価値観激変時代3(戦国時代1→下克上)

足利幕府はとりなし的利害調整ばかりしているうちに、応仁の乱〜戦国時代に拡大していくのですが、応仁の乱以降・細川や山名氏のように何カ国もの守護を兼ねる時代が終わります。
各地に土着した守護大名が地元武士団との結合を強め、細川や山名のような大規模領主から独立し守護大名となってきたからです。
ところが、その守護大名家ももっと地元密着の守護代(そのまた家老)等にその地位を奪われる下克上が進んできたのがいわゆる戦国時代です。
下克上の代表的人物・長尾為景(上杉謙信の実父)については、ウイキペデイアの一部引用します。

越後守護代であった長尾能景の子として生まれる。
・・・永正4年(1507年)春頃「為景謀反の気あり」と守護・上杉房能が為景討伐の準備をしていたため、8月にその機先を制して房能の居館を襲撃する[8]。逃亡中に房能が自刃すると、その養子・上杉定実を傀儡として守護に擁立した。この新守護擁立に反対する阿賀北地方の本庄時長・色部昌長・竹俣清綱は9月に為景に対して一斉に蜂起する・・(これらを撃退した・・稲垣注)8月に為景は銭貨80貫文を室町幕府に献上し、11月6日、幕府から上杉定実の越後守護就任が正式に認められ、為景も定実を助け補うことを命じられた[10]。

上記の通り主家を攻撃して自分の傀儡を擁立・反対派を撃退して将軍家から正式承認されるところまで行きます。
織田信長の父織田信秀の場合は、長尾家のように守護代ですらない・・さらに下層の地元豪族です。
ウイキペデイアによれば概要以下の通りです。

永正8年(1511年)、尾張国南西部海東郡・中島郡に跨る勝幡城(愛知県愛西市・稲沢市)を支配する勝幡城主で、清洲三奉行の一人の織田信定の長男として生まれる。
信定は尾張の守護代織田氏の一族で、尾張下四郡を支配する守護代「織田大和守家」(清洲織田氏)に仕える庶流として、主家の重臣の清洲三奉行の一家で弾正忠を称した家を継いでいた。
信秀は父・信定の生前である大永6年4月(1526年)から7年(1527年)6月の間に家督を譲られて当主となる
・・・経済的に伸長し勢力を増し、上洛して朝廷にも献金し、従五位下に叙位され、備後守に任官された。さらには室町幕府にも参じて、第13代将軍・足利義輝にも拝謁した。天文9年(1540年)から翌年にかけ、伊勢神宮遷宮のため、材木や銭七百貫文を献上した[9]。これで、天文10年9月、その礼として朝廷より、三河守に任じられたというが、周囲への使用例はない[9]。さらに天文12年(1543年)には、朝廷に内裏修理料として4000貫文を献上し、朝廷重視の姿勢を示す
・・・・信秀はその頂点で、主家の大和守家への臣従関係は保ちつつ、地位や権威は主家やその主君である尾張守護斯波氏をも上回り、弟の織田信康や織田信光ら一門・家臣を尾張の要所に配置し、尾張国内の他勢力を圧倒する戦国大名の地位を築いていった。
しかし信秀は終末まで守護代奉行であり、実質上は尾張を代表する戦国大名として斎藤、松平、今川ら他国大名と戦い続けたものの、形式的主君であった守護代家、守護家は維持したままで、尾張国内の大和守家や他の三奉行や犬山の織田信清など何度も敵対し争ったり、反乱されたりしているのに、最後まで徹底して粛清したり叩こうとせず、それらを抱えたまま国外の敵と戦うという限界があり、旧来の権威や秩序を重んじる古さがあったと指摘され、それらの併呑や排除は信長の代を待つことになる[7]。

守護代織田大和守家一族の庶流(家臣団に降った・奉行の一員)でしかない家柄にうまれたのが信秀の親・信定です。
これが信定〜信秀と代を重ねる都度勢力を拡大し、事実上尾張国の守護や守護代を凌ぐ地位にのし上がって次の信長の世代になります。
応仁の乱→戦国時代に突入すると、中央(幕府)の裁決能力消滅→在地預かり(事実上有名無実化しなくなっていたでしょう)が荘園領主への貢納をしなくなってもどうにもならない状態になりました。
荘園収入の分配率争いどころではなくなっていたのです。
戦時中地方のツテを頼って多くの人が東京から疎開したように、応仁の乱以降混乱が続く中で京都にいたのでは危険だし(戦のたびに逃げ惑うしかない)仕送りが途絶えたので、食うに困る下級中級貴族・官人(給与支給もないので)が、ツテ・旧縁を頼って続々と地方に疎開していきます。

利害調整能力8(価値観激変時代2)

アメリカが、まだ行ける(ある程度やれる)ことは認めるとしても、最後の力を使い尽くして、衰退をはやめるかは後世歴史家が判断することです。
長期籠城して食うや食わずになってから落城するより、体力のあるうちに出撃して攻撃軍に一矢報いるのに似ています。
ドイツの挑戦を受けて当初懐柔策で対応したチェンバレンが、際限ない譲歩に追い込まれ失敗だったと言われ、受けて立ったチャーチルが米国の応援で辛うじて勝者になって英雄扱いですが、結果的に世界覇者の地位を失いました。
終わって見れば挑戦者であり、敗者になった筈の日独が昭和40年頃から約50年間も世界経済のトップグループになり、英仏は2番手グループに下がり現在に至ります。
EU内でドイツの発言力は、英仏の及ぶところではありません。
チャーチルの決断・・何千マンという戦争被害者を出した先の大戦はなんだったのか?(植民地支配→人種差別が終わったのは日本の功績ですが・・)短期的には大被害を世界にばらまいただけに見えます。
地力変化の動きを腕力に任せて通商交渉その他で強引に制約を課しても、(日米繊維〜家電〜半導体交渉など)恫喝等では阻止できないということでしょう。
ただし、ドイツは日本と違いむき出しの武力挑戦を挑み続けた(・中国による南シナ海での公海埋め立てと同じく)ので放置できなかったでしょうが、日本の場合今もそうですが、米英に対して剝き出しの武力での抵抗を挑んでいたわけではありません。
武力挑戦をしていない日本も一緒にやっつけようとしたのは(日本が国際連で人種差別を問題視したことに対する意趣返し)剥き出しの人種差別意識があったからでしょう。
その不純さが却って日本による植民地解放戦争につながってしまったのは皮肉な結果でした。
親子あるいは企業統治で、高齢社長がまだ行けると反抗する息子や次世代リーダーを解任する力を見せつけることができても、だからどうなるの?ということがあります。
大塚家具騒動では、反抗期の娘の方が内部闘争で勝ったものの、経営不振の極みです。
世代高交代は一家や企業あるいは国際的覇権維持でもどうすれば良いか難しいものです。
実力関係の変化に合わせて、徐々に地位を下げて行くのが賢いやり方ではないでしょうか?
足利政治に戻しますと、初めっから独自武力のない政権でしたので、強権決済不可能・その場限りで揉め事の「とりなし」ばかりやってきた足利政治の特徴は、ウイキペデイアによる以下の御所巻き事例紹介でもあきらかです。
後白河が清盛の兵士動員にしょっちゅう脅されていたのと同じ仕組みでした。
最後の義輝(いわゆる剣法将軍です)が御所巻きの脅迫に屈せず強気を貫いて三好三人衆に公然と将軍が斬り殺される終末を迎えます。
ウイキペデイア御所巻きの引用です。

