「こおり」2と「さと」(郷と里)1

漢字の本家でさえも仏教伝来時に意味と関係ない、既存漢字の表音を音写して間に合わせていたのですから、朝鮮半島でも漢字の音を借りて朝鮮半島のいろんな言葉に漢字を割り当てる慣行があったと見てもおかしくないでしょう。
朝鮮での一定の地域単位をもしかして評と言う漢字で表していたのが日本列島に伝播してそのまま日本での利用が始まっていた場合もあるでしょうから、和語の「こおり」を何故「評」の漢字に当てていたのかを素人が詮索しても意味ないのかも知れません。
大宝律令を導入するにあたっては、社会の骨格を決める大規模な法制度導入である以上は、(今で言えば、首相や大統領、議会と言っても国によって権限が大幅に違うように)制度的にどのような権限あるかどのように運用されているかなど深い実態調査に基づく制度導入が必要ですから、表面的な漢字の意味だけでなくかなりの制度研究が進んだものと思われます。
明治時代の欧米制度導入にあたっても、西洋語の皮相的な単語翻訳だけでなく(王とか議会というだけでなく議会や総理・王にどんな権限があるかなど具体的調査を経てドイツ式の法制度導入に至ったものです)欧米の実態研究を行なってからの立案でした。
ウイキペデイアの大宝律令の記事です。

大宝律令に至る律令編纂の起源は681年まで遡る。同年、天武天皇により律令制定を命ずる詔が発令され、天武没後の689年(持統3年6月)に飛鳥浄御原令が頒布・制定された。ただし、この令は先駆的な律令法であり、律を伴っておらず、また日本の国情に適合しない部分も多くあった。
その後も律令編纂の作業が続けられ、特に日本の国情へいかに適合させるかが大きな課題とされていた。そして、700年(文武4年)に令がほぼ完成し、残った律の条文作成が行われ、701年(大宝元年8月3日)、大宝律令として完成した。

上記の通り丸20年かかって中国の実態研究と日本の実情のすり合わせをしています。
明治維新後明治22年の明治憲法制定までの期間とほぼ同様です。
制度研究の結果、漢字の意味を深く知って利用するようになってくるとそれまでの音を借りただけの「評」では意味のない利用法・文化的ではない・恥ずかしい利用法だとなったように思われます。
大宝律令導入にあたって中国の郡県制度の地方単位を導入するにあたって意味を含まない「こおり」に対する当て字を「評」から意味を含んでいる郡に変えたように思われます。
どの漢字であろうと和語でいう「こおり」であったことが変わりないので、日本列島では、一定の集団が固まって(こおる→塊の意味らしいですので)住む地域を単位としていたことになります。
流域文化圏を基礎としたムラ社会ほど濃密すぎない程度の地縁血縁の緩やかな集合体・・その後地域ごとに倭国100余国と言われる地域集団領域と古代の評(こおり)→郡の領域とはほぼ重なるのではないでしょうか?
郡(こおり)は、後世戦国時代の地方豪族の領域ともほぼ重なるように思われる重要な地域単位になっていた(江戸時代にも一定規模以上の藩に郡(こおり)奉行が置かれていました)と思われます。
「こおり」=隣接する郡は気候風土というほど大きな差がないのですが、どこか隣接の郡とは違う気風がある印象で、千葉県では山川で隔てられていないにも拘らず印旛郡と千葉郡、市原郡、君津郡など、郡によって気風が違う印象を受けます。
関東平野以外ではもっと大きな差があるでしょう。
「こおり」には、下位単位としてのサト(里・これも漢字表記であって和語は今もサトのままです)が、大宝律令で割り当てられていますが、日本の基礎集落はムラですから、このとき自然発生的集落をいくつか集めてサトという中間的単位を創設したように思われます。
(このコラムで「思われる」という書き方は全て調査研究した論説によらない私の直感的思いつきを書くものです)
こおり・評を郡に変えるにあたって同一支配者に属するいくつかの「こおり」を集めて大規模にしたものでしょうし、こおりの規模を大きくすればその中間的単位が必要となり律令制の模範とする中国に「里」の制度があったのでこれを律令制導入時に当てはめたようです。(条里制と学校で習う制度です)
「こおり」ごとに支配者が違えば一つにまとめるのは抵抗がありますが、大和朝廷成立前にはいくつかの「こおり」を支配する豪族の大規模化が進んでいたでしょう。
戦国時代に上杉や信長が、まず尾張国や越後国内で親世代が築いた郡単位の勢力を徐々に広げて国内統一→周辺国進出、最終段階で全国区の戦いになるのが普通ですので大和朝廷成立時には、歴史に残る出雲や吉備とか越前の勢力は数カ国にまたがる勢力を持っていたでしょうし、その配下武将も数郡程度の支配地を持つ中規模豪族がいたものと推測されます。
信長や信玄等の勢力拡大につれて配下武将も大名に成長していたように、大伴氏や葛城、蘇我等の大豪族は大和朝廷内の有力豪族としても、それでも大和朝廷が大きくなるにつれて・・本拠地以外に勢力の根を扶植していたものと思われます。
武田信玄配下の有力武将(12将)はそれぞれ勢力に応じた支配地を持っていたように、地形の複雑さから直接支配地が限られる・・足利政権の脆弱さが顕著でしたが・・中央権力の弱さが日本列島の歴史でした。
戦国時代に多い勢力拡大時における被占領地の国人層に対する本領安堵方式は、先史時代から続くものであったことは各地の神々がそのまま残っていることがその証拠でしょう。
地形の複雑さが、直接統治に無理があったために峠を越えて勢力拡大しても一次的支配しかできないので、大軍で押し寄せてもいつまでもいられないので引き上げるまでに地元に協力組織を構築視して帰るしかなかった・・いざという時に戦役に応じる義務・兵力提供義務程度にするしかなかったのが現実でしょう。
この結果負けた方の地域名も残るので、ムラの上の中規模単位もそのまま残ります。
明治維新で小集落を大量に集めて現代の郡市町村制が布かれましたが、「村」や町に吸収された多くの旧集落(古代から続く「むら」)は、大字小字として名を残したのと同じです。

