表現の自由と国外での自国批判(NGO2)

政治意見があれば憲法・人権学者が金科玉条にしている国内「思想の自由市場」に発表し、国内世論形成に努力しないで、(こっそり?・英語にとっつきにくい日本人多くが、アクセスしないだけのことですが・・)国外で日本の道義退廃を流布する必要性が私にはわかりません。
上記2件だけ(過去の活動までは見る暇がなかったので・・)見ても賠償金、あるいは教科書のテーマと内容を変えていながら、毎回「日本軍のセックス奴隷」と言う表現を多用して「セックス スレイブ」の印象づけを狙っているようなイメージを受けます。
ただし、巧妙に?「歴史事実を否定している日本政府」という修飾語をかましていますが、これを繰り返すことによってイメージ戦略としては国際的には「Japan’s Military Sexual Slavery・日本軍性奴隷」と言う印象づけに精出している印象を受けます。
以下NGOヒューマンライツナウが15年11月当時削除しないで残していた原文(・・この数日間で同NGOに入って見た限りではもはや見つかりません)を紹介しましょう。

(以下日本語訳は私の誤訳?です)
「Human Rights Now is gravely concerned about the government’s sustained denials of historical facts with regards to Japan’s military sexual slavery during World War II, as well as the continuing violations of survivors’ human rights.
(日本軍性奴隷Japan’s military sexual slavery・・の歴史事実を否定する日本政府denials of historical factsHuman

  Rights Nowは、・・に重大な関心を持っていると言うのですから、文書作成者は韓国の主張している歴史認識が正しいと言う立場でしょうか?)
この前提事実によれば、以下のように日本の教科書検定が正しい歴史認識を否定し人権侵害という主張になってるようです。
英文に弱いので読み違いがあれば、ご容赦ください。
(ご自分で翻訳し直してください)

・・・・Minister Abe said “Now unjust slander is being circulated in the world portraying Japan as a nation that forced them into sex slaves,” which he complained jeopardizedJapan’s reputation.・・・・・。

日本は 「sex slaves」を強いた国として今や不正な中傷が流布され ・・、日本の評判を貶めていると安倍は不満を言った。
Moreover, (しかしながら)Japan has failed to follow the UNrecommendations to educate the・・・・Instead, increasing censorship of the issue has been observed in schoolbooks.・・・・。(国連の勧告にも関わらず教科書検閲を強化している)
・・・・We urge the Japanese government to stop abusing survivors’ human rights and dignity through its attempts to rewrite history (歴史書き換えの試みによって人権と尊厳を脅かす行為をストップするよう日本政府に要求 ・urgeする)and to immediately take action to ensure their rights to justice and reparation. In addition, we strongly recommend (強くstrongly要請する)all relevant mandate holders to conduct a joint fact finding mission to Japan (適切な権限のある事実調査団の派遣を?)and to make joint recommendations in this regard.
15年11月3日に紹介した池田氏の以下の記事は、ここに想像の根拠を有していたようです。

「池田信夫 @ikedanob 2015-10-30 16:34:22
国連に「性奴隷」を売り込んだ弁護士が、今度は「日本の女子学生の30%が援助交際」などのネタを売り込んでいる。 twitter.com/KazukoIto_Law/」