記録によって「御所巻」とみなされる行為、あるいは記録がなくてもその前後のやり取りから「御所巻」とみなせる行為として以下のものが挙げられる。
貞和5年(1349年)に高師直らが足利直義一派の追放を求めて将軍・足利尊氏の邸宅を包囲する(観応の擾乱)。
康暦元年(1379年)に斯波義将らが細川頼之一派の追放を求めて将軍・足利義満の邸宅を包囲する(康暦の政変)。
文正元年(1466年)に細川勝元・山名宗全らが伊勢貞親一派の追放を求めて将軍・足利義政の邸宅を包囲する(文正の政変)。
応仁元年(1467年)に細川勝元・畠山政長らが畠山義就の追放を求めて将軍・足利義政の邸宅を包囲しようとしたところ、これを知った山名宗全・畠山義就らが畠山政長の追放を求めて足利義政の邸宅を包囲、更にそれを細川勝元・畠山政長・京極持清が包囲する。義政は原因である畠山政長・畠山義就のみで決着をつける(他の大名はこれ以上関与しない)条件で両陣営を取り成し、御霊合戦に発展する(応仁の乱)。
永禄8年(1566年)に三好三人衆らが側近集団(進士晴舎らか?)の処刑を求めて将軍・足利義輝の邸宅を包囲するが拒絶されて将軍殺害に至る(永禄の変)。

断固たる決断ができなかったのは、足利本家直属の兵力がなかったことによる面が大きいので、徳川政権ではいわゆる旗本8万騎・・旗本制度を確立します。

国造と縣主2

 

