表現の自由市場論8(補助対象審査の矛盾1)

愛知トリエンナーレ「不自由展」の場合、市場評価されない不満を通り越して「公的補助せよ!」というもので、内部自治侵害に対する抗議ではなく市場で評価されないことに対する逆ギレです。
ゴッホだって生前は現在ほど評価が高くないというだけであって、公的支援なくとも現在に作品が残っているのは彼の理解者や友人も盟友もいたからです。
ゴッホの真実については、以下に詳しく紹介されています。
https://www.asuka-g.co.jp/column/1903/010913.html
要は、ゴッホの才能を見抜いた辣腕の画商であった辣腕の弟テオが月極固定額(生活供給)で作品を買い受け、毎月送金していた・弟が面倒見ていたのではないらしいのです。

ゴッホは描いた絵をテオに送る代償に、毎月150フランを受け取り始めました。これは現在のお金で言うと毎月15万~23万円の報酬を得ていたとみることができます。
この援助というには決して少なくはない金額から、もうひとつ深い関係性が見えてきます。兄弟はただの家族愛だけでつながっていたわけではなかったのです。

テオはこのころパリでは名うての画商でした。兄のただならぬ画才を見抜いていました。そして、ゴッホの生活を支援する代わりに、ゴッホの作品を独占的に扱う契約をした‐それが真相だと、この本では説明しています。
以下省略

独占供給契約で名画を囲い込み、名をあげてから、売り出そうとしていた矢先にゴッホが自殺しいざ儲けようとしていた肝心の画商の弟も半年後死んでしまったので生前市場に出るとがなかったに過ぎないようです。
学問の自由とか創作の自由というのは、権力による迫害さえなければ、ベストセラーにならなくとも一部の支援者や気に入って買ってくれる友人がつくものです。
細々とした創作で良いことではないでしょうか。
千葉市美術館関係で言えば、田村一村の作品を収集していますが、見ると千葉在住時の作品には素人の私から見れば普通の絵描き程度のようでしたが、奄美諸島に移住してからは別人のような作品に変化しています。
千葉在住時高く評価されなかったのは、(素人目には)当然のように見えますが、それでもこれを支持する人 (彼の場合千葉在住の姉だったかな?)もいて画家専業で(ある程度売れたのでしょう・個人蔵の作品も出品されている)生きていけたのです。
千葉在住時に自分をもっと高評価しないのはけしからん!と抗議行動したり、補助金を出すべきと政治運動して世論が支持したでしょうか?
日本が民主国家か文化国家かの問題ではないでしょう。
愛知トリエンナーレ「表現の不自由展」は、(市場評価の低い作品制作への現在補助金要求である点で)現時点自由市場評価主義と矛盾し対立するものですが、ゴッホ作品死後の評価を引き合いに出す論評は、(ゴッホの場合約50〜百年後?)時間差ズレを無視した意見です。
すなわち出品審査基準は現役プロ・現在自由市場で高評価を得ている者(審査員)の価値観によるので、現役が時間差を克服できるわけがない以上は、結果的に時間差審査専門家と言えないはずです。
現役売れっ子・時流に乗っている美術界大物・審査委員が将来を見通すプロでないことがゴッホを例にして証明されている以上、ゴッホのような大物が評価されないことがあることから「芸術の分からない素人は黙ってろ」と言う主張が成り立つでしょうか?
自分が特別な「目利き」という証明をしない限り現役界の大物というだけでは、俺たち「現役のプロに任せろ!」という資格がないでしょう。
不自由展で審査委員らが評価しているのは作品の現在評価であり、専門グループ内では高評価しているが自由市場で評価されない不満を社会にぶっつけたものと理解すれば一貫性がありそうです。
ネット報道で知る限りですが、内容を見ると日韓対立の原点ともいうべき慰安婦像の設置や昭和天皇写真の拡大パネル?を燃やすなど過激な?政治主張であり、これが「自由市場」では芸術でないとして評価されないのを専門家が「芸術作品」というのだから「公費負担で行え」という点の根拠としているのは、ゴッホの比喩とは何の関係もない筈です。
芸術家や学者等は思想の自由市場論を基本としながら、内容審査は自分らに任せろという主張は内部序列をどうするかの範囲内なら一理ありますが、公費補助対象を決める基準になると、「審査員の評価の方が市場より確かだ!」という主張にすり替わっているようになります。
この矛盾をぼかすために市場評価されない作品に補助金を出すために生前市場評価されなかったゴッホを持ち出しているように見えます。
ゴッホに関して一般に流布している美談は、ゴッホを美化するために作り上げられた美談・・もしかしたら自由市場評価もトキには間違うから目利きの審査が必要という二重基準を設けるための深謀遠慮と結合した虚構だったのかもしれません。
日本では有能な人材は最後まで埋もれっ放しの事例は考えにくい社会と8月16日に書きましたが、西欧だって本当は自由市場が賢いのですが、その上をいく目の利く商人である弟が独占的巨利を貪るために公開売出し時期を待っていたに過ぎないようです。