裁判となれば、「日本政府が否定している性奴隷」と毎回書いているので、日本の立場を紹介しているので日本を貶める運動ではないと言う論理になるのでしょうか。
そういうことが通用するならば、同弁護士を「国連に性奴隷を売り込んだことはないと否定している◯◯ベンゴシが・・」と毎回書けば名誉毀損にならないのでしょうか?
何となく、中国古代の「白馬非馬論」のような詭弁を弄しているように見えますが、如何でしょうか?
こんなことを言って自己満足していると法律家がみんな(司法権全体)「詭弁家」か?と思われる・社会の信用をなくして行く心配があります。
私は、法律家が屁理屈に走りすぎて世間の信用を失わないかを心配しています。
名誉毀損訴訟の結果伊藤弁護士の勝訴で終わったようですが、伊藤弁護士が国連調査者に述べた証拠を出して、公正に争った結果、同弁護士がこれといった誇張表現をしていなかったという認定になったのであれば同じ弁護士として同慶の至りです。
あるいは性奴隷を流布していた事実はあるが、児童売買春を誇張して流布していたという点だけ真実性証明が足りないとして名誉毀損になったのかもしれません。
あるいは性奴隷を流布していた事実はあるが、児童売買春を誇張して流布していたという点だけ真実性証明が足りないとして名誉毀損になったのかもしれません。
僅か57万円の損害賠償(1審→2審では倍増になったようです)になったのは、児童売買春の点もかなり自己吹聴していたので、同弁護士がガンバった点について証拠こそ出せないものの信じた点は過失に過ぎないという減点?があったかもしれません。
訴訟自体を知らないので部外者は憶測ばかりで合理的批判しようがないのですが、政治問題が訴訟になった事件では、それで良いのかの疑問で書いています。
BPOのように判決概要くらい公開すべきではないでしょうか?
私の実務経験では、裁判所はどんな事件でも事案をよく見ていて、公平な運用をしているのが普通です。
だからと言って、「知らないもの(・・部外者)は黙っているべし」というだけでは、個人的(工事代金や売掛金請求など一般民事、離婚事件)民事訴訟と違って、もともと政治的論争への政治効果を狙った事件・・政治色のある事件では、司法界は(左右両翼から)偏っていると言う思いこみ批判が起きるばかりで国民の司法への信任が進まないでしょう。
左翼系が負ければほとんどの場合「不当判決」の横断幕が掲示されますが、こういう不毛な批判を止めるには、プライバシー部分を除いた判決概要・争点と判断過程をネット公開した方が、国民の司法への理解・信頼が進むのではないでしょうか?
(公開によって裁判所は概ね公平な運用をしていることが良く分かって、国民の信頼が高まるはずです)
裁判は公開の法廷で行うことが憲法上の要請になっているのは、国民の理解・納得によって司法が維持できることをあらわしています。
この意を体すれば、ネット公開には費用がかからないのであるから、判決があった時にはすべからく(性犯罪その他特殊事件や固有名詞等判断の合理性理解に関係ない部分を除いて)、判決書をネット公開し国民批判=納得を得る方法でもあります・に晒すべきと思われます。
我々弁護士会でも平成の初め頃から懲戒処分があったときには決定要旨だけですが、公開する仕組みになっています。
その点、BPOは概要の他に決定内容をネット公開しているようですから合理的です。
ただし、私の方は個人的事情(暇がないだけ)で概要しか読んでいない・・全文を読む暇がないと言うだけですから、BPOの責任ではありません・・見たい場合には、誰でも全部見られるようにすべきでしょう。
各種公文書公開制度は、公開していても滅多に見る人がいないとしても、いざとなれば誰でも見られる点に公開制度の意味があります。
わざわざ役所等へ出向いて申請して費用を払ってまでみるには、よほどの具体的利害関係や事前情報をあらかじめ得ていないとできませんが、ネット公開してくれれば、自宅にいながら気になった時点で念のためちょっとみることが可能です。

表現の自由と国外での自国批判(NGO1)