「こおり」(評→郡)1

日本古来の「評(こおり」がいつから郡の文字に変わったかの新井白石らの論争は出土木簡によって勝負ついたようですが、これによれば律令制定後一斉に「評」(こおり)がなくなり「郡」(これも和音では「こおり」)表記しか無くなっていることが分かっているようですから、律令制徹底のために郡に限らず里(さと)など土着用語が全て中国伝来制度表記圧力が働いた様子がうかがわれます。
と言うより廃藩置県を起点に日本の地方制度が抜本的に変わり今の都道府県制度ができたのと同様の地方制度・統治形態の大規模変化があって、廃藩置県で小さな国が(伊豆、駿河、三河の国が静岡県に)一つの県になり、小さな集落がいくつかよって小字(アザ)になり、さらに大字(あざ)の集まりが村になり、村が成長して町になり市が生まれ、市が大きくなってその中に中央区江東区のような区制ができたように、後漢書に言う百余国が大宝律令制定で六十余国に統合されて地方単位が大きくなった時代でした。
それまでの豪族の支配地・・後漢書に言う百余国・・私のイメージでは、現在の郡の地域がいくつか集まって国に昇格したので、元の地元豪族支配地が郡になったということでしょう。
大宝律令で郡になる前には「評」(こおり)が使われていたとしても和語としてはいずれも「こおり」であったことは明らかですから、「こおり」とは何かこそ重要でしょう。
「こおり」とは、水がに凝る(ニコゴル)状態・・固まった状態を表す和語らしいですが、(私の思いつきですが、物事が滞ると言う時の「とどこおる」も同じ用例でしょうか?)物が塊になっている状態を和語で「ひ」とも言いますので、固まった状態の「こおり」を「ヒ」とも言い表していた時代があり・今でも氷川(ひかわ)とか表現することが多いのは周知の通りです。
律令制前に入っていた漢字の用法として?こおり・「ひ」に該当する万葉仮名として「評」をヒ・万葉カナ分類で言えば、略音仮名様式での利用だったのではないか?
当時の漢字利用は音を利用しただけで、漢字の意味と関係はなかったという想像です。
https://japanknowledge.com/image/intro/dic/manyougana2.jpg
には万葉カナの詳しい説明がありますが、
その中の

略音仮名(有韻尾字,韻尾を捨てる)
安(あ),散(さ),芳(は),欲(よ),吉(き),万(ま),八(は)

の一種でないかな?と素人的想像するものの、上記に掲載されている表にも「評」は出てこないし、万葉仮名と言っても漢字はある日一斉に大量輸入されたのでなく、人の交流等を通じて大陸から4〜5百年以上かけて順次に伝わった歴史があるでしょう。
紀元前の前漢時代のことを書いている後漢書に倭の百余国の記載があることからして、当時から人の往来があったことが確かですし、紀元後701年の大宝律令制定前の700年間の交流によって、じわじわと漢字が流入していたことが明らかです。
表音と言っても古くは南方系の呉音が入り、その後漢音が主流になって行ったようですから漢字に接する時代によって発音自体が違う上に「評」はもともと朝鮮半島由来とどこかで読んだ記憶です。
万葉仮名といえば日本独特の工夫かというとそうではなく、これをひらがなやカタカナにまで仕上げたのがすごいのであって音を当てるだけならばどこでもやっていることでしょう。
漢字のご本家中国自体が仏教伝来に当たって、サンスクリットの音をそのまま漢字の表音に当てはめた漢字の仏教典を作っていることから見ても、(お経の中にはいろんな梵語を漢字の音で書いた音写がいっぱいありますが、例えば仏教と言っているブッダという漢字自体、サンスクリット語の音に似た発音の漢字を当てたものです。
ブッダに関するウイキペデイアの記事です。

仏陀とは、サンスクリット語の「buddha」の音写語である。この「buddha」は「知れる人」という意味であり、古代インドから「経験的に知る」ことをさす√budhという語根の動詞で示される。
また、「目覚めた人」という意味もあり、このように考えるときには、√budhを「眠りから目覚める」という意味でとる。この意味では、ジャイナ教でも仏陀という言葉を使っている。さらに発展させて「覚った人」というように理解され、「the enlightened one」と英訳され、漢訳でもしばしば「覚者」と訳されている。

現在フランスを仏蘭西→仏というのと同じで、本来ほとけ様の意味がありません。
日本で盧舎那「仏」とか「〇〇仏」」というのは単なる音訳であり、和語の「ほとけ」という意味は日本人がつけた意味です。
和語でいう「ほとけ」様とはどういう意味でしょうか?
仏教思想が入った頃には当然同じ思想が日本列島になかったので、覚者を意味する語彙自体がなかったでしょう。
どのようにして仏を「ほとけ」と訓で読むようになったのか今の私にはわかりません。
すぐに思いつくのは古事記の「ほと」の記述ですが、そこからなぜ覚者の意味が出てくるか不明ですので、「ほとけ」自体も漢字の音から出た可能性がありそうです。
http://www.daianzi.com/howa/datadata/howa0133.htm
によれば「ほとけ」というようになった語源をいくつか紹介されていますが、以下が私にはしっくりきます。

第三に、中国では古い時代、「ブッダ」のことを、「浮屠」「浮図」(ふと)と音写することがありました。
なにか陰惨な感じのする文字ですが、これは中華意識のなせるワザのようです。
そこで、仏教徒のことも、それに応じて、「浮屠家」(ふとけ)、やがて、ブッダその人も「浮屠家」と呼ぶようになりました。
これが我が国でなまって「ほとけ」となった説。

当時日本には高度な哲理が未発達で悟るなどの内面をあらわす和語自体なかったので(勝手な想像です)音をそのまま採用したと見るのが落ち着きが良そうです。
現在社会でコロナ型ウイルスやロケット、テレビ、パソコンなど従来の日本語にない単語が入ってくると無理に日本語化せずにその音をそのままカタカナで使うのと同じだったでしょうか?

国(くに)(郡)とは?2

郡とは何かですが、大宝律令制定前の木簡には全て評(こおり)の表示しかないということですから、日本ではそれまでは評(こおり)と書いていたようです。
そうすると「評」(こおり)とは何かに戻りますが、評に関するウイキペデイアの説明では、

奈良県明日香村石神遺跡で平成14年(2002年)に第15次調査が行われた。7世紀後半の池状遺構や東西大溝から他の遺物とともに木簡も出土した。その木簡の中に、乙丑年(天智4年・665年)に国 – 評 – 五十戸(五十戸は「さと」と読み、「里」と同じ意味)の地方行政組織が全国に行き渡っていたことを示すものがあった。

とあり評里性という語も見えるので今の郡市町村制同様に、評(こおり)の下に里(50戸単位)がいくつか所属する形であったようです。
ちなみに50戸単位は今でも実務上重要指標です。
高度成長に伴う大都市人口集中→首都圏で宅地造成華やかなりし頃・・都市計画法が制定されて無秩序な宅地開発の規制が始まりました。
都市計画区域のうち市街化調整区域では原則として(農家住宅等の各種例外を除き)住宅建設が許可されない仕組みですが、50戸連坦(たん)といって現状として約50戸の連たんする地域であれば新築住宅許可になる制度が利用されていました。
連たんをネット検索するとすぐ出ますが、例えば佐賀市の説明です。
https://www.city.saga.lg.jp/main/51905.html

佐賀市では、既存集落の維持・活性化等を目的に平成20年7月1日より、市街化調整区域内の開発行為等の許可基準に50戸連たん制度を追加しております。(川副町、東与賀町及び久保田町は平成22年10月1日から適用)

話題が逸れますが、千葉市周辺では無秩序市域の広がりを防ぐ目的の都市計画法施行(昭和44年頃)直後から例外に当たる「50戸連たん」の運用を利用して雑木林や畑地等の宅地化が行われてきましたので「50戸連たん」しているかどうかが実務上重要でした。
佐賀市ではバブル崩壊後約20年経過後の平成20年になって、この制度利用が始まったと言うのですから時間差と利用目的の逆方向性に驚くばかりです。

都市計画法 (昭和四十三年六月十五日) (法律第百号)
(都市計画の基本理念)
第二条 都市計画は、農林漁業との健全な調和を図りつつ、健康で文化的な都市生活及び 機能的な都市活動を確保すべきこと並びにこのためには適正な制限のもとに土地の合理的 な利用が図られるべきことを基本理念として定めるものとする。
(区域区分)
第七条 都市計画区域について無秩序な市街化を防止し、計画的な市街化を図るため必要があるときは、都市計画に、市街化区域と市街化調整区域との区分(以下「区域区分」とい う。)を定めることができる。
第三十四条 前条の規定にかかわらず、市街化調整区域に係る開発行為(主として第二種特
定工作物の建設の用に供する目的で行う開発行為を除く。)については、当該申請に係る開
発行為及びその申請の手続が同条に定める要件に該当するほか、当該申請に係る開発行為
が次の各号のいずれかに該当すると認める場合でなければ、都道府県知事は、開発許可を
してはならない
1〜10略
十一 市街化区域に隣接し、又は近接し、かつ、自然的社会的諸条件から市街化区域と一
体的な日常生活圏を構成していると認められる地域であつておおむね五十以上の建築物(市
街化区域内に存するものを含む。)が連たんしている地域のうち、政令で定める基準に従い・・・以下省略

上記34条11号が50戸連たんの例外規定です。
都市計画法が昭和43年にできたのは急激な都市人口増加→無秩序に市街化が広がる圧力・需要が多かったからその規制が必要になったからですが、その分千葉県等の東京郊外型需要地では抜け穴探しの競争も熾烈だったので50戸練炭の例外申請が多かった・・我々弁護士にくる相談事例が多かったということでしょうし、急激な市街地拡大がなかった佐賀市の場合昭和40年代どころかバブル期の影響もなく平成20年頃になって放置していると市域縮小一方?になってきたので逆に50戸連たんを利用して住宅建設需要を取り込もうという時代になったのでしょうか。
しかし住宅需要の前提たる人口増がないのに、「郊外に家を建ててもいいよ!」というだけではユーターン需要が起きるわけがない・せっかくUターンする気になった人の新築妨害をしない程度でしょうか?
大宝律令以前においても我が国では集落単位として50戸が一つの目安になっていたことがわかります。
現代的産物と思われる都市計画制度の基礎として、古代の集落単位である50戸連たんを採用している・・物事には古い歴史があって決まっていくことが分かります。
どんどんテーマがそれますが、里の関係でいえば「郷里」「故郷」という熟語があります。
郷と里の関係はどういうものでしょうか?

国(くに)とは?1

臣民と国民の違いに戻ります。
民を表現するのに人民と言うときには、ときの権力を覆すことを望む意味を含む用語として生まれてきた・・いわゆる不平分子とすれば、政府は支配下の民を人民と言いたくないのがわかります。
それならば、明治憲法制定当時既に旧刑法で採用していた「国民」を採用すればよかったはずなのに明治憲法で何故採用しなかったのか不思議です。
国民より臣民の方が良いとしたのは、王政復古にこだわる勢力への配慮・妥協の産物でしょうか?
もしかして?当時まだ日本「国」という表現が一般的でなかったとすれば、「日本の民「=日本「国」のたみという概念思考自体が一般的でなかった・特定の人しか考えていなかったのでしょうか?
しかし、明治憲法の表題は「大日本帝国憲法」ですから、大日本帝国国民とすればよかったはずです。
ただし私の個人的興味ですが、いつから日本列島全域を表現するのに「日本国」と言うようになったのかが、この際気になります。
以下見て行くように大和王権成立前の紀元前の前漢時代から倭「国」と呼ばれていたし日本列島の当時の祖先らもそのように自己表示していたようです。
明治政府がそれを否定していたか?というと明治四年の遣欧使節に対して翌五年に明治天皇の発行した全権委任状を見ると大日本国の国璽を押捺しています。
そうとすれば明治政府が何故日本国の民(たみ)という自然な表現をしないで「臣民」という無理筋?定義を何故したか不明です。
古代律令制から明治維新まで、国といえば地方の単位・今の都道府県よりほとんどの場合小さい地方単位でした。(千葉県でいえば安房、上総、下総の3カ国)
いつから日本60豫州の総称として日本「国」というようになったのでしょうか?明治維新後に地方制度として廃藩置県断行後、古代律令制導入以降の地方制度であった国の制度がなくなりました。
それまでは国という単語は、三河国、駿河国、上総国など国内地域の単位だった筈ですが・・。
日本列島の一部の表現だった国の制度がなくなってから日本列島全体の表現になったのでしょうか?
地域単位を表現するのに、和語でない借り物のの漢字の「國」とか邦、州とか郡や県、村・郷、邑を利用するからややこしいのだと思います。
「みどりなす黒髪」という表現が有名ですが、同じく「みどりご」という表現もあります。
これを漢字にすれば嬰児ですし赤ちゃんです。
日本では草花が生き生きと生命力に輝いている状態を「みどり」といい、中国では生き生きした若葉の色を緑というので、偶然一致して緑という漢字を当てただけなので、今になると緑=グリーンという漢字文化が身につきすぎると、緑=色の名詞である現在では黒と緑が同じ?なんで「緑なす黒髪」というか、赤ちゃんを「みどりご」というか?意味不明になっているに過ぎません。
大学生の頃か?大人になってからか中国の揚子江を長江というと知りましたが、遣唐使だったかの日本人が渡船場で地名を聞いたらそこが揚子江(中国語で別の発音ですが)と教えられて(その入江のことのことだったらしいのですが同じ「江」というから間違ったのです)これが日本に伝わり、長江全体の川の名前かと思ってしまったというのもあります。
漢字利用前の和語としての「くに」や「むら」とは「何」だったのでしょうか?
コトバンクによると以下の通りです。
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD-55694

くにとは
一定区域をなす土地を表わす言葉で,現在では,土地,人民,政府をもつ国家のこと。歴史的には,さまざまの範囲を呼ぶのに用いられた。日本に農耕生活が始り,人々が政治生活を営むようになると,従来の「むら」が「くに」と呼ばれるようになった。『後漢書』に,1世紀の倭国に百余国があったというのは,このような「くに」の分立状態を示している。
「豊葦原の中つ国」 (→葦原中国 ) といった国土の総称にも用いられていた。

一部地域の表示にも列島全体の表現にも使う融通無碍げというか、外来語・漢字が入ってきて無理な当てはめが行われたから起きた現象でしょう。
ある外国語が入ってきた時に、道具や社会の仕組みあるいは文学表現等の概念がその社会にある場合にはすぐにこれに当てはめれば済むのですが、ないときあるいはかなり違う時にそれを当てはめると大きな違いが生じます。
例えば、パスタをそのままソーメンと訳してみると共通性は麺というだけで、お互いまるで違うものをイメージして会話することになります。
社会制度の場合、一方の話者が、100万人規模の集団をイメージして「国」の話をしている時に数十人の部族社会しか知らない未開部族の人は自分お部族の人間関係をイメージしているとお互い意思疎通がズレまます。
いまのように世界中の情報が行き渡っていない時代に、「4月頃を春」と言うとの共通認識があっても日本人が桜の季節を前提にいろんなことを南洋の人に言っても、なぜ春が待ち遠しいか楽しみか理解不能でしょう。
言語学でどうなっているか知りませんので素人的無責任想像ですが、人の集合体である「むら」が一定の地域性(同じ川の流域など)を持つようになる・・婚姻は超古代から濃密な血族間婚姻の危険を避ける知恵が生じでいるので、ムラができた当初から周辺他血統のムラとの通婚が必要→これを繰り返すうちに周辺村落同士の共通価値観形成が緩やかに進みます。
私の一家は東京大空襲の結果焼け出された結果、幼少期は地方で育ったのでその時の見聞経験でしかないですが、その地域の風習で見ると多くは徒歩日帰り圏内からの嫁取り婚だったようです。
後になって考えると当時(戦後から今に続く)〇〇郡という地域がほぼこの範囲と重複していることが分かります。
例えば、現在の都道府県制度の前の国制度時代には、下総国に属した江戸川両岸地帯の葛飾郡(こおり)・・葛飾北斎で有名ですが・・だいたいこの程度の文化共同体地域です。

民主国家と人民論の矛盾3

一知半解というか青い主張に対する社会の支持が広がらない結果、唯我独占傾向が進むといよいよ社会の理解を得られなくなって孤立化する一方→唯我独尊的特殊集団になり、暴発集団化します。
共産党は視野狭窄.偏執狂に陥らないように自己抑制している様子ですが、そうすると弾き飛ばされる跳ねっ返りが行き場をなくします。
左翼からも阻害された超原理主義者の集団化は、精神病者の集団化現象に似ているともいえるでしょうか?
日本では連合赤軍・・浅間山荘事件やオーム真理教事件などがそれに当たる・・国際的に見ればいわゆるテロ組織でしょうか?
以上の次第で人民という用語が廃れるわけですし、現在民主国家における実力行使正当化論は時代遅れであり、アウトローの集まりでしかないというべきでしょう。
専制支配国家→正義に基づかない規制や処罰=恣意的処罰・権力行使が許される社会では、正義の裏付けのない強制となりますのでこれに抵抗するのが正義の実現行為である場合もあるでしょうが、民主主義のルールに従って制定された法秩序を自分や一定の党派が気に入らないからといって抵抗権があると主張してこれを実力行使で秩序破壊するのを許すならば、民主主義社会が成り立たない・裸の実力闘争社会になります。
民主主義社会においての人民論は、民意による政治に従わない→民主主義社会を否定する主張となります。
抵抗権行使によって実力闘争に勝ち抜けば支配者になり政府権力に抵抗すべき人民ではなくなるのですから、中国や北朝鮮政府が朝鮮民主主義人民共和国、中華人民共和国と名乗り人民解放軍、人民日報、人民銀行・人民元などというのは言語矛盾です。
政府は人民の代表だから、人民は政府に従うべきという意味でしょうか?
国内武力闘争に勝ち抜いた以外に、人民の代表という根拠が不明です。
内乱・反乱軍が政府転覆に成功して政権樹立後も反乱軍とか反乱政府と自称しているようなものです。
実際には、人民は権力闘争に庶民が利用されて捨て駒に使われるだけですので、政権獲得後、邪魔者扱いで反乱軍として弾圧される側に回ります。
いわゆる草莽崛起の末路です。
人民用語が一般化されていない江戸時代には草莽と呼ばれていたのですが、草莽に関するウイキペデイアの説明です。

幕藩体制が動揺をきたした18世紀後半以後、在野もしくはそれに準じた豪農・知識人層(江戸幕府に対して直接意見を進言できるルートのない人々)の中に、自らを「草莽」になぞらえ政治的主張をする者が出現した。それが19世紀に入ると尊王論や攘夷論と結びつき活発化する。
黒船来航など西洋からの圧力が大きくなった1850年代に入ると、吉田松陰らによって「草莽崛起」論が唱えられた。吉田らは武士以外の人々、すなわち豪農・豪商・郷士などの階層、そして武士としての社会的身分を捨てた脱藩浪士を「草莽」と称し、彼らが身分を越えて、国家を論じて変革に寄与して行くべきであると主張した。
これを受けて、1860年代にはこうした草莽が尊王攘夷運動や討幕運動に参加していくことになる(奇兵隊・天誅組・生野組・真忠組・花山院隊・赤報隊など)。しかし、攘夷という方便に利用されただけであったことに気づかなかった大多数の人々は、討幕がなると、討幕とは逆の「開国和親」というスローガンをかかげた政府によって手のひらを返され、反乱を起こすもののトカゲの尻尾切りよろしく大量に打ち捨て殺された(士族の反乱、奇兵隊の末路など)。結果的に、明治政府へ組み込まれた者は頭がよく使えるごく一部であり、大半は政治的敗者として姿を消すことになった

人民・・当時の用語でいう草莽に関するウイキペデイアの解説は、〇〇チルドレンや付和雷同型の本質がよく出ている印象です。
小池都知事の都民ファーストに共鳴して参集した多くのチルドレンが、当選してみると話が違うと不満を持つのと同じです。
すぐに運営方法に対する不満で都民ファーストを脱退したか?批判意見を展開していた都議がいた記憶です。
反NHKで昨年総選挙時に参加して東京都区議に当選したばかりのユーチューバーが、運営に不満で?離党したようですが、末端ほど純粋ですので実際に運営が始まると齟齬が生じます。
庶民は権力闘争に利用されるだけで権力闘争が終われば、ご用済みになってきたのが中国歴代王朝交代時に大動乱の結果でした。
「王候相なんぞ種アランや!」というスローガンを掲げていた育ちの悪さが売り物であった?漢の高祖であれ、朱元璋であれ、天下を取るまで付和雷同して付き従った多くの武将を粛清していきます。
武将の場合范蠡の有名な言葉・・・「飛鳥尽きて 良弓蔵れ 狡兎死して 走狗烹らる。」で表現される実態で誰もが知っている現実ですが、雑兵等に関しては、誰も気にしませんが、平和が来ると真っ先に無用になります。
秀吉の天下統一以来、武功を挙げた功臣・武将の出番がなくなった不満から家康についた豊臣恩顧の大名らは、徳川政権確立後次々と粛清・戦国大名の取りつぶしが行われたのも同じです。
徳川家だって政権を握ってみれば、無駄な兵力がいらない点は同じです。
社会のあり方を見通す眼力もないのに、ただ日頃の不満のはけ口として?煽りに乗る時局便乗・付和雷同型の人材は政府転覆に成功すれば、今度は邪魔者になる運命です。
新政府構築・・真っ先に必要な政治は治安回復です・・小難しい細かな法の縛りを破って奔放に暴れ回る人材は真っ先に標的になります・・に向けて役に立つ能力がない大多数は結局弾圧される方に回る仕組みです。
漢の高祖は庶民出身で最もバカにしていた儒教の礼式を彼が天下を取って真っ先に採用したと言われています。
権力を握ればルールに従わせる必要が生じるので、ルールになじまない彼らが真っ先に邪魔になる運命です。
社会のあり方を見通す眼力もないのに、煽りに乗る時局便乗・付和雷同して政府転覆に成功しても、新政府で役に立つ人以外の大多数は結局弾圧される方に回る仕組みです。
人民が人民(思慮不足)のまま権力を握れることはありえないのが現実でしょう。

免責事項:

私は弁護士ですが、このコラムは帰宅後ちょっとした時間にニュース等に触発されて思いつくまま随想的に書いているだけで、「弁護士としての専門的見地からの意見」ではありません。

私がその時に知っている曖昧な知識を下に書いているだけで、それぞれのテーマについて裏付け的調査・判例や政省令〜規則ガイドライン等を調べる時間もないので、うろ覚えのまま書いていることがほとんどです。

引用データ等もネット検索で出たものを安易に引用することが多く、吟味検証されたものでないために一方の立場に偏っている場合もあり、記憶だけで書いたものはデータや指導的判例学説等と違っている場合もあります。

一言でいえば、ここで書いた意見は「仕事」として書いているのではありませんので、『責任』を持てません。

また、個別の法律相談の回答ではありませんので、具体的事件処理にあたってはこのコラムの意見がそのまま通用しませんので、必ず別の弁護士等に依頼してその弁護士の意見に従って処理されるようにしてください。

このコラムは法律家ではあるが私の主観的関心・印象をそのまま書いている程度・客観的裏付けに基づかない雑感に過ぎないレベルと理解してお読みください。