健康寿命→寝たきり開始イメージ報道の意図

膨大なマスコミやネット報道で健康寿命期間と非自立期間開始と直截関係がないと言う解説がなく、マスコミ・報道界が一致して「寝たきり期間を少なくするために健康寿命を長くする必要がある」と言うイメージを繰り返し流布させているのは、相応の背後勢力の後押しがあったように思えます。
陰陽の政治運動があるといつも書いているように「誰がこのイメージ定着で利益を得るのか?」と言うアプローチです。
高齢化が進むと健康寿命と平均寿命の差が伸びる→要介護期間が伸びる→介護人材不足のイメージ・外国人労働規制緩和論に利することが1つ考えられます。
これに加えて、直截保険財政赤字を主張しないものの、高齢化によって財政負担が増えるようなイメージ浸透効果・・社会保障費用の消費税増税必要性を訴える洗脳効果があるでしょう。
財政赤字が大変だと過大主張して消費税増税に励む財務官僚の思惑に似ています。
他方国民の心情に向かっては、「俺は平均よりも元気だ」と国民に自己満足させる・・受入れ易い効果もあります。
非常に有効なキャッチコピーだった気がします。
私は厚労省のPDFに入るまでは、「自分が平均よりも健康なのか?」とおめでたく誤解していましたし、高齢化→自分でトイレも行けない期間がこんなにあるのか驚きつつも・・それにしては、自分は元気だなという自己満足の気持ちでした。
ただ、このコラムを書いている内に、18日紹介したダイアモンド◯◯のネット記事・・健康寿命の終わり=寝たきりイメージからすると、周辺の状況に余りにも合わない・・おかしいなと思ったので、ちょっと気になって調べた結果、分って来ただけです。
マスコミは、「厚労省のPDFまで入って行く(私のような)暇人はいないだろう」と国民をバカにしていたのではないでしょうか?
マスコミはヤラセに始まって国民が現地調査しないことを良いことにして、いろんな不正確報道が目にあまります。
マスコミが、・・何のためにこう言う誘導をやるかと言えば、マスコミの使命である中立性を放棄して特定政治方向へ国民世論を誘導することが常態化して来た結果の一態様がここにも現れて来たと言うべきではないでしょうか。
ここで言う特定政治方向とは右翼または左翼(親中韓または反中韓)と言う大げさなものばかりではなく、サンゴのヤラセ報道事件や各種街頭意見聴取のようにマスコミが意図する一定方向へ世論誘導しようとする(不遜な)姿勢・・例えば、環境保全を訴えるものであれば、どんな虚偽・過大報道をしても良いと言うような・・思い込みを書いています。
マスコミは事実を隠さずに報道する使命がありますが、どこかの政党の意見でなければ良いのではなく、マスコミの意図する主張を垂れ流して一定方向へ世論誘導しようとするのは中立性違反です。
健康寿命との関係で保険財政赤字の話題が出たついでに、高齢化と保険赤字の関係をちょっと見て行きます。
私や妻の兄や姉やいとこ・・その連れ合いなど皆私よりもかなり年上(80台前後中心)ですが、身近な人で見ると年齢相応に年寄りっぽくなっていますが、そんなに具合が悪そうには見えません。
歯医者に行ったり、50肩?などで、年に数回程度整形外科に通ったりしている人がいるでしょうが、その程度では外見からは分りません。
私の場合で言えば、年に1回ほど、足が(乾燥原因?)かゆいので、塗り薬を貰いに行く(360円)程度の外、昨年食べると痛むので歯医者さんに行ってみると目に目に見えない細かなひび割れがあってそこが沁みるそうですが、この場合合計で3割負担で数千円程度の支払でした。
若いときにはこう言うことは皆無でしたから、医療の世話になる頻度が上がって来たと言えば言えますが、いいわゆる健康寿命経過後でも、私が払っている保険料の何十分の一も年間使っていません。
勿論私の妻はこの数十年以上年に一回も医療機関の世話になっていません。
私自身高齢者の仲間入りをしてみると,私だけではなく私よりも高齢の先輩弁護士の多くが元気にしていることを見ても高齢化が社会保険赤字拡大の原因と言う報道がどこか、おかしいような気がしてきました。

