本籍4(地から地番へ)

 

ちなみに、本籍「地「と言う言葉が出て来たので戸籍簿の特定の仕方について考えて行きますと、元は戸籍筆頭者の人別に編成して行くことが可能で、・・これが江戸時代までの宗門「人別帳」と言われるゆえんです。
人別帳や戸籍簿は村(当時は何々の庄とか何々の郷と言っていました)別に造っていたので、どこの村(郷・庄)の誰それの戸籍と言えばそれで特定としては十分だったのでしょう。
しかも姓自体が。橋詰とか宮本・宮前などその集落内の場所を現すことが多かったのですからなおさらです。
地番が出来上がるまでは、「どこそこ国の何郡何郷の誰それ」と言う特定で済ましていたと思われます。
ご存知のように現在では戸籍謄本取り寄せには戸籍筆頭者名と本籍地番を書いて申請するシステムです・・22日紹介した本では、本籍地は索引機能しかないと書かれていました。
ただし、市街地では人家が密集しているので宮ノ前と言っても何十軒もある場合どこの家か分りませんから、自ずから市街地では現在の住居表示に類似する屋敷地番が発達していたようで、これが戸籍に記載されていたようです。
他方で、戸籍制度整備の目的とは別に土地に地番を振る作業が明治10年以降進んでいたことを、08/27/09「土地売買の自由化3(地番の誕生と境界)」のコラムで紹介しました。
(実際には日本中の土地に地番を振って行く作業が完了するには何十年もかかります)
平行して廃藩置県後地方制度整備が進み、いわゆる郡県市町村制が決まりその中の大字小字の区分け、その字中の地番まで特定出来るようになったのは、何十年もかかった後のことです。
屋敷地番から土地の地番に戸籍が変わったのは、明治19年式戸籍からだったとどこかで読んだような気がします。
土地に地番を振って行く作業の進捗にあわせて戸籍簿の特定も屋敷地番から土地の地番に移行して行ったのでしょう・・。
もしも本籍「地」の「地」とは現在のように策引き出来る地番のことであれば、それまでは地番自体がなかったのですから、本籍「地」と言う言葉自体がなかった筈ですから、本籍「地」と言うようになったのは地番特定が普及して以降でしょうか?
ただし、法律上の「地」とは最小単位の行政区域を指称することが多く、(例えば手形小切手法の支払地など)地番とはその「地」の中で順番に付した番号と言う意味であって、その結果、最小単位・子字(あざ)ごとに1番から始まるルールです。
参考までに手形法の第1条を紹介しますが、手形要件の中で支払地、振出地の記載がそれで、地番ではなく最小行政区域を言います。
この支払「地」や振出地は東京で言えば港区や中央区まで書かないと無効になりますが、その中で麻布や銀座・築地など下位の地名まで書く必要はありません。
手形法
(昭和七年七月十五日法律第二十号)

最終改正:平成一八年六月二一日法律第七八号

  第一編 為替手形
   第一章 為替手形ノ振出及方式
第一条  為替手形ニハ左ノ事項ヲ記載スベシ
一  証券ノ文言中ニ其ノ証券ノ作成ニ用フル語ヲ以テ記載スル為替手形ナルコトヲ示ス文字
二  一定ノ金額ヲ支払フベキ旨ノ単純ナル委託
三  支払ヲ為スベキ者(支払人)ノ名称
四  満期ノ表示
五  支払ヲ為スベキ地ノ表示
六  支払ヲ受ケ又ハ之ヲ受クル者ヲ指図スル者ノ名称
七  手形ヲ振出ス日及地ノ表示
八  手形ヲ振出ス者(振出人)ノ署名

