憲法学の有用性3

観念論の非妥当性・・たとえば、金利動向で・あるいは消費税率変更で誰が損をし得をするか・・法人税軽減や特定分野の補助金や税の減免は、法の下の平等に反するかなど全て憲法問題ですが、その実態把握と必要性判断には人がどのように行動するか・・経済全体に及ぼす影響の大きさを実務を知らない哲学者や憲法学者の意見を参考にしようと言う(バカな)人は今では皆無に近いでしょう。
経済その他分野ごとの実務家・業界団体や専門家の意見・・加工食品・外食を軽減率から除外すると、外食産業→サービス業の盛衰にも係わり、ひいてはサービス業従事者のの多い低所得層の職場がどうなるか・・消費経済で成り立っている先進国経済がどうなるかなど、モノゴトには具体的な意見が必要ですから、抽象論しか知らない憲法学者の出番がないと考えるのが常識です。
「弱者にしわ寄せするな」と言う単純スローガンだけで解決出来るものではありません。
観念論の意義に戻りますと、「殺生するな」と言う理念しか知らずに具体的政治をしようとすれば、実務との整合がとれなくて、その結果綱吉の「生類憐みの令」になってしまいました。
赤穂浪士の裁定で荻生徂徠が意見を述べたことが有名ですが、儒学者=哲学者が具体的事件の裁定にどう言う効能を発揮出来たのかと言うところです。
次に論客となった新井白石は、中国古典の原理論を展開し、「貨幣改鋳は悪」(今で言えば異次元金融緩和政策の効果を無視した「悪」と発想に繋がるでしょうう・・。)言う政策を展開し国民は困りました。
観念論は単純なので分りよい・・「駄目なものは駄目」と言う元社会党党首の土井たか子氏のスローガンが有名になりました・新井白石の政治に国民が困りましたし、国民は原理論者に懲り懲りした経験を経て、享保の改革・・吉宗の実務家重視政治に移行して現在に至っています。
最近では、沖縄の基地移転先を「少なくとも県外に!と言う実務無視の民主党の公約が有名です。
実現可能性のない公約に乗る県民のレベルもレベルです。
夫婦別姓問題や非嫡出子の相続権なども憲法学者が議論するよりは、非嫡出子の比率その他の統計的情報、家事問題の専門家や実務をやっている弁護士等の意見の方が合理的です。
尊厳死や臓器移植の問題もその道のプロの意見が合理的ですし、憲法学者だからと言って現場の実情を知らないで何を言えるのか理解不能です。
表現の自由で言えば、猥褻性が争われたチャタレー事件でも、憲法の勉強さえしていれば、文学作品の価値やどの程度の性描写を猥褻と言うべきかの基準が分るものではありません。
通信傍受も通信の秘密・・憲法学者よりは、通信の秘密を何故必要とするようになったかの歴史の造詣が重要ですし、現在の通信技術の専門家・・権力の暴走をどうやって防止出来るかなど・・やテロ対策の専門家の意見が有用でしょう。
秘密保護法も先進諸外国で制定されているのですから、諸外国でどう言う人権侵害が起きているのか、起きていないとした場合、どう言う歯止めがあるのかなどその道の専門家の報告等に基づく地道な議論が必須です。
観念的に近代法の原理違反と言うだけでは、意味不明であることを書いてきました。
共謀罪も刑事訴訟の専門家やテロ対策専門家の意見が必須です。
いろんな分野の議論の蓄積結果・分野ごとの法律が出来上がっているし、その集大成の社会総意の思想的宣言が憲法になっているのであって、各論を知らない総花的憲法学者ってどう言う存在意義があるのか不明です。
せいぜい過去のスローガンを知っていると言う歴史学者的意味しかない・・今後の日本はどうあるべきかの意見を述べる場合、(欧米ではこうだと言う留学経験を述べるだけで自慢になる時代なら意味があったでしょうが・・)世界最先端社会になっている我が国で実務をやっている人よりも(欧米に詳しい?と言うだけで)優れた意見があるとは思えません。
学生の頃にすごく気に入っていた言葉に「無用の用」言う熟語がありますが、今や我が国の憲法学は役に立たないだけではなく、社会に害を及ぼす傾向があることから、今や老害並みの学問分野ではないかと思われます。
ところで憲法内容が不都合ならば、「憲法改正をすれば良いじゃないか」と言う意見が最もらしく提唱されています。
憲法改正はそんなに簡単に出来るでしょうか?
憲法改正論が戦後レジームに対する挑戦として、メリカが反対していなくとも、・・例えば普通の国内問題・・夫婦別姓問題でも、誰かえらい人がこれが良いと言って、イキナリ変更するようなものではありません。
何十年もの議論の経過で社会意識=憲法意識が変化して行く・・これこそが、先進社会における憲法改正のありようです。

憲法学の有用性?2

名誉革命や清教徒革命や産業革命で社会変化が先行していたイギリスでは、先頭走者として実践しながら考えて行くしなかったので法制度も実践によって不都合が起きる都度修正して行くしかないので、判例法の国と言われていました。
(現在のイギリス社会は、世界先端社会ではなく諸外国の事例を取り入れる方に回っているので、今や成文法中心になっています)
大陸諸国は最先頭のフランスでもイギリスより遅れて革命を起こし、産業革命も遅れて導入したことから分るように、思想家の観念構築が先行しての革命でしたので、「自由平等博愛」など華々しい標語等が歴史に残って有名ですが、要は遅れていたからに過ぎません。
ドイツにあってはフランスよりももっと遅れて参加した分、観念的思惟が更に深まった状態であった・・更に遅れて勉強を始めた日本人にとって、立派な観念体系の完成したドイツの観念論はもの凄く立派に見えたに過ぎません。
これを評してイギリス人は歩いてから考える、フランスは考えながら走る、ドイツ人は考えてから走る」と比喩的に言われていました。
哲学的基準では、「イギリスの経験論・判例法主義」に対して「大陸の観念論・(体系的)成文法主義」先行社会と未経験行為に一足飛びに挑戦する遅れた社会との対比で考えても分ります。
観念論や立派な観念体系の輸入が、役立つのは後進国社会であることが分ります。
佛教でもキリスト教でも、草創期には未完成で始まったに決まっていますし、遅れた社会が受け入れるときには、既に立派に教典になっているに過ぎません。
実際、観念論のドイツが今回の難民殺到に対して、無制限受け入れの原理原則(人道主義?)をメルケル首相が表明して、数日も持たないで、難民殺到に恐れをなして前言撤回するはめに陥っています。
良いことばかりではなく難民殺到と言うマイナス極面においても、最先端社会になれば観念論・原理原則論ではどうにもならないことが、今、正に証明されています。
日本社会は、江戸時代から庶民文化が花開いていたことから分るように、庶民レベルのもの凄く高い世界先進社会・ボトムアップ社会ですから、西欧にもアフリカにも良いところがあれば、部分的に摂取する程度が合理的であって、観念や制度の丸ごと導入・・「モンク言わずに従えば良い」と言うやり方は無理があります。
後進国が先進国の先端工場を丸ごと一足飛びに導入するだけではなく、最近では新幹線、原子力発電などその後の運営まで請け負うやり方と同じではありません。
日本が、古来から和魂洋才・・古代中国からでも良い部分だけ取り入れる・・律令制を丸ごと採用しなかったことを既に紹介してきました・・妥当であった根拠です。
幕末以来洋画の遠近法を取り入れても、日本画はなくなりません。
アメリカでは、ビル解体方法として大規模爆破するのが普通に見られますが、日本の場合時間がかかっても東京駅改造のように一日も運行を休まずに少しずつやって行く社会の違いです。
上海や香港・シンガポールのように高層ビルが良いとなれば、すぐに林立する社会とは、全く違います。
法制度も日本社会に適合する限度で徐々に良いところを日本社会に馴染むように変容させてから、採用して行けば良いのであって未消化状態でそのママ「ゴロッと」取り入れるとぎくしゃくして社会軋轢が生じるばかりです。
憲法解釈論に戻りますと、戦後アメリカによる憲法強制を例外(自主憲法を原則)としてみれば、憲法や社是等の基本精神は本来その社会の到達点の解釈であるべきです。
社是・社訓・憲法は各種分野・法律・実務到達点を制定当時に抽象化したものであるべきですから、法律の勉強で言えば憲法はスベテの法律(国民総意に基づく少しずつ修正の集大成))のまとめ・・法学概論にあたるもので、概論の専門家って必要なのか?ということになります。
フランス革命のように、「自由・平等・博愛」その他一人二人の思想家が何か言って、国民が反応する・・知識・技術を輸入に頼る後進国では、輸入思想の解釈論・・実務を知らない学者の出番ですが先進国社会には対応しません。
わが国の場合では、哲学者や宗教家の発言力の変遷を見ると、江戸時代初期の天海僧正などの宗教家から荻生徂徠や新井白石などの儒学者に移り、吉宗以降実務家に移って行った「御定書・先例集の編纂)経緯を紹介したことがあります。
我が国では、高名な思想家が立派な意見を発開陳して、大衆がこれに反応するような社会はフランス革命のずっと前に卒業しているのです・・。

