IPO投資の逆回転1

テスラの現実は以下のようです。
https://jp.reuters.com/article/auto-toyota-tesla-idJPKBN18V005

ビジネス
2017年6月4日 / 09:24 / 2年前
トヨタ、テスラ株すべて売却 昨年末で資本提携を解消

https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2019-04-21/PQ19QD6K50XS01

古川有希
2019年4月22日 7:02 JST

パナソニックの津賀一宏社長はテスラとの関係を「一蓮托生」と表現したこともあるが、米国モーニングスターの伊藤和典アナリストは、「パナソニックが距離を置き始めているのは明らかだ」と指摘。思ったように利益が出ていないため「線を引いている。そこにマスク氏の不満が出ている」と分析する。
両社は2014年7月に協業開始を発表。
・・・テスラの1-3月期の世界販売は6万3000台で、前の四半期の9万1000台から減少した。
マスク氏のツイートに対してパナソニックは15日、ギガファクトリーでは18年度内に35ギガワット時相当の生産体制を確立しフル生産に向け立ち上げており、今後の投資はテスラ社と連携しながら需要を見極め検討すると説明した。

テスラのように鳴り物入りの新事業を目利きの筈のファンドなどが買収してから製造販売実験を繰り返して巨額投資しても成功するのはほんの一握りですから、芽が出たに過ぎない段階での買収価格は微々たるものになるのが普通です。
発光ダイオードの中村教授は、自己の研究成果の経済価値を過大評価しすぎていたようです。
彼は日本社会で思ったほど(経済価値として)高評価を得られなかったことに対する不満を司法が腐っていると切り捨てて日本を去り、その後ノーベル賞を受賞によってリベンジを果たしたと思ったとしても、ノーベル賞評価と経済価値が=関係でないことが明らかですから、彼の発明対価=経済評価が変わるものではありません。
日本人は「偉いね!と思ってもそれをそのまま経済価値と同一視する文化ではありません。
その点でも、彼とその周辺メデイアや文化人は読み違えてリベンジのつもり→強気になったのが誤算だった印象をうけます。
テスラに限らず、この夏頃から画期的経営手法等の新規事業の上場(新規公開株・IPO)にブレーキがかかる・・既発行株も半値近くに下がるようになっているようです。(日経21日朝刊16p)
もともとまだ「海のものとも山のものとも分からない」発明や経営スタイル等を商業化する場合の失敗リスクを度外視して囃し立てて価格を吊り上げ過ぎていた無理が出てきたのでしょう。
私の感想では、社債や新株発行関連業界の思惑による出来レース的相場吊り上げに対する市場警戒感が一般化してきた様子です。
うがった見方をすれば、未上場株?公開前に市場評価を無視したプロ同士の傷を舐め合うような相場吊り上げで天文学的数字に釣り上げる手法がいきすぎた結果が、市場で明らかになり始めたと言えるでしょう。
言い古されたことですが、「市場の声は神の声」ということでしょうか?
ファーウエイや中国国有企業大手の猛スピード躍進も時間が経たないと本当の実力か?一定期間経たないと煽り立てているだけか素人にはわかりません。
中国の不動産バブル崩壊リスクにこの数年注目が集まっていましたが、病人的経済である点は相違ないとしても、先延ばしによる将来リスクが大きくなる点は別として急激破綻回避は政策次第で当面防ぐことは可能です。
しかし、未上場株の公開失敗→IPO不調による連鎖的市場暴落リスクは金融緩和や財政出動等では防げません。
シビアーに見れば、リーマンショック後約10年以上も超金融緩和で株式・債券市場の底割れを防ぐために世界中で破綻の先送りしてきた限界が近づいたということでしょうか?
9月21日日経朝刊記事によれば,、既発行株式も軒並み初値に比べて大幅下落になっているようです。
リーマンショック以降の金融緩和によってだぶついた資金利用目的でメデイア界が海のものとも山のものともわからない有望株・ユニコーン等と称して囃し立てることによって、IPOに天文学的巨額資金が吸い込まれてきた帳尻合わせの逆回転が始まる前兆というべきでしょう。
未上場株の高評価→IPO不発→金融バブル崩壊の引き金になる可能性が出てきたようです。
このような危険な意見は日経には直接(安定に責任があるので?)出てきませんが、私はだいぶ前から孫正義氏の大規模投資ファンド組成に対してリスクが大きすぎるのでないかという関心を持っていたので、そろそろ逆回転が始まるのではないかの関心懸念でニュースを読み、このコラムを書いています。
上記記事では案の定、今年1月ころにソフトバンクが買収したウイーワークが上場予定を年内に延期したとの記事ですが、上場予定額が当初予定の半値程度に落ち込むというのですから大事件です。
ソフトバンクとウイーワーク関係は以下の通りです。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO49608050Q9A910C1000000/?n_cid=SPTMG002