もしもこの法律上の慣用表現が明治の初めからあったとすれば、今の最小単位は市町村(東京では区)ですが、当時は最小単位である◯◯の庄、◯◯郷まで書いてあれば、当初から本籍「地」を表記していたことになります。
「本籍地はどこか?」「はい、何々の国何々郡◯◯の庄です」と言えば、地番まで言わなくともそれで正答だったことになります。
ちなみに、郷や庄に代わって大字(あざ)小字(あざ)の単位が出来たのは、明治になって江戸時代までの小集落を併合して大きな単位の村が出来上がって元の集落名を「字」に格下げして以来のことです。
言わば第一回目の併合で格下げになったのが今の小字で、その次の合併で更に大きくなった村の一部になったのが大字であろうと思います。
昭和30年代の全国規模の大合併で更に村の規模が1kメートル四方程度の大きさになりましたが、この時更に村の下位になってしまった地域は大字とも言わずに旧何とか地域と言われることが多いようです。
大きな市では元の△村や△町はそのまま◯◯市△町として残っていました。
都市化したところでは◯◯何丁目の◯◯の地名で残っています。
最近の例で言えば、仙台と合併した和泉市が泉区になり、浦和や大宮市が合併して浦和区や大宮区になったようなものと言えば良いでしょうか?
何故大字小字と言うようになったかについてですが、私の素人推測では、上記のように併合を繰り返しているうちに大小の区別がついたものですが、他方明治の初め頃には毛筆で書いていたので、太字で書くか細字で書くかの区別もできて簡単だったことで始まったものと思います。
大字小字に関しては後にムラと邑の違い、集落の単位などで、もう一度書きます。
地と地番の関係に戻りますと、もしかしたら、法律上の慣用的表現は、地番などない時代が長かったので「地」概念が先に発達したものを、今でも使っているだけかもしれません。

