マッカーサーの功罪(天皇制の維持)2

城主が責任を取って腹を切るのは日本人にとって、潔い行為ですが、戦犯・・犯罪人呼ばわりされて囚人服を着せられての処刑は必要以上に日本人が辱めを受けたという感情を刺激しました。
アメリカにすれば、犯罪行為を設定しないと処刑理由がないので犯罪人にしたかったのでしょうが、日本からすれば、こんな汚名を着せられること自体(高位高官のものが泥棒のような囚人服を着せられて処刑されたこと自体が大きな侮辱です)が言語同断の武士道に反しした行為となります。
赤穂浪士の言い分の1つに内匠頭の官職のママで切腹したのに、下郎並みに庭先で切腹させられたことが恨みの1つにされていたように思います。
この理不尽な処刑を受けいるしか野蛮なアメリカによる日本民族に対する苛烈な支配を免れ手段がなかったとすれば仕方がないことですが、年数の経過で敗戦の余燼が冷めれば、なおさら犠牲に成り代わってくれた人に対して鄭重にお祭りしたくなるのが当然です。
マッカーサーの評価に戻りますと、彼の評価はルーズベルトの戦争政策・・国内宣伝と彼が赴任後に一定の報復処理が終わってから気が付いて修正した・・修正出来る限度で実施した政策とを分けて考える必要があります。
マッカーサーは現場責任者でしかなく、本国の指令を勝手に変えられないので、その限度での評価をする必要があります。
彼は赴任直後に直ぐに天皇制維持の必要性・・日本人の心の象徴であると理解し、本国の理解を求めて努力してついにこれを成功させています。
(日本の官僚や国民はしたたかに彼の抱き込に成功したとも言えます)
彼は背の高い自分と天皇と並んだ写真を発表して日本国民の自尊心を多いに傷つけた場面ばかり報道されています。
この写真は日本人にとってはインパクトが強過ぎるので、今後数百〜千年以上にわたって(蒙古軍襲来時の残虐性は未だに語り継がれます)民族の尊厳を踏みにじられた負の歴史の象徴として残って行くことでしょう。
天皇と並んだ写真発表は、天皇制維持に舵を切った彼にとって、本国・アメリカ政府を納得させる高等戦術だった可能性がありますので、必ずしも日本人に敗北感を植え付ける目的ばかりだったとは言えません。
この写真を種に批判することも可能ですが、それよりは、天皇制を残した功績こそを日本民族は評価すべきです。
話が変わりますが、現憲法は占領軍に押し付けられたという批判が大きいのですが・・占領期には日本は隷属していて憲法に限らず全ての法令はGHQの(事実上の)同意がなければ施行出来ない状態でしたから、大本の憲法自体が占領軍・・背後の米政府の承認なしに改正出来なかったこと・・押し付けられた憲法であることは議論の余地がありません。
サンフランシスコ講和条約を日本は無効宣言出来ると書いたのと同様です。
ココで重要な論点は、サンフランシスコ講和条約の無効を宣言した方が良いかの判断が必要なのと同様に憲法の内容が日本国民に納得出来るものであったか否かでしょう。
派手に抵抗するばかりが能ではないことを中国の岳飛の例を上げて、9年前の08/25/04「幕末の政治模様2(井伊大老と安政の大獄)」で書いたことがあります。
最近では、2013-10-29「アメリカの神道敵視政策7(日本人奴隷化3)」以降にも書いてきました。
日本の官僚・政治家・・ひいては庶民にいたるまで心を一にして(堪え難きを耐えて)マッカーサーと対決して決裂する道を選ばずに、柔軟に日本精神を導入し、残すことに腐心してきました。
我が国始まって以来・・あるいは少なくとも摂関政治以降の歴史を虚心に見ると、象徴天皇制はまさに実態に即していますし、天皇制を象徴として残せたのは交渉に当った政治家や官僚の大成功と言うべきでしょう。
せいぜい譲ったのは、天皇の人間宣言くらいですから、何らの実害もなかったことになります。
(天皇も病気し、寿命が来れば死亡することをみんな知っていますし、誰も本当の神様と思ってはいなかった・・精々比喩的表現でしかないのを知っていますから、人間宣言は実態に合わせただけです)
明治憲法での天皇制の方が勇み足と言うか、藤原氏が実権を握って以来天皇には実権がないのに(明治維新後も実態は同じでした)これをあるかのごとく強調し過ぎていた面で不正確でした。
実態を研究していた憲法学では有名な(美濃部達吉の)天皇機関説・・これが軍部に批判される前には通説でした・・出て来ていたのですが、これを軍部が否定していたことがアメリカによる天皇責任論の原因です。
贔屓の引き倒しと言う言葉がありますが、何が後でマイナスに作用するか知れません。
まさか軍部が後で天皇戦犯責任論の根拠とされ、後に戦犯として絞首刑になる危険を招く意図があったとは思えませんが・・・。

