東日本大規模地震3(千葉の場合)

一般論を別にして今回地震と津波による千葉の被害を少し紹介しておきましょう。
全国版では千葉の被害はマイナーな被害になるので殆ど報道されていませんが、この一連の大地震の一つとして千葉でも銚子と鹿島の沖合を震源とする地震が発生していますし、津波も九十九里浜方面に押し寄せています。
テレビ等に出ない地域でも・・旭市の飯岡ばかりではなく大分南の東金辺りでも津波にあったらしいです。
月曜日午前10時に事務所来所約束の依頼者と打ち合わせの途中で、ふと気がついてあなたのお姉さんの家は海岸に近いと聞いていたがどうでしたと聞いてみました。
その姉をテーマにした相談だったからです。
聞いてみると相談者の家はもっと奥ですが、姉の家は九十九里浜の海岸から300メートルのところにあるらしく、その辺までは津波が来たそうです。
どこの海岸でも同じでしょうが、砂浜がある程度陸に向かって高くなっていてその終わりに九十九里の場合、堤防みたいな道路が走っています。
一回目の津波はこの堤防で戻って行ったらしいですが、追っかけて来た第2波とこれが合流してもっと高い津波となってこの堤防を乗り越えてはいって来たそうです。
ただ九十九里浜では原則として防砂林が何百メートル単位幅で植えられているのでこれで波の勢いが弱まって、相談者の姉の家の当たりまで押し寄せてらしいのですが、ひたひたと来る勢いであったので家が流されるような被害がなく、みんな今は後片付けで忙しいだけとのことでした。
浸水は川沿いに入ってくる分もあったようで、川沿いの地域は大変だったらしいですが、その人としては直接的な経験ではないらしく抽象的な話でした。
ただ、相談者の姉の家の直前までは少し低い土地なので、土手を超えて入って来た水が引かないのでそこではまだ浸水したままになっているそうです。
私は千葉で何万世帯の停電と報道されているのを見ると県内のどこで何が起こっているのかよく分っていなかったのですが、事務所のすぐ近く・・車で1時間以内の場所から朝1番で予定通りに相談に来た人の生活空間で被災しているのには本当に驚きました。
上記のとおりの被災が普通の時にあれば大騒ぎですが、この大地震にとっては被害が少ない方ですので、マスコミ報道から漏れているのです。
次に計画停電の話になりましたが、その地域では当然のことながら地震以降停電したままらしく、朝トイレに行って便座が冷たくてびっくりしたと経験談を語ってくれました。
千葉市内の埋め立て地には、マンション群が立地していますが、(震度5前後の地震が短時間に繰り返し襲ってきましたので)いわゆる液状化現象で水道管が破裂して断水事故に見舞われていました。
千葉では、その他にコスモ石油の爆発炎上などの被害がありますが、(昨日は火曜日で仕事開始2日目ですが昨日来た人は松島近くの多賀の城出身とのことですし、毎日のようにそれなりの関連のある人が来ますが・・)今のところ身近な関係者がまだ来ていないので、報道以外の具体的な話は知りません。
電車運行停止の被害は昨日書いた通りですが、私のような意見が多かったのか昨日は電車がかなり動くようになりました。
出来る範囲で出来ることをすると言う気概が鉄道関係者に乏しかったのではないでしょうか?
あるいは政府の姿勢・・産業の復興・維持よりは民生重視の民主党の姿勢が問題だったかもしれません。
ちなみに私の事務所に関しては、自宅から歩いて行ける距離ですので自分が鉄道運休の被害にあったので文句行っているのではありません。
私の事務所では途中で停電すればそのときのこととして、(パソコンが使えなくとも記録を読んだりすることはいくらでもあります)月曜日から仕事を始めていますが、幸い事務所のある地域は計画停電の対象外になっているようです。
自分の被害で起こっているのではなく、100出来ることを確実性のある80しかしない、80出来ることを60しかないと言う繰り返しでは日本経済が駄目になってしまうことを恐れているのです。
実際こうした月曜日の社会全体の動きを見て火曜日には株が暴落しました。
これは地震自体の被害に対するものよりも国民がこれを理由にサボタージュを始めたことに対する冷静な批判の結果と言うべきです。
食品であれ、燃料であれ、生産力から見て関東圏の食料がなくなるわけがないのに入荷しなくなっている・・作っても売れなかったらどうする・・仕入れても売れなかったらどうすると言う安全思考ばかりが先行して縮小再生産に陥っているからです。
これを見れば株価が暴落するのは当然です。  

東日本大規模地震1

 

(1)大地震被災者へのお見舞い
今回の大規模被災後、津波前の市街地が池や海あるいは干潟のようなってしまった惨状を見ると敗戦後の東京等大都市が焼け野が原になった写真よりもひどい状況で、言葉も出ない状態です。
しかもこの惨状が海岸線約200kmに及ぶのですから、その救援と言っても容易ではありません。
九死に一生の難を逃れた被災者の方々の肉親や身近かな人を失った悲しみだけでも想像に絶するものがあります。
根こそぎ流された状況から見ると自営業者だけではなく、勤務先であったであろう地元の事業所までなくなってしまい、被災者のほとんどが生活の全手段を失っていると思われるので、(私の家族も私が赤ちゃんの頃に東京大空襲で焼けだされました)緊急事態が終わった後には居住地の変更や職種転換を含めて大変な苦難が待ち構えていることを考えると、もしもこれが自分であったなら・・と想像するだけでもくじけそうな気になるのは私だけではないでしょう。
しかし、敗戦時と違って列島全部で見れば大多数の地域が被害を全く受けていないうえに、国力は敗戦時の比ではありませんから、国全体での助け合いの精神・工夫次第となります。
被害に遭われた人々と心を一つにして、文字通り同胞(おなじはらから)としての心で、彼らの再起にみんなで暖かく息長く協力して行きたいものです。
彼らの居住空間の復活とその後の息長い職種転換を援助する方策の充実・・それには国民の多くが支援する心を維持して行く必要があるでしょう。

(2)大地震後の当事務所の執務体制についてのお知らせ

事務所自体は、書類等が散乱したリ食器類がほぼ全部壊れた被害程度で今回の地震によって特段の被害を受けておりませんので、通常通りの執務を予定しております。(当面お茶を出せませんのであしからず)
しかしながら、計画停電等が実施される運びになっているなど、インフラ面での制約がいろんな方面で生じることが予想されるために、(さしあたりお弁当が配達されるかも分らないし・・外食産業もどうなるやら)月曜日(本日)以降、場合によっては予定が変更になることもあり得ますので、当面は予め電話確認等の励行をお願いします。
また、当事務所が一定時期までに行うべき事務処理が少し遅れる場合もあり得ることをご了承下さるようにお願いします。
ちなみに3月14日・月曜日の事務所の停電予定時間を調べると事務所付近では停電計画がないようですのでご安心下さい。
(毎日予定が変更されるようです)
計画停電時間帯はネットどころか電話もファックスも繋がらないことになるのかな?
真っ暗闇での仕事もできないのでみんな早く家に帰れて身体には良いのですが、(街灯がついていないので真っ暗な道を歩いて帰るのかも・・いろんなことが未体験ので想像がつきませんが)せっかく早く帰っても家の中が真っ暗でお風呂にも入れない(ガスがリモコン・電気で点火する仕組みですから)とは驚きです。
私の自宅の場合、4時間近くもテレビもなければ新聞も読めない暖房もない真っ暗な生活は今のところ想像を絶しています。
今の生活は電気に何もかも頼っているのが分ります。
電気のない体育館で避難している人たちは大変だと思っていましたが、思いがけないお裾分け・・共感の時間が与えられたのは、天の配剤でしょうか?

