韓国はどこへ行く?3(親中・北政策の蹉跌2)

前パク大統領の親米〜親中〜米陣営復帰〜弾劾への流れを見ておきましょう。
パク大統領は、出自と大統領になる前の行動から、親日親米思考体質プラス軍を背景にした対北朝鮮強硬思考が基本体質とみられており、当初日本でも同氏の大統領当選を関係改善につながる期待で受け止めていたものです。
パク氏は当初未来志向の動きだったように見えますが、米国頼りでは6カ国協議が停滞したままで北のエスカレートする挑発を止められないことから、北に強大な影響力を持つと見られた中国の力に頼ることに変更したものとみられます。
北が核兵器を持てば、米軍駐留が続いても米軍が核兵器による米本土攻撃の脅迫を受けると韓国を守ってくれなくなる・・「北から韓国を守る・核兵器開発中断させるには中国の圧力に頼るしかない」という大義の選択だったと思われます。
韓国の方が経済力もあるし、北と親密にするより韓国と親密にした方がメリットが大きいというセールスポイントも利用したでしょう・・北のパトロンを奪取しようという魂胆に見えましたが・・。もちろん韓国の方も米国に義理立てするよりは対米貿易より対中貿易額の方が大きくなっているという韓国のメリットもあり、一見ウインウインの関係とも言えました。
ただし、中国の方は自国技術力アップ中で、すぐにも韓国企業に追いつき競合するのが目に見えていたので、中期的に見て韓国企業優遇どころか、排斥相手にしたい関係でしたので米国陣営から寝返る・来るのは拒まないが・・という程度だった点で思惑が違いました。
中国としては、招待したら来た程度で何の義理も感じないし約束もしないとい程度の客扱いだったようです。
一方的にのめり込み盲目的恋愛のように中国にすり寄ってしまった韓国は、西側諸国からの反発覚悟のかなりの犠牲を払って中国の抗日式典に参加し、日米がボイコットしている中国の世界支配の基本構想である一帯一路構想の基盤となるAIIBにも参加し、トップ間のホットライン設置するなど最大限の誠意を示しました。
慰安婦騒動激化もその誠意の一態様と見るべきでしょう。
ちなみに当時国際的な慰安婦運動は韓国名義でやっていましたが、例えば米国の慰安婦像設置運動を見ると韓国人社会が実際には動いておらず背後で操っているのは、中国の資金と中国人脈によるロビー活動によるのでないか?という噂が一般的でした。
慰安婦像設置は住民投票によるのではなく、持ち周りの市長?市議会?がいきなり設置を決めたような経緯です。
民主社会という美名を信じて日系人が如何にビラ配りなどの運動しても公園の一部施設を選挙で決めるものではない・日本でも公園の備品・ベンチを置くかなど)のですから、ロビー活動で負けるとどうなるものではありません。
中国は改革開放直後から将来的にはGDPや軍事力で日本を追い越すことがわかっていても、最後は文化度の競争ですから、長期戦略として日本文化評価をじわじわ貶めて行く長期戦略があるものと思われます。
韓国政府の中国傾斜が始まると中国の要請によるのか勝手に忖度したのか?朴政権が日清戦争以降縁が切れていた中国陣営帰参の引き出物にしたのか不明ですが、自ら慰安婦問題をあおり告げ口外交をするようになったので、これは本当に韓国政府肝いりで行なっているというお墨付きを世界に与えたような関係になったように見えます。
翌16年1月に起きた北朝鮮の核実験に対する抑制依頼のためにせっかく設けたホットラインで習近平に直接電話しようとしても中国はその電話にすら出ないで何もしてくれなかったので、国内的に反米親中政策がなんだったのかの(親米派による)批判噴出に見舞われたと思われます。
国際環境の変化・慰安婦騒動に関して韓国支持国がなくなって来たことによって(パク大統領の外交は中国へは一方的擦り寄りにすぎず実は何も得たものがなかったのです)親米派勢力の不満(アメリカの巻き返しもあって)を背景に日韓合意となります。
日韓「不可逆的」合意に関するウイキペデイアの記事からです。

2015年(平成27年)12月28日に大韓民国(通称:韓国)ソウルの外交部で行われた日本の岸田文雄外務大臣と韓国の尹炳世外交部長官による外相会談後の共同記者発表で[1]、両外相は「日韓間の慰安婦問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認する」と表明[2]。韓国政府が元慰安婦支援のため設立する財団に日本政府が10億円を拠出し、両国が協力していくことを確認した

その後も北朝鮮による核実験やロケット発射の連続に対して何もしてくれない無視を決め込む中国への不満が高まる中で自国を守るためには米国に頼る軍備増強しかないという16年7月のサード配備決定でした。
https://business.nikkei.com/atcl/report/15/226331/071900059

「中国陣営入り」寸前で踏みとどまった韓国
THAAD配備巡り米中代理戦争
鈴置 高史  2016年7月21日
7月8日、在韓米軍へのTHAAD配備が正式に決まりました。
配備拒否派が世論を盛り上げて朴槿恵(パク・クンヘ)大統領を動かそうとした。慌てた賛成派が巻き返し、大統領の裁可を取り付け急きょ発表に持ち込んだのです。

「配備」の正式な発表を受け、中央日報は解説記事の見出しを

「苦悩の末に……朴槿恵政権、韓米同盟を選んだ」(7月9日、韓国語版)
日本語版もほぼ同様で「配備拒否か賛成かは、米国との同盟を拒否するか続けるかの選択だった」

との前提です。
これが多くの韓国人の実感でしょう。
中共政府の抗日戦勝利集会に参加して支配下に入ったはずの韓国の裏切り(と言えるかな?)に中国は(権威を示すために)怒り、土地提供したロッテに対する中国の報復、現代自動車への嫌がらせ等々(もともと自国企業と競合する進出企業潰しの口実)が今だに続いています。
この間オバマの日韓仲裁などを経て16年10月28日のろうそく集会後の日韓軍事情報保護協定(GSOMIA)(11月23日)に進んだのですが、これがさらに反米親中派を刺激しました。
この時点でのろうそく集会はスキャンダル批判だったので朴政権は甘く見たのでしょうか。

韓国はどこへ行く?2(親中・北政策の蹉跌1)

清朝からの独立を認められた下関講和条約翌年の1896年2月に、高宗はロシア公館へ(亡命?)こもります。
露館播遷に関するhttps://ja.wikipedia.org/wiki/の記述です。
露館播遷

高宗がロシア公使館で政務を執り行った結果、ロシアは年表に示す利権を獲得し、他の欧米列強も同等の利権を獲得することになった。 また、これは国としての自主性を放棄するのに等しい行為であり、後に日露戦争時に中立を宣言したが日露両国から無視されるような結果となった。

上記の結果世界的に独立国を名乗る能力がない・国家として認められていない状態になっていた・・世界中のに対し自主性を放棄しても良いが、ともかく日本と対等になるのだけは嫌だったらしいのです。
戦後は朝鮮戦争の結果助けてくれたアメリカに従属したままでこれが嫌でたまらなかったでしょうが、頼りたくて仕方のない中国がようやく力をつけてきたし対中貿易の方が対米貿易より大きくなったので、「頃や良し!」とばかりに、正面から日本に喧嘩を売り千年以上許せないと啖呵を切ってしまったと思われます。
https://www.j-cast.com/2013/03/04168068.html?p=all

朴大統領「被害者の立場、千年不変」と主張 韓国に「いつまで謝罪し続ければいいんだ」の声
2013/3/ 4 18:50
演説は2013年3月1日、1919年に起こった「三・一独立運動」を記念する式典の中で行われた。朴大統領は、
「(日本と韓国の)加害者と被害者という歴史的立場は、千年の歴史が流れても変わることがない」

と大げさな演説をした上で反日運動に邁進していたので、日本では「陰口おばさん」と揶揄されるようになっていました。
以下は陰口外交に関するウイキペデイアの記事です。

告げ口外交(つげぐちがいこう)とは、2013年に韓国大統領の朴槿恵(パク・クネ)が行った、日韓の歴史問題に関する外交政策で、日韓以外の第三国に日本の悪口を言い触らして回ることに対して日本の各メディアによって用いられる俗語である。「言いつけ外交」[1]、「おばさん外交」[2]とも呼ばれる。

その勢いに乗って西側諸国一致してボイコットしていた中国の抗日戦争勝利記念式典に唯一の西側諸国首脳として出席し、習近平からロシアプーチンに次ぐ序列3位(冊封体制下では朝貢使節がどういう序列で出席できるかは最重要事項でした)?のもてなしを受けて、対日敵対意識のみならず今後は、米国の意向など問題にしない態度を露骨に示しました。
https://www.bbc.com/japanese/34136088

中国で大規模軍事パレード、抗日戦争70周年記念
2015年09月3日
出席した外国首脳、欠席した首脳
来賓の中には、ロシアのプーチン大統領、韓国の朴槿恵大統領、国連の潘基文事務総長などが肩を並べる。しかし潘氏の出席は批判を呼び、米・英・豪・日の政府首脳は欠席している。
「日中関係が難しい状態にあり、アジア太平洋地域の軍事的緊張が悪化している中で、国家指導者の中には、中国の国家主義的な反日大会に参加することへのためらいがある」とニール氏は話す。

この頃の韓国国民感情は19世紀末以来欧米の顔色を窺うしかなかった朝鮮族が、今後ようやく中国の保護下で安心して生きていける(しかも冷たい利害で結びつくロシアを除けば実質序列1位の地位獲得で、歴史上初の栄誉です)と、国内が盛りがっていた・・昂揚感が高まっていたと思われます。
この歓喜の頂点において、あれほど日本批判をしていた朴政権は慰安婦問題に関して日韓合意に踏みきりました。
負け戦発表の潮時をはかるために中国べったりで国民歓喜・・支持率の上がったところでの収束を図ったのかもしれませんが、これが裏目に出ました。
(国内的にはアメリかの不当圧力でやむなく・・という弁明でしょう)
(国内的にはアメリかの不当圧力でやむなく・・という弁明でしょう)
実質はいかに告げ口外交して歩いても国際社会では韓国の主張する慰安婦問題が受け入れられなくなったことにより曖昧解決でごまかすしかなくなったことが主たる原因でしょう。
(逆に日本では「せっかく韓国を追い込んだのにここで曖昧合意だと明白な決着をつけるまでやらないと禍根を残す」という批判が渦巻いていたことは周知のとおりですが、何やかやと言ってもトップの決めたことには最後は従う度量が国民にあります)
パク大統領がどういう言い訳をしようとも内政失敗に対する国内不満をそらすため近隣国にいちゃもんをつけて独裁者が侵略戦争に踏み切って無残に負けて帰ってきたような体たらくでした。
今の文政権が国内無策の隠蔽のために反日拡大と北朝鮮との和解成立に政治生命を賭けきたのですが、米朝決裂によって無残に失敗したのもこの繰り返しです。
そもそもアメリカを見限って旧宗主国への寝返り、その帰参がかなったという国際宣伝のために中国が上記式典を盛大に行った(そもそも中韓関係誇示のためにいきなり開いたものです)のに、その直後にアメリカの圧力で止む無く日韓合意せざるを得なかったというストーリー自体が矛盾ですから、表面だって言ってないでしょうが・・。
上記思い切った行動にアメリカが本気で怒って、相応の脅しが入ったのかも?
日韓合意だけではなく続けて宗主国様への裏切りと評価される中国の最も嫌がる米国のサード配備を受け入れたことにより中国の怒りを買って、ロッテに始まり各種分野で露骨な嫌ガラセを受けるようになってしまい、史上最大の栄誉どころではなくなりました。
ろうそく集会エネルギーの源泉は、国民感情を裏切った朴政権に対する怒りが基本であり、パク大統領の特定人物に対する厚遇に対する不満はそのきっかけ・あるいは表向きの主張に過ぎなかったと私は理解しています・・・。
以下中国抗日戦勝利式典(15年9月)日韓合意(15年12月)〜サード配備決定(16年7月)〜ろうそく集会(16年10月28日)〜日韓軍事情報保護協定(GSOMIA)(16年11月23日)の時系列で明日以降見て1きます。