寄留簿1と本籍3

戸籍制度が始まった当初における人の居場所による特定は、安定した住所の場合にはそこで戸籍を作り、(先祖まで辿って行くとどこまで辿るのかの議論になってしまうので現住所で作成したことを、February 17, 2011「宗門人別帳から戸籍へ」のブログで書きましたし、22日のブログで紹介した本でも、戸籍簿は住所登録台帳であった趣旨が書かれています。)戸籍を作るに足るほど住関係が安定していない場合には寄留簿として登録する二本立て制度として始まったものと思われます。
この頃には、まだ法制度自体がなく西洋法で議論されていた「住所」と言う概念を論じる必要もなかったし、まだ知らなかったからでしょう。
23日に書きましたが西洋では国際管轄の基準として住所が古くから論じられて来たのですが、我が国ではそんな必要はありませんでした。
後に紹介しますが、寄留に関する太政官布告が壬申戸籍の布告の直後・・同年に出ています。
2本立ての場合、寄留地(仮住まい)は本来の住所ではないので、親の戸籍のある場所・本来の籍のある場所(あるいは帰省地)の記載が当初から寄留簿に決められていた可能性があります。
人別帳を発展させた戸籍簿にはそこがまさに自分が登録した、周囲が認めた場所ですから、そこ以外に本来の籍を書く余地がなかった(22日に「戸籍基本先例解説」の本を引用したように明治31年から本籍記載が始まった)のに対して、寄留簿が出来た最初から寄留簿には親元の戸籍のある場所が、本来の籍=住所のあるところ=本籍として、書かれていたと見るのが合理的です。
江戸時代末までは都会に追い出された子供は結婚しないで死んで行くのが普通でしたし、だからこそ人別帳から除籍しておいても行った先で子孫が増える訳ではなく、大きな間違いではなかったのです。
(行った先で棟梁になったり俳諧の宗匠・剣道場の主になるなどして成功していれば、そこで所帯を構えるのでそこで人別登録の対象にされます)
仮に妻帯出来て一家を構えられるほど成功して根を張っていれば、明治の初めにそこで戸籍が編成された筈です・・そこまで行かないで除籍されっぱなしでフラフラしている単身の息子が故郷の親の戸籍に入ったのですから、最初は出て行った子を戸籍に残すようになっても大したことがなかったのです。
(今の核家族とほぼ同じで・・子供が成人して出て行ってもまだ不安定な場合、住民票を親元に残したままの人が多いのと同じです。)
元々江戸時代まで経験では子孫が際限なく増えて行くことを想定していなかったので、戸籍制度を始めた時に出て行った子まで記載していると、子々孫々まで増えて行った場合にどの段階で分離するかの自動分離システムが制度内に用意されていなかったことが、戸籍制度を機能不全になってしまったと言えます。
明治になってから近代産業が興り正業に就ける人が増えて来て、そのほとんどが妻帯してあるいは女性は結婚出来て、その子までもうけるようになって来ると弟らの嫁や子供まで戸籍に書き込むようになって来るので、(明治も20年前後になってくると)親が死亡して長男の世代になると甥姪まで戸籍に残ってしまうので戸籍簿の規模が大きくなる一方となります。
本来は、子世代が結婚までして更にその子の世代まで擁するようになれば、そこでの生活が安定している・寄留とは言えないと見るべきですから、実態に合わせるならば本来はその時点で子世代戸籍の分離・・新戸籍編成をして行くシステムに改正すべきだったでしょう。(戦後一般化された3代戸籍の禁)
戸籍制度を始めて見ると構成員が増える一方になったのですから、どういう場合に分離するかの戸籍制度の改正・検討が必要となって行ったのですが、ちょうど住民移動が激しくなって来たのと軌を一にして、伝統的価値観・集落共同体意識崩壊が進んで来たので、これに対する守旧派の危機感が強まって行きます。
これが「民法出でて忠孝滅ぶ」の大論争に発展し、旧民法施行延期のエネルギーに発展するのです。
反動として大きな家の制度を強調する運動が強まって来た状態下で、それに油を注ぐような3世以降分離するための改正が出来なくなってしまったのではないでしょうか?
その結果、戸籍簿を際限なく膨らませて行き重たくなった転籍行為に変えて寄留簿の方を膨張させて行く・・本来の住所変更まで寄留として受け付けて行ったので、本来・国民の住所把握を目的としていた戸籍機能が寄留簿に取ってく代わられてしまったのです。
寄留者用にできた本来の住所・籍のある場所=本籍・・親のいる場所の意味から、住所の安定している戸籍筆頭者がその後移動したことによって元々戸籍のあった場所・・本(もと)の籍=「本籍」と言う観念的な場所が必要となって行ったと考えられます。
(この場合、本籍には誰もいないことが想定されるので、観念的な場所になります。)
本籍と言うと何か有り難い本物のあるところのイメージですが、実は本物というより元「もと」を現すのに「本(もと)」と言う漢字を流用していたに過ぎません。
今でも神戸には元町が存在しますが、殆どの都市では元町と書かずに本町と書いていますが、(千葉にも本町とか本千葉がありますが、嘘の町などあるべくもありません)元々からの町というよりは、本町と言った方が何となく有り難く格式が上がるような気がするのでこれが流行しているに過ぎません。
「本」と言う字は苗字で見れば分るようにほとんどが「もと」と読むのですから、(橋本、宮本、坂本、松本、榎本あるいは旗本などなど・・枚挙にいとまがありません)ホンとして多く(昔からないと言うのではなくあったとしても例外的で)使うようになったのは最近のことだと分ります。
昔からの用例は本当の旗とか、本当の宮だと言う意味ではなくその根本(もと)と言う意味であったことは、その熟語から明らかです。
話を戻しますと、本籍概念は元々寄留地から見れば本来の戸籍のある場所と言う意味から始まった外に、戸籍がカラになってくるに従い元・本(もと)の登録地=本籍地と言う記載が一般化して行ったものと私は推測しています。
この結果、今では本籍と言うと意味のない・・実用性がないものであることから却って何か意味不明な有り難いもの・・先祖のルーツでもあるかと漠然と思っている方が多くなったと思いますが、最高に遡っても明治初年に先祖が住んでいたことが分るだけのことで、それ以上のことは分りません。

