マイナス利回り2(消費信用1)

食費等の純然たる消費信用では借りた資金から利潤・メリットを生み出さないのですから、(種モミを貸せば秋には何倍もの収穫が期待出来ますが、その日その日に食べてしまう食糧として、食用米を貸しても秋に米粒が増えて戻ることはありません)使ってしまった物を満額返すのさえ大変ですから、さらに金利を上乗せして回収するのは無理になります。
投資資金ではなく消費目的の資金を貸す方から見れば、信用のない・・元々返すのには無理のある人に貸すので焦げ付きリスクが高くなることから、市場原理からすればリスクの高い分金利を高くしないとペイしません。
スペインやギリシャ国債の値下がり=金利高騰を見ても分るように、資金の必要に迫られているところは苦しいので高金利を払うどころではないのに、苦しいところに限って高金利になります。
南欧諸国の資金需要は(付加価値を生み出す)新規投資資金需要ではなく、借換債のための資金需要ですから消費信用化していることによります。
消費信用として貸す以上はリターンを求めるのではなく、万物は無価値化するという原理に戻って、社会保障・恩恵的運用・・「元本の何割かだけでも返してくれたら良いですよ」と言う運用が必要です。
市場原理と万物の価値が減少する自然界の原理とは、本質的に矛盾関係になります。
ここ10年近く新自由主義経済悪玉論(負け組を作るな!と言うアッピール)が盛んですが、この主張者の多くは旧社会党系人権運動家に多いことから見ても、弱者の空間に市場原理を持ち込む領域の広がりに危機感を抱いているからかも知れません。
弁護士で言えば消費者系運動家がこの範疇に入るのは、こうした分類をすれば理解可能です。
現在社会は資本主義的利潤追求システムと個人間の情義に基づく(原則無償)システムが共存する社会ですから、どちらに比重をおくか・・その境界移動の激しさに対する反発とも言えます。
里山が荒廃して行き・山奥まで人が進出して熊などの生息域が荒らされ、動物のすみかがなくなりつつあることに対する危機感と似ています。
1994年のアニメ映画「平成狸合戦ポンポコ」を見たことがありますが、人権活動家と里山保全・自然を守れ関連活動家と心情的にかなり重なっているように見えるのは偶然の一致でしょうか?
法の世界ではご存知のように個人間の利潤追求を目的としない社会関係を律するのが民法で、飽くなき利潤追求・・商的世界(会社関連条文が商法から独立して6〜7年前に独立の会社法になりましたが、本籍は商の世界です)を律するのが商法世界です。
民法では委任でも貸金でも特約がない限り無償(無利息)が原則ですが、商の世界では以下に紹介するように特約がなくとも、何かをすれば必ず報酬請求権があり、お金を借りれば金利がつくことが法で決められている、まさに市場経済を前提としています。

商法
(報酬請求権)
第五百十二条  商人がその営業の範囲内において他人のために行為をしたときは、相当な報酬を請求することができる。
(利息請求権)
第五百十三条  商人間において金銭の消費貸借をしたときは、貸主は、法定利息(次条の法定利率による利息をいう。以下同じ。)を請求することができる。
2  商人がその営業の範囲内において他人のために金銭の立替えをしたときは、その立替えの日以後の法定利息を請求することができる。

最近は何もかも商的分野(親子で解決していた介護でさえ他人に頼んで対価を支払う形式が主流です・・介護自体が商行為という意味ではなく対価形式になったという意味で商「的」と書いています)が増えて来て無償行為が減ってきました。
まさに民と商の精神境界・領域が大きく変わりつつあり、民(無償行為)の分野が浸食されて大幅に減りつつある社会と言えます。
平和な江戸時代に商人層が発達しましたが、彼らが最下位で遇されていたように、利潤目的の行為は近代社会になって生まれて来た新たな行動パターンで、我が国の過去の何千年の道徳規準にはない価値観ですので冷遇されていたことになります。
明治以降列強に伍して行くために国家自体が貿易の主体となって(しかも儲けない限り赤字では大変です)行くしかなかったのですから、商(儲け追及)を(幕府もお金の重要性を知っていましたが、飽くまで表向きは重視しない態度でした)正面から重視する価値観に転換されたことになります。
その後150年近くもたっているのに、商・利潤追求行為を蔑む根強い気風があることは今でも変わりません。
我が国では、未だに物造りに対する価値・ウエートの強いことと関連があるかも知れません。
愛情をもっとも期待している介護についてまで対価関係になって来ると(道徳観の違いだけではなく)心に隙間が出来るので、無償のボランティアが発達して来たのはその穴埋め作用でしょう。
東北大震災で無償の助け合い活動が多くの感銘を呼んだのは、失われつつある無償行為への挽歌かも知れません。
今後交際相手のない独身が増えて来て、兄弟姉妹もいない中高年者が増えると完全無償の人間関係が激減して行きます。
ペットを中心にした疑似愛情関係・・人間同士の新たな関係が増えて来るのでしょうが、こればかりはボランティア頼りというわけには行きません。