そこで15年10月末頃にコピペしておいた英文PDFを読むと題名が日本語の活動記録では「慰安婦」となっていたのに英文では

「Japan’s Military Sexual Slavery・日本軍性奴隷」

となっているのにはまず驚きます。
性奴隷だったか否かの事実については、朝日新聞の検証以来「解決済み」と考えている人が多いと思われますが、(一ヶ月に2回も発言している頻度に驚きます)国外・国連では、なお執拗に日本政府批判活動が日本のNGOによって続けられていたことがわかりました。
日本国内の人権改善のための運動としても、国内で主張しないで何故国連で主張しなければならないのか疑問です。
・・1ヶ月に2回も「性奴隷」問題を取り上げているのを見ると慰安婦問題に異常なエネルギーを傾注している印象を受けます。
日本では例えば「児童売買春を抑圧しよう」「教科書検定に反対」のキャンペインをしても、投獄される心配は皆無でしょう。
日本は人権運動すると投獄されるな国ではない・・表現自由が保障されているのですから、日本の人権状況をよりよくしたいならば、まず国内で堂々と意見を発表し自由論争の結果、政治を変えていくようにすればいいのではないでしょうか?
特に児童売買春、フェイクニュース根絶や貧困撲滅やギャンブル依存症対策、売春を公認するか?等の仕組み作りは、理念さえ唱えれば解決するものではなく、総合的施策があってのことですから、優れて国内政治向きのテーマです。
国内自由市場で支持されれば、政策に採用されるので国外宣伝する必要がない→支持されないから場外闘争・・国内運動を諦めて海外運動に精出しているのかと多く人が思うのでないでしょうか?
日本人の目の届かないところ・・・国連・公開の場で日本の道義頽廃を主張しても、多くの日本人は国連の特別委員会の発言をいちいちチェックする暇はないし、もともと英語理解は苦手ですからいきなり国連勧告などもらっても日本人の多くには寝耳の水です。
国連の人権委員を説得して回り、成功するとそんな人権侵害がひどいならと、現地調査派遣が決まるのでしょうが、訪日調査と言っても児童売買春で言えばまともな統計すらないので、「意識の高い?」関係者から聞いて回って報告書作成となったのが、国内騒動の顛末ではないでしょうか?
たまたま補導された児童に聞く機会があっても自己正当化もあって、彼女らの言い分は「皆やってる」というのがほとんどです。
事件相談でも数十年前には依頼者の主張根拠を聞くと「みんな言ってる」「皆がやってる」というたぐいの説明が多かったのですが、自己の(相手の言い分を言わずに自分の都合の良い)言い分を強調すれば、大抵の人は論争に参加する必要がないので、強調する人の言い分に同調するふりをするか、「大変だったね」と慰めたり「そりゃひどいよ、すぐに弁護士さんに相談しな!」となるのが普通で「あんたの方が悪いよ!」という人は稀です。
ですから補導した児童に「友達でどのくらいやっているか」を聞いてもそのまま鵜呑みには出来ません。
15年10月末の大騒ぎがなければ報告→委員会決議→国連勧告を得てしまえば、国内議論不要・・「これが国際標準だ」として国内で内容議論抜きの国際標準である「国連勧告を受け入れろ」という政治運動になっていくような印象を受けた人が多かったでしょう。
革新系の「近代法の法理を守れ」とか「憲法を守れ」と同様、政治内容の具体的議論抜きに、思考停止させる戦略の一種です。
国内議論でほとんど相手にされないグループが、国民不知の間に国連特別報告者派遣に成功する・これが成功すると上記の通り結論が前もって決まっている儀式のために調査者が来日するみたいなものですから、(満州のリットン調査団や最近のロヒンギャ同様に)現地調査団が現地調査に行ったが、「人権侵害がなかった」という結果になった事例があるでしょうか?
日経土曜版で連載中の歴史学者本郷和人氏の「日本史ひと模様」に籤引き将軍の決定には事前に結果が決まっていた」という推測論が最近紹介されていましたが、(そこに書いてあったか私の思い込みか不明ですが)弓削道鏡失脚になっ宇佐八幡のご神託も湯起請も皆、筋書きが決まってからの儀式だったことが多いのです。
人権侵害調査の特異性は、双方から聞き取り形式ですが、政府等の言い分を形式的に聞くだけで信用しない・被害者の言い分を聞いてそちらを信用するという結果になるのが普通です。
しかも、事件の性質上匿名秘密聴取で「誰が何を言ったか」も秘密・ベールに包まれたままです。
そしてその人の言い分すら公開されないまま、「一方のその聴取結果を信用した」ということで、そのまま特別報告の内容になる仕組みです。
1〜2年前に表現の自由が侵害されているという国連調査報告が問題になりましたが、匿名の事情聴取を採用して政府主張を採用しないということでした。
このような偏頗な調査の結果、「香港の民主主義を守れ」という運動をすると簡単に中国に拉致されしまう香港よりも、日本の表現自由度の方が低いという結果だったようにおぼろげですが記憶しています。
児童売買春の場合、たまたま離日前に記者会見で数字発表したことから、客観性が必要になって撤回に追い込まれましたが、「表現の自由が不自由になっている・憂慮すべき状態」という抽象論の場合、(「誰がそんなこと言ってるのだ」というと「ニュースソースは秘密です」となり)客観性がいらないので、日本に対して問答無用で、「是正勧告」を言い切れば終わりです。
いわば特別報告者の腹づもり次第と言う仕組みです。
訪日調査者の多くは招請運動していたグループの推薦する各地地域団体代表者等から、実情聴取して帰る・・国連報告→国連委員会承認→国連で認定された既成事実・・慰安婦騒動同様に「すでに決まったことだ」という論で押し切る方式を感じ取った評論家等が非難したのが15年10月末の児童売買春騒動だったと思われます。
伊藤弁護士がその運動をし、過大報告したかどうかは別ですが、評論家が同弁護士の行為のように断定したからでしょうか?表現に行き過ぎがあったとしても、批判者の言いたいことを国民多くが理解したのではないでしょうか?
例えばヒューマンライツナウのホームページをこの時点で見ると以下のような運動が掲げられています。

私たちの活動

日本国内の人権状況
ヒューマンライツ・ナウは、日本に住む人々の人権が充分に保障されるように求める活動も展開、国連人権機関からの勧告を実施するよう政府に働きかけ、国際スタンダードの人権保障を実現するために活動しています。