郡区市町村制

 

明治5年の大区小区制は地域の実情(歴史経緯など)を無視して人口数だけを基準にフランスの制度を性急に導入したもので実情に合わなかったことから、明治11年には元の郡区町村制に戻り、名称も旧によることになります。
第4条の区制は今の東京や政令市同様に人口多数の場合人工的にいくつかに区切る趣旨で、大都会にだけ区制が残りこれが現在の東京23区や政令市の区などの先祖になります。
郡区町村編制法

明治11年太政官布告 第17号  1878(明治11)年7月22日付

郡区町村編制法左ノ通被定候条此旨布告候事

第1条 地方ヲ画シテ府県ノ下郡区町村トス
第2条 郡町村ノ区域名称ハ総テ旧ニ依ル
第3条 郡ノ区域広濶ニ過キ施政ニ不便ナル者ハ一郡ヲ画シテ数郡トナス(東西南北上中下某郡ト云カ如シ)
第4条 三府五港其他人口輻湊ノ地ハ別ニ一区トナシ其ノ広濶ナル者ハ区分シテ数区トナス (※)
第5条 毎郡ニ郡長各一員ヲ置キ毎区ニ区長各一員ヲ置ク郡ノ狭少ナルモノハ数郡ニ一員ヲ置クコトヲ得
第6条 毎町村ニ戸長各一員ヲ置ク又数町村ニ一員ヲ置クコトヲ得(※

明治初期には何もかもフランス方式で始まったのですが、形式的な大区小区制も実情に合わないことから徐々に修正されているうちに地方組織はドイツの地方制度を模範とする方式に修正されて行きます。
上記郡区市町村制への変更は大日本帝国憲法がドイツ(プロイセン)式にとして決着したのを分岐点として明治20年代中期頃から完全にドイツ式に変わって行く先がけ・萌芽だったと位置づけられます。
明治維新では当初いろんな分野でフランス式の制度・文明受容で始まったのですが、そのまま模倣するのでは無理が出て来ます。
明治10年代からあちこちで修正作業が進んでいたのですが、それでも明治23年に首の皮一枚で漸くフランス式を残して・・修正思想が有力になって来たので編纂作業中に我が国の習俗に合わせた条文にかなり変更していたのですが・・成立した民法典が成立後に大反対運動が起こって明治25年には施行延期されてしまいます。
(民法典論争についてはこれまで何回も紹介しています)
西南戦争が不平士族反乱の最後の事件になったように、民法典は社会の基礎的文化のしきたりを決めるものですから、この大論争はフランス式文明受容方向で始まった明治維新が、ドイツ式文明受容へ転換する象徴的事件・・トドメであったことになります。
民法典論争は明治25年に決着がついて施行延期が決まるのですが、これこそがフランス式文明との決別が最終的に決まった瞬間と言えるように思えます。
施行延期して出来上がった改正民法(現行法)については、大騒ぎしたにしては、内容的にそれほど変わっていないと言う意見が多いのですが、私のような半素人から見れば法典編纂の形式が大幅に変わっていることがすぐ目につきます。
この形式こそフランス式からドイツ式に変わった大きな特徴です。
ところで学派的に見ると、民法典論争はドイツ法学派とフランス法学派との論争だったのではなく、英米法学派との論争だったのですが、改正作業が終わってみるとドイツ法学に入れ替わってしまい、東大の学者層もフランス法系からドイツ法学者に入れ替わって行きます。
こうして第二次世界大戦後アメリカ系の学問が入ってくるまでは法学政治学に留まらず医学であれ、科学であれ、すべてドイツ系学者が幅を利かす時代になったのです。
明治5年に大区小区制を決めたときから戸長の仕事は戸籍事務だけではなくいわゆる末端行政事務を担当するようになりますが、このときは伝統に従って名主間の推薦による戸長でしたので、地方名望家が中心・・政治意識の高い地方政治家の卵でした。
上記郡区市町村制でも町村の長を戸長とし、戸長役場を設けましたが民選でしたから、従来通り地方名望家・豪農が就任する慣例でした。
戸長役場制度を設けても予算がないので、戸長の自宅屋敷を役場に併用する例が多かったようです。
彼らは末端の行政組織員でありながら地元利益の代弁者として政府方針に逆らう・・自由民権運動(・・今で言う野党的運動)の人材供給源にもなる矛盾した関係でした。
古代以来の草の根民主主義に馴染んで来た地方有力者にとっては、今後は中央集権制だからと言って専制的に上から押し付けてくる乱暴なやり方に不満を持ちやすい立場でした。
そこで、政府は1884年町村合併標準提示(明治21年 6月13日 内務大臣訓令第352号)に基づき、約300~500戸を標準規模として全国的に行われた町村合併。結果として、町村数は約5分の1に・・・平均5町村を併合して?約500戸に戸長1名を置く(連合戸長役場)制度に変更すると共にこの時に戸長自宅を役場に併用することを禁止して、地元に根が生えていない人・・生粋の官吏を中央から派遣出来るようにしました。
戸籍簿も戸長の自宅から役場管理に移しました。
環我々事件に関連して古い記録が必要なときに戸長さんの家に行くと出てくることが多いのですが、この時に記録を移さないで戸長自宅に残ったままになっている地域が多かったことによるものです。
ここでは法に従って戸長と書いていますが、依頼者の話では区長さんの家に行くと・・・と話す人が多いです。
(私自身もMarch 10, 2011「末端行政組織の整備(区制1)」で書いたように区長を何故家を現す戸の長と言うようになったのか理解出来ていません)
文字を見ないで理解している人にとっては、区の長だから区長と理解している人の方が多いのです。
政府の末端組織である事を貫徹させるために民選から知事の任命による官選・・忠実な行政官に移行(明治17年5月)して行き、それ迄の民選との妥協として一応推薦された中から選ぶ制度も残しました(以下の太政官達を見て下さい)が、徐々に我が国の草の根の民主主義が次第に窒息して行くのです。

