取締役の責任2(第3者に対する責任)

 

取締役の権限とその責任に関する会社法の条文を紹介しておきましょう。
以下のように取締役会には、2項1号で業務執行の決定権があるので、業務執行の当不当(違法でなくとも)の結果責任がすべて取締役会に帰するのは当然です。
ついで、2号で取締役の職務執行の監督権もあり、監督に従わない時には3号で代表取締役の解職権もあります。
ここで解任と言わずに解職と言うのは、取締役の選任と解任は株主総会の専権事項ですから、取締役互選による代表取締役の職務を解くだけだからです。
この監督・解職権限を適切に行使しないまま放置しておいて代表者の取引行為等で第三者に損害を与えると、429条で職務懈怠として損害賠償責任を負うことになっています。

会社法
(平成十七年七月二十六日法律第八十六号)

(取締役会の権限等)
第三百六十二条  取締役会は、すべての取締役で組織する。
2  取締役会は、次に掲げる職務を行う。
一  取締役会設置会社の業務執行の決定
二  取締役の職務の執行の監督
三  代表取締役の選定及び解職
3  取締役会は、取締役の中から代表取締役を選定しなければならない。

(役員等の株式会社に対する損害賠償責任)

第四百二十九条  役員等がその職務を行うについて悪意又は重大な過失があったときは、当該役員等は、これによって第三者に生じた損害を賠償する責任を負う。
2  次の各号に掲げる者が、当該各号に定める行為をしたときも、前項と同様とする。ただし、その者が当該行為をすることについて注意を怠らなかったことを証明したときは、この限りでない。
一  取締役及び執行役 次に掲げる行為
イ 株式、新株予約権、社債若しくは新株予約権付社債を引き受ける者の募集をする際に通知しなければならない重要な事項についての虚偽の通知又は当該募集のための当該株式会社の事業その他の事項に関する説明に用いた資料についての虚偽の記載若しくは記録
ロ 計算書類及び事業報告並びにこれらの附属明細書並びに臨時計算書類に記載し、又は記録すべき重要な事項についての虚偽の記載又は記録
ハ 虚偽の登記
ニ 虚偽の公告(第四百四十条第三項に規定する措置を含む。)
以下省略

上記のように取締役の責任は重大ですが、よほどの背任的行為がないと社長の暴走を実質的には部下に過ぎない取締役が止めるのは難しいことです。
取締役には、社長に対する監視責任ではなく、執行部の一員として一心同体で事業をして来た以上は代表者に過失があって第三者に迷惑をかけたとすれば個々の取締役に過失がなくとも無過失の連帯責任とする条文にして、代表取締役や取締役会を監視するには取締役制度をいじるよりは別の監督機関設置・・例えば監査役の強化を図る方が合理的な感じです。
ここ数十年かけて監査役制度の充実強化が図られてきました。
監査役も、選出母体が同じでは結局大した監督が出来ないことは外部取締役と似ていますので、選出母体の工夫が重要です。
株主総会での対立グループが選出出来るような工夫があればいいと思いますが如何でしょうか?
以下現行の監査制度の条文を紹介しておきます。

 第七節 監査役
(監査役の権限)
第三百八十一条  監査役は、取締役(会計参与設置会社にあっては、取締役及び会計参与)の職務の執行を監査する。この場合において、監査役は、法務省令で定めるところにより、監査報告を作成しなければならない。
2  監査役は、いつでも、取締役及び会計参与並びに支配人その他の使用人に対して事業の報告を求め、又は監査役設置会社の業務及び財産の状況の調査をすることができる。
3  監査役は、その職務を行うため必要があるときは、監査役設置会社の子会社に対して事業の報告を求め、又はその子会社の業務及び財産の状況の調査をすることができる。
4  前項の子会社は、正当な理由があるときは、同項の報告又は調査を拒むことができる。

本籍2(寄留の対2)

 

