本籍1(寄留の対1)

最初の戸籍には本籍を書くところがなかったように見える・・壬申戸籍はエタ等の身分差別事項が書かれていたので今では極秘扱いのために現物又はその写しが見られないのですが、元々本籍と言う用語は本当と嘘・仮住まいの両立があってこそ必要になる単語です。
この後に寄留と言う登録方法を紹介して行きますが、これの発達が寄留地と言う臨時の場所の登録から必然的に、親元・本来の戸籍がどこにある・・・本籍と言う用語を生み出して行ったものであって、寄留者にとっては戸籍のある場所が今で言う本籍ですから、戸籍制度の当初から、戸籍簿自体に本籍を別に書く欄があった筈がないのです。
戸籍簿がこれも後に書きますが地番別に編成されるようになってくると、戸籍簿の記載場所が寄留地から見れば本籍地と言われるようになったものであって、これが戸籍簿自体に本籍と書くようになるのは、住所と本籍が一致しなくなるようになってからでしょう。
宗門人別帳時代では親元からいなくなったものは除籍するか残しておくかしかなくて、行き先の仮住まいの登録方法がなかったのですから、本当の籍と言う言葉が生まれる余地がなかった筈です。
実家と言うのは実際に住んでいない家・・実態に反しているから逆に強調(嘘やイカサマほど大きな声で主張するものです)して「実家」と言う言葉が生まれたとFebruary 8, 2011「江戸時代までの扶養1」で書いた事がありますが、本籍と言う単語が必要になったのは本籍以外の登録方法が一般化してからと見るのが妥当です。
出向してない社員には「本籍はどこそこです」と言う自己紹介がいらないのと同じです。
江戸時代の宗門人別帳は1年に一度チェックして行くものでしたが、村と言っても当時の村には十数戸あるかないかでしたから、毎年別の人別帳に記載し直しても大した手間ではなかったでしょう。
この方法の方ですと、ある年にある事項を誤記あるいは脱漏していても前後の年の人別帳を見ればどちらが正しいかがすぐ分る便利さもあります。
10〜20年以上の保管義務を定めておけば、たいていの移動が分るでしょうし、10数戸しかない村落の記録としてみれほど嵩張るものでもありません。
仮に20戸あっても今の大学ノートで言えば、一冊に収まる程度ですし20年分でも20冊保管するだけのことです。
このように過去の分が保管されている事・・これを繰って行って初めて系統だった流れが分ることから、宗門人別帳の事を一般に過去帳と言われるようになったとすれば合理的です。
(仮に20年分比較して見るとすればその内19年分は過去の帳です)
しかし現在の過去帳と言うのは、そうではなく満中陰・49日が過ぎたらお寺さんがその人の生前の行いなど書いて記録していると言うのですが、これはもしかしたら明治4年の太政官布告によって宗門改めの権限喪失後に考えだしたお寺の仕事かもしれません。
死亡後に僧侶が遺族から聞いて、その人の事績を記録しても、それでは正確ではないから歴史研究資料には(ないよりマシですが・・・)使えません。
江戸時代の過去帳の資料価値が高いのは、生きているときから村方が記録していた客観性の高い宗門人別帳の過去版だからでしょう。
これが、庚午戸籍から(実際はその前身の京都府の仕法・その前身の長州藩仕法にその始まりがあるようです)変更分を上に貼付して行く仕組みが考案された事から一旦造った戸籍の記録を何十年も使って行けるようになりました。
このように記録形態の変化見ると「帳」から「簿」になり「籍」と変わって行った漢字の変化が分ります。
簿も籍も重なって行くサマを現した漢字です。
ついでに、色々書きますが戸籍簿への年齢表記も戸籍作成時の年齢を書くものであって、生年月日形式になったのは明治9年からです。
毎年あらたな帳簿作成方式の場合、何年何月調整とその人別帳表紙等に書いてあれば、それで記載されている人の年齢から生年が計算して分るので、それで足りたのです。
私が事件の聞き取りをしている時に「それは何年頃の事ですか?」を聞くと平成何年かを答えられないのに、今から5年くらい前とか3年前や半年前など言う特定をする人が殆どです。
私の方はそれではメモが出来ないのでその都度「じゃあ平成何年の事で良いですか?」と確認して漸くメモして、次の出来事を聞いていると「それは4年半ほど前」などと言うので、また年号で聞き直しの繰り返しです。
「焦れったいな初めっから年号で言ってくれないかな」と思うのですが、私自身もこの家に住むようになって何年経つなあとか、あれは今から8年前のことだったかなどと過去を想起していることが殆どです。
我が国では12/31/03「大晦日2(日本書紀・・かがなべて・・・・)」のコラムで紹介しましたが、過去のある時点を何年何月何日と言うよりは「今から何日前」と言う表現に太古〜明治9年まではそういう特定の仕方をして来た歴史があるからです。
あえて言えば、西暦であれ平成であれ、腕時計の時間であれ、これら暦は人類の歴史が始まってから技巧的に造られたものであって、まだ2〜3000年しかたっていないのですが、動物的腹時計・・・どのくらい経過したかに関する体内時計の方は万年単位の歴史を有していて未だに健在だからはないでしょうか?