成人の売春禁止制度がどうあるべきかを含めいろんな制度のありようは、民族の歴史を踏まえ海外の圧力で強制するのではなく主権国家→国内論争による民意によって決めていくべき問題です。
ちょうど今朝の日経新聞6p(フィナンシャルタイムズの引用)には、米中対決の本質・米企業の対中投資も安全保障上の観点から禁止されるようになっていく・・従来米国では大企業の海外進出は「企業が儲ければ国民も潤う」という観点しかなかったが、結果は、国民に還元されず国民は貧困化して来たので、グローバル展開が国民に良いことかどうかが問題視される時代に入ったという論文が掲載されています。
日本ではトヨタが海外展開しながらも、民族精神重視できたことがよくしられているとおりで、元々民族無視のグローバル化を国民多くが支持してきませんでした。
炭素繊維成功で新時代対応成功・・希望の星であったトーレが(経団連会長企業になったので、一定の政治的立場もあったでしょうが・・)慰安婦騒動の最中に韓国への新規投資発表など肩入れ鮮明化以降、問題になっているなど結果的に日本の方がトランプ氏より進んでいたのです。
最近の報道では以下の通りです。
https://ameblo.jp/ishinsya/entry-12321465394.html

許されるのか?東レが韓国に技術移転!
2017年10月21日(土)

外国人の政治活動自由6と反発

以上見てきた通り、今では政治活動を表向きの理由にして入国拒否しそれが訴訟で合法と承認されれば、却って日本は言論の自由度の低い国・・先進民主主義国家としての国際的評価を下げるリスクがあって、他方訴訟的に見れば裁量権の乱用とされる可能性が高いでしょう。
July 14, 2018に紹介した和歌山県大地町の鯨博物館入館拒否事件では、このリスクを慮り、博物館側では反捕鯨運動家だから拒否したと言わずに、「入館規則に基づいて拒否した」と主張し和歌山地裁も憲法論を相手にせずに入館規則に該当しないとして、拒否を違法としたもので、思想や政治運動歴を判断理由にしていません。
これが現在の実務でしょう。
ただし、そこで引用したように朝日新聞の報道は判決で書いていない憲法的関心を全面に出して報道しています。
もう一度引用します。