表現の自由市場論7(公的補助要求の矛盾2)

我々弁護士会の主流的意見が世間とかなりずれていると見ている人がかなりいるでしょうし、内部的には強制加入団体が多数派の政治観による〇〇反対運動を行うことに対する不満も出てきます。
自治組織だから世間常識を気にする必要がないということでしょうが、弁護士会にに限らず、伝統的に自治権意識の強い組織の場合、(一般人より高みにあるというエリート意識が強いからか?)間違っている時流を正さねばならないという正義感を持つようになる傾向があります。
憲法学者〇〇名の声明など出すのもそうした意識の現れでしょうが、政治を決めるのは人民・・庶民大衆であるべきと日頃いっているにも拘わらず、 庶民はなにもわかっていないから間違いそうになると観ちゃいられない・・しゃしゃり出ていき教えてやるという本音・・後見人意識が出るようです。
言いたいことを言えてる組織ほど世間常識との乖離が進むので、世間が受け入れてくれない不自由感が強くなる面もあるでしょう。
映画その他業界内では警世の立派な作品を作ったのに収支が合わなくで興行に乗せられないのは、社会が間違っているという方向になりやすいのでしょうか。
個人の生き方でいえば、社会でうまくいかないのは全て自己責任と言うのでは、(ゴッホのように)苦しくて生きていけないので社会が悪い・あいつが悪いと責任転嫁するのが生きる知恵でもあるでしょう・・。
そのマグマが溜まって自己(集団)主張を社会が受け入れない「不自由自体が許せない」と言うアッピール展覧会になったのが、「不自由展」だったのでしょうか?
グループの意見が社会で受容されないときに昨日見たように国連人権員会などでいかに日本社会が歪んでいるかアッピールするNGOになり、体力系は過激派になってテロに走るのでしょうが、国内で合法的反日活動に活路を見いだすのは、まだましな方かもしれません。
例えば安保法案反対集会等を弁護士会等が自費で行うのは勝手(内部で不満があるのでそこまでやっていないと思いますが・・)としても、社会のために運動しているのだから反対運動に「公的補助を出せ」となると行き過ぎじゃないの?と言うのが大方の批判的空気ではないでしょうか?
識者はゴッホのように生前報われない例を出して「誰も芸術の評価はできない・・まして素人においてオヤ!」と言うイメージを膨らませた上で、だから不自由展の「展示内容批判は許されない」という結論に持っていきたいようです。
発表時点での自由市場評価が低い点はゴッホと同じですが、ゴッホの場合時間差で自由市場評価された場合が、表現の不自由展の場合には、同時点で自由市場評価されない不利を(市場=素人にはわからない)プロの目で再評価して製作資金補助と発表の場を与えようとする試みが大違いです。
言論自由市場論は商品交換の場の議論を比喩的に流用している以上は、その物ズバリではない・・適用できる限界等を議論しないと不正確のままでないか、というのがこのシリーズテーマですが、ゴッホの例をも同様で、ゴッホの生前評価が低かった点と「不自由展」のどこに関係があるか明らかにしないまま、比喩して不自由展批判シャットアウト・聖域化や「専門家に任せるべき」としてしまうのは、議論の目くらまし効果を狙ったもののように見えます。