マッカーサーの功罪(天皇制の維持)1

日本人の万物を慈しみ誠実な精神は崇高であって、そもそもこの精神を潰す必要がないとマッカーサーは理解したらしく直ぐに占領政策を軌道修正しました。
初期の神道指令等(アメリカ本国=ルーズベルトの意向そのままだったでしょうから)対神道弾圧政策はかなり厳しいものでしたが、徐々に神道弾圧・規制が緩んで行きます。
進駐した大量の米兵(最大で43万人+軍属)が実地に日本人の善良な国民性に接したことによって、米兵の裾野から日本人理解が進んだことによる影響大きかったと思われます。
本当は米国本土でもそんなことくらいは分っていたのですが、異人種の「日本をやっつけろ!」という強烈な人種差別思想・・政治の力で、そうした意見は押しつぶされて、如何に日本が悪いことをしているかと言う意見・プロパガンダばかりが幅を利かしていたのです。
マスメデイアというのは、一定方向に向かうと世論迎合・それ一色になる傾向があるので怖いものです。
マッカーサーに対する毀誉褒貶は一杯ありますが、彼は占領軍司令官として赴任した以上、日本侵略軍代表としての役割を果たしたことは相違ないので、その限りで日本人が酷い目にあった張本人として日本人から批判を受けるのは当然です。
また彼自身の個人的報復感情によって、敵将であるマレーのトラと言われた山下奉文大将を根拠のない理由で無理矢理に処刑しています。
降伏した将軍を処刑するのは国際法違反ですし、まして軍服の着用すらも許さず惨めな囚人服を着せて出廷させて辱めを与えて(銃殺ではなく)絞首刑にしたのは、単なる殺人罪でしかありませんから、こうした面で批判を受けるのは当然です。
しかし、彼は厚木基地に降り立ってから短期間で日本に軍政を布く布告の発令予定を撤回しているように、(そのときのやり取りでも決して日本人を奴隷化するつもりはないと彼は言い訳していますので、語るにオチルと言うかアメリカでは日本を奴隷化することは既定路線だったのでしょう)それなりに正義感・・真実を見る目が正しかったように思えます。
彼は軍人として日本が宣伝していた「鬼畜米英」の逆バージョンでアメリカ政治家・マスコミによる対日プロパガンダを信じていた・あるいは(個人的報復感情に溺れて)信じようとしていたのはある程度仕方がないことです。
如何に日本人が残虐非道であるかの宣伝に正直に洗脳されてその気(彼はフィリッピンを追われた個人的報復感情が中心だったでしょうから、不純であった点はルーズベルトと同罪ですが、・・)になって、日本に赴任していたこと自体、彼の責任ばかりとは言い切れません。
マッカーサーその他アメリカ関係者の強烈な報復感情を満足させるには、一定限度の高官が民族の代表として犠牲になって宥める必要があった・・結果的に極東軍事裁判が日本に有利に働いた側面も無視出来ません。
言わば、当時日本全体で誰かが犠牲にならなければ収拾がつかない国際状況であったことは否めません。
日本全体で暗黙の合意として、天皇に責任が及ばないようにするという暗黙の了解で、已むなく極東軍事裁判を受け入れたと思われます。
米軍は天皇責任を問わない約束を守ったのに今更軍事裁判が酷いと言われると、逆に日本の方がルール違反と思っているかも知れません。
日本側としては天皇に戦争責任が及ばないようにする・・無茶な抵抗をして日本民族総奴隷化されてしまうリスクを回避するために,アメリカの理不尽な要求もある程度満足させる必要があったことは確かです。
アメリカとしてはその引き換えに生け贄を出したのだから仕方がないだろうという気持ちなのでしょう。
しかし、強盗に命とお金支払約束とどちらを選ぶかと言われて,命惜しさに一定金額を払う約束をしても、後でこの約束は無効・違法を言えるのと同じです。
この取引は、占領下の脅迫によるものですから、2013-11-3「日米平和条約の不存在」に書いたように、日本はいつでも無効宣言出来る法的地位にありますから日本が実質的なルール違反していることにはなりません。
日本は無効宣言まではしないまでも、天皇や民族が奴隷化される代わりに犠牲になった首脳部の人たちに(この意味では祖国を守るために特攻機で散って行った若者に対するのと同じです)尊崇の念を抱き篤く弔いたいのは当然です。
城明け渡しに際して城兵全部の生命保障と引き換えに腹を切った城主を弔うのは、古来当然のことでした。
占領政策のテーマに戻しますと、軍事裁判→処刑強行によってアメリカ側の報復感情がある程度満足したからでしょうか?
その後は、ある程度公平に日本を見るようになったと思われます。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC