IT化と生き甲斐3(伊勢物語)

ただし昨日書いたことは、観念的区分けができる前提の喩え話であって、生きることに直接関与する人は今も少ないでしょうが、間接関与の程度が限りなく複雑で遠くなって行くので、実は一方の分類では消費に入ることでも、生きるための営みとも言えることが多いと思われます。
大きく分ければレストランの調理は(農作物育てる過程とそれを自宅に持ちかえって食べる過程に分ければ)生産活動と言うより消費活動の一環ですが、レストランが飲食物を提供するのは自分が食べるためではなく、人のためになっています。
このように何が消費で何が生産的かの分類(分類の目的によって違うべきでしょう)が難しいですが、お金になる行為はそれなりに他人のためになっていることの証と言えるでしょう。
お金になるということは、それだけの価値を生み出しているから払うのですから、この分を国内総生産にカウントするのが現在の仕組みです。
300〜400〜500円と多くの人手を介して順次仕入れたものを最後に600円で売れば、商品の移動の都度100円の増値行為があった・それを消費するので各100円の増値税・・我が国では消費税を支払う仕組み・・最終消費者が600円に対する消費税を払いますが、500円で仕入れた商人が仕入れ時に500円に対する消費税を支払い済みですので自己負担は100円に対する負担だけになります。
このように家庭内の無償行為を全部外部行為に切り替えれば有償行為になる・・人のためになっていることが可視化されますが、人間の生きがいとしては同じです。
女性は直接的な生産活動に関与する時間と家庭内無償行為に分断されていた分、一見生産関与率が低いとされてきただけでその気になれば 殆どが有償行為 に分類されます。
女性が家庭内の無償行為の大部分をこなしていることから考えると、IT~AI化時代が進行して、生産直結行為が減る一方で外見的には大多数の人の行為が消費活動しかないような時代がきても、女性の方が自己実現力が高い・・適応力が強そうです。
家庭内の炊事洗濯掃除など目に見えるものは男性も分担可能ですが、感情を共有し愛情を注ぐ行為になると男性は(例外はありますが大方の場合)遠く及ばないように見えます。
愛情を注ぐのって、生産行為か消費行為か分かりませんが、風俗系でお金を取る場合だけが生産行為ではなくお母さんの愛情の価値(無税ですが・・)は千金に値するでしょう。
母親でなくとも保育園での保育士が幼児に対して愛情を注ぐ必要性も同じです。
病院での看護師さんも同じで、手際よく処置する器用さだけではなく患者の痛みに対する共感力も重要です。
「春宵一刻値千金」とも言いますが、「春宵を愛でる気持ち」があるか否かで春宵の価値が違ってきます。
今後愛情・感性の価値が(相場?)上がりそうですが、逆に終身独身者が増えて行くと、無償の愛を感じるチャンスが減りますが、このギャップをどうするかでしょう。
ロボット〜AI化がいくら進んでも本物に代え難いものとして最後まで残るのは愛情でしょうから、今後女性の得意とする分野の価値が上がる一方です。
男性は子供に対する母親の愛情のおこぼれをもらって家庭内に居場所をようやく確保している印象になって行きます。
愛情の需要が増えているのに供給が少ない現状〜将来不安があるからペット代用ロボットへの期待が高まっているのではないでしょうか。
生きるための仕事をしなくとも食える人が増える・・何もしなくとも行きていける社会になった場合の生きがい喪失に戻ります。
この点に関して古くから人口に膾炙しているところでは、伊勢物語のこのくだりでしょうか?
https://blog.goo.ne.jp/87108/e/d2d2676421899b4c5ad9f53d72d42004

伊勢物語(九)「身をえうなきものに思ひなして」

彼は皇族から臣籍にくだった2代目だったかな?、立身の限界を感じて東に下ったという筋書きです。
在原業平に関するウイキペデイアの記事です。

父は平城天皇の第一皇子・阿保親王、母は桓武天皇の皇女・伊都内親王で、業平は父方をたどれば平城天皇の孫・桓武天皇の曾孫であり、母方をたどれば桓武天皇の孫にあたる。血筋からすれば非常に高貴な身分だが、薬子の変により皇統が嵯峨天皇の子孫へ移っていたこともあり、天長3年(826年)に父・阿保親王の上表によって臣籍降下し、兄・行平らと共に在原朝臣姓を名乗る。

現在では財閥の御曹司は使いきれない巨額資産を受け継ぐので、生活費を稼ぐ喜びがない・創業者の真似をしても多くの場合かなわないし、後継者役割限定では何をして良いのかわからない・うっかり余計なことも言えない一生飼い殺しされる状態です。
そこで生きがいを見つけるには別世界・・F1レーサーとか、テニス・スポーツ界に出るとか、芸術に没頭するかヤケになるしかない大変な人生です。
ホンダ創業者の息子やソニー盛田氏の息子など多くは気の毒な結果になっているのが知られていますが、失敗で有名にならない人でも多くは苦労な人生を送っている筈です。
幕府大老の家柄から飛び出した酒井抱一は、別世界での大成功者というべきでしょうが、こんな恵まれた才能のある人は万に一つもないことです。
社会の急激な変化にうまく適応して成功を謳歌しているグループと置き去りされたグループとの二極分化は弁護士会にも及んできました。
創業に成功したものの絶えざる競争に晒されて息つく暇もない経営者や、リストラや定年後の喪失感に苦しむホワイトカラーにとって、三十年ほど前には自分の子供らの進路としておすすめ職業のように見えたことでしょう。
ところが、弁護士業界が夢のように恵まれた時期があったのは、資格審査の厳格性による厳しい参入障壁があった歴史的偶然性によっていたに過ぎませんでした。
参入障壁が大幅に緩和されると社会全般に生じている格差が弁護士業界に遅れて押し寄せてきたようです。
皇族の係累に属し恵まれた立場の在原業平でさえ政争の渦に巻き込まれるなど安定したものでなかったように競争・淘汰のない安定業種は昔からありません。

不満社会7(IT化と生き甲斐)

明治維新では産業構造の変化で三菱等新興財閥勃興等の成功者が知られていますが、これを支える中間層の需要が広がったので、社会全体では幸福感を感じた人の方が多かったでしょう。
学校教育では劣悪な労働環境(女工哀史など)が教えられ、その結果工場労働法ができたと教えられますが、(その通りでしょうが)元々の貧民層・小作関係や下男下女等最末端では朝目が覚めたときから働いていた人たちにとっては決まった時間だけ働けばいいし、主人の顔色を窺う必要もない工場労働は天国だったかもしれません。
私は池袋で底辺的職種に揉まれて青少年時代を過ごしたのですが、当時の雰囲気では大手工場等に勤める人たちは高嶺の花的存在でした。
個人商店は夜遅くまで開き、朝9時始まりの勤め人などは羨ましいばかり、週休などもありませんでした。
この点は中国の農民工が低賃金など問題にしないで続々と深セン特区の大規模工場に吸い込まれて行ったのと同じです。
明治維新の近代化では中間層の拡大を伴ったので社会全体では幸せを感じる人の方が多かった・元士族でも一定の能力のある人は新政府や、各県政府の役人にそのまま横滑りしていましたので、役立たずの不平士族の方が少なかったので不平氏族の反乱は(薩摩を除けば?)それぞれの地元でもそれほどの支持を受けませんでした。
(明治初期司法制度の歴史のコラムで、いまのように司法試験制度もなかったので、廃藩置県当時各藩の家老や奉行等の経験者が地方判事の給源になっていたことを紹介しました)
今回のIT革命では人口の多くを占める中間層不要化トレンド・・近代産業革命以降増加した職場の縮小・・揺り戻しですから、安定していた生活基盤を切り崩される中間層は膨大で不平層の方が多くなっているのが特徴です。
今後IT時代だと分かっていても消費場面ではスマホの操作能力などで適応できても、生産参加に適応できるほどの人材は少ないのが明らかです。
そもそもIT化が進めば進むほど中間管理職や労働者が不要になるシステムですから、IT開発に関与できる人の数は極小数になる・・それ以外はいらない社会になればほとんどの人は不幸になっていくしかないように見えます。
この流れを防げないとすれば、何に対して幸福感を持てるか不幸とは何かの問題になります。
仕事はさせられるのではなく「仕事すること自体が幸せ」というのが我が国の国民性でしたので、高齢化しても元気である限り何か「仕事」をする・周りに役立ちたい気風が今も続いています。
メデイアは高齢化→現役の負担増ばかり強調して世代間対立を煽っていますが、国民多くの関心は社会に貢献できていない・幸福感喪失をどうやって穴埋めしていくかに関心を持ってきました。
高齢になっても健康な人は何か仕事を見つけて(朝の小学生登校時見守り活動や草刈り等のボランテイアなど)働けば(町内会活動でもいい・・お金の問題でない人が多い)社会が豊かになりその人も幸せではないかという気風です。
「働く」という言葉自体が、お金目的の「労働」ではなくお祭りの準備でも家の周りの掃除でも、何かの役に立てれば幸せという意識を示しています。
西欧的価値観・労働=搾取という発想では、GDPがどうなるか?保険料を如何に負担させるかという方向の論議しか生まれないでしょうが、西欧的教養のない?庶民はもっと高次元で「お金よりは生きがい」を基準に考えていることがわかります。
私の場合で言えば、だいぶ前から収入面での期待感はゼロまたはマイナスですが、高齢化が進むのに比例して・・趣味のためにお金を使うのと同じような感覚で・・事務所経費負担マイナスに耐えられる限度で生き甲斐のために現役弁護士をやっている面が強くなっています。
このコラムは約20年続いていますが、はじめっから収入に100%関係しない意見ばかり書いていますので、コスト的には100%マイナスでしたが、何か自己表現したいからかな?書いているだけです。
これまでのメデイアの議論・関心は、年金赤字解消策・GDP低下に対する処方箋・70歳まで働かせることができないか?という関心が中心議論であったように見えます。
高齢化問題は、高齢化しただけで「めでたい」と終わりにせずに健康寿命の必要性が言われるようになったのは少しでも金銭負担させたい面もあるでしょうが、これと並行して精神面でも健康な状態・・「生きがいを持った高齢者になるようにすべきことがわかります。
高齢世代が増えてすることがなくて幸福感喪失をさせないようにどうするかの視点に立てば、若年無職者(各種障害者)も(失業保険や親の援助などで)お金さえあればいいのではなく、「満たされない自己実現意欲」をどうすべきかの点で共通課題であることがわかります。
最近始まった「こと消費」の流れは、受け身鑑賞、受け身の消費だけではなく自分の体を動かして何かしたい欲求に応える流れが表面化してきたと理解すべきでしょう。
人のために「役立つ喜び」を伴わない自己実現?例えばそば打ちの体験?程度で、(自己満足で持ち帰っても家族が喜ばない?)満足するしかないのでは多分続かない・虚しくなるでしょう。
精神病者に対する作業療法を一般人に広げる試みのような印象ですが・・。
とはいうものの、役立たない自己実現でいえば、各種スポーツ自体がすでに実用性のなくなった格闘や乗馬、射撃、剣道、レスリング等の格闘技〜走る早さを競い、泳いだり過酷レースなどすべて現実世界でほとんど何の役にも立たない不要な競争ばかりです。
パラリンピックはその最たるものでしょう。
日本でのお祭りや少年の部活等のスポーツへの誘導による不満発散による成功を書いてきましたが、お祭り準備等での役割を果たし大勢の観客に喝采を浴びる達成感がありますが、そば打ち家庭菜園程度で(むすめの家に持って行っても嫌がられることが多い)はそういう達成感がありません。
従来は精神病者や障害者あるいは社会不適合者・・その最たるものは失業者群ですので、政策失費の指標や競争落伍者としてこれの増減が重視されてきました。
病気になって仕事ができなくなると収入保障だけで終わりにせずに、病気を治して社会復帰を助ける医療行為が必要なように、失業者に対しても失業保険で生活保証するだけでなく職業訓練による能力底上げが重視されるようになっています。
健康体でないから失業したのではなく健康体で、しかも労働能力があっても失業したのは景気対策や景気変動によると思われている時代には、好景気をもたらすべき政治責任という社会認識でした。

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