IPOに向けて最大の懸案は公開価格だ。ウィーの主幹事が投資家への聞き取りをもとに条件決定時の想定時価総額を算定したところ、200億ドル程度にとどまる見通しとなった。ソフトバンクGが1月に出資した際に見積もった評価額は470億ドルだった。わずか8カ月で価値が半減したことになる。
市場では「ソフトバンクGが出資時に高い価格を払いすぎた」との見方もあった。

発明等対価と顕彰(ノーベル賞)1

中村教授のノーベル賞受賞と、司法判断との関係を考えていきます。
ノーベル賞の存在意義をこの機会に考えてみると、画期的発明発見あるいは業績が人類の生活向上や文化・文明発達にいかに役立つものであっても、すぐに経済利益に結びつかないことを前提に、後世の人類の利益?福利に貢献すると認められる成果に対するご褒美(副賞としての賞金額は微々たるものでしょう)として存在意義があるのではないでしょうか?
この辺は人間国宝とか各地の顕彰碑等々も同じ思想によっているように思われます。
将来は平和貢献・・例えばある戦争を終結に導いた功績・・戦争勃発直前の緊張を平和裡に解決した経済価値が何兆円と算出できる時代が来るかもしれませんし、ある詩文が、人類の癒しに与える功績を現在価値に換算する公式が発明されるかもしれませんが、当面は経済価値を算出できないのが現実です。
対外戦での功績・領土拡張の功績やため池を作った場合など、今すぐに地域利益に貢献しないが、将来の年金的なプラス功績がある場合に年毎の地域収入増加に報いるために一定領地を分封して将来の褒賞を年金的に支払う仕組みに一定の合理性があったことを「中国軍に解放してほしい日本人がいるか? 1」Sep 15, 2019 12:00 amに書いたことがありますが、今は世襲制がタブーになっているので名誉を称えるしかないのが現状でしょう。
ノーベル賞や文化勲章受章は作家の場合、作品が受賞によって爆発的に売れて作家に大金が転がり込む副次効果程度でしょうか?
作家でない場合には一時的に、講演会のお呼びが増えるのかな?
ノーベル賞は経済的対価を得にくい業績に対する顕彰目的に存在意義がるとすれば、ノーベル賞受賞で中村教授が見返したつもりとすれば、筋違いであったことがわかります。
画期的商法で大儲けできた人はそれで十分であって、それ以上に顕彰する必要はないでしょう。
儲けられないから顕彰するのです。
人間国宝等の芸術面ではなく経済的発明の場合でも、古くはアダムスミスの国富論に始まり〜リカードやケインズ理論など経済学等の新理論亜g出ると世界経済運営に与える影響も大きいですが、これに対する価値の算定方法がない・大学教授職や名声程度しか対価がありません。
産業に直結しそうな化学発明も元はこのような対応だったのでしょうが、今は先物取引市場が発達していて目に見える商品先物(コメの先物取引は、すでに江戸時代に堂島で始まっています)だけでなく、発明や特殊新規商法があたった場合の新興企業の買収・・創業価値も一種の先物取引的直感力の値決めで上場する時代です。
これにファンドなど投資家(金を出すとなればシビアーです)が呼応するか横を向くかによって市場価値が決まっていくものです。
発明と関係ないかもしれませんが、いわゆるIPO?目的でソフトバンクGが今年1月に買収したばかりのウイーワークが上場延期に追い込まれたのは公開前の事前購入打診で思うような反応がなかったことによるものでしょう。
詳細不明ですが、プロの買収でも大勢の市場参加者(資金を実際に出す者)の評価と大幅な乖離があったことを示しています。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO49608050Q9A910C1000000/?n_cid=SPTMG002

IPOに向けて最大の懸案は公開価格だ。ウィーの主幹事が投資家への聞き取りをもとに条件決定時の想定時価総額を算定したところ、200億ドル程度にとどまる見通しとなった。ソフトバンクGが1月に出資した際に見積もった評価額は470億ドルだった。わずか8カ月で価値が半減したことになる。
市場では「ソフトバンクGが出資時に高い価格を払いすぎた」との見方もあった。

もっと言えば株式市場の相場自体が数ヶ月先あるいは数年〜10年先の企業業績見通しでその日の相場が決まっていく点で先物市場の一種と言えるでしょう。
古代の熟語「奇貨おくべし」も始皇帝の親「子楚」(のちの荘襄王)の将来性に目をつけた商人=のちの呂氏春秋で知られる呂不韋が言ったか思った気持ちの表現として残っています。
農家の青田買い同様でいつも先に先に目をつけた方が、うまく行けば利幅も大きい代わりにリスクも大きくなるものです。
絵描き等の人物評価はその道のプロであれば、その子や若者が将来ものになるかどうかすぐわかるでしょうが、化学・科学発明がどういう商品の基幹技術になり、それがどのような商品開発に繋がり大化けするかは、その他の分野別発明家の関わり方次第・・不確定要素が膨大です。
将来を現在価値に落とし込むのが市場評価とすれば、将来それを商品化しいろんな分野に使えるように工夫する人たちの功績も加わってのことです。
ノーベル賞の場合には、この不確定要素を捨象したうえで大元の原因になったことを高評価顕彰しているに過ぎません。
トランジスタの発明はソニーの商品化成功によって大化けしたのですが、その売り上げの大半は商品開発販売(そのためには膨大な工場や店舗投資や販売人員や広告宣伝費(商品デザインや広告宣伝の出来不出来によるのでデザイナーに帰する部分があるなど)に成功したソニーに帰するし、ソニー開発技術を踏み台にさらに新たな商品開発に成功した場合もその新商品開発者に売り上げの大半が帰するべきです。
発光ダイオード訴訟の一審判決は、こうした膨大な経路の寄与者の必須性を簡略化?して、現在結果は中村教授の発明がなければ存在しなかったことを理由に少なくとも二分の1の報酬を払うべきという論理だったようですが、これがなければ結果がなかったから2分の1という論理はどこかおかしいでしょう。
これがなければ結果がないというのは法学では、因果関係論では条件説と習いますが、落語のテーマだったか?「風が吹けば桶屋が儲かる」とかネズミの嫁入りの話に似て、一見論理的なようでいて、結論に無理のあるお話です。

民族益とは?1

強国といえども、戦前のように自国民・企業保護のためとしての出兵はできませんが、経済制裁と言う名の経済戦に転じているのが現在の姿です。
外国投資が増えると投資拡大に比例して人的交流も広がり関係が深くなるのが一般的です。
本国と進出先の国との関係が悪化するとその国での商品等が売れなくなるし、一方で交流促進が国際紛争のブレーキ役になると言われていますが、関係が複雑・深くなればなるほど紛争のタネも増えることも確かです。
どちらに重点を置くかによって、排外主義とグローバリストとの対立が生じます。
個人で言えば数年に一回会う友人より日々会う関係の方が情報交流が密→関係複雑ですし、朝寝坊しているか?「箸の上げ下ろし」まで気になり紛争の種になるのが、夫婦であり親子でしょう。
国際交流推進論者は、関係が深ければ深いほど相互理解が深まるほか関係断絶には多くのマイナス効果が生じエネルギーがいるので、よほどのことがない限り相互に自己抑制するようになり、結果的に波風をたてない国際関係が育成されると言うもののようです。
これは仲違いに発展する確率が上がるとしても抑制力の方が、うわ回るという我慢哲学重視の考え方でしょうか?
英国のEU離脱交渉が混迷しているのを見ても一旦出来上がった複雑な関係断絶の困難さがわかります。
これが国際交流推進論・・民族混住を進める意見の根拠でしょうか?
しかし、複雑な関係になっても夫婦関係が破綻する例が多いように、円満交流を永続するのは難しいものです。
しかも我慢の哲学の場合、図々しい方がそれを標準関係と誤解して?余計厚かましくなるし、我慢する方は我慢しっぱなしという不公平な関係のアリ地獄関係になりがちです。
多くは職場の上下関係、男女の社会的地位など背景にした強い者勝ちの意見ではないでしょうか?
離婚事件の経験から言えることは離婚すると困難なことが多いから耐え忍ぶべきという論理は家庭内で図々しい方が得をする・・我慢する方は我慢しっぱなしという構図になるので、むしろ離婚をする負担を軽くする方向・・女性の経済自立を図り子育て支援等々を充実させ離婚抑止力の低下に向かっているしそれが正しいことだと思います。
離婚の結果が重たすぎる結果、結婚→出産を忌避する方向に進みかけている、世の中あげて婚姻に伴う親族かの義理の関係に始まり、中核的効果である子育負担すら社会で引き受ける分野を増やして夫婦の負担を軽くする方向に進んでいるのです。
夫婦関係は、元はといえば好きで一緒になったものですが、それでも一緒に住むようになるとあれこれ気になって破綻になるkとが多いのですが、隣国等の関係は夫婦のように気が合うから隣国同士になったのではないので、どこまで複雑な関係を築いても関係がややこしくなり、気分を損ねる接点が増えるばかりでプラス面が比例的に増える率が低いはずです。
その地域に人類が住み着いてから何千年も別集団として障壁を設けて民族代表を通してしか交流しないでやってきたのには、それ相応の(気性が合わない)理由があったと見るべきでしょう。
都会では隣人と深入りすると、意見相違が生じると気まずくなるだけなので、出会えば「おはよう」と挨拶する程度にとどめて、深入りしないのが近所づき合いのコツと心得ている人が多いと思います。
この数十年では子供世代が結婚しても親世代同士は滅多に関係しないし、それぞれの実家とは濃密な付き合いをしないように心がけるのが普通です。
国際交流のメリットを熱心に主張するメデイア関係者や文化人?自身、自宅に帰れば近所の人と家族ぐるみで食事かをしたり旅行するなど深入りしない・あっさりした近所づき合いをしているのではないでしょうか?
同一民族どころか、もともとの古い集落で生まれ育った人でさえ旧来型の濃密な付き合いを嫌って故郷を捨てる人が多いし、昭和40年代ころに農家に嫁がこないと騒いでいた頃に農家自身が自分の娘を農家に嫁がせたくない矛盾が報道されていました。
外国と縁が深まればお互いブレーキ役になり戦争抑止力になるという主張は、関係が深まるほど不協和感が強くなるリスクの方が大きい現実を見ない空論ではないでしょうか。
この良き?事例がバルカン半島で繰り広げられたクロアチア紛争、ボスニアヘルツゴビナ紛争ではないでしょうか?
この紛争の困難さは、小さな街区ごとに異民族〜異宗教関係者がモザイク状に入り乱れて居住してきた長い歴史によると言われていました。
異民族異宗教者が入り乱れて何世紀も住む内に気が合わないので今の中華街のように小さなゲットーをお互いに居住区域を分けてきたようです。
適地生産・交易の必要性により商人が代表して異民族と接触する場合、プロ同士・商人なので相手を立てるのに慣れているので人間的トラブルには滅多になりません。
国内でも庶民であっても店員となれば、別人格者に変わり客との感情的トラブルを店員の方から起こすことは皆無に近いでしょう。
異民族との接触が商人や外交官等プロの独占から近代に入って一般官僚や企業人〜鉱工業関係者(中堅層)に広がり、家族帯同も増えていくとマトモに文化生活習慣の違いがぶつかり合う時代に入りました。
異郷で子育てするようになるとこの違いのショックは強烈だったでしょう。
この後で紹介する歴博資料によると戦前東南アジアへの移住者が一定規模になると地域でお寺を営み日本式の葬式→戒名を付けてもらう・墓石を建てるなどしていたと(墓地の写真)紹介されています。
規模の小さい場合にはお寺まで維持できないが、お寺のない坊さんが住んでいた例も紹介されています。
さらに広域でみれば日本人子供向け教育施設(今の日本人学校)もできたのでしょうか?

守るべき民族利益とは?(国外投資)1

生活習慣によって民族意識が培われるのでしょうから、日々の生活習慣の変化は重要です。
民族とは遺伝子によるのではなく同一生活習慣ひいては生活習慣に根ざした共通価値観で行動する人々のことでしょう。
もちろん業種や年齢、貧富差などによって細かく生活習慣・価値観も違いますが、その時代ごとの変化をほぼ共通に受けている人々・結局同一地域で長期間(1世代でいいのか数世代必要か?)生活している人ということでしょうか?
対外区別の標識としては、第一義的にはインフラ整備等による利害の共通性が標識になりますし、これまでその意味で書いてきました。
他県等からの移住者が移住直後(何年間居住者をいうかは別です)に住民税も払っている以上は平等投票を認めろ!という主張に反対する理由はそこにあります。
まして外国人労働者が数年いる程度で、国防に関係する自衛隊基地等の配備反対運をし、住民投票や自治体選挙権を持たせるのは行き過ぎです。
インフラは何十年もかかって積み上げた先祖の資産(お祭りを継続するかどうかも含めて)運用ですから、数〜5年前に引っ越してきたばかりの人がその運用に平等の口出しをするのは遠慮すべきでしょう。
有益な意見を言うのは勝手ですが、決定権を持たせろというのは行きすぎです。
民族利益に戻しますとこれを突き詰めると自国権益擁護のための国外出兵に繋がりますので、国内にある限度の利益共同体を守るという程度の意味になります。
この数十年外国への投資も盛んですので、民族利益には国外投資もはいるという方向性が強くなると「国外投資や国外在留邦人を守れ」ということになり満州事変や支那事変のようにいよいよ対決が激しくなります。
戦後では米軍駐留の場合もその国の防衛協力のためであって、その地にいる米国民保護目的に軍を駐留することはなくなったので・露骨な軍事介入はなくなりました。
多分・・1956年のナセルによるスエズ運河国有化に対する英仏の軍事介入が史上最後でしょう?
民族の守るべき民族益をインフラ等の投資残→民族文化とすれば外国に投資した民族益はどうなるかの問題が生じます。
外国投資が増えると本国と進出先の国との関係が悪化するとその国での商品等が売れなくなるし、投資拡大に比例して人的交流も広がり関係が深くなるのが一般的です。
交流促進が国際紛争のブレーキ役になると言われていますが、関係が複雑・深くなればなるほど紛争のタネも増えることも確かです。
個人で言えば数年に一回会う友人より日々会う関係の方が情報交流が密ですし、この最たる関係が夫婦であり親子でしょう。
関係が深ければ深いほど関係断絶には多くのマイナス効果が生じエネルギーがいるので、よほどのことがない限り相互に自己抑制するようになります。
それでも破綻する例が多いように、円満交流を永続するのは難しいものです。
国際交流を奨励する立場の人は、この抑制効果に期待しているのでしょうが、隣国等の関係は夫婦のように気が合うから隣国同士になったのではないので、どこまで複雑な関係を築いても関係がややこしくなり、気分を損ねる接点が増えるばかりでプラス面が比例的に増える率が低いはずです。
その地域に人類が住み着いてから何千年も別集団として障壁を設けて民族代表を通してしか交流しないでやってきたのには、それ相応の(気性が合わない)理由があったと見るべきでしょう。
都会人は隣人とは深入りして意見相違があると気まずくなるだけなので、出会えば「おはよう」と挨拶する程度にとどめて、深入りしないのが近所づき合いのコツと心得ている人が多いと思いますが、国際交流も同じではないでしょうか?
子供世代が結婚しても親世代同士は滅多に関係しないし、それぞれの実家とは濃密な付き合いをしないように心がけるのが普通です。
国際交流のメリットを熱心に主張する文化人?自身、自宅に帰れば近所の人と家族ぐるみで旅行したり、深入りしない近所づき合いをしているのではないでしょうか?
同一民族どころか、もともとの古い集落で生まれ育った人でさえ旧来型の濃密な付き合いを嫌って故郷を捨てる人が多いし、昭和40年代ころに農家に嫁がこないという時に農家自身が自分の娘を農家に嫁がせたくない矛盾が報道されていましたが、外国と縁が深まればお互いブレーキ役になり戦争抑止力になるという主張は、関係が深まるほど不協和感が強くなる現実を見ない空論ではないでしょうか。
民族益・外国投資の保護という点ではどうなるのでしょうか?
スエズ動乱のように露骨な接収はないでしょうから、今は最大でも反日運動やボイコット運動くらいですので、国外進出企業亜hその程度のリスク覚悟で進出すべきというのが国民合意であり、軍を動員して自国企業を守るなどの報復などは想定できません。
現在の韓国による反日不買運動に対しては、日本も紳士的にお返しをする程度のことでしょう。
この場合の民族精神はどうなるのかが数日前から気になっていましたが、たまたな歴博から送付してきたNO216号、「異郷で暮らす日本人」を読んでいると偶然?私の関心のあるテーマの研究資料が出ていたので、以下それを読んだ受け売りも含んで書いて行きます。
上記資料では境界人?だったかの表現ですが、遺伝子的には混血したハーフとは違うとしても、経済利害的にはハーフ的立場になるようです。
12年頃の中国の反日運動では日系製品不買運動が盛んでしたし、今回の嫌韓騒動では韓国のユニクロなど真っ先に不買運動の標的になっています)マイナスを懸念する企業の声が本国政治に影響するし、他方その企業の現地駐在員の方は本国ほど反中意識が強くなかったのも現実らしいです。
上記資料では日系企業に勤める店員や工場勤務者も、日本語学校に通う生徒も反日運動が激しくなると肩身がせまいので早く終息してほしいし、教えている日本人教師も中国人生徒(多くは10台でしょう?)の困惑した気持ちに寄り添いケアーして面倒見てきたようで、相互に日本人でも中国人でもない境界的共同体意識が形成される印象の記述です。

訴訟と日本文化批判9(スマートだったGPS訴訟)

GPS判例のときだったか?でちょっと書きましたが、逃走犯人が昔のように空き地を突っ切って逃げたならそのまま追いかければいいのですが、住宅街敷地を突っ切って反対側の路地に出て逃げた場合、追跡中の警官が他人の住宅敷地に侵入できないので、ぐるっと迂回して裏側の路地に行き着くしかないような滑稽な事態になります。
この最たる事例が車社会化の変容です。
例えば15〜20年前に担当した事件では、一晩のうちに夕方はまだ帰宅しない共働き夫婦のいる新興住宅街・・千葉県佐原〜茨城県内で何件か空き巣をして(犯人の説明では日暮れどきに新興住宅街を回って電気のついていない家を狙えばいいので物色する手間がいらないということらしいです・・その後深夜に長野県で、ガソリンスタンドのドアーを破って侵入盗をした事件を担当したことがあります。
今は見張りといってもその家の前で見張っているのではなく、見通しの良いところ(分譲住宅は道路整備されているので割と遠くからその路地に入る車や人を発見できるのと携帯やメールで連絡できるので安全地帯に車を止めて見張っているようです)実行犯は侵入するとまず裏口のドアを開けて、連絡があると一旦裏口から出てこの家の住人が帰ってきたのか窺うようです。
通行人がその家を通り過ぎると侵入し直して金目のものを探して遁走するのを繰り返し、6時半前後になると勤め人が帰ってくるリスクが高くなるので空き巣侵入を切り上げて、今度は夜遅く閉店後の商店を狙うために長野県まで移動して店舗荒らしをしていた事件です。
近隣住宅街で繰り返すと足がつきやすいので、毎回数十キロ離れた住宅街を狙って広域移動する犯罪集団の場合、警察が千葉県や茨城県の被害住宅街付近(自転車圏程度)の素行不良者など聞き込みしているようではとても間に合いません。
佐原署管轄だったか?地元警察だけでの捜査能力を超えています。
GPS事件も窃盗集団の移動把握のために警察が窃盗集団と目星をつけた車にGPSを装着してその運行記録をもとに検挙した事件で捜査の違法性が問題になった事件だった記憶です。
車による長距離移動が一般化すると、犯罪も広域化するので地元素行不良者に目星つける方法や、江戸時代のように尾行や追跡は不可能になっているのですが、GPSがあれば過去どころかリアルタイムで移動経路が一目で判明します。
どこで一定時間停止していたかなど犯行場所との関連づけもおおよその推定可能ですので、連続空き巣犯など犯罪集団の特定絞り込みに有益ですし、一定の場所で停車している場合現行犯逮捕準備としては効力を発揮します。
GPS事件はGPSを無断で取りつけたことが問題になったのですが、あらかじめ捜査目的を説明して取り付け承諾を得るなどは不可能な分野です。
離婚事件等での浮気調査などにGPS利用が一般的に行われているのですが、法理論説明は別として、結果から見ると私益追求のためには問題がなく、(私人間行為なのでそれ自体を問題にする事例に発展しないだけ?のことですが)公益実現の最たる分野である犯罪捜査に使ってはいけないジレンマです。
長年の歴史的慣習で私益実現のためには許されない行為でも、お上がやるときは民間向けのがんじがらめの規則などお構いなしに超法規的にできるかのような無意識的思い込みがまだ強いのが現状でしょう。
この象徴的法諺は、国王の無答責という言葉でしょうか?
国王は、何をしてもも刑事責任を問われないという制度で、現在も王制国では、法律上そう運用されていると思います。
我が国でも天皇は無答責と言われ内閣が天皇の行為について責任を負う仕組みです。
こういう意識からすれば、私益実現の為の違法行為は相手さえ事件化しなければ有耶無耶→違法行為責任を滅多に問われないのに、公権力行使の時だけ違法とされりのはおかしいという印象を持つのでしょう。
民主社会になって、警官になれば好きにしょっぴけるのではなく裁判官発行の令状を示してから出ないと逮捕や家宅捜索できないように、私人には許されない行為が公権力の行使としては許されるものの、その行使には厳しい条件がつくようになっています。
GPSや防犯カメラ等の設置には、新しい分野なのでこの種の条件整備が進んでいない・法定権限が整備されていない・・法不備の問題です。
公権力行使のためには一般人が許されない行為ができる場合が多いのは、予め一定の場合に限り許容されることが法定されているからです。
パトカーが赤色灯をつけてサイレンを鳴らして追跡する時には信号やスピード規制等を守らなくとも良いことになっているように、法制化を工夫すれば良いことでしょう。
とは言え、犯罪容疑にかかわらず誰彼なく個人の車にGPS装置を無断で取り付けて良いという法律ができるとは思えませんし、やるとすればGPS装置装着車しか運行してはならないと義務付けるしかないのでしょうか?
文字通り中国の監視社会の一部実現ですが、これも記録保存義務までは何とかなっても事故事件発生前にどういう根拠で「見せろ」と言えるかですし、「リアルタイムで見せろ」となればなおさら無理そうです。
警察が事件後全容解明のために記録の押収をして調査するのはできるでしょうが(飛行機事故ではボイスレコーダーの解明が普通です)このグループが連続亜skいうあっhライ糸井だけで検挙できる証拠がないから追尾して現行犯逮捕の必要があるということはこれから犯行しそうだから、リアルタイムで監視させてくれということですからまだ罪科のない人そこまで監視して良いのか?となります。
ただ、善良な一般人をやみくもにGPSで追尾監視しようというのではなく、今後も実行しそうなグループとして合理的根拠を得て始めるものとすれば、その程度の要件を満たしているか否かの審査機関(裁判所)を設けて一定期間に限っての監視を許可するのも一方法でしょうが、電波傍受と違い取り付け行為許可の法技術は難しいと思われます。
前提制度として車製造基準としてGPS装着を義務付ける制度設計を先行させて、裁判所が一定の要件合致する場合にのみ一定範囲で傍受を許可するのも1方法でしょうか?
訴訟態度のあり方に戻りますと、仮にGPS捜査自体を禁止すべき!とメデイアで大々的政治主張し耳目を集めていた場合に比べれば、上記弁護士が余計な主張をしなかった・法律上の問題提起に徹したのは賢明・スマートだったという限度での評価です。

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