思想や表現分野では何かというと「自由市場に委ねよ外部介入を許さない」というのが学者の決まり文句ですが、そういう主張者の多くが、一方で「自由市場に委ねるな!+公的資金投入せよ」「補助対象の決定は専門家が審査する」
「外部者の介入を許さない」と言う二段構えの論理をセットにしています。
企業研究ほど直接的でないにしても理系でいえば、大学や国立研究機構等の研究には巨額資金が必要ですし、巨額公費を使う以上は、多種多様な研究対象の中で、専門家の意見を聞きながらも、国策としてどの分野に(予算制約ある中で時間順を含め)優先的助成するかは、高度な政治判断が必要です。
現在でいえば国防予算やデジタル化促進、失業対策、コロナ対策でもどの分野に優先順位を与えるかなど・・。
経済学分野でも〇〇経済学が台頭している場合、その学派の見解を立証するにはある種統計データが必要とする場合、実態調査が必要になる場合もあります。
どの学派の調査に重点的予算配分するかも民意を受けた政府の判断事項です。
芸術や思想家方面だけ外部審査を許さない、政府はお金だけ出せば良いという自分勝手な主張がいつまで続くのでしょうか?
コロナ禍で乗客激減の航空会社その他企業が、どこの国でも金融支援(補助金や融資)は欲しいが国に株式を持たれる・出資だけは極力阻止したいと言うのが基本姿勢です。
その理由は経営の自由度が下がるからです。
借金は返せば自由に戻れるが、出資を受けるといつ支配が終わるか不明になるからですが、芸術も学問も、首までどっぷりと補助金に浸かっていて自由など自慢できるのか!という批判が聞こえてきそうです。
文楽や歌舞伎、能狂言等々の各分野への補助自体やめるかどの規模にするかは時の民意次第ですので、何が芸術かの基準は自分らで決めると言って天皇の肖像写真を燃やすのが自由というならば、その分野への補助金を絞ることに民意が動きそうです。
あるいはこの展覧会主催する関係者の展覧会企画への補助・協賛企業が増えるか減るかでしょう。
もともと慰安婦像を自己資金で買い取って自宅に飾りたい人がいるか疑問ですが・・。
表現・報道の自由、大学の自治、弁護士会自治等々(映画界ではエログロ映画がはびこっても「映倫」など自分らで決めると言う仕組み)です。
相撲協会やプロ野球界でも芸能界でも本当の意味の自由競争に揉まれている業界は皆、(営利企業でも)不祥事が起きると内部調査→自主処分先行が原則ですが、その対応が世論と食い違うと地盤沈下していくので世論動向に敏感です。
大手で顧客名簿情報漏洩すると法的責任以前に一人500〜1000円補償するなど率先して発表するのはこの表れです。
この数日で言えばモーリシャスで日本船籍タンカーの原油大規模流出事故ニュースが出ていますが、器量側は国際法上の賠償義務を果たすと言えば良いというのではなく、誠意を持って対応する記者会見し、政府も高官派遣対応しているのは国際世論動向が気になるからです。
自主規制とか自治とは言っても大枠は自由市場の支持に根ざしているので、自治を錦の御旗にしているグループでも世論動向無視するとその業種自体衰退しかねませんが、教条的・今風に言えば原理主義系は、せっかく自治(学問の自由)があるのに「世論に阿る必要があるのか?」と「不自由」に対する不満が高まるようです。
この種の意勢力が強い組織では(強気論ばかり横行し、常識論者は居場所をなくす「純化路線」で)世論から浮き上がる一方となり、旧社会党や昭和40年代後半以降の過激派組織になっていくようです。