健康寿命と自立年齢1

貧困連鎖論批判に流れてしまいましたが、年末〜元旦に掛けてのテーマ・・高齢化による情報処理能力低下に戻ります。
物忘れが早くなるのも能力低下によるもので、能力以上の重いものを持つと長く持っていられないのですぐにどこかに置きたくなる・・キャパシテイを越える情報が入ると保有し切れなくてすぐに投げ出すしかありません。
物忘れと言っても最近の記憶から順に消えて行くの見ると、ドラム缶に積もって行く枯れ葉などを想像すると、子供のころの情報は底の方に入ってしまい簡単に出ないが、だんだんつもって来て70台になって残り5センチくらいしか余裕が無くなってから入ったばかりの情報は風が吹けばすぐに飛び散ってしまいます。
この余裕幅が3センチメートル〜2センチ1センチ〜と縮小してゼロになると、5分前に食べたことも分らなくなるのかもしれません。
長く生きていると物忘れ・・記憶がすぐに消えて行くのは、その間の情報の蓄積が膨大で蓄積能力が限界・・満杯になりつつあるからではないか?と大分前から考えていました。
この考えは我田引水の都合の良い考え方・・全て人は自分に都合良く考えたいものです・・若いころから、あまり記憶して来なかった人の方がいつまでも記憶容量が残って有利になる結論を導けそうで気に入っていました。
私は若いときから人の名前その他、何でも直ぐ忘れてしまう記憶力の酷く悪い方でしたから,記憶が殆ど溜まっていないので入れ物に余裕があって有利な筈と思っていましたが、70歳前後から年齢相応に物忘れが進んでいるようなのでおかしいなと考え直した結果、元々のキャパが小さかったのに気が付きました。
キャパが小さいから直ぐ満杯になってしまわないように、生まれつきあまり覚えないように自己防衛して来たのかも知れません。
私の例から見ると、子供のころからあまり勉強しなかった人の方が記憶容量が残っていていつまでも記憶力が衰えないことになって高齢化時代には有利かと思っていましたが、そうとは限らないことになります。
私より半年か1年ほど年長で若い頃に記憶力の良かった修習同期の弁護士と時おり日弁連の委員会で会うのですが、彼は若いとき同様に特定分野に関する情報に関しては今でも関心旺盛です。
若いときから記憶力のいい人は、その方向で能力も優れているし、キャパも大きいのでドンドン使っているのであって、高齢化してもなお余裕があるのかも知れません。
ところで情報処理能力の低下を考えて行くと、100歳まで生きている場合、最後の1年で処理した情報は若い人の10日分しかないかも知れません。
そうなると長生きしていると言っても、1年で実質10日分長生きしたに過ぎない・・その他はボヤーッとしていたことになります。
100歳と105歳の差も内容では、5年間で得た情報差は20日分くらいしかないのかな?
赤ちゃんや幼児・・あるいは寿命の短い犬や猫その他小動物は、筆記試験出来ないので気楽に遊んでいるように見えますが、1ヶ月に受容し刻み込んでいる情報量は、大人の何千〜何万倍もあるかも知れませんから、生後の1ヶ月がもの凄く長いのでしょう。
こうなると長生きしていても情報処理能力が一定量以下になると実質的に大した意味がないことになりますから、早めに店じまいした方が良いのかも知れません。
客も来ないのに夜中まで開店していてもコストがかかるばかりですが、人生も同じで情報受容・処理能力もないのに120歳まで生きていてもコスト割れ?です。
この一定量は認知症診断の簡易テストに使われている長谷川式の詳細版を作れば良いように見えますが、テストをワザワザ受けなくとも外見的・・あるいは自己判定基準としては、いわゆる健康寿命が分りよい指標になるかも知れません。
健康寿命(自立可能)の限界が来ても、知能は活発な人は当然いるでしょうから、その場合は別に考えれば良いことでここでは概括的基準を書いているだけです。
若いときには、スキーに行って来たとか映画を見て来て良かったとかの自己中心話題で、結婚すると子供がどうしたと言う話題が数十年続くなど、年齢によって話題が変わります。
回りに高齢者が増えて来たせいか?時間が早く感じるのは常識になっているのでこう言う話題は減って来て、70歳代にはいって来ると健康の話題が多くなり、関心を持つようになってきました。
今の時代・・私に限らず多くの方にとっては、重い病気が増えるのは80台になってからのように見えますが、これは元気な高齢者が目立つからであって、体調の悪い人が結構いても、あまり出歩かない・徐々に社会参加が減るので目立ち難いだけかも知れません。

高齢結婚の意味

 

高齢化しても妻の方が若いのが(・・最近同年齢婚又は姉様女房も増えて来ましたが・・・今の所)普通なので夫の方は最後まで面倒見てくれそうですし、万一自分が残っても最後は施設に入れば良いし、子育てに大金を使わなくて済む分、老後の貯蓄・・備えも万全になります。
このように男にとっては高齢結婚は(途中で離婚にさえならなければ)良いこと尽くめですが、子を産む予定もないとすれば40歳前後以降の女性は何故(男の世話をするために?)結婚するのでしょうか?
江戸時代の跡継ぎ目的の婚姻の時代には、「石女は去れ」と言うひどい時代だったと聞かされて来ましたが、女性の本来は子を生み育てるためにこそ結婚するのだとすれば、女性の方からこそ子を産まないのに男に尽くすためにだけ一緒にいる意味がない・・男を追い出して良い筈です。
無職あるいは経済力のない女性の場合、昔ながらの生きて行くための就職をせざるを得ないからであると位置づけられますが、裁判官や弁護士あるいはその他各種産業界で(学者・教師・薬剤師等の資格業の外に作家・芸能人等々自活能力のある人がいくらもいます)相応の経済力があっても、高齢になって結婚している人が結構います。
昔で言えば髪結いの亭主と言う所ですが、この場合には子供を生み育てることを前提にしていました。
08/30/10「(1)婚姻外性行為とヒモ」前後で子供を産まない前提のヒモと何故女性は(身の回りの世話をするだけ?の為に)結婚しているのだろうか?と書いたことがありますが、実は堅気の中高年初婚同士あるいは再婚同士夫婦にも似たような結果になっています。
子育て期間が長引いてきた結果、単なる発情期の延長では夫の長期協力を確保しきれなくなって、家庭サービス・・こまめな世話・・結局は文化の香りが夫婦関係を長く持たせるために必要になってきたと、07/14/10(1)婚姻制度の始まり」以下で書いてきましたが、この関係の重要性が意識されてから長い間たってきたので、今になるとこうした関係自体が人間らしく生きて行くために自己目的化してきたと言えるでしょうか?
文化がなければヒトではない・・・?
高級レストランで男一人で食事していても形(サマ)にならない社会になっていると言えば良いでしょうか?
男だけの集まりでは、文化の香りが低そうですが、女性の場合、女性だけの観劇会・食事会・お茶席その他文化の香りのする生き方にこと欠きません。
あるいは女性は、男と一緒でないと世の中でバカにされる・・女性だけでは一人で生きて行くのが大変だと言う社会全体に残っている古い意識がそうさせているだけかもしれません。
子育ての長期化・長寿化が進むと生殖能力だけで関係を維持するのは無理がでてきたので、サービス・文化重視傾向になったのは人類の智恵でもあるでしょう。
ただ、この場合には、女性の方が男性に対して昔のように一方的に尽くす関係(子育てに協力してもらうために昔から仕方がなかったのですが、)子育てが終わり、あるいは始めっから子を産めない年齢の場合には、いくら何でもこの一方的な関係では夫婦関係が持たなくなって来ます。
男性も女性に負けずに細やかな双方向型サービスが必要な時代には、従来型の粗暴な(ガードマン的役割)能力があるだけでは上手く行きません。
草食系と言われる優しい傾向の男性が増えて来たのは、こうした需要に適応して来た結果でしょう。

高齢者と社会(ご恩と奉公)

ほとんどの都市労働者にとってはマイホーム獲得のために一生働いているようなものですから、都市住民2世にとっては高騰した都内の宅地を相続出来るのは大きなメリットなりますが、高度成長期に地方から都会に移住した親が地方に残っている都市住民1世組(これが昭和時代の都市住民の多数派です)にとっては、過疎化した田舎の農地や宅地の相続権は貨幣的メリットが少なく、この意味でも相続財産の価値比重が低下した時代でした。
こうなると、親世代が「今の子供は当てにならない」と言い出す以前に、地方に親世代がいる我々世代から言えば「今の親の遺産は当てにならなくなった」と言う現実が先に生じていたことになります。
04/14/08「儒教から法へ2(中国の商道徳)」その他で書いてきましたが、親孝行・・儒教道徳は、農地(永続的収入保障)を世襲する農耕社会でこそ存在基礎があったに過ぎず、農耕社会が終わると崩壊して行くべきものかもしれません。
遺産を継げるかどうか遺産の価値大小に関係なく「子が親を敬い年老いては面倒を見るのは人倫の道ではないか」と言うかも知れませんが、子は幼い時には自分を養い守ってくれる外に何事も模倣の対象となる・・指導者としての親を敬うのは当然としても、老いさらばえて何の指導も受けることがなくなった要介護の親を尊敬するのは実態に反しているので無理です。
尊敬とは自分より優れたものに対して尊び敬う気持ちですから、年老いて自分よりも、殆どの分野で劣ってしまった親(要介護状態になった親)を尊敬するのは真実に反している・・尊敬と言う意味に反してお世辞の域を出ません。
ライオンその他人間以外の動物が年老いた親やリーダーが追い出されるのを見捨てるのは、これが本来の姿であるからです。
人間の場合高等動物だから長幼の序があるのではなく、世襲しないと生きて行けないから、遺産相続を誰にさせるかの権限を握る親の権力が最後まで強かっただけです。
年老いた親に対する気持ちで大切なのは、実態に反する尊敬ではなく感謝・親愛の気持ちでしょう。
人類以外にどんな生物でも生活出来なくなった親または親株(植物の場合)を大事にする動植物はないのですから、高齢者を大事にするのは生き物の本能による道ではないことが明らかです。
そうはいっても「自活能力がなくなったものは野垂れ死にするべきだ」として川原に打ち捨てる野生動物のような社会にする訳に行かないのも社会的現実です。
恩を受けた分を返すのが、社会的動物のあるべき姿だからです。
安定した社会では、即時的ないし短期的な対価ばかりではなく超長期的対価関係・・しかもこれが法的義務まで高められない社会的信用だけで担保されている関係が重視されます。
・・これを私は恩の施しと報恩の関係と考えていますが・・・。
報恩とは何かと言えば、即時的な対価関係に対して、長期的な時間差のある道徳的対価関係と言えるかも知れません。

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