壬申戸籍と言っても、壬申の年から内容が変更されなかったのではなく、前回書いたように書き方や書く事項や枠組みを後日造るなど少しづつ改正されて来たので、何時から本籍表示をするようになったのかは定かではありません。
元々本籍概念は、後に書くように寄留簿から発達したものと言えますので、戸籍制度が出来た当初からある筈がないのです。
仮に壬申戸籍の写しが手に入ってもそれが何時作成したものかによって書式が少しずつ違うものですし、しかも地域によって中央の通達通り出来るようになるのは10年単位の差があります。
後に昭和22年の新戸籍法による改正の期間を紹介しますが、大家族単位から核家族単位の戸籍に作り替えて行くのに昭和40年代初頭までかかっているのが現状です。
ですからある壬申戸籍の写しが入手出来たからと言って、どの地域で何時発行のものかによる誤差があるので、中央からの指令が何時あったかを特定するのは困難です。
現在の戸籍ですと昭和何年法第何号・あるいは政令何号による昭和何年何月何日新戸籍編成と書いてあるので、これは何年前の法に基づいて何時書き換えたのかが分ります。
細かい改正の経過を辿れば何時から「本籍」記載事項が追加されたのかが分るでしょうが、大きな法の改正ではなく今で言えば書式変更の通達みたいな下位の文書ですので、これを入手する・・・調査能力が私には今のところありません。
事務所の事件に関係あれば本格的に調べますが、繰り返し書いているように、このブログは余技ですので、そこまで専門的に調べる手間ヒマかけられません。
そこで以下は私の推論にかかることになります。
戸籍編成時に記載した本拠地=住所でも、その後移動する人も出てきますが、当初の戸籍作成後移動した時に戸籍記載場所の変更届出・・・戸籍変更は届け出で足りるとしても、引っ越しの都度変更届を出すのが面倒なので放置する人が出てきます。
こういう人のために同じ村内でも本籍地と違うところに住所を定めると、後の大正4年施行の寄留法では住所寄留と言う登録方法が出来ています。
(このとき創設したと言うことではなく、既に法がそこまで出来るような実態が進んでいたと言うことでしょう)
農家など田舎の場合、自宅を建て替えるときに、家を壊して同じところに建てるには建築中の住まいに困るので、すぐ近くの別の土地に新築する事が多かったのですが、この場合、大正3年成立施行4年の寄留法では本籍移動しない限り住所寄留として届けなければならなかったのです。
寄留と言う意味からすれば、仮住まいのことですから、安定した生活の本拠地を意味する住所に寄留を合体させた「住所寄留」の届出強制自体論理矛盾です。
明治31年施行の民法自体に住所とは生活の本拠を言うと記載されていたかどうかが分りませんが、今手元にある昭和8年版の民法条文によれば現行法同様に、21条に「各人ノ生活ノ本據ヲ以テ其住所トス」)とあって、少なくとも戦前から現行法と同じであったことが明らかです。
なお、2002年版六法の条文(4〜5年前の口語体への変更前です)も手元にある(自宅においてある)のですが、これをみると同じく21条で、文言もそっくりで違いがあるのは「本據」の據が当用漢字「拠」に変わっているだけです。
住所と言う基本概念が20年や30年でこまめに変わる必要がないので、明治29年の民法制定・・施行は31年当時から同じ定義があったと見るべきでしょう。
(上記壬申戸籍の記載条項の変遷をこまめに追跡出来ないのと同様に、この条文が明治31年施行当時から一度も変更されていないかまでは上記のとおりの推測の域を出ません。)
仮に変更がなかったとすれば、大正4年施行の寄留法の住所寄留と言う区分は、基本法たる民法の定義と矛盾することになりますが、民法制定後約20年も経過していますので既に家の制度・・本籍概念・重視が一人歩きし始めていて、このために無理を重ねたのではないでしょうか。

本籍1(寄留の対1)

最初の戸籍には本籍を書くところがなかったように見える・・壬申戸籍はエタ等の身分差別事項が書かれていたので今では極秘扱いのために現物又はその写しが見られないのですが、元々本籍と言う用語は本当と嘘・仮住まいの両立があってこそ必要になる単語です。
この後に寄留と言う登録方法を紹介して行きますが、これの発達が寄留地と言う臨時の場所の登録から必然的に、親元・本来の戸籍がどこにある・・・本籍と言う用語を生み出して行ったものであって、寄留者にとっては戸籍のある場所が今で言う本籍ですから、戸籍制度の当初から、戸籍簿自体に本籍を別に書く欄があった筈がないのです。
戸籍簿がこれも後に書きますが地番別に編成されるようになってくると、戸籍簿の記載場所が寄留地から見れば本籍地と言われるようになったものであって、これが戸籍簿自体に本籍と書くようになるのは、住所と本籍が一致しなくなるようになってからでしょう。
宗門人別帳時代では親元からいなくなったものは除籍するか残しておくかしかなくて、行き先の仮住まいの登録方法がなかったのですから、本当の籍と言う言葉が生まれる余地がなかった筈です。
実家と言うのは実際に住んでいない家・・実態に反しているから逆に強調(嘘やイカサマほど大きな声で主張するものです)して「実家」と言う言葉が生まれたとFebruary 8, 2011「江戸時代までの扶養1」で書いた事がありますが、本籍と言う単語が必要になったのは本籍以外の登録方法が一般化してからと見るのが妥当です。
出向してない社員には「本籍はどこそこです」と言う自己紹介がいらないのと同じです。
江戸時代の宗門人別帳は1年に一度チェックして行くものでしたが、村と言っても当時の村には十数戸あるかないかでしたから、毎年別の人別帳に記載し直しても大した手間ではなかったでしょう。
この方法の方ですと、ある年にある事項を誤記あるいは脱漏していても前後の年の人別帳を見ればどちらが正しいかがすぐ分る便利さもあります。
10〜20年以上の保管義務を定めておけば、たいていの移動が分るでしょうし、10数戸しかない村落の記録としてみれほど嵩張るものでもありません。
仮に20戸あっても今の大学ノートで言えば、一冊に収まる程度ですし20年分でも20冊保管するだけのことです。
このように過去の分が保管されている事・・これを繰って行って初めて系統だった流れが分ることから、宗門人別帳の事を一般に過去帳と言われるようになったとすれば合理的です。
(仮に20年分比較して見るとすればその内19年分は過去の帳です)
しかし現在の過去帳と言うのは、そうではなく満中陰・49日が過ぎたらお寺さんがその人の生前の行いなど書いて記録していると言うのですが、これはもしかしたら明治4年の太政官布告によって宗門改めの権限喪失後に考えだしたお寺の仕事かもしれません。
死亡後に僧侶が遺族から聞いて、その人の事績を記録しても、それでは正確ではないから歴史研究資料には(ないよりマシですが・・・)使えません。
江戸時代の過去帳の資料価値が高いのは、生きているときから村方が記録していた客観性の高い宗門人別帳の過去版だからでしょう。
これが、庚午戸籍から(実際はその前身の京都府の仕法・その前身の長州藩仕法にその始まりがあるようです)変更分を上に貼付して行く仕組みが考案された事から一旦造った戸籍の記録を何十年も使って行けるようになりました。
このように記録形態の変化見ると「帳」から「簿」になり「籍」と変わって行った漢字の変化が分ります。
簿も籍も重なって行くサマを現した漢字です。
ついでに、色々書きますが戸籍簿への年齢表記も戸籍作成時の年齢を書くものであって、生年月日形式になったのは明治9年からです。
毎年あらたな帳簿作成方式の場合、何年何月調整とその人別帳表紙等に書いてあれば、それで記載されている人の年齢から生年が計算して分るので、それで足りたのです。
私が事件の聞き取りをしている時に「それは何年頃の事ですか?」を聞くと平成何年かを答えられないのに、今から5年くらい前とか3年前や半年前など言う特定をする人が殆どです。
私の方はそれではメモが出来ないのでその都度「じゃあ平成何年の事で良いですか?」と確認して漸くメモして、次の出来事を聞いていると「それは4年半ほど前」などと言うので、また年号で聞き直しの繰り返しです。
「焦れったいな初めっから年号で言ってくれないかな」と思うのですが、私自身もこの家に住むようになって何年経つなあとか、あれは今から8年前のことだったかなどと過去を想起していることが殆どです。
我が国では12/31/03「大晦日2(日本書紀・・かがなべて・・・・)」のコラムで紹介しましたが、過去のある時点を何年何月何日と言うよりは「今から何日前」と言う表現に太古〜明治9年まではそういう特定の仕方をして来た歴史があるからです。
あえて言えば、西暦であれ平成であれ、腕時計の時間であれ、これら暦は人類の歴史が始まってから技巧的に造られたものであって、まだ2〜3000年しかたっていないのですが、動物的腹時計・・・どのくらい経過したかに関する体内時計の方は万年単位の歴史を有していて未だに健在だからはないでしょうか?

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