表現の自由市場論6(公的補助要求の矛盾1)

愛知トリエンナーレ展は、そもそも補助金目当てに出品していたものであって、(画家でいえば個展売り上げのように)自由市場競争による資金回収を予定していなかったことになります。
(ネット情報によるだけで実物を見ていませんが)韓国が日本大使館前に慰安婦像を設置しているほか世界中で設置運動していることで日韓関係が緊張している中で、これと同じ少女像を芸術作品と主張して展示しているようですが、これを芸術作品としてお金を出す人がどれだけいるか?
あるいは昭和天皇陛下の写真拡大した物に火をつけて燃やすパフォーマンスが芸術行為?と評価してお金を出すひとがほぼ誰もいないので出品する場所がないし、製作コストが賄えないのではないでしょうか?
昭和天皇の写真を燃やすパフォーマンスがどういう芸術意味があるか不明ですが、(政治意味はあるでしょうが)ともかく、専門家が「芸術とさえ銘打てば何をしても国庫補助すべきか」という素人意見をどう評価するかでしょう。
ゴッホでさえ生前評価は低かったというアッピールが効き目を持つのでしょうか?
逆は真ならずの原理通りで現在低評価であれば、すべて将来高評価という図式はあり得ないので、(将来高値が決まってれば、その含みで今高値がつくのが現在相場です)市場相場を超える将来性は誰も決めようがない(個人的にそう信じる人が自己資金で収集するものであって公的資金投下不可能)ことを15日書きました。
公金支出は民意によるべきもの・民意=特別なエリート意見ではなく平均的価値観ですので、評価時点の自由市場評価によるべきです。
市場評価があるものは補助金なくともペイするはずですから、プロ作家活動に公的補助を要求すること自体自己矛盾になります。
必要なのは、16日に書いた学校教育等の育成資金程度でしょう。
芸大美大等出てから作品で勝負できないのは、あるいはプロの世界に入ってから成績を出せないのは能力がないという市場評価であり、収入不足分を公的補助金でプロ・・野球やテニス選手を続けるべきではありません。
後進国が産業育成用の関税や政府補助制度が許されるのと同じで、成長途上の期間限定であるべきです。
芸術作品かどうかはプロ集団が自律的に審査するから外部者は介入すべきでないというのが学問の自由論同様で、愛知トリエンナーレ「表現の不自由展その後」に対する批判論者もそういう書き方・・外部非難にたじろぐ方が悪いという断固展示を続行すべきだったという批判のようです。
テーマが「表現の不自由展」というので、「表現の不自由」に対する抗議展のようですが、それが猛反発を受けて大騒動になったので、政治目的点とすれば日本が如何に表現が不自由な社会であるかの印象付けには大成功したことになるのでしょうか?
この展覧会(批判的論調も結果的には自主判断優先です)擁護論?では、ゴッホを持ち出して論を進めるのが一般的印象ですが、ゴッホは死後であっても結果的に自由市場で高評価をうけたので有名になっているのであって、市場評価を受けない作品に政府が資金援助する必要があるかその基準がどうあるべきかの論争についてゴッホを持ち出す関連性がありません。
不自由とは何かですが、処罰される不自由ではなく、特定の政治主張作品の公的支援をするのは行政の中立性に反するので受けにくい(特定立場にとっての)不自由を言うのでしょうか?
そうとすればゴッホは政治主張で冷遇されたのではないので、ゴッホを持ち出すのは焦点ズラしになります。
今回の不自由展で強調される「不自由」とは?死後に評価の高まる未来評価・審査ではなく現役プロ審査員間では現在評価が高いが自由市場での評価が得られない「不自由」を言うのでしょうか?
社会の価値観・民意と業界主流価値観があっていない?不自由・・・そういう視点でいえば、親中韓関係言論人が慰安婦騒動以来報道姿勢が偏っているという批判を受けるようになると、「日本に言論の自由がない」と国連人権員会に申し立てて、国連人権委員会委員が対日調査に来て「不自由」を主張する人たち(だけ?)から事情聴取して日本では表現の自由が侵害されている趣旨の意見を記者会見で表明して大騒ぎになったことがありますが、(その頃このコラムでも紹介しました)こうした運動と連動した動きと言うべきでしょうか?
その頃に発表されていなかった論文が見つかりましたので論文冒頭一部だけ紹介しておきます。
題名からすれば、日本人による海外での反日世論形成運動批判論のようです。
引用部分しか読んでいませんが、大学の専門誌に発表されている研究論文ですので、相応の実証研究したのでしょう。
http://harc.tokyo/wp/wp-content/uploads/2019/09/d0363de0bd15fae48728443c6c35f860.pdf
国連の「対日勧告」と反日NGOの関係についての歴史的考察
髙橋 史朗(麗澤大学大学院特任教授・ モラロジー研究所教授)

はじめに  昨年11月21日付産経新聞社説は「『反日宣伝』の撤回を迫れ」と題して、「国連委が反日 宣伝の場」と化している点を問題視し、「政府は嘘を許さぬ発信を改めて心すべきだ」と 訴えた。このように国連の人権理事会や各種の国際条約に基づく諸委員会が「反日宣伝の 場」と化しているのは、日本の左派NGOが「国連NGO」の資格を取得して、「反日宣伝」の 意見書を提出して積極的に委員へのロビー活動を行い、それが委員会の対日審査の最終 見解に反映して、日本政府への厳しい勧告となり、この「国連人権マッチポンプ」方式が 国内に甚大な影響を及ぼす絶大な効果があるからである。
以下略

