのスターリング地域にとって閉鎖的なポンド経済を維持するメリットがイギリス本国も構成国どちらからも次第に失われて行く流れが定着し、イギリス本国のEU加盟(1973)に繋がって行きます。
72年以降イギリスは変動相場制に移行したので、以降は市場の実力相応の変動によって上下する筈でしたので、国の威信がかかった「切り下げ」という政治ショウが不要になったはずでした。
ただ、イギリスは欧州の経済統合への参加という戦後の宿命的課題があり、(欧州の一員になるか英連邦にこだわるか)欧州には統一通貨ユーロ成立前段階の欧州通貨制度(EMS)があって、イギリスはこれとポンド相場の連動性・ERM(欧州為替相場メカニズム)を採用していました。
と言うことは、実質的にはイギリス単体の実力による変動相場制を修正して欧州全体相場にリンクする半端な変動相場制度だったと言えます。
イギリスは、一時北海油田の御陰で国際収支が堅調になったのですが、その枯渇に連れて再び戦中戦後連続していた国際収支赤字基調に戻っていたらしいのですが、上記連動性の結果、相場が経済力の変化に比例して修正されないままとなっていたのです。
東西ドイツ統一(1990年)後の復興資金需要によって高金利化していた欧州諸国の為替相場が上昇基調にあり、連動してポンド相場も上がっていました。

ポンド防衛の歴史11(ポンド管理政策の破綻2)

12月10日に紹介したように、イギリスとOECD諸国との成長率格差が広がる一方で、為替取引自由化の部分を多くして行くと硬直的なポンド維持・為替管理が難しくなります。
この打開のために1949年9月には、1ポンド4、03ドルから1ドル2、80ドルへ約3割に及ぶポンド切り下げを行います。
大恐慌時のポンド切り下げと違い、戦後は域内諸国が多額のポンド預金を強制されていた(債権保有者になっていた)ので、49年の切り下げは指定諸国(元のスターリング諸国)にとっては(ポンドでの)外貨準備の対ドル価値が大幅減額・大損害になってしまいました。
今の日本や中国がアメリカドルで保有している外貨預金が3割切り下げられたようなものです。
その上イギリス及び指定諸国(主に英連邦諸国)全体が戦後では貿易赤字基調なので、今後もじり安になるリスクのあるポンド預金をするのはリスクが増えるので指定諸国のポンド離れ(ポンドにつきあっていると損をする意識)が始まりました。
大恐慌時のスターリング地域設定時には構成諸国トータルの国際収支は黒字であったので、この黒字分をロンドンに集積するメリットをイギリスは受けていたし、その結果ポンド相場が維持出来たことを既に紹介しました。
戦後はスターリング地域(戦後は指定地域)全体が対ドル圏に対して赤字機基調になって来たので、ロンドンで外貨交換してもドルを集積しなくなり(トータルで赤字であればロンドンで交換してもドル支払いの方が多くなって持ち出しになります)、むしろイギリス本国が参加国を援助しなければならなくなる方向になってきました。
参加国全体がじり貧になって来ると、参加国もイギリス本体も相互にこのシステムを維持するメリットがなくなってきました。
言わば親戚みんなが貧乏人の集まりになって来たので、お互いに他所の金回りの良い他人とつきあう方がメリットが大きくなって来たと言えます。
その結果、域内貿易よりは域外貿易の比重は上がる一方になってきます。
他方でポンドの両替が不自由・使い勝手が悪いとその不満から域内諸国のポンド離れをいよいよ加速するので、イギリスとしてはポンドの自由化を進めるしかない展開になってきます。
徐々に為替自由化を進めて行った結果が、西欧諸国一斉に行われた1958年の非居住者の換金自由化に繋がり、61年の居住者に対する制限撤廃になります。
ポンド両替が完全自由化された1961年にイギリスはIMF8条国(貿易収支の悪化を理由にする為替取引制限を出来ない国)に移行して漸く先進国のメンツを保てました。
ちなみに日本の8条国移行は1964年(昭和39年)で、戦前の一等国から敗戦による4等国への格下げ・(子供の頃には何かと言うと「4等国になったのだから・・」と大人の自重気味の話を聞いて育ちました)ここから漸く挽回しての再度の先進国(戦前の言葉で言えば列強諸国)入りを果たしたことになります。
(東京オリンピックもこの年ですし、新幹線開通もこの年でした)
日本の場合は十分な実力を蓄えた結果の8条国入りですので、参加したからと言って円の売り浴びせはなく・・、むしろ以後値上がり圧力のまま現在に至っています。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC