地方分権(地方エゴ)と利益誘導政治

アメリカの置き土産・・戦争中に見せた日本国民の団結心恐るべし・・国民の団結心破壊の試みの設計が昨日まで書いた自治制度の貫徹ですが、基礎にある同胞精神破壊の試みとして、国民宗教・神道の破壊政策を真っ先に行ない、民族の尊厳を破壊する(今で言う自虐史観の洗脳)教育政策の徹底でした。
中核から同胞精神を破壊するだけではなく、国民に対しては庶民の足下から崩して行く試みが共同体利益を無視した全体に及ぼす影響がどうなるかよりは先ずエゴ主張をすることが正しいとする奨励でしょう。
東大教授→マスコミを通じる上からの教育政策と庶民の我欲に訴える両面作戦です。
与那国島の基地騒動の始まりは、地元に10億円規模のお金が落ちると言う我欲に始まった誘致運動が、数億円しか基地取得費に払えないと決まってから迷走が始まった顛末です。
以下今日現在のウイキペデイアからの転載です。
「これら中国籍とされる軍艦や船舶の、沖縄近海への接近および日本の排他的経済水域内の通過など、傍若無人な問題行動が頻繁に起こっていることと平行し、与那国島では防空識別圏の見直しを訴えたり、与那国町町議会による 自衛隊の誘致議決 が行われる動きが起こる。
この与那国町の自衛隊誘致の声を受け、2010年北澤俊美防衛大臣がこの地域への自衛隊配備に関して、予算計上を表明する動きへとつながった。
2012年度予算では、新編する沿岸監視部隊の配置及び移動警戒隊の展開のために必要な用地取得などを実施するため、10億円が計上された[5]。現地ではこれを根拠に、借地代として10億円が現地に落ちると解釈されたが[5]、用地代として国が提示した額は1億5000万円であり金額を巡る思惑の違いによって交渉は暗礁に乗り上げた[5]。」
沖縄だけではなく日本中で日本民族のためになるかどうかではなく、自分の手に入れる「お金お金」の恥ずかしい社会にしてしまったのは、アメリカの占領政策・・遺産の大成功事例です。
これまで書いているように国策遂行には全て地元同意が必要な憲法制度になっている結果、政府としては何でも反対の地方に対して大義に訴えても解決出来ない結果、原発立地でも何でも利益誘導しかなくなってしまった・・その結果政治家は利益誘導出来る能力で再選が決まる悪循環になっていることも大きな原因です。
田中角栄的政治家があちこちに出来上がったのは、アメリカの遺産・・強固な地方分権制度が制度的裏付けだったのです。
戦前だとお国の役に立てば・・と言うのが基本であって(無償ではないのですが、保障額は次の問題であった)お金の多寡を正面テーマにするなんて恥ずかしいことでした。
いろんな付き合いを決めるのに、先に「お金がいくら?」と言うのではなく、相応の提案がされる前提で「喜んで参加します」と決めるものです。
与那国島ではお金だけが目当て・・「お金が少ないなら守ってくれなくても良い」と言う論争になっていたのですから不思議です。
(原発誘致であれ復興であれ何であれ・・石原氏が「結局は金目でしょ!」と言うのは正鵠を得ていたので、マスコミに批判されましたが・・マスコミは正しいこと言うと「失言」と批判する不思議な媒体です)
東大教授を頂点としマスコミに流布する自虐史観はネットの発達によって効力がはげ落ちつつありますが、庶民に行き渡ってしまった・・本来恥ずかしい筈のエゴ主張の風潮は簡単に修正出来ないと思われます。
生活保護の不正受給や乱診乱療問題に始まる便乗型権利主張が社会問題になって来たように、今やエゴ主張の弊害が庶民に行き渡っています・・庶民だけではなく部長クラスでも母親の世帯分離をして安い特養に入居させるなどの行為は日常茶飯事ですから、言わば身体中に毒が回ってしまったような状態です。

共同体離脱金2

 

共同体離脱に対する後ろめたさ・・ひいては離脱補助金交付に対する反発は合理的ではないことを書いてきましたが、故郷から出て行く方法として村の用意した用地内だと仕事がないが・・少し離れた場所に移転すれば就職先がある場合もあるでしょうし、あるいは自治体の取得した用地外ならば農地や牧畜(養鶏や養豚など)用地を個人的に取得し、家業を続けられる人もいるでしょう。
こうした人へも補助金・交付金の分配をすべきだとすれば、全く関係のない遠方へ移住したい人にだけ一銭も出さない合理性がありません。
そこにあるのは共同体から完全離脱するかしないかの区別しかないことになります。
昨日まで書いて来たように共同体維持の必要性が減少しているのですから、共同体維持・存続意識(忠誠心?)の強弱を基準にするのは誤りですから、今後自治体の用意した用地利用その他のサービスを受ける権利放棄と引き換えに自治体の取得した用地内に転居する人が貰える補助金と同額資金プラスアルファを貰いたいと言うのを拒む理由はないと思えます。
実際には危機でもないときに予め転地したいから転地費用をくれと言われても、地元に残り続ける人たちの心情・政治的にはすんなりと行かないでしょうが、そもそも早期転出奨励こそが自治体の役目とすれば何も疑問がありません。
それに自治体自身が元々危機が具体的でないにも拘らず、将来「不安だ」と言うだけで政府から前もって(モデル計算によれば運転開始までに9000億の半額貰うのですが、土木工事中に放射能漏れの危険などあり得ないことは誰にも分ります)巨額の交付金をもらっているのに、住民の要望に対して自治体が「何の危機も具体化していないのに不安だけでは前もって渡せない」と言うのは背理です。
別荘建設や移動の費用として政府から貰った交付金の半額(用地取得その他自治体で負担する費用があるので)までを村に残った人には仮に補助するとしたら、一緒に行動しないで独自ルートで生活してくれる人(後は何の世話にもならないと言う人)は、一緒に行動している人よりも自治体に掛ける迷惑が少なくなるのですから、最後まで行動を共にする人と同額補助金プラスアルファ(早期割増金)を支給しない理由はありません。
これに対して、交付金は住民に対して配るべきものではなく「地元振興策として交付されているものである」と言う立場による反対が考えられます。
国土の均衡ある発展を図る国策には、04/29/04「過疎地域活性化特別措置法2(過疎地とは?5)」その他のコラムで以前から繰り返し反対していますが、政治は生身の国民や住民の福利のためにあるべきであって、国土や自治体のためにあるべきではありません。
国土の発展は住民の増加によるのではなく、むしろ域内のビニールハウスや人を減らして緑したたる緑地を増大しても国民が豊かな生活を出来るようにすることこそが、この言葉に似つかわしいでしょう。
この地域は危険だからと言って交付金をもらいながら、その地域の振興策・人口増加あるいは維持策をとるのは矛盾することについては、2011-6-18事前準備5(移転2)で書きました。
予め別荘用地に建物を取得していた一家にとっては危険地帯に残っていてもイザ避難となっても別荘に一時避難すれば済みます。
別荘には家財道具もある程度そろっていて道具の不足分は車で持って行けるし(緊急避難とは言っても津波のように寸刻を争う必要がなく、車に荷物を積む程度の時間の余裕はありますし、また何が足りないかも予め知ってます)現在のように体育館に雑魚寝するよりは比較にならないほど良かったでしょう。
この避難準備も10日20日の避難ならば体育館よりは有効で申し分ないですが、半年、1年と長期化すれば仕事先が心配になりますから、介護関係など顧客減少に困らない仕事の人の場合にはこの方法がベストでしょう。
水産加工業や漁業者の場合、場所が変わればおしまいですから、この種職業従事者にとってはお金を配ってもらった方が合理的です。
別荘建設まで進まないで取り残されていた人たちだけが、緊急避難の対象者となって身体的には何の故障もない元気な人に対してまで、自治体が住むところから食事の配給や医師の派遣など何から何まで生活の世話までしなければならないことなります。
ですから原発立地後一定期間内に転出もしない、自分の好みの別荘すらも建てない人に対しては、標準的な別荘を建てて強制割り当て(その分支給金を減らす)してのが妥当です。

共同体意識2(崩壊)