  2019秋冬 歴史認識問題研究 本文.indd 9

民主国家と人民論の矛盾3

一知半解というか青い主張に対する社会の支持が広がらない結果、唯我独占傾向が進むといよいよ社会の理解を得られなくなって孤立化する一方→唯我独尊的特殊集団になり、暴発集団化します。
共産党は視野狭窄.偏執狂に陥らないように自己抑制している様子ですが、そうすると弾き飛ばされる跳ねっ返りが行き場をなくします。
左翼からも阻害された超原理主義者の集団化は、精神病者の集団化現象に似ているともいえるでしょうか?
日本では連合赤軍・・浅間山荘事件やオーム真理教事件などがそれに当たる・・国際的に見ればいわゆるテロ組織でしょうか?
以上の次第で人民という用語が廃れるわけですし、現在民主国家における実力行使正当化論は時代遅れであり、アウトローの集まりでしかないというべきでしょう。
専制支配国家→正義に基づかない規制や処罰=恣意的処罰・権力行使が許される社会では、正義の裏付けのない強制となりますのでこれに抵抗するのが正義の実現行為である場合もあるでしょうが、民主主義のルールに従って制定された法秩序を自分や一定の党派が気に入らないからといって抵抗権があると主張してこれを実力行使で秩序破壊するのを許すならば、民主主義社会が成り立たない・裸の実力闘争社会になります。
民主主義社会においての人民論は、民意による政治に従わない→民主主義社会を否定する主張となります。
抵抗権行使によって実力闘争に勝ち抜けば支配者になり政府権力に抵抗すべき人民ではなくなるのですから、中国や北朝鮮政府が朝鮮民主主義人民共和国、中華人民共和国と名乗り人民解放軍、人民日報、人民銀行・人民元などというのは言語矛盾です。
政府は人民の代表だから、人民は政府に従うべきという意味でしょうか?
国内武力闘争に勝ち抜いた以外に、人民の代表という根拠が不明です。
内乱・反乱軍が政府転覆に成功して政権樹立後も反乱軍とか反乱政府と自称しているようなものです。
実際には、人民は権力闘争に庶民が利用されて捨て駒に使われるだけですので、政権獲得後、邪魔者扱いで反乱軍として弾圧される側に回ります。
いわゆる草莽崛起の末路です。
人民用語が一般化されていない江戸時代には草莽と呼ばれていたのですが、草莽に関するウイキペデイアの説明です。

幕藩体制が動揺をきたした18世紀後半以後、在野もしくはそれに準じた豪農・知識人層(江戸幕府に対して直接意見を進言できるルートのない人々)の中に、自らを「草莽」になぞらえ政治的主張をする者が出現した。それが19世紀に入ると尊王論や攘夷論と結びつき活発化する。
黒船来航など西洋からの圧力が大きくなった1850年代に入ると、吉田松陰らによって「草莽崛起」論が唱えられた。吉田らは武士以外の人々、すなわち豪農・豪商・郷士などの階層、そして武士としての社会的身分を捨てた脱藩浪士を「草莽」と称し、彼らが身分を越えて、国家を論じて変革に寄与して行くべきであると主張した。
これを受けて、1860年代にはこうした草莽が尊王攘夷運動や討幕運動に参加していくことになる(奇兵隊・天誅組・生野組・真忠組・花山院隊・赤報隊など)。しかし、攘夷という方便に利用されただけであったことに気づかなかった大多数の人々は、討幕がなると、討幕とは逆の「開国和親」というスローガンをかかげた政府によって手のひらを返され、反乱を起こすもののトカゲの尻尾切りよろしく大量に打ち捨て殺された(士族の反乱、奇兵隊の末路など)。結果的に、明治政府へ組み込まれた者は頭がよく使えるごく一部であり、大半は政治的敗者として姿を消すことになった