戸籍と住所の分離2

住所の不安定な人・寄留者だけが(今で言う「実家・帰省先がどこそこです」と言うのと同様に)本来の籍=「本籍」と使っている時には、本籍は普通の言葉だったのですが、戸籍地にいる筈の実家自体が移動・本来の住所自体が移動した後も方便として新たに移動した住所を・・仮の場所に過ぎないとして届ける習慣が一般化してくると、新住所地と戸籍記載場所の不一致が多くなって来ます。
この段階で住所と本籍の分離が始まったと思われます。
住所不安定な寄留者のごとく、本来一家を構えている人まで「ここは本当の籍ではない」・・ひいては本来の籍はどこそこにあると言う言い方・・観念が発達したのではないでしょうか?
憶測をたくましくすると戸籍変更届があると、「寄留にしておいてくれませんか」(・・そうすれば戸籍の作り直しがいらないので・・・)と言う役人の都合による方便が一般化して来て、安定した住所のある人全員にまで、(本来は郷里を出た寄留者だけだったのが)本籍を記載するようになった始まりのような気がします。
住所変更の場合でも、住所寄留として届ければ戸籍を作り直さないで良いとなった段階から、住所の外に別に寄留者同様にどこに本籍があるかを書く・・(寄留者だけではなく)国民全部に本籍が存在するのが原則とするようになったと思われます。
ところで戸籍簿に本籍が記載されるようになったのはいつからかまでは、文献では調べきれないので、以下は憶測によるしかないと19日のブログで書いて以来、推測に基づいてこうなって行った筈式の文章を書いて来ましたが、2月21日、月曜日に少し時間があったので事務所の本で調べてみました。
いろいろ見ているうちに日本加除出版昭和54年発行、村上惺著「戸籍基本先例解説」を見ていましたら、50ページに
「戸籍の様式中に本籍欄が設けられたのは明治31年式戸籍からであり、それ以前は戸籍簿には住所を記載し住民登録としての性格をもたせ、人の身分に関する事項のみならず宗教、刑罰に関する事項等行政施策に供しうるものを登載していた」
とあり、同48ページには、
「本籍の概念は壬申戸籍以来存在していたわけであるが、壬申戸籍及び明治19年式戸籍は住民基本台帳としての機能を果たしていた。ところが社会経済の発達とともに国民の本籍と必ずしも一致しなくなったことから、明治31年に施行された戸籍法は、国民の身分登録簿としての性格に変革して来た。その後大正3年戸籍法の施行(大正4、Ⅰ、Ⅰ)されたのを機会に寄留法(大正3・3・31法27号)が新たに設けられ、本籍と住所との関係が名実ともに分離された。
従って、大正3年戸籍法施行以後は戸籍の索引機能として本籍を営むに過ぎないものとなったわけである。」
と書かれています。
ま、これまで推理に付き合っていただきましたが、推理を楽しんで来た結果とこの著作の意見とはほぼ100%一致していまることが分りました。
上記に書いてある壬申戸籍当時から本籍があったと言う点は、同時に始まった寄留簿には、帰省先・本籍を書くようになったであろうと言う推測に一致しますし、他方で戸籍簿自体に本籍を書くようになったのは、明治31年式戸籍からであると言うことは、この頃までに戸籍移動をやめて寄留届けが流行するようになっていた結果とする推測に一致します。
ただし、この引用部分は著者の意見であって、そこに条文まで引用されていないので事実か否かまでは分りませんが、戸籍の専門家が書いているので、ま正しいと見ていいでしょう。
今でも何代か続いた田舎の家が本籍地と一致していることが多いのですが、これが今や例外扱いのように思われていますが、元は住所地で編成していた名残です。
戸籍編成が始まったときは住所地で戸籍を作ったので戸籍記載場所と住所が一致し、不一致は寄留だけだったのが、明治31年時点では戸籍記載場所と住所とが分離するのが普通になって行ったことになります。
本来の住所変更を寄留として届ける習慣が根付いて行くと本来の寄留と住所変更による寄留の区別をして受付しないと、国民の実態把握が出来なくなるので、何時の頃からか実情をふまえて住所寄留と本来の寄留に区分した受付簿が出来て来たのでしょう。