明治17年太政官達第四十一号
 戸長ハ府知事県令之ヲ選任ス 
 但町村人民ヲシテ参人乃至五人ヲ選挙セシメ府知事県令其中ニ就イテ選任スル事ヲ得ベシ此旨相達候事

この戸長制度は明治22年の市制・町村制の施行(明治21年4月17日法律第1号)によって廃止される迄続きますが、市町村制に移行すると推薦の制度がなくなり100%サラリーマン・官吏になって行ったようです。
ただし、この法律の作り方は、市制と町村制を区別して事実上二つの法律のような条文構成になっていて、地方行政組織の長は官選化したとは言うものの、独立の法主体としての規定の仕方になっているようです。
(条文自体を今のところ入手していないので、本当のところは分りません。)

区制3

区と言えば今では東京23区や、政令指定都市内の行政区の専売特許みたいな印象ですが、特別な政策目的達成に合わせて人工的に作った区域と言う意味がその始まりでしょう。
東京都や政令市の区は特殊目的限定ではなく一般行政区域として存在しているのですが、これは自然発生的な政治単位・・集落とは違います。
小さすぎる集落を行政目的に合わせていくつか併合して区にしたのと同じ考えで、大きくなり過ぎた東京市街を管理しやすくするために人工的に区切ったのですから、その本質は同じです。
今でも残る選挙区や学区等は元々は特別な制度目的に応じて形成されて来たし、今でも歴史的要因を少しは加味しますが、基本的には行政管理しやすいように人口数で割り切って行く点は同じです。
東京23区に議会がありますが、政令市の区は行政の便宜のために区割りした地域センター同様で、区長は市長によって任命される下級吏員でしかありません。
区と言う漢字の意味は区切る・区分けする・・自然発生的な地域ではなく、自然にあるいは既に存在するものを人為的に細かく区切ることですから、当然それには区切る必要性・・目的があることになります。
一体のものを事業・施策目的に合わせて、必要な規模・区域に区切って行くのが区制の意味です。
従来の日本は各地各藩の連合体であって、・・幕府は戦国大名の筆頭としてヘゲモニーを握っていただけで、地域の意見を聞いてやって行く仕組みでしたが、明治政府は国のあり方として国は連合体の積み上げではなく一体である・一体化するべき思想を前提に、一体化すると大きくなりすぎる内部を区切って行く方式を考えていたのです。
これに一番近い・・地方ごとに政治主体のないのが専制君主制の中国や朝鮮の政体ですが、それでは進歩がないので絶対王制・ナポレオン帝政の歴史があるフランスに範を取ろうとしていたのです。
村八分に関連して村の意味を後に別に書いて行く予定ですが、我が国の「むら」は自然発生的なムレから来た言葉でしょうから、明治政府は中央集権国家に変革して行くためには、国内の地方行政組織が自然発生的集落の連合体では具合が悪いと思っていたようです。
自然発生的な集落では、意思決定が全員参加の寄り合い形式で決まり、ここで決まった内容・・地元意見の積み上げでその地域全体の方向性が決まって行くのが基本的思考様式ですから、上からの号令をしても各集落の納得を得る手順では行き届くのに時間がかかりすぎる上に集落の規模もマチマチですから、国家統一的施策の迅速な貫徹には無理があります。
いわゆる啓蒙的立憲君主制・中央集権国家制には不向きと考えたのでしょう。
実際、地方自治制に戻った現在では、何をするにも時間がかり過ぎて、世界の潮流に遅れを取るようになっています。
この点、元々王朝制の歴史しかない韓国では、何事も決断・実行が迅速です。
これは民主主義かどうかの違いではなく、草の根の寄り合いによる合議から積み上げて行く歴史があるかどうかの違いです。
中央集権国家化・・区制に戻しますと・・・明治初期にはフランス行政区域制度に範を取って今後は各地域を行政単位として再編成・区分けしようとして、郡町村制を一旦廃して合理的な大区小区制にしようとする思想が政府の主流でした。
歴史要因を無視して数字だけで割り切って行く方式を視覚的比喩すれば、・・複雑な日本庭園を、ベルサイユ宮殿やヨーロッパの幾何学的な庭園に作り替えてしまおうとするようなものです。
これを合理化と言うかどうかは別として、戸籍整備・義務教育制度構築を急いでいた政府は、さしあたり戸籍整備用の区と学区制から始めたともいえます。

区制2(中学)