人民・・当時の用語でいう草莽に関するウイキペデイアの解説は、〇〇チルドレンや付和雷同型の本質がよく出ている印象です。
小池都知事の都民ファーストに共鳴して参集した多くのチルドレンが、当選してみると話が違うと不満を持つのと同じです。
すぐに運営方法に対する不満で都民ファーストを脱退したか?批判意見を展開していた都議がいた記憶です。
反NHKで昨年総選挙時に参加して東京都区議に当選したばかりのユーチューバーが、運営に不満で?離党したようですが、末端ほど純粋ですので実際に運営が始まると齟齬が生じます。
庶民は権力闘争に利用されるだけで権力闘争が終われば、ご用済みになってきたのが中国歴代王朝交代時に大動乱の結果でした。
「王候相なんぞ種アランや!」というスローガンを掲げていた育ちの悪さが売り物であった?漢の高祖であれ、朱元璋であれ、天下を取るまで付和雷同して付き従った多くの武将を粛清していきます。
武将の場合范蠡の有名な言葉・・・「飛鳥尽きて 良弓蔵れ 狡兎死して 走狗烹らる。」で表現される実態で誰もが知っている現実ですが、雑兵等に関しては、誰も気にしませんが、平和が来ると真っ先に無用になります。
秀吉の天下統一以来、武功を挙げた功臣・武将の出番がなくなった不満から家康についた豊臣恩顧の大名らは、徳川政権確立後次々と粛清・戦国大名の取りつぶしが行われたのも同じです。
徳川家だって政権を握ってみれば、無駄な兵力がいらない点は同じです。
社会のあり方を見通す眼力もないのに、ただ日頃の不満のはけ口として?煽りに乗る時局便乗・付和雷同型の人材は政府転覆に成功すれば、今度は邪魔者になる運命です。
新政府構築・・真っ先に必要な政治は治安回復です・・小難しい細かな法の縛りを破って奔放に暴れ回る人材は真っ先に標的になります・・に向けて役に立つ能力がない大多数は結局弾圧される方に回る仕組みです。
漢の高祖は庶民出身で最もバカにしていた儒教の礼式を彼が天下を取って真っ先に採用したと言われています。
権力を握ればルールに従わせる必要が生じるので、ルールになじまない彼らが真っ先に邪魔になる運命です。
社会のあり方を見通す眼力もないのに、煽りに乗る時局便乗・付和雷同して政府転覆に成功しても、新政府で役に立つ人以外の大多数は結局弾圧される方に回る仕組みです。
人民が人民(思慮不足)のまま権力を握れることはありえないのが現実でしょう。

民主国家と人民論の矛盾2

人によっては俺は生まれ付きの人民だという人もいるでしょうが、それは国民主権国家においては主観的思い込みであって、ありえない論法です。
日本で生活しながらこういう考えに凝り固まっている人たちは、現実社会のあり方を見ずに旧ソ連や北朝鮮、中共政府支配下の社会を前提に、悲惨な人民状態を日本現実社会と同視して政府の抑圧から人民開放をする必要があるという主張をしている矛盾がありそうです。
人道主義を標榜するならば一党独裁という現代的専制支配に苦しむ人民解放するために中国や北朝鮮人民のために運動するのが普通ですが、左翼系は文化大革命賛美に始まり中国政府等の厳しい言論弾圧や環境破壊を批判するのを寡聞にして聞いたことがありません。
これを日本政府否定に結びつけようとしているので(論理の倒錯が激しすぎて)訳が分かりにくくなるようです。
韓国の決まり文句「歴史を知らないものは・・」式の慰安婦・教科書その他批判は、自分の非(歴史無視の主張)を日本の非と置き換えているので、論理の無茶加減で国民が驚いて辟易します。
このような論理の倒錯は一瞬相手をたじろがす戦法・・「鬼面人を驚かす」論法と同じ戦法でしかなく、短時間しか効果を持ちません。
中国や北朝鮮のように、国民の声など問題にしないと公言する一党独裁体制の場合独裁機関幹部以外は皆人民でしょうが、民意による政治を行い民意の支持を失えば権力を失う仕組みになっている社会では、民意によって出来上がった法を民意による法改正でなく暴力で無力化する行動を正当化する余地がありません。
思想表現の自由がある社会で自分の主張がほとんど支持されないのを相手が悪い、国民レベルが低いから、言論によるよりは暴力革命が正しい式の論法では民主主義社会が成り立ちません。
政治は無数とも言える不確定要素の複合で成り立っているので、戦車一台戦闘機1機の費用で〇〇が出来る式の単純論理・・学校で習った程度の勉強成果を主張する程度では、大方の国民が納得する筈がないので支持されないと自己の不足を反省するのではなく、国民レベルが低いのだと開き直る方向に行くと大変です。
彼らの暴力革命が仮に成功すると、(本当は自分らの思考が硬直的すぎて無数にある変化係数を理解できないだけですが)人民は蒙昧だから政府が指導する・・1党独裁が正当化され、この完徹のための情報統制に走る宿命です。
中国が今回のコロナ型肺炎蔓延初期に「普通の肺炎ではないのじゃないか?と言う医師間のネット情報交換さえ禁止して彼らを犯罪者扱いで拘禁したのがその好例です。
政権獲得成功しない多くの国では、生き方に柔軟性のない者の集団が出来上がり、仲間内での傷の舐め合い現象が起こり、自分らの主張を理解しない庶民大衆の頭が悪い→議論では無理だから革命あるいはテロしかない!的発想に落ち込み謙虚な姿勢がなくなります。
これが戦後共産党の武力革命論だったように理解していますが、独りよがりが支持されず急速に国民大衆の支持がなくなりました。
警察庁かな?の意見は以下の通りです。
https://www.npa.go.jp/archive/keibi/syouten/syouten269/sec02/sec02_01.htm
警備警察50年  現行警察法施行50周年記念特集号
第2章 警備情勢の推移
1 暴力革命の方針を堅持する日本共産党