戸籍と住所の分離1

傍系の子供まで際限なく書き込んで行く戸籍編成方法では、傍系が将来分家して行かない限り大変なことになって行きます。
江戸時代までは傍系(外に流れて行った弟らが)が子孫を増やして行くことは滅多になかったので、明治4年(壬申戸籍制度を命じた太政官布告は壬申の前年・4年でした)頃には、(江戸時代までの経験の上に将来を見通して考えていたのでしょうが、)その辺は想定外だったかも知れません。
分家するには家産の分与が前提となりますが、(食うや食わずの庶民にまで家の制度を強制したので)分家出来るような財産家は滅多にいないので、芋づる式に傍系がぶら下がる一方になっていました。
しかも明治4年当時までの産業の大多数が農業でしたので無意識に定住を前提としていて、その後に経済活動の活発化によって戸籍記載場所=住所移動が頻繁に起こってくることも想定していなかったのではないでしょうか?
このように考えて行くと、そもそも律令制導入とともに入って来た戸籍制度は口分田・・農地の配給の前提として必要な制度であったことが想起されます。
配給を受ける農民が他所へ移動することは前提になっていないし、耕地面積が一定としたならば、一家の人口が際限なく増えることも前提になっていません。
口分田・耕地配給制度は新田開発がない限り・・今で言えば分家して行かない限り無理な制度でした。
これが新田開墾に連れて私有地が増えて行き、班田収受法が崩壊して行った原因でした。
明治の戸籍制度は、耕地配給と関連がなくなっているので、いくら構成員が増えても、移動があっても良いと思ったかもしれませんが、DNAは争えないと言うか、元々移動前提の制度ではなかったので戸籍制度が重たくなり過ぎて、移動が激しくなるとついて行けなくなったと言えます。
戸籍制度は、戸籍=住所であり、それ以外は寄留地とする2段階制度で始まりましたが、戸籍と住所の分離が始まったのです。
浮浪するためではなく正規職業のための住所異動が頻繁になり、しかも戸籍簿が大部になって行くに連れて、住所移転=転籍の度に戸籍を書き換えるのは実務上困難・・現場から悲鳴が聞こえそうですから、転出先を「寄留として届けてくれないか」と言う窓口指導が多くなったように思われます。
寄留届けなら戸籍全部の移動ではなく、移動・寄留者の名簿登録だけですみますので、元の戸籍役場から送ってもらう資料もその関係者だけの一部証明で済みます。
こうして、人が移動しても戸籍の場所を滅多に動かさない習慣が根付いて行き、元は現住所で編成していた戸籍簿が、その後の住所・生活の本拠移転には対応しなくなった・・・戸籍記載場所と住所(寄留と称し)とは別にする運用・・制度が定着し始めたものと思われます。
何回も書いていますが、明治初年の戸籍作成当初は現住所と戸籍記載場所が一致していたのでしょうが、本当は住所=戸籍移転であるのに転籍手続きが大変なために届出上は学生の下宿先のような「寄留場所」とする便宜的届出習慣が一般化してきました。
その結果、カラになった戸籍記載場所と(実質的現住所)である寄留地と本来の仮住まいである寄留地の三元化になって来て,戸籍のある場所を(下宿しているような寄留者でもないのに)本籍と言うようになったのでしょう。
寄留届け出は江戸時代までの無宿者の受け皿として始まったので、寄留者にとっては本来の籍のあるところ・・親元の戸籍記載場所を本来の籍=本籍として届けていたと思われますが、(この辺の推測は18日のブログ冒頭にも書きました)この場合には本籍には親兄弟がいる前提でした。
本籍地は、親元を離れた寄留者・・臨時出先にいるもののみが、使う用語だったのです。
ところが一家そっくり引っ越した「住所」の移動まで寄留届出で済ますようになると、戸籍記載場所には誰もいなくなります。
この運用が定着し始めた時点で戸籍簿記載場所と本来の寄留との中間概念である住所と言う熟語が生まれて来たのではないでしょうか?
・・寄留の中には本来の寄留と生活の本拠=住所であるが、方便として寄留としているものがあること=住所寄留が一般化して来たので、その定義として本来の寄留と区別するために前々回(19日)紹介したような「生活の本拠」となったように思えます。
そのような区分け・・住所の定義が何時頃から生まれたかの関心ですが、現行民法財産編は明治29年成立ですが、これまで民法典論争で紹介しているように、反対運動が強かったために一回も施行されずに終わったのですが、旧民法が1890年(明治23年)に国会を通過・公布されています。
この旧民法の条文に既に住所の定義が出ていたかを知りたいのですが、図書館に行って調査しないと旧民法の条文をネットでは見られません。
他方で、戸籍記載場所が、「何とかの郷宮ノ前誰それ」程度の表記時代には、少しくらい家屋敷が移動しても同じままで良かったでしょうから戸籍表記が地番表記に変わってから、問題が大きくなったものと思われます。
戸籍の規模が次第に(傍系に子供が生まれるなど)大きくなって行った時期と地番表記が進んだ時期・・近代化が緒について住所移動が盛んになって行った時期を総合すると明治15〜20年前後がその境目だったかなと言う直感で(データにあたれないので)書いています。
生活の本拠たる住所概念が確定するとこの定義によって寄留との区別は分りますが、本籍との関係は不明のままです。
元々本籍は寄留者のために親の住んでいるところを現した用語ですから、親の住所の定義が出来てしまえば、戸籍の記載場所=本籍自体存在意義がなくなる運命だったのです。
このように戸籍記載場所には実態がない・・「空」になると、却って本籍と言う単語が何か価値のある言葉のように一人歩きを始めた印象です。
ちょうど家の制度が構想され始めた時期とこれが一致したので、「空」である分よけいに何か有り難いような・・神社など我が国ではは、何にもない空間が有り難がられる傾向がありますが・・特別な観念になって行ったのではないでしょうか?
何か有り難いものがあるかと思って家の制度の本拠地である本籍に行ってみると、風吹きわたる草むらだったと言うことになります。