元々江戸時代までの集落は、集落構成員が生存に必要な限度で営む水田灌漑設備の共同維持管理に必要な規模・・自然発生的な集落に過ぎず、何らかの政府の施策を貫徹する・行政に必要な単位ではなかったので、古代からの血縁中心集落のままで江戸時代まで変化せずに苦労がなかったのです。
近代国家になって政府が学校や上下水道・保険・医療その他政策実現に必要な行政単位としてこれを見ると、血縁を基本にした古代からの小規模集落では、対応しきれなくなることは明らかです。
行政単位としての市町村では対応しきれない分野に関しては、広域市町村連合や組合を構成しているのは今でも同じですが、(消防組合や広域上下水道組合や医療機関など)明治始めの集落は今の行政単位とは比べ物にならない小規模なものでしたから、行政単位を大きくして行くのは時間がかかるのと・戦国時代の豪族や国人層の連合みたいになって効率的ではない・明治政府の目指す中央集権国家向きではないので、先ず行政
目的別の区を作って行ったと思われます。
現在でも行政単位とは別の選挙区制や学区制その他が残っていますが、学区制を例としてみておきましょう。
元は江戸時代までの集落を基本にすると行政単位が小さすぎて(10数戸から数十戸の集落単位では)小学校を集落ごとに作れなかったから集落単位を超えて、おおむね500戸を基本として一つの小学校を作ったことから始まったことでした。
選挙区制も今では小選挙区ですが、それまではいくつかの市町村がまとまって一つの選挙区でした。
小選挙区制の今でも千葉市の例で言えば、千葉市の若葉区が佐倉市と同じ選挙区になっていて、緑区が市原市と同じ選挙区になるなど行政区域と選挙区は一致していません。
明治五年壬申七月太政官布告第214号で漢字仮名混じり文の優しい形で学問の必要なことを解き明かした珍しい布告がありますので、煩を顧みずそのあらましを紹介し、これを受けた明治5年8月の別冊の学区制を紹介しておきましょう。
勉強は自分のために必要なことであることを縷々述べた最後は自分でお金を出すべきである・政府に頼るなと言う諭しです。
「人々自(みづか)ら其身を立て其産(さん・しんだい)を治(をさ)め其業(げふ・とせい)を昌(さかん)にして以て其生(せい・いっしょう)を遂(とぐ)るゆゑんのものは他(た)なし身を脩(をさ)め智(ち・ちえ)を開(ひら)才芸(さいげい・きりょうわざ)を長(ちょう・まず)ずるによるなり而て其身な脩め知を開き才芸を長ずるは学(がく・がくもん)にあらざれば能(あた)はず是れ学校(がくかう・がくもんじょ)の設(もうけ)あるゆゑんにして日用常行言語書算(にちようじやうこうげんぎょしょさん・ひびのみのおこないことばづかいてならいそろばん)を初(はじ)め仕官(しくわん・やくにん)農(のう・ひゃくしやう)商(しよう・あきんど)百工(ひやくこう・しよくにん)技芸(ぎげい・げいにん)及び法律(ほうりつ・おきて)政治(せいぢ)天文(てんもん)医療(いれう・やまひいやす)等にあきんどしよくにんげいにん    