暴力的破壊活動展開(昭和20年代)

1 占領下での勢力拡大

第二次世界大戦終了後、公然活動を開始した日本共産党は、敗戦直後の国民生活の窮乏と社会不安を背景に党勢の拡大に努め、昭和24年1月の衆院選では35議席を獲得し、10数万人の党員を擁するようになりました。
2 「51年綱領」に基づく暴力的破壊活動を展開

日本共産党は、同党の革命路線についてコミンフォルムから批判を受け、昭和26年10月の第5回全国協議会において、「日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである」とする「51年綱領」と、「われわれは、武装の準備と行動を開始しなければならない」とする「軍事方針」を決定しました。
そして、この方針に基づいて、20年代後半に、全国的に騒擾事件や警察に対する襲撃事件等の暴力的破壊活動を繰り広げました。しかし、こうした武装闘争は、国民から非難されるところとなり、27年10月の衆院選では、党候補は全員落選しました。

51年綱領廃止と現綱領
1 略
2 現綱領の採択
・・昭和36年7月、第8回党大会が開催されました。そして、同大会で「現在、日本を基本的に支配しているのは、アメリカ帝国主義とそれに従属的に同盟している日本の独占資本である」とする現状規定や、民主主義革命から引き続き社会主義革命に至るという「二段階革命」方式等を規定した現綱領を採択しました。
・・・両党大会や綱領論争の過程における党中央を代表して行われた様々な報告の中で、革命が「平和的となるか非平和的となるかは結局敵の出方による」とするいわゆる「敵の出方」論による暴力革命の方針が示されました。

日本共産党の現状
1 略
2 規約、綱領の改定
・・16年1月の第23回党大会で、昭和36年7月の第8回党大会で採択して以来5回目となる綱領改定を行いました。
改定の結果、マルクス・レーニン主義特有の用語や国民が警戒心を抱きそうな表現を削除、変更するなど、「革命」色を薄めソフトイメージを強調したものとなりました。しかし、二段階革命論、統一戦線戦術といった現綱領の基本路線に変更はなく、不破議長も、改定案提案時、「綱領の基本路線は、42年間の政治的実践によって試されずみ」として、路線の正しさを強調しました。
このことは、現綱領が討議され採択された第7回党大会から第8回党大会までの間に、党中央を代表して報告された「敵の出方」論に立つ同党の革命方針に変更がないことを示すものであり、警察としては、引き続き日本共産党の動向に重大な関心を払っています。

政府による共産党の戦後史を見てきましたが、私の体験では暴力革命論挫折後「自分たちが前衛であり蒙昧な労働者に権利要求権の自覚を植え付ける使命がある」とする姿勢が顕著でした。
平成初めころのことですが、いわゆるブル弁希望の司法修習生に労働系事務所の実習を経験させた方が良いと思って私の同期の労働系法律事務所に2〜3日実習を勧めて会内留学に出したことがあります。
その後報告を聞いたところ、ある日夜労組の集会に出かけていわゆるオルグをする状態を見学できたという報告を聞機、良い経験ができたね!と答えました。
最近日弁連や単位会で推進している法教育活動がいつからどういう経緯で始まったかよく分かりませんが、教育内容を見る限り従来のオルグ活動が難しくなった変形版ではなく推進している担当者も(私の知る限りですが・・)思想的偏りがなさそうですのでお間違いのないように。

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