本籍2(寄留の対2)

 

壬申戸籍と言っても、壬申の年から内容が変更されなかったのではなく、前回書いたように書き方や書く事項や枠組みを後日造るなど少しづつ改正されて来たので、何時から本籍表示をするようになったのかは定かではありません。
元々本籍概念は、後に書くように寄留簿から発達したものと言えますので、戸籍制度が出来た当初からある筈がないのです。
仮に壬申戸籍の写しが手に入ってもそれが何時作成したものかによって書式が少しずつ違うものですし、しかも地域によって中央の通達通り出来るようになるのは10年単位の差があります。
後に昭和22年の新戸籍法による改正の期間を紹介しますが、大家族単位から核家族単位の戸籍に作り替えて行くのに昭和40年代初頭までかかっているのが現状です。
ですからある壬申戸籍の写しが入手出来たからと言って、どの地域で何時発行のものかによる誤差があるので、中央からの指令が何時あったかを特定するのは困難です。
現在の戸籍ですと昭和何年法第何号・あるいは政令何号による昭和何年何月何日新戸籍編成と書いてあるので、これは何年前の法に基づいて何時書き換えたのかが分ります。
細かい改正の経過を辿れば何時から「本籍」記載事項が追加されたのかが分るでしょうが、大きな法の改正ではなく今で言えば書式変更の通達みたいな下位の文書ですので、これを入手する・・・調査能力が私には今のところありません。
事務所の事件に関係あれば本格的に調べますが、繰り返し書いているように、このブログは余技ですので、そこまで専門的に調べる手間ヒマかけられません。
そこで以下は私の推論にかかることになります。
戸籍編成時に記載した本拠地=住所でも、その後移動する人も出てきますが、当初の戸籍作成後移動した時に戸籍記載場所の変更届出・・・戸籍変更は届け出で足りるとしても、引っ越しの都度変更届を出すのが面倒なので放置する人が出てきます。
こういう人のために同じ村内でも本籍地と違うところに住所を定めると、後の大正4年施行の寄留法では住所寄留と言う登録方法が出来ています。
(このとき創設したと言うことではなく、既に法がそこまで出来るような実態が進んでいたと言うことでしょう)
農家など田舎の場合、自宅を建て替えるときに、家を壊して同じところに建てるには建築中の住まいに困るので、すぐ近くの別の土地に新築する事が多かったのですが、この場合、大正3年成立施行4年の寄留法では本籍移動しない限り住所寄留として届けなければならなかったのです。
寄留と言う意味からすれば、仮住まいのことですから、安定した生活の本拠地を意味する住所に寄留を合体させた「住所寄留」の届出強制自体論理矛盾です。
明治31年施行の民法自体に住所とは生活の本拠を言うと記載されていたかどうかが分りませんが、今手元にある昭和8年版の民法条文によれば現行法同様に、21条に「各人ノ生活ノ本據ヲ以テ其住所トス」)とあって、少なくとも戦前から現行法と同じであったことが明らかです。
なお、2002年版六法の条文(4〜5年前の口語体への変更前です)も手元にある(自宅においてある)のですが、これをみると同じく21条で、文言もそっくりで違いがあるのは「本據」の據が当用漢字「拠」に変わっているだけです。
住所と言う基本概念が20年や30年でこまめに変わる必要がないので、明治29年の民法制定・・施行は31年当時から同じ定義があったと見るべきでしょう。
(上記壬申戸籍の記載条項の変遷をこまめに追跡出来ないのと同様に、この条文が明治31年施行当時から一度も変更されていないかまでは上記のとおりの推測の域を出ません。)
仮に変更がなかったとすれば、大正4年施行の寄留法の住所寄留と言う区分は、基本法たる民法の定義と矛盾することになりますが、民法制定後約20年も経過していますので既に家の制度・・本籍概念・重視が一人歩きし始めていて、このために無理を重ねたのではないでしょうか。

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