全食品検査3(国民の信用)

 事実上(法的には出荷制限解除された後・あるいは出荷制限しないための風評被害)の買い控えによる地元・国内業者の損害は、原発事故による損害にカウントされなくなるのでしょうが、法律論は今後の論争に待つとして(被害相談を受けることの多い弁護士では、自主避難等の被害も損害に含めるべきだという立場の人が多いでしょう)、国民経済的に見れば、こうした損害もカウントした上で原発の方が安いかどうかを議論すべきです。
風評被害であれ、何であれ、結果的に食品関連の輸出が阻害され、逆に輸入が増えている事実は、その分は原発事故による我が国の損害です。
今日の日経朝刊5ページによれば、チーズ等の酪農製品の輸出品については海外での輸入規制が特に厳しくこれがまだ(と言うことは10月7日の記事を書いたとき現在ということでしょうか?)続いていて、今年4〜6月の食品輸出は大幅に落ち込んでいると書いています。
中国の高速鉄道大事故で原因が究明されないままの運行再開に不安でも、中国国民には他の交通手段を選ぶ選択肢がないので、(普通車を申し込んでも「売り切れ」と言って断られるようです)乗らざるを得ない・・満員が続いていると報道されますので、国民に信任されていると中国政府が強弁しているのと同様です。
満員の定義に関するある本によると実際に乗って見ると乗車率は2〜3割が漸くらしいですが、中国ではたとえばある座席に東京横浜間に一人乗り、京都大阪間に一人乗るとその座席は200%の乗車率と計算しているらしいのです。
ただし、中国政府も当初は強気でしたが(客に敬遠されてガラガラになったからでしょうか?)最近では運行便数を大幅削減し、スピードも落とすようになったようです。
政府の方は牛乳や豚や鶏の検査をしなくとも、国民が黙っているし、仮にどのような批判が起きようとも、牛乳の場合全国ブレンドしてしまえば国民は選べません。
報道規制と同じ現象・結果です。
政府・業界は少しでも日を稼ぎ(放射性物質の飛散は水素爆発直後からはかなり収まっているので)、今年の3月以降7月頃まで現地の草や餌を食べた鶏や豚を出荷してしまってから検査すれば、結果が出なくなる可能性を期待して月日を稼いできたのでしょう。
そして国民の批判が強くなってくれば心配がなくなった頃に「そんなに心配なら・・・」と検査して「結果は何ともなかった」と発表して「安心してください」と言う方針だったかも知れません。
肉牛だけの検査はおかしいのではないかという意見はこのコラム(このコラムは稲藁汚染の報道のとき以来疑問に思って書き始めていたものですが、先送りになって今になってしまったので・・・)以外寡聞にして聞きませんので、政府・業界はウマくやり過ごしてしまったようです。
仮に牛乳その他畜産類が汚染されていたとしても、3ヶ月か半年で汚染食品がなくなるならば、(一生あるいは4〜5年続けて食べ続けるのでないならば)その間福島付近の野菜や卵を食べ続けても(汚染率にもよりますが低濃度汚染の場合)トータル摂取量は大した害がないのかもしれませんが・・・。
政府が恣意的に出して来る暫定基準値の信用がないので、どこまでなら安心かの目安が分らない結果、国民はゼロ以外は嫌だという心理になってしまっています。
原発事故発生によって、これまでの政府・電力業界による安全神話がまるでインチキだったことが白日に曝され、(想定外の津波による被害という当初の宣伝も虚偽だったことが分ってきました・・あちこちのパイプ破損や電柱網の地震による寸断が基本的な原因で冷却装置がいつまでも起動できなかったに過ぎません・・今でも(8月頃の情報です)パイプ類の補修が完成していない様子です。)その後の暫定基準値や避難区域の設定等々信用を失う場当たり対応が続いてしまいました。
原子力行政を考えるにあたっても、何事も国民の信用の上に政治が成り立っているという簡単な原理に立ち戻るしかないのではないでしょうか?
風評被害が起きるのは、政府信用性の低さに比例することになりますから、風評被害発生を如何にも風評で行動する国民が悪いかのように言いますが、風評の広がり程度は政府信用・原子力政策に対する信用度のバロメーターです。

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