★≪思想・良心や表現の自由を保障した憲法の趣旨を踏まえ、女性は情報を得ようとする行為を妨げられたと判断≫(朝日)という。

朝日は本来の争点を報道したつもりでしょうが、報道はまず客観事実を報道し、その深読み解説と分けて行うべきでしょう。
そうでないと見出しだけ見る多くの人は、憲法判断であったかのように誤解してしまいます。
高度社会で好き嫌いを正面の理由にせずに婉曲的表現・例えば食事に誘われて「あなたと食事したくない」言わずに「都合がつかない」と断るなどが普通ですが、それを「嫌いだからと断った」と書くのはフェイクであり、事実報道としては、「都合がつかずに食事会が流れた」と書くべきでしょう。
総理の外国訪問でどういう晩餐会を開かれるか、遅れてくるかなどは重要シグナルですが、相手が日本軽視の意図かどうかの読みですが、それをどう評価するかは別問題です。
それをどう解釈するかは読者の判断事項ですから、自社の意見を言いたければ、別に解説として分けて書くべきです。
入管法の相互主義の条文も拒否理由に該当する場合でも機械的適用ではなく、外交に及ぼす影響その他総合判断でこの発動を抑制的に運用するのが普通でしょう。
マクリーン判決の事案は、アメリカ人が日本に来てアメリカ政府の嫌うベトナム戦争反対の宣伝デモ活動をしていたことが、在留更新拒否の理由でしたのでアメリカ政府が期待する結果であって、当時圧倒的強国であり自由主義社会のトップであったアメリカが歓迎する事件だったので、国際問題として批判が広がりにくい事件であった点も無視出来ません。
政治運動の自由があるとしても、国内的支持を広げる目的運動ではなく、反発が広がるのを目的に行う挑発的政治活動はどうでしょうか?
政治運動に挑発目的〜自己満足的行動かどうかの区別をする基準がないので、せいぜい「喧嘩言葉は言論の自由の枠外」という程度の基準しかないのでしょうが、表現を受け取る方が、日本民族のための言動と受け取るか、日本民族を貶めるための運動と受け取るかは受け取り手の自由・・これが自由市場論です。
表現者の真意が日本のためであっても、自己満足的感情表現に溺れるのは逆効果でその点の配慮工夫が必要です。
外国人の政治発言が、日本世論無視で日本人感情を刺激するので困ると思っても、日本は国際世論無視でトランプ氏のように乱暴なことはできませんので、政治要素はビザ発給段階の隠れた?考慮要素になるか?というだけです。
クジラ博物館の事例でいえば、当てはめに10㎝の幅があるとすればその枠内の裁量でギリギリ収まる場合には好感度の低い人に対して規則を盾に断ることが可能ですが、その枠を超えての拒否は、ルール違反「言いがかり」になります。」
クジラ博物館の場合に「言いがかり的拒否」だったことになります。
ただし、私のような弁護士業務から実務的に考えると、政府の方はビザ発給段階でブラックリストに載せた人物を自動的に弾いてしまえば良いのに対し、これを争う方は大変です。
手続き的には不許可処分取り消しの行政訴訟になるのでしょうが、韓国や中国の日本大使館へのビザ申請して拒否された場合、外国にいながら東京での裁判になりそうですから、そんなことに金と暇をかける人がいるか?となります。
トランプ氏の入国拒否がすぐ執行停止仮処分訴訟になっていたのは、あらかじめ予告されていたので、応援弁護団が組織されていて待ち構えていたことや米国空港に着陸後のことだからと思われます。
一般人が駐北京大使館やソウル日本大使館などの窓口で拒否された時に理由を聞いても「〇〇該当」とコンピューターに出るので私にはわかりません。
「あなた何か心当たりがないですか?」と逆に聞かれる始末では、本当の理由不明で?ビザ発給段階で普通は泣き寝入りです。
裁判などしていても予定の商談や芸能人の公演スケジュールなどに間に合いませんので誘致企画した方は大損です。
結果的にビザ発給拒否されるのではないか?の疑心暗鬼程度でも、興行的にはものすごいブレーキになり・・政治問題のある芸能人のツアーを企画する事業が激減します。
政治的に拒否したい場合=政治テーマでマスコミ注視の大事件では、在日や文化人等の応援団が訴訟費用負担してでも訴訟を仕掛けるリスクがあるので、政治的にセンシブルな事件(例えば竹島上陸した韓国人芸能人?や反捕鯨団体の入国拒否など)ほど政府は不許可にしにくい変な運用になります。
以上見てきたように、マクリーン事件当時と違い現在では政治的パフォーマンスを正面の理由にした入国拒否は難しい・・ほとんど出来ないと理解すべきです。
ヘイト規制に関しては、ヘイトを挑発する政治運動をどうするかなど、ちょっと見ただけでもいろんな考慮すべき要素がありますから、言論規制まで行くには「差別的言動の何がいけないか」について多方面の議論が出尽くすのを待つ必要があります。
現行法では「差別的言動」の(地域社会排除)目的等外形的アプローチのみで、差別の内容自体の定義を書いていません。
韓国や在日からどのような挑発があっても適法居住者に「出ていけ」は許されないという点では国内合意があるという国家意思の表明でしょうか?
ただ、適法居住者であっても刑事犯罪行為があれば国外退去を求められる留保付き滞在許可が国際原理ですから、それを要求する「特別永住者資格=特定民族だけの例外を認めるな!」という政治運動自体はヘイト・・差別的言動の例外となるのでしょうか?
ここにこそ在日に対する不満の本質があるとすれば「在特会」→「特別な地位を許すな」と言う名の運動は本質を衝いていることになります。
辛淑玉に関する本日現在のウイキペデイアの記事からです。

在日特権について
「在日韓国人が獲得した数々の権利のほとんどは、日本政府から一方的に与えられたものではない。1世中心の過去の民団が、長い年月をかけて理論整備をし、法的・人的連携を各地域で地道に構築した結果として得たものだ」[43]
「のりこえねっとで在日韓国人への日本の公民権運動を行う」[4

しかし、先祖が勝ち取ったものであれば「特権があっても良い」かは別問題です。
各種の特権的地位・世襲の貴族制その他は、その時の先祖の功績や政治事情によって勝ち取って公認されたものでしょうが、それが一定時間経過により現在も許されるべきかは時代変化によって検証していくべきものでしょう。

ヘイトスピーチ規制4と自由市場論

「中身のない・・耳を疑うようなことばが次々と出てくる」という意見がヘイト規制必要論の基礎になっているようですが、もともと野党やメデイアが内容のないスローガンを多用してきたのを聞き慣れていて、そう言うものかと自然に身について真似しているだけです。
民主党の「日本死ね」も在特会の「耳を疑う」発言もどちらも国民支持を求めてやっていることでしょうから、「日本シネ」が良くて「韓国死ね」がなぜ悪いかをメデイアが決めるのではなく国民がどちらに嫌悪感を持つかの言論の自由市場で決める問題でしょう。
どちらも意味のない言語での決めつけですから、意味のない意見を受け付けない民度レベルに引き上げて行くのが正道でしょう。
そういう根拠のない意見に踊ろされる国民かどうかによることですから、民度の向上努力をするのが先決であって、これをしないで安直な即効的効果を求めて法で禁止・・強制すると色んな問題が起きてきます。
道徳律というものは、法で強制しない・・文化力で解決しているうちが「花」でしょう。
いきなり法規制するのではなく、直接的攻撃言語を使うのは「人として問題がある」「下品だ」という道徳・・言語マナーの向上運動教育などするべきことが色々あると思われます。
私の記憶によるので時期がはっきりしませんが、いわゆる「街宣右翼」と称する組織が約40年間ほど「どぎつい言語でかつ恫喝するかのような恐ろしい声音」で街頭を走り回っていましたが、規制しなくともそんな運動を誰も支持しなかったので、10年ほど前からほとんど見かけなくなりました。
品がないか内容がないかは国民が選ぶべきことでしょう。
ロバートキャンベル氏の意見は在特会等の主張に対する批評として意味があるとしても、それを理由にして発言を規制しなくてはならないものとは思えません。
彼は規制根拠を述べたのではなく、単に在日批判演説の特徴を述べただけだと思いますが、「内容のない意見や耳を疑う意見」は全て「規制しなければならない」とすれば変な社会になります。
内容のないことしか言わなければ市民に対するに訴求力がなくなり、自然消滅して行きますからこれを規制する必要がない.規制理由にはなりません。
これこそが思想表現の自由市場論だったのではないでしょうか?
漫才やコントも吉本興行も、あるいは選挙時の代議士の街頭演説も内容がないと言えばないでしょうが、何を求めて聞くかは聴衆の自由です。
シンガポールでは20年以上前からタバコ吸い殻のポイ捨て処罰法を施行してニュースになっていましたが、自発的道徳心の向上を待てない社会では何でも為政者による強制が必要(後進国では独裁が効率良い所以)でしょうが、自発的道徳心の高い民度の高い社会では強制から入るのは愚策です
左翼系は反権力を標榜していますが、一方でなんでも自発的努力や市場淘汰に委ねずに規制強化・強制することが大好きです。
日本でもこの10年くらいで地方自治体レベルでポイ捨て禁止条例等が制定されるようになっています。
今回の禁煙規制でも自民党は徐々にしていこうとしますし、メデイアはこれでは骨抜きだと騒ぎます。
最低賃金も好景気を演出して自動的に賃金が上がるのを待つよりは、野党は引き上げ要求(好景気による自律的賃上げを待つよりは強制的引きあげ要求)し、働き方改革でも「自由化反対」一色です。
例えば、最低賃金引き上げを要求する各地弁護士会の声明がネットで出ていますし、労働形態のフレキシブル化を目指す働き方改革反対も同様です。
革新系が何故規制強化が好きなのか(もしかして国家による計画経済・思想・文芸何でも統制してきたソ連型政治を理想化するDNAによるのか?)不明ですが、何かあるつど規制不足していた→「もっと規制強化しろ」と政府批判する傾向があります。
話し合いや社会の自然な流れを利用しないで、なんでも規制強化で促成効果を狙うのは簡単なようでいて結果的に、社会の亀裂を深める低レベルな方法です。
何でも法で強制する風潮・特に政治意見対立関係について根気よく話し合わないで表現方法について法で強制するようになると、処罰規制される方に不満が溜まり、社会がギスギスし、長期的に相互不信社会に変容して行き、社会の安定感が壊れていきます。
一定の反応者・支持者がいる段階でヘイトだからと、強制的に発信手段を遮断されると支持者に不満が残りますが、強制手段によらずに道徳律が行き渡り粗野な言動に国民の多くが眉をひそめて迷惑に感じるようになれば、自然に粗野な言動が減っていきます。
民意が受け入れてくれない以上は、彼らは自己の発言がうけいれられるように紳士的発信になっていくでしょうし、自発的に修正を試みるので恨みが内向しません。
日本で過激派学生運動が下火になっていったのは、規制法が制定されたからではなく、国民が過激主張に賛同しなかった現実・・過激派支持がなくなったので、勢いを失ったのです。
内容のない演説ばかりであれば、放っておけば次第に過激発言支持が下がっていくべきなのに規制が先走りすると、「不公平ではないか」と感じる支持層の参入+感情論が勢いを持ち、却って過激派支持が長引くようになりカネません。
http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3598/1.html引用の続きです。

龍谷大学教授 キム・サンギュンさん
「彼らのやってることは非常に突拍子もないと思いますけども、その背景にサイレントマジョリティーがいると思いましたね。
自分たちの生存権が侵害される。
もしかしたら何か大変なことに、被害遭うんちゃうかという、そういうふうな危機感なり不安感って非常に強いですね。」

上記記事を見ると在日批判論に対する反対派の意見でも「サイレントマジョリテイ」の支持が背景にあることも書かれていますが、支持者が多そう→「市場競争で在日擁護派が負けている」から「強権で発言を封じよう」という方向になって来たかのような記述です。
在日批判はメデイアのようにスマートな表現訓練を受けていないから、国民不満の表現力が足りずに過激表現になっているようにも見えます。
政治は溜まっている国民不満をすくい取る努力をすべきであって、表現力不足・稚拙さを奇貨として発言の場を取り上げるのは、不満を内向させ日本社会を亀裂社会に変容させるマイナス効果を生む可能性があります。
20日に書いたように「弱いものいじめ」は卑怯ですが、それは第一次的に表現のルール範囲を守るように道徳律で自制を促し、京都の朝鮮人学校への攻撃のように表現の自由の限界を超えれば、それぞれの法による制裁を課せば良いことです。
朝鮮人学校事件以来、さらに攻撃が激化している場合には、既存法の運用では間に合わない・特定表現に絞った新法制定の必要となりますが、私にはよくわかりませんが、その後朝鮮人学校事件以上の激しい事件は起きていないように思いますが、規制に向けた法制定が何故必要になったかの疑問です。
自宅の周りを各人が掃除して綺麗な街にすべきということと、法で強制→処罰する必要があるかは別問題です。
道徳である限り定義が曖昧・柔軟処理可能ですが、法で規制するとなると定義が曖昧では困ります。
ヘイトとは何か?ですが、色んな定義があるとしても当面現行法が制定された以上はその法律の規定・定義・その法でどの程度の規制をしようとしているのかがまずは重要です。

表現の自由(自己実現・自己統治)とは2

表現の自由は、自己実現・自己統治のためにあると言うだけで、社会との折り合いをどうつけるかは、各自別に考えなさい・制約原理は別に考える・・ここは「権利だけ」考えていると言うことでしょうか。
しかし基本的人権といっても相手のあることが多いので、好きなように主張していると喧嘩が絶えません。
制約原理と合体して同時に考えるようにしないと間違って「自己実現の権利は憲法以前の基本的人権であって法律でも制限できない」から「何を言っても自由だ」と誤解する人も出てきます。
「腹ふくるるワザ」になるのは、相手があって「言いたいことも言えない」前提で兼好法師が書いているのです。
昔から、言いたいことを言う権利があったでしょうが、相手が嫌な顔をするようなことを言うと楽しくないし相応の返礼があるから、セーブして会話を楽しむようにしているのが生きる知恵です。
宮沢憲法のように「国家以前の自然権」「天賦不可譲の人権」というだけでも「戦前と違う」という戦後の大変革時のスローガン的にはインパクトがあったでしょうが、世相が落ち着いてくると素朴すぎるので次世代学者がもうちょっと捻ったようです。
憲法以前に存在する自然権というキャッチフレーズとしては敗戦時に「なんでも国家が悪い」という占領政策の宣伝と合わせて相応のインパクトがありましたが、敗戦ショックが終わり社会が落ち着いてくるとスローガン的学問では納得できない人が増えてきます。
「人権」・自然権という「権利」とは、国家社会が公認して初めて言える概念でないかというあたり前の批判(私の個人的思いつきですが、この程の批判は起きるでしょう)が起きてきたのではないでしょうか。
素人的思いつきですが、「人権」という概念自体が、国法で認められて初めて「権利」に昇格するのですから人「権」という点で国家社会成立前の自然「権」という言語自体に言語的矛盾をはらんでいます。
例えばベンサム(1748-1832)の理論がそうです。
https://plaza.umin.ac.jp/kodama/rights/kanrin_presentation.htmlによれば以下の通りです

ベンタムの自然権論批判
–法実証主義者としてのベンタム– 京都大学 児玉聡

具体的には自然権論のどのような点が誤りなのでしょうか。第一に、ベ ンタムの考えでは、「人はかくかくしかじかする自然権を持つ」という主張は、 事実命題として考えた場合、意味を持ちません。というのは、「ある人がかく かくしかじかする法的権利を持つ」と言われた場合は、政府がその権利を保護 する措置を事実とっているかどうかを確かめることによって真偽を判断するこ とができますが、「自然権と称されるものの場合、そうした事実は存在しない– また、そのような自然権が存在していないと仮定したときにも存在するであろう事実しか存在していない」(III, p. 218)からです。そこで、進んで、ベン タムは、法的な権利に先立ち、政府による立法を拘束するとされる自然権は、 空想の産物でしかないと主張します。フランス人権宣言第二条にある「あらゆ る政治的団結の目的は、人の消滅することのない自然権を保全することである」 という主張に対して、ベンタムは次のようにはっきりと述べています。「自然権などというものはない。政府の設立に先行する権利などというものはない。 法的権利と対立し、対比される自然権などというものはない」(p. 500)。
3.3 したがって、自然権は合理的な議論の基礎になりえない
今述べたように、「人はかくかくしかじかする自然権を持つ」という主張は法 的権利の場合と同じように事実命題として考えるならば、無意味な命題になり ます。そして、このような性格を持つ自然権を根拠にした現行の法を批判した り立法の是非を論じたりすると、合理的な議論ができなくなるとベンタムは考 えました。

そこで天賦不可譲論・自然権論に代えて 「自己実現」「自己統治」と言われるようになった(私個人的推測です)のでしょうが、一見何かありがたいような意味ですが、(いつも書きますが「近代法の法理を守れ」とか意味不明言語を用いて思考停止を求めるのが戦後学問の特徴です)単なる言い換えの宿命で?もうひとつピンときません。
自己実現とは本来芸術家が内面を表現する行為としては、最も適した熟語のようなイメージですが、これとても(数世紀後でもいつか)社会が受け入れてこそ、芸術として評価されるものですし、どちらかといえば心理学にその本籍があるものでしょう。
これを社会(人間と人間の)関係をどう律するべきかの学問である法律学者がなぜ使うようになったのか意味不明ですが、法律学は相手のある学問・・人間と人間の関係を規定する学問であって、周囲の迷惑お構いなしに自己実現するのをどうやって規制するのが合理的かを模索することこそが法学ではないでしょうか。
「法」とは社会の人間関係のあり方を規定するための道具ですから、芸術家のように自己実現さえできれば、相手がどう思おうとどうでも良い関係ではありません。
会議や友人との食事でも言いたいことを言う権利があるからと話題の流れと噛み合わない場違いなことを言うと話が噛み合わなかったり相手を不愉快にさせるので次第に会議や食事会等からはずされるようになります。
衣装アクセサリーだって自己実現するのは勝手とはいえ、制服以外にも、レジャー用と事務職用の別があるなど相応のドレスコードがあります。
自己実現は自由としても相手のあることである結果、自由市場で弾かれるのを容認するというのが自由市場論でしょう。
その社会のためになる意見でもその社会を悪くする意見でもどんな意見であっても、政治参加することによって「自己統治できる」?という変な論理(私にはわかったようで分からない熟語?)ですが、憲法学者に言わせれば結果がどうであれ、意見をいう自由が先ずは必要・結果的に社会のためになることが多い(社会や周囲の人の嫌がることを言う人はおのづから遠ざけられる)だけという評価のようです。
表現の自由は自己の幸福追求の権利である以上、「所属する社会・集団をよりよくしたい」か「悪くしたい」かの価値評価を含めてはならない・・・その意見の結果社会がどうなろうと、「個人が政治意見を言いたいなら自由に言わせるべき」だ。
その意見が「国家・社会のためにする意図」あるいは「利敵行為目的」であろうがなかろうが「言いたいことを言える権利」・・国家の介入を禁止したいことに重点があるようです。
人権問題は国家と個人との決まり事であり、国家は思想に価値介入できないが、個々人は自分と意見の合わない人と無理に付き合う必要がないのですから、個々人がノーと言えないことまで言いだすと行き過ぎです。
(利敵目的・勤務先や所属組織の損失目的を仮に明らかにしても)「それを理由にして言論が制限されない」・・・それが支持されるかどうかは、言論の自由市場論で解決する・・別次元で考えるようです。
国連特別報告は、国家が直接検閲し禁止しているのではなく番組から降ろされる事例を書いていましたが、(反日を言えば支持されないので)結果的に「言いたいことが言えない社会」は表現の自由度が低いとなるのでしょうか。
表現の自由は、思想の自由市場が機能していることが前提ですから、言論の自由市場が寡占支配になったり、国家が介入したのでは、市場で売れないのは自由競争の結果ではなくなりますから、寡占の弊害除去と国家権力の介入を厳重に監視する必要があります。
従来国家からの距離だけに関心があって、寡占支配に意図的に目をつぶってきた弊害が出てきたように思われます。

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