憲法学の有用性1

憲法学は独立の学問と言えるかどうかすら、(政治学の一分野?あるいは各法律の一分野?)怪しいと思う人が増えているでしょう。
戦後アメリカがアメリカ製の憲法を強制する必要から「憲法学者」と言うアメリカ思想の伝道師を養成してこれが戦後ハバを利かしていたに過ぎないように思えます。
アメリカとしては日本占領時にアメリカが意図するように日本の法制度を完成するのは無理があるので、社会価値の基本である民法改正や農地解放あるいは教育勅語など、大急ぎで旧価値観解体を急ぎましたが、これを国民一般に浸透させるためにてっぺんの憲法学者の養成・・非武装論者や教育界の改造に取り組んで来たように見えます。
この尖兵・伝道者・・宣教師としての憲法学者や教員が養成されたのです。
・・如何に日本民族が劣っているかの教育に精出していましたし、(日本人は中学生レベルと言う有名な宣伝がでたのもこのころです)体型まで日本人の醜さはホッテントット人並みと言うマスコミ報道が・・昭和30年代後半私の高校生だったか大学生だったかの頃にはやっていました。
兎も角てっぺんの憲法からアメリカ式価値観を植え付けて行く方法として先ずは、憲法学者と言う宣教師を養成したように見えます。
朝鮮戦争が始まり、米ソ冷戦が激化して日本を自分の軍事力に組み込む必要が出て来ると、アメリカの意向で?日本の再軍備が始まり、憲法9条との矛盾を解決するために「統治行為論」が必要になって来ると、純粋培養した憲法学者や日教組が非武装論・・憲法9条をたてに中国ソ連寄りの行動をするようになって来て(左派の砦になってしまった)アメリカにとっても邪魔になってきました。
この辺はソ連抵抗勢力としてアフガンで養成したテロ組織・アルカイダグループが、ソ連崩壊後アメリカでテロをするようになったのと同じで、アメリカが力を入れて養成していた日教組と憲法学者が反米組織として最後の砦になって、残ってしまった印象です。
民法その他実務に根ざした法学系は、殆ど英米法の影響を受けませんでした。
実際日本社会の方がアメリカよりも進んだ社会ですから、数千年単位で遅れているアメリカモデルが日本社会に浸透出来る筈がありません・・・次第に日本の実態に根ざした学問になって行ったのと比較すると観念論に終始出来る憲法論や社会から遊離した観念に固まっていても子供の教育と関係がない・・小中学生はモンク言えない・・強制ですから、私立に行かない限り父兄に教師の選択権がないことから、日教組に根強く残ったのは偶然ではありません。
この後で書くように最近相次いでいる家事関係の憲法違反の最高裁判決の内容を見ると・・社会実態の変動に基づく実質的な憲法改正ですが・・これを主導して来たのは、憲法学者ではなく実務家の社会実態変動を基礎にした粘り強い運動が実を結んでいるものです。
以下(長くなり過ぎるので引用は20日のコラムになります)で非嫡出子相続分差別に対する違憲判決の詳細を紹介します。
これによると戦後の長い間の社会実態の変化やこれに合わせた戸籍規定の変更・・政府による改正案作成の経過などによる緩慢な?周辺整備の進捗具合、あるいは、過去の合憲判決の中身の変遷等を丹念に跡づけた結果、遅くとも平成◯◯年ころには、(それまでは合憲であったが)非嫡出子差別が許容されない社会意識になったと言う認定・・これによるとその時期を期して憲法が変更されたことになる・・判決ですので、煩を厭わずにお読み下さい。
要は我が国は何事も丁寧に・・観念論だけ決めるようなイキナリ乱暴なことをしない・・社会実態変化に即して修正して行く社会であることを知るべきです。
韓国では、先進国で良いとなれば、国情を無視して大幅改正していく乱暴な社会ですが・・後進国は製造設備なども一足飛びに最新技術の向上を誘致出来ますが、・・法と言うものが国民意識の上に成立していると言う意識がまだ成立していない・・エリートと庶民の意識格差が激しい・・庶民は黙って従えば良いという意識社会だから出来ることです。
憲法は国民のための憲法であり、異民族が押し付けるべきものではないと言う原理論から言えば、社会実態が数十年単位で変わって行くのに合わせて憲法解釈も徐々に変わって行くべきです。
そうなると憲法はドラスチックな憲法改正によるのではなく、判例変更に委ねるのが、合理的で国民投票による憲法改正と言う荒療治をやるのは革命的動乱時に限る(・・アラブ諸国のように数十年単位で社会が大混乱しますので・・結果的に数十年かけて徐々に運用を変えて行く方が合理的)べきでしょう。

最低レベル競争の有用性5(民族のDNA2)

政治の目的は最低レベルの引き上げにあるとすれば、日本は極限状況下でも犯罪が起きないのですから世界で最も政治や教育のうまく行っている社会と言えるでしょう。
最低水準の底上げこそが重要だとすれば、ノーベル賞・オリンピックその他の競技でトップを競うのではなく、今後は最低レベルがどこにあるかを競う競技の仕組みを考案することこそが、生身の人間の幸福度を測るには重要です。
世界大富豪長者番付100位以内が最も多い国や都市が、生活し易い社会かと言うと、そうではありません。
むしろ大富豪やその家族が出歩くのにいつもガードマンを10数人引き連れないと安心して歩けないような国や都会、あるいは自宅が何千平方メートルの豪邸でも敷地を出て数十〜数百メートル歩くとその先は貧民街のような都会よりは、日本のように大富豪にランクされる人でも小さな家に住んで、どこまで歩いても綺麗な街並の続く日本の丸の内や銀座〜麻布六本木等の繁華街や住宅街を好きなだけ一人で歩き回れる方が、なんぼか気楽で生活し易いことが明らかです。
その社会の快適性は富豪や各種分野での世界ランキング保持者(上位者)の数ではなく、その社会を構成する最低レベル者の意識レベル次第で変わります。
世界一綺麗好き人口が多くいても、道路に痰を吐き、ゴミを捨てながら歩く人が一杯いれば街は汚くなります。
国威発揚のために過去のソ連・・中国ではいまでも特定選手等のエリート養成に必死になっていますが、言わば一点集中すれば北朝鮮だって可能ですから社会のレベルを計る基準にはなりません。
テストで言えば、出題される問題だけ特訓勉強して100点取って自慢しているようなものです。
世界一のお金持ちやスポーツ選手・学者等の数ではなく、最低生活水準や最低道徳水準をどこまで引き上げている国・社会であるかこそがその社会の価値です。
科学技術でも同じことで、衛星や大陸間弾道弾を成功させている一方で首都では市民が有毒スモッグで呼吸すらまともに出来ない国造りをして自慢しているのって、何のために政府が存在しているのか疑問です。
スモッグをやめる技術は既に何十年も前から既に開発されていて、日本では何十年も前に克服していますが、中国は国民のために使うお金を惜しんで、軍事費や公安にお金を掛けています。
脱硫技術等公害防止技術を日本からお金をかけて導入しない・・導入してもコストがかかる(フィルターをしょっ中取り替えるコストが膨大らしい)からと言って外してしまうようです・・毒入りミルク事件と同様で国民の健康よりも自分の利益ばかり気になる国民性・道徳意識の社会です。
レアアースでも世界中で採れますが、中国の場合公害・健康被害を無視して無茶苦茶に開発していたから世界一コストが安くて(国民の健康悪化と引き換えに)市場を席巻出来ていたに過ぎません。
政府やその社会のレベルは、トップクラスや最先端に何人いるかではなく(その種の競争は一点集中投資すれば可能ですので北朝鮮のロケット成功の例でも分るように簡単です)最低生活レベルをどこまで保障しているか・最低者の道義心レベルがどの辺に落ち着いているかによると言うべきでしょう。
そして、この種の底上げは一点豪華主義で特定少数者に対して集中教育しても出来ませんので、何世代にもわたって形成されたDNE・社会のレベル・・文字どおり民度になります。

最低レベル競争の有用性4(民族のDNA1)

オーバードクターや理容美容師や1級建築士等の供給が増えたからと言って、受入れ業界で大学教授を倍増するなどの救済をしているでしょうか?
就職率アップ・救済に取り組む必要があるのは、その供給に関与している業界(資格付与機関・・各種学校や大学院等)が自己の業界維持のためにするべきことです。
(就職出来ないと理容師等になる人が減る・・専門学校や法科大学院を維持出来なくなります)
オーバードクターや司法試験合格者増による就職難は供給側(大学院等の応募者が減ることから)に責任のあることであって、受け入れ側で入会資格を何故レベルダウンせねならないのか不思議です。
2月10日に書き始めていた国家・社会の最低レベルに話題を戻します。
どこの社会でも最下位層がいて、しかも文字も読めない人や精薄レベルの人がいる点は同じですし、彼らに出て行ってくれとは言えないのですから最低ランク自体は同じと言えます。
ただ、民族の歴史によって、受け継いだ道徳的DNAが違いますので、知能指数等計測可能なレベルとは違ってイザというときの判断・行動基準の差が出てきます。
我が国の場合、東北大地震〜津波で治安を含めていろんなインフラが広域に100%機能不全を起こしても暴動略奪が全く起きなかったどころか、積極的な助け合いが起きたことに世界中が驚いていました。
戦前から路傍の乞食まで新聞を読んでいるのを見た来日した外国人が驚いている記事が一杯あったのを想起しても良いでしょうが、知能水準だけではなく、日本の最低生活者の道徳レベルが世界各国に比べてかなり高いことと、これまで書いて来たように同胞意識が強固ですが、危機時にこそ逆に同胞意識が表面化するので、我が国では非常事態に乗じて暴動や火事場泥棒を起こす人が殆どいないのです。
日頃から犯罪傾向の強いアウトロ−な人でも郷土や村落共同体の危機時には助け合いに精出す傾向があります。
国民の道義的最低レベルは、危機・困窮時にこそ明らかになります。
健康レベルも同じで、暖衣飽食・楽しているときには大差がありませんが、限界的挑戦・・登山その他危機時にこそ体力差が現れます。
東北大震災でも日本国民の行動は多分世界中でも希有の事例だったでしょうし、それだけ民度が高度・・構成員の最低レベルの水準が高いことを証明したのです。
わが国の基準・・・政府と国民が一体であると言う価値基準で言えば、中国での反日暴動・日本商店での略奪は国民全部の意識かと誤解し勝ちですが、2月10日に書いたように国民の0、1%にも満たない・・しかも最低レベルの人たちの支持で行われているに過ぎないと思った方が良いでしょう。
(13億の1%は1300万人ですから、2〜3〜10万の暴徒などは、その辺に目にもつかない程度の小さなゴミが風で散らばったくらいの数です。)
大多数の中国人(99・9%以上)は、恥ずかしいことだと内心眉をひそめていた可能性があります。
道路で痰を吐く習慣は解放直後は中国要人でさえそうだったようですが、(鄧小平などトップクラスが来日時に東京の一流ホテルの高級じゅうたんの上にところ構わず痰を吐くのでホテル側では困りきっていたようです)今では日本に来る旅行者がホテルや畳の上に痰を吐くようなことをしませんので、最低クラスだけがその習慣を維持しているだけでしょう。
今回中国ではげしい対日暴動が起きても日本国内で跳ねっ返り(短絡的行動を好む筈)の右翼でさえ、短絡的行動をする人がいなかったのは最低民度のレベル差によります。
民度差・・暴動等でその国の民度を決める基準として、学校やスポーツ団体等で上位者レベルの競争ならば簡単ですが、最下位者同士の競争をしてランク付けするのは、結構難しいことです。
日本とその他の国のように最下位者のレベルが格段に違っていない限り最低レベル差の判定は難しいことから、安直なトップクラスの差で国威発揚が試みられて来たのです。
しかし、最下位者のレベル差こそ、犯罪率の差になるし社会の安定・・住み易さにとって重要な要素になります。
ノーベル賞受賞者やオリンピック金メダリストがA国ではB国の10倍いても、その国が格差社会で最低生活者がB国の10倍いる社会であれば、A国の方が病んでいることになりますし、生活し難い社会です。

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