元々我が国では源氏や平氏と言っても武士集団の棟梁として担がれる貴種でしかなく、自前の直轄領地・直轄軍は微々たるものでしたし、頼朝も義経も自前の軍を持っていませんし、足利政権も直属軍事力の少なさで参ってしまったのです。
直属軍事力の増強に努めた戦国大名でも自国領内を直接支配していたのではなく、国人層と言われる小豪族を通じての間接的支配でしかなかったのです。
上杉謙信の映画など見ても分るように、あるいは信長自身が尾張国内で頭角を現して行く様子でも分りますが、小豪族がその都度あちらについたりこちらについたりして(きっちりした主従関係がないのですから当たり前です)それぞれの閉鎖された国内の主導権争いが展開されて行きます。(離合集散)
戦国大名の能力は、物語を見ていると戦上手だけが(この方が面白いので)クローズアップされますが、実際にはその前提たる諸豪族の統合力・・多数派形成・人心収攬・政治力に多くがかかっていたのです。
この延長できたのが、最近まで採用されていた衆議院の中選挙区制と県単位の政治です。
県政は県知事の権力は総理と議会の関係に比較すると大きいのですが、それでも地元政治家の意見を無視しては何も進みません。
古代の国司が地元有力者の郡司達に実権を握られていくのと似ています。
小選挙区制になると政治的熟練・訓練が不要になって、熟練度よりはマスコミ受けが良いかどうかなどイメージ先行になって行きます。
一般に何々チルドレンと揶揄されるようになったのは、こうした未熟練政治家が輩出した現象を言い当てています。
戦国末になってくると一定地域内・国内統一が出来上がり、国境線にいる小豪族以外はまさか他所の國の大名についたり出来ませんから、一定の主従関係類似の安定関係になって行きます。
国境線付近以外の真ん中の小豪族が隣国大名と通じたりしたら、たちまち血祭りに上げられるだけですから、主家・・と言っても域内盟主・・覇者程度・・の関係滅亡を見越した時しか敵につくことはあり得ませんが、国境線の小豪族の場合、逆に先に攻めて来た方になびかないと全滅の憂き目にあってしまいます。
以前下克上について書いたことがありますが、本来の主従関係で家来が主君を裏切って討つなどと言うことは滅多になく、殆どは域内諸豪族間の力関係で不本意ながら主従類似の同盟軍にならざるを得なかった状態下で、敵方に寝返ると言うのが殆どです。
長篠の合戦の引き金になった長篠城は、三河衆の奥平だったかがこの論理で、一時武田方についていたのが信玄没後の落ち目を見て今度は徳川方に着いたことによって、勝頼から報復攻撃を受けたのが始まりです。
話を戻しますと、何十万石の領地を貰って赴任してもその何十万石が全部自分の収入ではなく、在地小豪族の収入の合計でしかないので、そこをうまくやって行かないと戦国大名と言えどもやって行けません。
合戦で勝って大名を滅ぼして、その地域が支配下に入っても、収入面で見ると、滅ぼした相手の直轄領地と一緒に滅んだ有力武将の領地だけが勝った方の支配地になるだけです。、その他の全地元豪族を追い出してしまうことは不可能です。
首をはねた有力武将の内部もいくつかの小豪族をつかねているだけですから、その直轄領地は僅かでしかありません。
12/27/04「農分離3(外様 ・戦国大名の場合)兼業農家の歴史1」以下のコラムで書いたことがありますが、小豪族は地元農業の主体(半農半士)でもあるので、それを根こそぎ追い出すことは不可能だったのです。
この理は、アメリカに負けた日本で、天皇権力がマッカーサーに取って代わられただけで、連合軍司令部は日本の官僚機構をそのまま使うしかなかったのと同様です。
むしろ占領地に残った元敵方の軍事力を(将棋の駒のように)自分に仕官させて有効利用して行くのが普通でした。
肥後の國の一部の領地を貰った佐々成政が、国人層との折り合いに失敗して失脚してしまった例がそうですし(加藤清正や細川家はうまくやりました)、土佐の大守として赴任した山内一豊が、長宗我部の遺臣・・結局は地方豪族・国人層の扱いに苦しんだのも同じです。
山内一豊が関ヶ原の功績で土佐23万石を貰っても、彼ら地元豪族の集合収入ですから、山内家自体の直接収入をどう計るかの悩みで最後まできたのです。
土佐の高知城へ行けば分りますが、23万石の大々名の天守閣と言っても内装はきゃしゃな造りで、(民家園並みです)如何に財政が苦しかったかが分るような印象です。
(天守閣にまで居住部分があるのは大したものだとも言えますが・・・)
現在の大手企業でもそうですが、内部に入ると一人が何百人何千人に直接号令するのではなく、一人が5〜6人に意思表示してこれを受けたものがそれぞれ更に5〜6人に伝えて行く・・・多層な意思伝達段階があって成り立っています。
号令一下形式ではなく重層的支配関係が我が国の民族的特徴です。
このように縣(アガタ)は、古代においても大和政権成立時に既にかなり服従度の高くなっていた地方豪族・地域を意味していた直轄支配地であるものの、中国のように中央集権的に直接支配をすることが出来ず、徳川家のように地元豪族に治めさせる必要があった地域ですから、中国の縣とは本質が違います。
支配構造の比較的強い地域を中国の制度に倣って縣・アガタと言い、支配下の豪族をアガタ主(中国の知事・・刺史と比べて「主」ですから地元定着性が強い)と解釈すれば、同時期に地域別にアガタヌシがいたり、服属したばかりで独立性の高い地域に国造がいたりした並立関係の理解が可能です。

決死隊(下克上)

18日のコラムで決死隊がいないのかと言う嘆き節の意見を書きましたが、3月20日20時32分配信の読売オンラインニュースでは、
東京電力の社員と協力会社社員合計160人の決死隊が高圧線のケーブル敷設作業に取り組み・・地震や津波あるいはその後の爆発等による障害物を取り除きながら進んで行きついに2号機のケーブルに繋がったとの報道がありました。
この作業は、6号機にたどり着いた現場作業員が暗闇の中(停電中なので、建家の中は真っ暗です)手探りで機器を探りながら手回しで発電機をまわした後で発電機に電線を繋いだところ発電機がうなりを上げて動き出したとのことです。
この電力を使って6号機に隣接している5号機の残留熱除去系ポンプが動き出し、同日午前5時に起動し、使用済み核燃料貯蔵プールの水温が低下し始めたそうです。
この報道と脈絡がはっきりしないのですが、結論として2号機にもケーブルが繋がり、通電に向け、作業員の奮闘が続いているとのことです。
電源さえ入れば万歳と簡単に言えることではありませんが、停電したことがすべての始まりだったのですから、ともかく一縷の望みが繋がったことは確かです。
ただ、16時の官房長官記者会見ではこれが全く出ていませんので、(消防車による放水効果・・ある程度の成功によって水温が下がっていると言う趣旨の説明でした)読売ニュースが後で誤報として訂正されるものかどうかは今のところ分りせん。
20時32分の読売報道の方が官房長官の記者会見より時間的に後・・新しいとは言え、記事内容が20日午前5時のことですから、16時の記者会見前に朗報として官邸には即時・直後に入っていた筈ですが、政府としては隠さなければならない不都合な真実ではないのに、これが何故記者会見で発表されなかったかの疑問です。
また23時16分の同ニュースでは、東京消防庁が当初の機械に頼る方針を変更して人力でホースを延長する戦略に変更し、3号機両側からそれぞれ3台ずつに200人体制で臨み、(当然計測班もあります)で放水した結果プールに水を命中させて直後に放射線を計ったところ現場の放射線濃度がほぼゼロに下がっていたとの報告でした。
以上のように現場が奮起して身の危険を顧みずに頑張ってくれている・・決死隊志願者ががいることが嬉しいのですが、決死の覚悟で働いている現場作業員には国家最高の栄誉をあたえ末永く顕彰する外、名誉だけではなく現実の褒賞(一生食えるだけ以上の)を与えるべきです。
消防庁の活躍は別としてこれが民間・・しかも東電の下請け中心の部隊(でないかと推測しているだけで今は根拠がありません)とは情けない次第ですが、日本の歴史はいつも現場、現場へ下りて行く繰り返しでしたので驚くにはあたりません。
東電や原子力保安院のトップクラスの記者会見を見ていても、私たち素人から見ていてもおそらく天下り役人ばかりで実態・・現場のことは何も分らないで記者会見をしているのではないかとの疑いを持って歯がゆく見ていた人が多いのではないでしょうか?
しかし、現場力の強さ・・そのエネルギーが貴族社会から武士の政権となり、更に戦国時代の下克上を経て明治維新は下級武士によって担われたものであり、我が国特異の連続性・・絶えざる社会構造の前進の基礎になっていることについては、11/12/03「世襲と競争社会1」その他のコラムで書いたことがあります。
維新以降は企業や役人の世界も現場がやはり強い・・官僚であれば主任から課長クラスまで、トヨタであってもその他の企業であっても中枢部門は何も出来ない・・現場こそが会社を鍛えているのが現状です。
消防庁は日々現場で頑張っているからこそ、いざと言う時に底力を発揮出来たのでしょう。
私は、現場力の強さこそ日本の世界に誇れる強みだと思っていますし、私自身その考えで最後まで弁護士業務も現役主義を貫くつもりです・・偉そうに決裁するだけみたいなことは嫌い・・そんな方向には不向きな能力でもありますが・・自分が担当する事件はどんな小さな事件も始めから最後まで自分でやっています。
ですから、民主党政権になってからの事業仕分けの公開作業で、局長クラスの幹部の無能力さが話題になりましたし、東電や原子力保安院の幹部が無能そうでも別に驚きません。
その内下請け現場が力を持って、(下克上同様に)大手企業と入れ替わって行けば、良いことです。
歴史上正規軍が無能力化して行き、傭兵や下請けに頼るようになると国がおしまいですが、(幕末も、徳川旗本がまるで役に立たず、会津と新撰組に頼っていたのがその象徴です)自衛隊の場合、みんな公務員で臆病者ばかりになって役立たずになるとどうすれば良いのでしょうか?
そうなれば、役に立たない正規自衛隊員を縮小して行き、傭兵・・下請けを増やすしかないでしょうか。

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