おぎて至る迄凡人の営(いとな)むところの事学(がくもん)あらさるはなし人能く其才のあるところに応(おう・まかせ)じ勉励(べんれい・つとめはげみ)して之に従事(じゆうじ・よりしたがひ)ししかして後初で生を治め産を興(おこ)し業を昌にするを得ベしされば学問(がくもん)は身を立るの財本(ざいほん・もとで)ともいふべきものにして人たるもの誰か学ばずして可ならんや夫(か)の道路(どうろ・みち)に迷(まよ)ひ飢餓(きが・くひものなき)に陥(おちひ)り家を破り身を喪(うしなふ・なくする)の徒(と・ともがら)の如きは畢竟(ひつきやう・つまり)不学(ふがく・がくもんせぬ)よりしてかゝる過(あやま)ちを生ずるなり従来(じうらい・もとから)学校の設ありてより年を歴(ふ)ること久しといへども或は其道を得ざるよりして人其方向(はふこう・めあて)を誤(あやま・まちがい)り学問は士人(しじん・さむらい)以上の事とし農工商及婦女子(ふじょし・をんなこども)に至っては之を度外(どぐわい・のけもの)におき学問の何者(なにもの)たるを辨(べん)ぜず又士人以上の稀(まれ)に学ぶものも動(やや)もすれば国家(こくか・くに)の為にすと唱(たな)へ身を立るの基(もとゐ)たるを知(しら)ずして或は詞章(ししょう・ことばのあや)記誦(きしよう・そらよみ)の末に趨(はし)り空理虚談(くうりきよだん・むだりくつそらばなし)の途に陥(おちい・はまり)り其論(らん)高尚(かうしよう・りつぱ)に似たりといへども之を身に行(おこな)ひ事に施(ほどこ)すこと能(あたわ)ざるもの少からず是すなはち沿襲(えんしう・しきたり)の習弊(しうへい・わるきくせ)にして文明(ぶんめい・ひらけかた)普(あま)ねからず才芸の長ぜずして貧乏(びんぼう・まずし)破産(はさん・しんだいくずし)喪家(そうか・いへをなくす)の徒(と・ともがら)多きゆゑんなり・・・・中略・・・・・・・
但従来(じうらい・これまで)沿襲(えんしう・しきたり)の弊(へい・くせ)学問は士人以上の事とし国家の為にすと唱ふるを以て学費(がくひ・けいこりよう)及其衣食(いしよく・きものくみひも)の用に至る迄多く官(くわん・やくしよ)に依頼し之を給(きふ・くださる)するに非ざれば学(まなば)ざる事と思ひ一生を自棄(じき・じぶんからすて)するもの少からず是皆惑(まど)へるの甚(はなはだ)しきもの也自今以後(いまからのち)此等の弊(へい)を改め一般(いちどう)の人民他事(たじ・ほかのこと)を抛(なげう・すてをき)ち自ら奮(ふるつ・はげみ)て必ず学(がくもん)に従事(じゆうじ・よりしたがい)せしむべき様心得べき事

右之通被 仰出候条地方官ニ於テ辺隅小民ニ至ル迄不洩様便宜解釈ヲ加へ精細申諭文部省規則ニ随ヒ学問普及致候様方法ヲ設可施行事
明治五年壬申七月
太政官
地方官において便宜解釈を加えて小民に至るまでで漏れなく申し諭し、文部省規則に従い学問普及致し候様・・・として、以下文部省布達第13号の別冊になるのです。
別冊
第五章 一大学区ヲ分テ三十二中区トシ之ヲ中学区ト称ス区毎ニ中学校一所ヲ置ク全国八大区ニテ其数二百五十六所トス
第六章 一中学区ヲ分テ二百十小区トシ之ヲ小学区ト称ス区毎ニ小学校一所ヲ置ク一大区ニテ其数六千七百二十所全国ニテ五万三千七百六十所トス
第七章 中学区以下ノ区分ハ地方官其土地ノ広狭人口ノ疎密ヲ計り便宜ヲ以テ郡区村市等ニヨリ之ヲ区分スヘシ

上記のとおり、中区に一つの中学その中区に210の小区=小学校を置く仕組みでしたから、明治の初めには中学はかなりのエリートだけ・・・中学と小学のⅠ学年の生徒数が仮に同じ規模とすれば、小学卒業生の内210人に一人の進学率を計画していたことになります。
ちなみに現在の学制・・大学中学小学の分類は「変なものだなあ」と子供の頃から思っていましたが、生徒身体の大中小の意味ではなく元は学区が大中小に別れていてその大区に一つ作るのが大学(帝国大学)中区に一つ作るのが中学と言うのが語源であったとすれば意味が分かります。
この呼称がそのまま戦後の新制中学に引き継がれたと言う次第です。
地域の実情を無視した機械的な区割り制度は後に教育令で変更されますが、学校制度の構想が最初はこんなものだったことが分ります。
私の子供の頃・・すなわち戦後の新制中学発足後ですから、一つの村に一つの小学校校・中学校が普通でしたが、まだ高校はいくつかの村に一つでしたし警察署もそうでした。
これが行政単位の合併の繰り返しによって、今では行政単位の規模の方が学区の規模を追い越してしまい、一つの市町村にいくつも学区が出来ている状態です。
子供の進学のときに頭を悩ませる(越境入学など)ご存知の学区制・・は、このときから始まっているのです。

免責事項:

私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

一言でいえば、ここで書いた意見は「仕事」として書いているのではありませんので、『責任』を持てません。

また、個別の法律相談の回答ではありませんので、具体的事件処理にあたってはこのコラムの意見がそのまま通用しませんので、必ず別の弁護士等に依頼してその弁護士の意見に従って処理されるようにしてください。

このコラムは法律家ではあるが私の主観的関心・印象をそのまま書いている程度・客観的裏付けに基づかない雑感に過ぎないレベルと理解してお読みください。