昭和30年代から進んだ山村等の過疎地ではまだ日本が貧しい時代の名残で家の造りが貧弱だったので、無人になるとそのまま朽ち果てて行くのが目に見えたのですが(日本画家向井潤吉の世界です)、昭和50年代から進んだ空洞化は日本がかなり豊かになって以降ですので、家の造りが割に良くて外見上では簡単に分りません。
シャッター通りで表現される商店街は客が来なくなったことによるもので家は立派でもシャッターが閉まっている状態ですから、外見上分りよいですが、これにほぼ比例して農村に限らず地方小都市では一般住戸・農家でも家の内部空洞化がすごい勢いで進んでいます。
シャッター通りは郊外型巨大店舗が出来たことを目の敵にしてマスコミが報道していますが、そればかりではなく、地方住民の空洞化が元々進んでいたのです。
千葉から鴨川までの高速バスを利用すると、途中から高速を下りて久留里の小さな盆地らしい地域の旧道を通過するのですが、(久留里城のあるところです)ここには特に大きな郊外型店舗が出来ている訳ではないものの、道路沿いの駅前旧商店街はほぼ死に態です。
50年ほど前から農村経済が縮小し近郷近在からの買い物客が減少し始めた上に、残った僅かな客も車社会化でここ数十年くらいは10〜20kmくらい先の木更津など中核都市に客を奪われてしまったのです。
この20年くらいは高速道路化の進展によって、周辺の客を奪っていた木更津自体が(東京湾横断道路によって15分で川崎、30分ほどで横浜や東京駅につきます)川崎や千葉市に客を奪われて地盤沈下・不景気に苦しんでいます。
今では、久留里周辺の住民が買い物に都会に出るのではなく、木更津を通り越して千葉や市川、船橋等の都会に出てしまっている様子です。
(4〜5人家族だった家で言えば、子供が進学や就職で30〜40年ほど前から都会に出てしまい、その内父親も亡くなっておばあさん一人と言う家が多くなり最後は空き家になるパターンです)
2007年4月に犬吠埼灯台へ行ったついでに銚子市内を散策したことがありますが、市街の規模は大きくしかも家は割合いに新しい(せいぜい手直し後または新築後3〜40年前後?)のでその頃まで、現役世代または退職金で新築した感じですが、現状はかなり無人の家が多い様子で町中がシーンとしていて、この先どうなるのかな?と言う印象を受けました。
銚子よりも千葉に特急で30分ほど近い八日市場駅(千葉から特急50分です)周辺の市街地・数年前まで八日市場市→今は匝瑳市と言いますが、この市街地へは千葉地裁八日市場支部があるので時々行きますが、そこは地名の通り地域の中心的市場として栄えた歴史があるらしくいくつもの立派な寺院があって、(平成2年に立派な寺院で行われた地元弁護士の葬儀に参列したこともあります)明治の最初から裁判所もある古い場所です。
この市街は広大な水田地帯の真ん中にあるので、現役の漁港を擁する銚子に比べて衰退が早かったらしく、ここなどは築5〜60年以上経過したような家が多く、最早完全に過去の町になりきっている感じです。
農業が駄目になって農村が疲弊したのではなく、同じ生産量の場合、その他産業が機械化によって3倍5倍10倍と生産性が上がるとその上昇力に比例出来ず、ひいては従来と同じ人口を養えなくなって人口流出が続いて行くのですが、銚子漁港の場合、生活水準の向上によって魚類の消費量が増えて価格が上昇し、近代化(機械化)に連れて遠洋漁業に進出して漁場も広がり生産性が上がっていたので、昭和50年代までは元気でした。
(小舟を操って沿岸漁業していたときは農業で言えば一戸たり5〜6反部の規模だったのが、2〜30町歩に規模拡大したような変化でした)
漁獲制限や排他的経済水域制が発達して来て、日本漁業の拡大が頭打ちになった50年代からは元気がなくなっています。
これは銚子漁港に限らず、大手水産会社が元気をなくして行った時期とも一致します。
昭和40年代までは高校野球では銚子商業高校の活躍、川崎市を本拠とするプロ野球の大洋ホエールズ(スポンサーは大洋漁業)があったのですが、これが1978(昭和53)年撤退して横浜に売却されてしまったのがその象徴です。
私が弁護士になった頃には、八日市場駅周辺から千葉の県庁や裁判所(書記官)、千葉市内の企業へ通っている50代の人が結構いましたが、今ではこうした人はとっくに見かけなくなっていますので多分その多くは鬼籍に入っていることでしょう。
今春久しぶりに(ここ5〜6年に行ってない記憶です)八日市場支部へ行ったときに、先輩弁護士の家の前を通ると雨戸が閉まっていたので、支部の人に消息を尋ねると数年前に亡くなったとのことでした。
裁判所へ行く裏通りは元の旧街道らしく私より3〜40年以上先輩の弁護士の家が並んでいたものでしたが、いずれもなくなって以来門を閉ざし、無人の屋敷になっている様子になって久しく(いつの間にか空き地になっているのもあります)上記弁護士一人が残っていたのです。
このように地方では共同体意識は崩壊しつつあったにも拘らず(あるいはほぼ崩壊してしまっている集落が殆どでしょう)、これを大震災被害に対する世間の同情心をテコに「無理」に復活させようとしても、前提になる共同生活(水利の共同利用管理など)がなくなっているのですから、無理なものは無理です。
震災被害に対する同情心を利用して、既になくなりつつあって崩壊寸前あるいは最早存在していない共同体意識を強調している人がホンの少数いるだけではないでしょうか?
ドン・キホーテのように、滅び去った価値観にこだわる人の姿はどこか人の心を撃つものですが・・・。