ロシアの脅威5(人民圧迫の反動としての残虐性1)

幕末の危機感として西欧列強の脅威ばかりを我々世代は教育されてあるいはメデイア報道で育ちましたが、幕末日本にとってはロシアが最大の危険な国であり、その抑制勢力として西欧列強との多角的交渉があった・・「同じルールでやってくれ」とロシアに言えるメリットを利用していたと見るのが正しいような気がします。
黒船来航ばかり教えられますが、西欧流儀の作法から見れば新興国のアメリカは(今も同じですが・・)少し乱暴な程度であって、基本的にはルールのギリギリまでやる程度でロシアのように問答無用式の実力行使まではしていません。
西欧諸国とその亜流・少し乱暴な米国とロシアの弱小国に対する交渉流儀の違いは、前者の来航は領土欲にあるのではなく、通商の利益を求めて来た立場である結果、交易開始後の商取引・・人間関係の重要さを前提にしているので無茶はしません。
商取引の場合、相手の好感度を獲得するのが重要・・だからこそどこの国・民族でも、他の職業の人に比べて商人は腰が低く愛想がいいし、その分相手の気持ちを汲むのに長けています。
ロシアの進出・膨張の場合は、支配欲の(金の亡者同様で「足るを知らない」)権化になっていることによるもので、商取引に主たる関心がない点が大きな違いです。
今でもロシアの主たる収入源は原油その他の資源しかないことから見て生活様式や価値観が変っていないと思われますが、資源獲得→まず領土・支配欲が先に来ている点が粗暴な言動に走る原因と見えます。
ロシアの場合、人民に対する過酷な支配・・帝政ロシアでは農民といっても「農奴」という表現で知られるように、世界の農民の中で最も最悪の環境下で隷従させられてきた社会です。
前近代においては人口の大多数が農民の社会ですから、農民の待遇が世界最悪ということは支配層と被支配層の関係・・人民大多数は世界最悪の過酷支配を受けていた社会だったことになります。
ロシアの場合、後進国特有の頭でっかちな運動による結果、まだ新政権を担うべき人材不足・・円滑に話し合い解決し運営する能力がない不幸で、政治関係者間では粛清に次ぐ粛清の恐怖政治をスターリン死亡後の1956年のフルシチョフによるスターリン批判まで続けてきました。
恐怖政治の内容は「穏やかな」表現による演説だったとはいえ、以下の通りです。
ソ連では、1956年2月、ソ連共産党第一書記フルシチョフがソ連共産党第二〇回大会においてスターリン批判の演説を行い、世界を驚かせた。公開の一般演説ではスターリン(53年死去)の名を挙げなかったものの、それまでのソ連共産党の公式見解である戦争不可避論(資本主義陣営との戦争は避けられないとする考え)を批判して、西側との平和共存路線への転換をはかり、また暴力的手段によるのではなく議会制度を通して平和的に社会主義への移行することが可能であることを呼びかけた。これは従来のスターリン体制からの大きな転換を意味していた。ただし、共産党一党支配を否定するものではなかった。
http://www.y-history.net/appendix/wh1602-035.htmlからの引用です。
スターリン批判
 それ自体が画期的な方向転換であったが、さらに大会最終日の2月24日から25日にかけて開かれた非公開の会議で、再び演壇に上がって『秘密報告』と呼ばれる報告を行い、スターリンを名指しで批判した。この秘密報告は、正式にいうと『ソ連共産党第二〇回大会非公開会議における演説』ということになっており、その表題も『個人崇拝とその諸結果について』というごく穏やかな名前になっている。この非公開の会議には、1355名の決議権をもつ代議員と、81名の審議権だけを持つ代表、計1436名が出席した。内外の記者、外国代表は退席を求められた。代議員もノートをとることを禁じられた。しかし、その内容が海外に漏れ、アメリカなどの新聞が報道し、世界に衝撃を与えた。スターリン批判の内容は以下の点であった。
スターリンが1934年の第17回党大会以降、自らに対する個人崇拝を「わがまま勝手に」押し進めた。彼はレーニンの「集団指導」を無視し、党大会や中央委員会を開催しなかった。