宗門人別帳から戸籍へ

人民管理の方法として、それぞれの現住所を基本としながらも一戸を単位とする方式を取ったので、(都会に出ていても戸籍整備時にそこで既に一戸を構えていたり、親兄弟が死亡していればそこを基本として戸籍を作ったのでしょう)戸籍(それまでの個人別の人別帳との違いです)と言う名称になっているのですが、本籍と言う熟語も戸籍編成時の最初は現住所を登録したのが始まりで、その後そこを本拠地・本籍として行ったものと思われます。
ちなみに「帳」から「籍」になったのは記帳・登録後移動があった時には、同じ箇所に変化した事柄を貼付けて使うようにしたからではないでしょうか?
仮に元の先祖の本拠地まで詮索することにすると、みんな500年、千年前の出身地を探し出さねば本籍地が決まらない事になってしまいますので、現実的な方法とは言えなかったからです。
現住所に限定せずに、3代前まで、あるいは4代前に家を構えていたところと言う一定限度で区切る方法もあり得たでしょうが、どこで区切るかの議論自体無駄ですし、これをしているとその証明が困難なうえに手間ひまがかかりすぎます。
明治維新直後で、まだ公務員さえ江戸時代の組織そのまま流用の時期ですから、人別帳を管理していた同じ村役人がその任に当たったと見るべきですし、宗門人別帳に既に記載されている人はそのまま横すべり・・引き写して、これに若干の修正を加えていたと見るべきでしょう。
明治に戸籍制度が始まったと聞くと何もかも新たに作ったような印象ですが、徳川期の宗門人別帳(お寺による宗旨のお墨付き→村役人管理・年一回調査義務がありました)がかなり完備していましたので、これを国家直接管理の従来の人別から1戸単位に戸別の籍に編成し直す(記載事項が少しづつ違って来ますが母体があったのです)のが中心の仕事だったとも言えます。
東京の環状7号線を作っている時にその道に沿って往来していた事がありますが、イキナリ何もないところに作ったのではなく、細い道が途切れながら今の環7通りを縫うように走っていました。
それを拡幅したり途切れたりしているところを繋いだりして環状7号線が出来て行ったのです。
ですからそれまで池袋に帰るための抜け道として利用していた我々にとっては工事中は却って利用出来なくなって大変なマイナスでした。
同じ事は千葉を通っている国道16号線の工事にも言えます。
ちょうど宇都宮から千葉へ引っ越すために道路地図に従って、鬼怒川沿いに南下して行き岩井の橋を渡った後は、一路南下して行けば良いと思って進んでいたところちょうどその道が現在の16号線に拡幅されたり繋がったりする工事途中だったために却って、あちこち迂回させられて大変な思いをした事があります。
煬帝の運河もスエズ運河もパナマ運河もすべて、元それなりのものがあった場所を開鑿して繋いだものです。
国家直接管理を目指したと言っても、イキナリ国家公務員を全国の村々に派遣出来ませんので結局は従来通り村役人にその整備を命じていた筈ですから、人別帳の管理をしていた同じ人が今度は作り方がこのように変わったと言う指示受けていただけの事になります。
郡県・市町村制度が完備して行くのは大分たってからですし、人材に至っては旧藩時代の人材を名前を変えて使っていた・・藩知事を罷免しただけで家老・参事以下はそのままだった事を廃藩置県のコラムでも少し書きました。
庚午戸籍や壬申戸籍では屋敷地番別に書いていたり、壬申戸籍までは宗教や檀家寺などをまだ記載していたのは宗門人別帳管理者がその系譜を引く・・引き写しプラスファ(村の人でなくと分りよいように職業や資産・売上高から身体の特徴その他何でも最初は書き込んでいたようです)が中心だったからです。

寄留簿2と本籍4

ちなみに、本籍「地「と言う言葉が出て来たので戸籍簿の特定の仕方について考えて行きますと、元は戸籍筆頭者の人別に編成して行くことが可能で、・・これが江戸時代までの宗門「人別帳」と言われるゆえんですが、人別帳や戸籍簿は村別に造っていたので、どこの村の誰それの戸籍と言えばそれで特定としては十分だったのでしょう。
地番が出来上がるまでは、「どこそこ国の何郡何郷の誰それ」と言う特定で済ましていたのでしょう。
何時からか不明ですが、戸籍の特定には場所的特定が始まりますが、(ご存知のように現在では戸籍謄本取り寄せには戸籍筆頭者名と本籍地番を書いて申請するシステムです・・22日紹介した本では、本籍地は索引機能しかないと書かれていました)最初は屋敷地番であったらしいのですが、・・・戸籍制度整備の目的とは別に土地に地番を振る作業が明治10年以降進んでいたことを、08/27/09「土地売買の自由化3(地番の誕生と境界)」のコラムで紹介しました。
(実際には日本中の土地に地番を振って行く作業が完了するには何十年もかかります)
平行して廃藩置県後地方制度整備が進み、郡県市町村制が決まりその中の大字小字の区分け、その字中の地番まで特定出来るようになったのは、何十年もかかった後のことです。
屋敷地番から土地の地番に戸籍が変わったのは明治19年式戸籍からだとどこかで読んだような気がします。
土地に地番を振って行く作業の進捗にあわせて戸籍簿の特定も屋敷地番から土地の地番に移行して行ったのでしょう・・。
この地番特定が普及して以降、本籍「地」と言うようになったのではないでしょうか?
現在日本中に地番を付す作業が完成していますので、戸籍簿は地番別に編成されているので、ある人の戸籍謄本・登録事項証明書を取り寄せるには戸籍筆頭者名と本籍地番を特定して行うことになっていますが、地番が後から出来て来た経過を示すものです。
それでも少しくらい地番がずれていても、戸籍役場からの電話で、同じ氏名の戸籍が何番地ならありますが、それで良いですかと聞いてくることがあります。
冒頭に書いたように同じ集落にあれば、元々地番などなくとも氏名だけでその部落の人には分るものですが、その歴史を引きずっている感じです。
これがコンピューター処理するようになると地番が1番地違ってもヒットしなくなるでしょうから、却って不便な面があります。
ご近所の人でもよく名前も顔も知っているが正確な住居表示となると何番だったか分らないものです。
コンピューターでもあの辺の誰それと言うだけで呼び出せるように氏名・・それも大方で・・からも検索出来るようにして欲しいものです。
この地番表示制度も住居表示制度が完備してくると意味を失い、今では住居表示で届出て来ても受け付けてもかまわないと言う通達が出ています。(22日に紹介した本はこうした通達集みたいなものです)
明治には屋敷地番と土地地番の混在時代でしたが、今では逆に地番表示の本籍と街区番号・住居表示による本籍の二種類が混在していることになります。
その内にに明治の初めに戸籍には屋敷地番を付していたのと同様に住居表示が中心になる時代が来るように思われます。
そうなると本籍「地」と言わずに単に本籍と言うようになるのでしょうか?

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC