遺産の重要性2(相続税重課の危険性)

もしも遺産収入が9割の社会の場合、その殆どを相続税で取り上げるとすれば、国民は等しく貧しくなるしかありません。
2年ほど前から相続税の重課改正案が出ていて、タマタマ民主党の総理交代や原発事故が続いた結果国会を通過しなかっただけで大した議論がないままですから、今年の国会にかかっていましたが、今年は通過したのかさえ大きな報道がないままです。
しかし、これまでの基礎控除5000万円が3000万円までの大幅減になり一人当たり控除も1000万円から600万円までになるなど大幅減=大幅増税です。
一人っ子で親が死亡して遺産総額が3600万円を超えると課税されるということです。
税率も金額帯によって違いますが、約5%前後アップになっています
何回も書いているように、バブル崩壊後の物価下落が作用しているので必ずしも大幅増税とは言えませんが、取り易いところから少しでも徴収したいとなれば、今後は目立ち難い相続税の小刻み増税がこれから続く可能性があります。
こうした傾向が続いて(何しろ格差是正と言えば「錦の御旗」・・・相続税率引き上げは反対し難いテーマです・・)その内に、広大な邸宅どころか普通の一戸建ての住居がすべて課税対象になり、極論すれば(後記のとおり杞憂に類する遊びですが・・)相続人の殆どが親と同居していた自宅を売却しなければならない時代が来るかも知れません。
ただしここで書いているのは親子相続の場合であって、さすがに配偶者基礎控除は1億600万円のままですので夫が死んでも妻が自宅を売る必要のある場合は滅多にありません。
最初は基礎控除として遺産100坪超の土地相続が基礎控除外の課税対象となり、・・次の改正では90坪超の人が、その次には80坪超・・最後に30坪超までとなって来ると、庶民まで家を失うようになりかねません。
遺産の比重の少ない成長期の社会では、相続税を重くしてもその影響を受けるのはごく少数ですが、こういう時代には所得税も多く入るので政府は相続税に重きを置いていません。
生活苦の人まで相続財産に頼る低成長時代になってくると、不公平だからと言って相続税を重くして行くと傾向があるので、殆どの国民が相続税を払わざるを得なくなり、かなりの人が相続になると親の家(自宅)を手放さざるを得なくなくなります。
遺産のない人と比較すればそれでも公平かも知れませんが、国・社会のあり方としてどうかと言う疑問です。
親と同居していた自宅を売却しても、納税後一定のお金が手に残ることは相違ない・・それだけでも何もない人よりは有利じゃないかと言えますが、税を払うために売るしかないということは最早自分で同等の家を買えないということでしょう。
大きな屋敷を処分した場合普通の家を買い替えれば良いのですが、普通の家を相続税を払うために売らざるを得ない場合、納税後のお金では最早普通の家を買えません。
成長期には親の遺産などあってもなくても自分で儲けて新規に資産形成すれば良い時代でしたが、低成長どころか下降気味の社会では、非正規雇用が普通の社会になれば例外的成功者以外は日常生活費の外に新たに土地購入プラス新築をして新たな資産形成するのは不可能です。
もしも一般労働者の月給が中国並みの2〜3万円になれば、一般労働者にとっては一旦自宅を手放せば再度マイホーム取得の夢を実現するのは到底無理でしょう。
格差是正のためにと称して取り易い相続税の増税を繰り返して行って、もしも親譲りの家の殆どを相続税で召し上げる時代が来たら、持ち家が殆どなくなってしまい・公営住宅ばかりになるのでしょうか?
増税してもその分公営住宅を税で建てなければならないとすれば、それほど経済効率が良いとは思えません。
(実際には親と同居していた家の場合、基礎控除額とは別に一定面積までの控除制度などがその都度設けられて修正されるでしょうから、ここは、杞憂に類する遊びの議論です)
歴史を振り返ると、我が国が相続税を日露戦戦争の戦費調達のために課税したの世界最初であることを11/20/03「相続税法10(相続税の歴史)」のコラムで紹介したことがありますが、世界中で相続課税がそれまでなかったのはそれなりに理由があると思います。
成長のない静的社会(西洋中世や江戸時代を想定して下さい)でも、毎年の収穫(穀物その他の収穫)に対する課税ならば持続可能ですが、土地や領土の相続自体にあるいは保有自体に課税して行くと、私的所有・領地はは縮小して行くばかりで何代か繰り返すと私的所有がなくなってしまいます。
格差が遺産の有無・大小による影響の大きな静的社会になればなるほど、格差是正のために相続税を重くしたくなるでしょうが、そうすると逆に弊害が大きくなるパラドックスです。

我が国では古代の律令制、最近ではソ連や中国、北朝鮮の国有化の結果、国公有化政策はすべてうまく行かなかったことから分るように、農地あるいは生産材を国・公有化してうまく行く訳がありません。
個々人の住む家まで全部取り上げて、原則個性のない公営住宅ばかりの社会で人が生まれて育つ時代を想像すれば、個性の発揮される創造的能力が育ち難く、国勢がいよいよ衰退してしまいます。

労働収入の減少4(遺産の重要性1)

もしも、公私(政府も個人も)共に親世代の遺産・資本収益で食いつなぐしかないとすれば、子世代が少ない方が親世代から受ける資産が一人当たり多くなってより長く持続し、豊かな生活が出来ますから、私の持論ですが少子化こそ早急に進めるべきです。
5月7日のギリシャやフランスの選挙の結果や中国の動きに関連して資本収益が将来的に安心出来ないことを、このシリーズ(資本収益の持続性シリーズ・・・・2012-5-5「海外収益還流持続性1(労働収入の減少1以下)では書いて行く予定です。
以前は自分の生活費くらいは自分の収入で賄えたので、ワンランク上の生活・・家を買うような負担があるかないかの格差でしたが、今はその日の生活費が不足気味なのでその分の下駄を履かせて貰えるかどうかが重要になっています。
遺産・・主として相続した家のある人とない人とでは生活水準がまるで違って来る・・これに加えて、金融資産も残してくれているかどうかも大きな違いになってきます。
(この辺は都会2世と今から都会に出る人との格差問題としてFebruary 5, 2011「都市住民内格差7(相続税重課)」前後で書いたことがあります)
上記コラムでも書きましたが、成長の停まった社会では世襲財産・・遺産の比重が大きくなります。
もしも将来資本収益がなくなって一般労働者が中国並みの月収2〜3万円だけで生活しなくてはならない時代が来た場合、現状の月4〜50万円を前提にする個人の生活費が賄えなくなる結果、親世代遺産の重要性が増しています。
個人に限らず公的資産の維持も収入の減った彼らからの税(フロー収入に対する課税)だけでは賄えなくなるので、公的団体にとっても親世代の遺産重要性(相続税・資産保有税の比重)が増してきます。
現在日本の工場労働者は中国人の約10倍の賃金を得ていますが、同じような工場設備を利用して生産活動してる場合、車その他の製品の品質に10倍の格差がある訳がないので、この差額の殆どは、資本収益(親世代の過去の稼ぎ・・本社機能を日本においていることなどを含めて)の配分によっていることになります。
日本全体が、現役労働対価よりも資本収益が多くなった社会・・例えば全収入の9割が資本収益・・過去の儲けの配当とすれば、この部分は、6〜70代以前の世代の稼ぎ・・相続が殆どでしょう。
国の方も、現役(フロー)収入に対する課税だけでは税収や保険料収入が減る一方になって来て、公的経費が賄えなくなって来るので、政府もこの遺産を欲しくなるのは必然で国と個人間で相続財産の取り合いになります。
そこで、格差是正のためには、相続税を重くして行くべきだと言う制度改正スローガンが出て来るのですが、これは上記の通り政府自体も収入源として相続財産に関心を持つようになったことのきれいごと的表現・・レトリックに過ぎないでしょう。
長い間遺産相続権は血族間で争うものでしたが、(日本の跡目争いやスペインの王位継承戦争など)これからは親族間で争う前に政府が先にどれだけピンハネするかの配分争いが先に生じることになってきます。
遺産の奪い合い・・争いは、今のところ格差是正のスローガンしか誰も気がついていないようですから、外の増税に比べて反対が少なく政府の方に簡単に軍配が上がりそうですが、反対が少ないから・・取り易いからと今後相続税の増税を繰り返して行っても社会が持つ・・持続可能でしょうか?

蓄積の利用

次世代が頑張ってしぶとく生き残ってくれれば、私の生きている限りの時代には高度成長期とその後の蓄積を利用して、次世代も何とかなるし豊かな老後が保障され、日本の憂き目を見ないで済むでしょう。
(バブル崩壊後もずっと貿易を含めた総合収支で大幅な黒字を続けているのはご存知のとおりですから、蓄積を食いつぶし始めるのはまだずっと先のことです。)
次世代は、我々世代のように何もないところにインフラを作る必要がなく、現状維持で足りるのですから、実は我々世代のようにぼろ稼ぎをする必要がありません。
社会全体では分りにくいので、個人レベルに落として言えば、我々世代は都市住民2〜3世でも子沢山時代で長寿化の始まる頃だったので長男でさえも自分で郊外に出て土地購入から始まりましたが、次世代は少子化の結果親又は祖父母の遺産を承継出来るので建物の建て替え費用だけで足りる時代ですから、次世代はそれほど稼がなくとも間に合います。
ただし大都市圏に通勤出来ない地方出身の次世代にとってはゼロからの資産形成が必要ですから、この点は昨年末からのテーマ・都市住民内格差の続きとしてこの後で書いて行きます。
建物も従来と違い百年住宅が標榜されるようになり、一般的に耐久性が増していますので次世代は建て替え費用負担も不要でちょっとした仕様変更・リフォームだけで間に合う時代になるでしょう。
このことは新築の減少ですから、(仮に30年に1回の建て替えが100年に1回になれば単純計算で3分の1)海外進出による国内生産縮小にとどまらず、国内需要・労働力需要面がさらに縮小して行くことになります。
いろんな意味で少子化を進め供給をしぼり、(その分国内需要も減少しますが)労働力過剰問題を解決していかないと国民は暗い気持ちにならざるを得ません。
昨年大晦日に書いたように、子沢山でも全員失業又は非正規雇用よりは一人っ子でもきちんとした未来のある職業についている方が親にとっては幸福です。
これを国家レベルにしても同じことで、人口大国で威張るよりは人口はほどほどでも一人当たり収入が多い方が国民は幸せですが、政権担当者は対外的に大きな顔をしたいので、つい本末転倒した政策をしたがる傾向があり、マスコミもこれに迎合して少子化対策などと報道したがるのです。
少子化対策と言うならば、少子化の進行が世の中の変化に遅れていることが原因ですから、もっと少子化を加速・促進させる対策であるべきです。
人口問題は情緒に訴えるのではなく、合理的に考えて行くべき問題です。

遺産価値と高齢者

 

現在社会では親が1〜2億円残してくれても、本人が掃除夫や労務者をしていると社会で大きな顔を出来ませんし、その逆に親が数百万円しか残してくれなくとも自分の才覚で中小企業のオーナー、大手企業の社長になっている人にとっては大きな顔をして人生を送れるのです。
ところで、農業社会であっても農地売買が自由化されていれば、能力のある人が少しずつ買い増して行き、長い間には、2倍の耕地をもっていた人との地位(収入)の逆転も可能です。
これに対して農地売買が禁止されているとホンのちょっとした能力差に基づいて少しずつ溜め込んで少しづつでも農地を買い増して行くことが出来ないので、農地の売買禁止制度は、(農業が主産業の時代には)言うならば格差固定社会の制度的保障だったのです。
現在で言えば、ドラグストアーや牛丼店、ラーメン屋、ホテル等の経営者が儲けを少しずつ溜め込んで少しずつ店を大きくし、あるいは1店舗ずつ出店して増やして行くことが禁止されているようなものです。
耕地売買禁止は貧農の没落防止・弱者保護策とは言うものの実質的には体のいい競争禁止制度・格差固定制度として機能していたのです。
現在での弱者保護を名目に競争をなくそうとしているのと同じで、結局はある一時期の競争(江戸時代で言えば戦国末期の功労)の結果出来上がった既得権の保護思想でしかありません。
こういう制度下では農業従事者にとっても工夫・努力によって耕地・経営規模拡大が出来ないので、精々濃厚な手間ひまかける集約農業に進むしかなかったことになります。
江戸時代の永代売買禁止令は(新田開発がなくなった以降は)規模拡大が出来ないだけではなく、経営に失敗しても農地を失わない制度でもあったのです。
今で言えば、店舗買収や新店舗開店を禁止していれば、10店を相続した人と2店舗を相続した人とでは、どんなに能力差があっても失敗した方の店の存続は許されるし、成功した人も店舗新設拡張が出来ない・・一生どころか何世代たっても同じ格差のままの制度だったと言うことです。
こうして見ると、世襲・身分制社会出現は静止した・成長の止まった(新田開発の止まった)農耕社会のほぼ必然だったし、永代売買禁止令はこれの制度的保障だったとも言えます。
江戸時代の永代売買禁止令の表向きの理由は、弱者が農地を失っていよいよ落ちぶれて行くのを防ぐと言うこと・・今で言えば市場経済化・格差拡大反対・負け組を作るなと言う合唱と同じです。
とは言うものの、小作人化を防ぐのは別の方策を考える・・市場経済化による病理の救済は、別に考えればいいことです。
格差拡大反対論は、一見きれいごとをいいながら実は過去の格差・既得権を固定する役割があるので、要注意思想です。
市場経済化反対・格差反対論は、実質は格差固定論であることについては、01/19/10「終身雇用と固定化3(学歴主義2)」以下のコラムで少し書きましたし、この後市場経済・・学歴主義と競争に関してもう一度書きます。
江戸時代を通じて永代売買禁止がくり返し強調されたのは、農地売買の自由を認めると農家の流動化が始まり、ひいては幕藩体制の基礎たる固定社会崩壊に連なるリスクがあったからに過ぎません。
話がそれましたが、我々が育った高度成長期の日本では遺産として1000万円貰った人と500万円貰った人、100万円も貰えなかった人との格差が一生続くものではなく、その程度の差では一時的効果でしかなく、本人の能力・努力差による差の方が大きい社会でしたから、親からの遺産を期待する比重が大幅に減少していました。

農業社会の遺産価値

ところで何故遺産相続の価値が低下したかの検討ですが、長寿化が進んだことによるだけではなく、農業社会では遺産が生涯の生活手段そのもの・すべてを提供するものだったことによると思われます。
農業社会の農家にとっては農地の相続をするのは、不動産屋に売れる農地(貨幣価値)を相続したと言う意味ではなく、その農地を利用して未来永劫に収入を挙げて行く生活手段・・金の卵を産む鶏のようなものを継承する意味がありました。
農業以外にこれと言った産業のない時代には、農地(あるいはこの支配権力)を相続出来なければたちまち生きて行くのに困るし、相続出来れば一生涯生活が保障されている関係ですから、相続出来るか否かは死活的重要性を持っていました。
これに対して、現在では自分の収入源の殆どは自分の能力に応じた職業によるのであって、過去の蓄積・・静止した相続財産だけで食って行けるほど巨額の遺産を残せる人は滅多にいません。
仮に一定の資産を親から受けても、鳩山総理の母が受けたような巨額遺産は滅多になくて普通の遺産・・1億程度では子供達は自分である程度稼がない限り遊んで使っていると直ぐに食いつぶしてしまう性質のものですが、農業を基本とする社会では遺産が多くても少なくともその意味がまるで違ったのです。
すなわち相続する財産・・農地は生産手段ですから、その規模がたとえば1町歩か5反歩(武家で言えば50石取りか100石取り)かによって、個人能力差によらずに生活水準が2倍の違いに決まってしまうことがあって、ともかくその規模に合わせた生活が保障されていました。
このように遺産がその後の収入・生活水準を決める関係でもあったので、遺産の規模内容が死活的重要性を持っていました。
武士の場合はお城勤めがあったので能力によって就ける役職に差が着き・・役料等で(足し高の制)修正されましたが、農家の場合どんなに能力差があっても、同じ気候風土の地域で相続する耕地面積が2〜3倍も差があれば、収穫量を逆転することは不可能・・結局は世襲財産規模によって生活水準がほぼ100%決定づけられる社会でした。
どんなにうまく耕作しても、同じ地域で保有農地5〜6反歩規模の農家の収穫量が、1町歩〜1町5反歩規模保有農家の収穫量を抜くことは不可能です。
今では遺産相続と言えば、静止した財産相続(・・社会的地位・言わば生活手段の継承が含まれる世襲とは違うことを11/14/03「相続と世襲3(民法113)物権と債権1」で少し書きました)のことですから、親の残してくれた資産がある程度あってもなくとも、現在の職業による収入の補完材料でしかなくなっているので、相対的なものでしかありません。 ブリジストンの娘・・鳩山前総理の母親のような巨額遺産の場合は別ですが、1〜2億前後の一般的な場合、その遺産で一生生活して行ける訳ではなく、人生は子供世代・・自分自身の職業生活にかかっています。

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