社会主義体制達成後も階級闘争は続くという誤った理論から、反対派を「人民の敵」として捕らえ、銃殺するという大量テロル(粛清)を行った。
その手先となったのはベリヤらであった。その下でテロルを実行した人びとはそれが社会主義圏説に必要だと単純化していた。(取調官ロドスの例)
スターリンは軍事的天才ではなかった。ドイツとの戦争ではその侵入を予測できず大きな損害をこうむる原因をつくった。地球儀で作戦会議を開く有様だった。また、軍隊の有能な指揮官に対しても粛清をもって当たった。
民族大虐殺にたいしても責任がある。
スターリンは国内をほとんどあるくことなく、農村の実情を知らなかった。
『スターリン小伝』『全ソ共産党小史』などで自画自賛した。
中国ではまだ毛沢東批判はタブーですが・・。
このおそるべき恐怖政治を世界に及ぼそうとしていたのが、コミンテルンの民族国家よりも世界共産化思想という名目でのソ連による世界支配の野望でした。
国内では、民族同胞親兄弟よりもソ連共産党思想への忠誠を上位に置き、内部にスパイ網を張り巡らせて親兄弟をも密告させて粛清していく・これを国際的に拡大したのコミンテルン思想です。
ソ連に本部を置きその指導のもとに、世界に民族や同胞よりも共産主義というなのソ連政府に忠誠を誓う「細胞」浸透させていく仕組みでゾルゲ事件で知られる日本や米国(ルーズベルト政権)も世界中の支配層や軍部内に汚染がひろがっていきました。
ソ連支配は国民に過酷な分、少数民族にはなお過酷でした・・支配下に入った少数民族に対しては、文字通りの過酷支配・・気にいらない少数民族をそっくりリシベリア送りにするなど過酷悲惨な支配の連続でした。
例えば14年のロシアによるクリミア併合以来関心の高いクリミア半島の住民構成の変化をウィキペデイアで見ると以下の通りです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%9F%E3%82%A2%E5%8D%8A%E5%B3%B6
「クリミア・タタール人は、2001年の国勢調査ではクリミア自治共和国の12.1%、クリミア半島全域の10.2%を占めるに過ぎないが[32]、クリミア・ハン国が成立した中世後期以降にクリミア半島内でキプチャク系のノガイ族の遊牧民とオグズ系のトルコ民族、南部の山岳地帯や海岸部に住む元キリスト教徒の諸民族の子孫が混交して形成された土着の民族である[33]:74。1944年にヨシフ・スターリンの政策で中央アジアに強制移住させられ、ソ連末期の1980年代末からクリミア半島に帰還し始めた[34]
以上のように原住民・土着民族(100%近いのが本来でしょう)が今では帰還が進んでも10、2%を占めるに過ぎない状態です。
ソ連支配下でシベリアに何かの嫌疑?を理由に民族丸ごと強制移住させられてしまった歴史があって最近帰還が進んでいるというのですがそれもやっと1割しかいません。
帰還できるようになったのは、スターリン批判後徐々に民主化が進んだ結果でしょうが、多分ソ連崩壊後ウクライナ領になって大幅に進んでからのことでしょうから、・・再びロシアに併合されるとこの先どうなるか・・多分ロシア人の人口比が大幅に上がるのか?・・分かりません。
北海道が仮にソ連領になっていた場合、ほとんどの日本人がシベリアに送られてその7〜8割が過酷な強制労働による病死等でなくなっていた可能性が大でしょう・・そして北海道にはロシア人の人口が多数派になっていたかもしれません。
日本のように日露戦争報復意識のない単純併合されただけのバルト3国やカフカスなどでも、ロシア人比率が上がっています。
以下ウィキペデイアによると
ラトビアの例
▼民族構成
ラトビア人が62%。(バルト人)
ロシア人が27%。(東スラブ人)
リトアニアの例
人口の83.1% がリトアニア人である。少数派としてポーランド人(6.0%)、ロシア人(4.8 %)、ベラルーシ人(1.1%)、ウクライナ人(0.6%)などがいる[51]。

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