共同体意識1と離脱金支給

伝統的集落から早めに離脱して行く人に対して、その集落運営者が平均以上の早期割増金を払うのは心情的に抵抗があるのは分りますが、物事は心情重視では無理がでてきます。
大方心情重視と言うときは心情が社会実態の変化から乖離している・・社会実態に遅れているときに使う言葉でしょう。
稲作共同体の歴史が長かった我が国では、集落共同体を死守することが集団員の生活を守る命綱でしたし構成員は当然守るべき最低の義務であり美徳であると教え込まれて来たので、社会構造が大きく変わってしまってから100年前後も経過しているのに今回の大震災では未だにこれに執念を燃やす人・・「郷土愛の強い人がいる限り復興は出来る」などとたたえられる傾向があります。
現在のマスコミ報道で見ると、飽くまでふるさとに戻りたい・破壊された集落や元の事業の復活に執念を燃やしてる人がもっとも尊いかのように描かれ、これを賛美する意見が100%です。
原発の避難地域に限らず、津波で壊滅的被害を受けた地域とは、将来再度同じような惨禍が予想される地域でもあるのですから、同じ場所に復元であれ復興する発想は、遊水池の比喩で言えば豪雨で遊水池が水浸しになった後にもう一度同じ遊水池内に集落を復元する運動を賛美しているのと同類で、おかしなものです。  
復興するには今度は津波の来ない高台等別の場所に集落を復興すべきですが、そうなると同じ場所ではなくなるので、復興とは何かの問題に行き当たります。
元の同じ集落住民が別の場所でもう一度固まって住みたい・・濃厚な人間関係の維持・継続を願っている気持ちが中核にあって、出来れば元の集落の近くでありたいと言うことになるのでしょうか?
場所は二次的要素でしかなく(同じ場所またはその近くにこしたことはないとしても)少なくとも従来の人間関係を復活したいと言うのがその基本でしょうか。
日本では、今でも何故共同体意識を重視するのでしょうか?
勿論アメリカもこれを知っていて「ともだち作戦」とか言って、(なかなかのキャッチコピーと言うべきです)日本人の心情をくすぐります。
誰もが先ず共同体意識を重視するかのような発言をする智恵があるのは、(私は年甲斐もなくこうした智恵に疎いので本当のことを書きたくなりますが・・・)稲作社会では灌漑設備は共同でなければ維持出来ないので、共同体を重視するし、これを軽視する発言をする人は危険人物視されて来た長い歴史があってのことでしょう。
ムラ意識に関しては、2011年4月24日に書き始めたムラ八分の続きを、この後に書く予定ですが、ここでムラ意識について少し割り込むことになります。
近いところでは、明治維新で国許にいられなくなった伊達家や会津松平家、あるいは淡路の稲田家など集団移転して開拓に従事していますので日本人は集団行動が好きかと誤解しがちですが、(徳川家も静岡へ)これは開拓の特殊性によるものであって、開拓移住以外で各藩の武士等が東京や大阪へ移住するのには集団行動ではなく各人バラバラの移動です。
私が育った頃から、小中学校まで一緒でもその後は(昭和30年代以降)その殆どが進学や就職等で離ればなれになるのが普通で、江戸時代までのように生まれてから死ぬまで同じ集落で同じ農業に従事している人の方が少ない・・今や稀な時代です。
現在の郷土愛・・結局は共同体意識の復活を重視するマスコミ論調は、過去の村落共同生活・・今や存在しない亡霊を前提に賛美しているに過ぎません。
千葉県の過疎化の進んでいる地域で見ると、高度成長に取り残された農業で生活するのが苦しくなってからは、遠くの中核都市に職を得て朝早く出て夜遅く帰る生活となっているものの、職場が遠いので地元集落と日常的には何の関係もなくなって共同体意識がバラバラになっている・・と言うよりは、濃厚な人間関係を鬱陶しく思っている人が多くなっています。
農村にいながら水田を荒れ地にしている家が増えたのは、1つにはいろんなムラの共同作業参加が面倒くさく感じている人が増えた面も有るでしょう。
この第一世代・7〜80代の(鬱陶しい)意識を反映してか、次世代になると千葉や船橋周辺・都市部にアパートを借りたりマンションを購入したりして移転してしまい、共同体作業(鎮守の森の草刈その他一杯有ります・・)への参加など無視している世代です。
彼らは最早過疎地化しつつある実家に戻る気もないので、次の世代になると県のはずれの方では空き家がすでに増加しつつあります。

親族共同体意識の崩壊(盆正月の帰省)

余裕のない所帯・・貧農では結局は追い出してしまうしかないのですが、江戸時代には郷里を追い出された後も、(法的には縁を切られて無宿者になっているのですが・・・)何時呼び戻してくれるかといつも気にして都会生活をしていたことについては、04/21/10「間引きとスペアー5(兄弟姉妹の利害対立)」までのコラムで書きました。
いざと言う時に後継者に選んでもらえるように・・盆暮れには欠かさず顔を出していつでも後を継いでやって行ける元気な様子を見せて親や兄のご機嫌を取り結んでおく必要があったので、盆と正月には実家に顔を出す習慣が定着したのであって、宗教心や孝行心がそれほど篤かった訳ではないでしょう。
明治に入ると次男三男が(勘当や無宿者・・アウトローとしてではなく、)正規の働き口があって正々堂々と都会に出て行けるようになったし、お金持ちの次男等は進学等で都会に出ますし、居候・厄介として親の家に残っているのは、外に働きに出られない病者・障害者等ごく少数の例外に限られた筈です。
都会に出た多くの人は、江戸時代と違ってきちんとした勤め先を得て所帯を持てるようになったので、居候や厄介として親の家に残る・・ギリギリの限度までしがみつく人が減っただけではなく、出て行った人も実家に呼び戻してくれるのを期待する意識が薄れます。
むしろ都会で成功した人(とまで言えなくともある程度の生活安定が出来上がると)が増えると、実家の兄が亡くなったと言われても都会で得た地位を捨てて郷里に帰って農業を継がされるのは迷惑と考える人が増えて来ます。
現実の都会生活が充実してくれば、あえて現実の生活を捨てて遠くの郷里の生活(実家とは言いますが、郷愁・バージョンの世界です)に戻りたくなくなるのが人情です。
まして都市での近代的生活水準が進む一方ですから、(食べて行けさえすれば都市の生活は田舎に比べて便利この上ないものです)遅れた田舎の生活に戻りたくなる人は滅多にいなくなったでしょう。
特に薩長土肥の下級士族出身者にとっては、多くは政府で良い職についていたので、田舎の足軽長屋を継ぐために郷里に帰りたい人は皆無に近かったのではないでしょうか?
今でも過疎地の田舎から出て来た人にとっては、田舎の土地その他の相続に興味・関心をなくしている人が殆どでしょう。
明治中期頃の社会意識の変化は、現在の過疎地出身者の相続期待意識喪失の前段階・先駆的問題ですが、よほどの豪農の子弟以外は、都会でせっかく得た勤務を捨ててまで田舎のあばら家・貧農の相続をするために帰りたい人の方が少なくなって来たのが、明治中期頃の実情だったでしょう。
(現在マイホームを持てなかった敗者が親の家に戻れるのを楽しみにしているのと同様に、何時の世にも・・好景気でも倒産したり食い詰めている人もいますので例外はあります)

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC