衰退産業保護2(官と臣1)

時事問題から離れて産業助成・振興策に戻します。
太陽光発電も元は日本が先発組だったはずだったのに、いつの間にか中国メーカーに負けるようになっていたのには驚きましたが、衰退が始まる・・負け組になってから巨額補助金政策を行なっても中国企業がそれで大儲けする結果で終わったようです。
表向き国内メーカーのシェアー9割?といっても海外生産品を国内企業のOEM生産や膨大な部品組立なので、最後の部品だけ国内生産で、国内企業製という名称になっているようです。
詳細は以下の解説データをお読み下さいhttp://standard-project.net/solar/maker/country.html

生産工程のすべてを国内の工場で行っているメーカー/ブランドの一覧です。国産にこだわる傾向が強い日本の太陽光発電市場ですが、中国メーカーの安価なパネルが流通する中でもシリコン系パネルでいうとセルの生産から国内工場で一貫して行うメーカーは減ってきている状況です。

https://tech.nikkeibp.co.jp/dm/article/NEWS/20140904/374263/

太陽光パネルの世界出荷、中国系メーカーが上位20社を独占する勢い、シャープは大幅減、米調査会社が公表

上記は14年のデータですが、世界規模で見れば中国企業の生産が独占状態になっているのに、国産といっても最後の組み立て設置をするのみ?という詐欺まがい・(農産物で言えば最後の袋詰めだけ日本でやれば国産?というのと同じ)の商法の実態が上記データから見えます。
中国が先進国から輸入する部品組立で輸出するので中国の輸出が急激に伸びた逆バージョンです。
中国韓国や後進国の場合、これを繰り返すうちに国内製造できる部品レベルが徐々にアップしていくメリットがあるのですが、先進国が自国生産がコスト競争力を失って国外生産移転する場合、自国内部品製造が減る一方で最後は受託生産・一括丸投げになります。
この状態で購入者に補助金を出して高額購入をさせれば、その資金は実際の生産国が対日高値輸出できるようになるだけです。
太陽光発電s東夷設置者に対する多額補助金の大部分が中国企業に実質流れていたように見えます。
民主党政権が始めたことなので安倍政権になって補助金を急激に絞り始めましたが・・・.。
ところで官と臣はほぼ語源が同根ではないでしょうか?
官の漢字源(藤堂明保ほか編集)をみると官とは宀=家の中に大勢の人が集まったサマを表すとあり、「垣根で囲まれた家屋に集まった役人のこと」とも書いてあり、元は宦とも書いたが、その後「宦官」の特殊用例が一般化した以降は、官と宦官の間とは別の役目になったと書いています。
宦官の「宦」のほうが、家にある臣・後世の家臣・直臣の意味に合って用法にぴったりの感じですが、王家に仕える役人(宦官・官)が増えてくると側近が幅を利かすようになります。
側近の私欲に繋がりやすい世襲性を防げば政権壟断がなくなるとの思惑から断種した官僚・元は宦官のみを側近に登用するようになり、以降は断種した男性官僚のみを側近中の側近の資格にしたので、これだけを宦官というようになったために、宦官と区別するためにその他役人を官というようになったのでしょうか?
臣民であろうと官民であろうと、皇族以外は全員「民」である上に、明治政府による四民平等政策以降は臣と民を分類する意味がなくなっていたはずです。
言葉の意味では単純な「たみ」でいいのですが、日本人は漢字にした時に二字熟語にしないと落ち着かない国民性ですので「民」に何をくっつけるかの違いでしょう。
皇族以外は臣民というのは一応当たり前過ぎですが、臣民を合わせた二字熟語をなんというかの問題で抵抗権に魅力を感じるグループは人民といい、その他の人は「日本国の民なのだから国民」千葉県の人は千葉県民というようにこれが普通になってきたのでしょう。
県民の中で、県の役人・公務員とその他職業をあえて分ける必要を感じない・単なる職業の一つでしかないのが現実社会です。
明治以降の一君万民思想で天皇(皇族)以外は全部平等な民になった以上は、公務員も多種多様な職業の一つにすぎなくなったのですから、公務員とそれ以外2種類に分類する必要性がなくなったはずです。
単に日本国の民=日本国民とすれば単純だったと思いますし、明治憲法で「臣民の権利義務」などと書く必要がなかったのです。
民の中には大工も官僚も商人も漁民もいますが、あらゆる職種を憲法に羅列する必要がなくまとめて「民の権利義務」で良かったのです。
臣民・天皇直属の役人とその他の権利義務と書いても、臣と民で権利義務が変わるものではない・・どちらも日本国民であり同一の刑法民法税法等の適用があります。
高級官僚も庶民も皆家族法の対象ですし、買い物代金を支払う義務=民法の適用があり、殺人傷害等すれば同じく刑法対象です。
臣民を今風の言語で言えば、国家公務員も総理大臣も皆国民であり、国民(国内に居住する人全員?形式的には国籍取得者)の中から、国家公務員や民間人に分かれるなど「国民」は大元の上位概念です。
明治憲法下においても国家公務員・官僚を辞職すれば在野ですし、在野から官僚にもなれる、「臣と在野」は互換性をもっていました。
法の適用は国民に対する法の下の平等であって、官僚と一般国民との違いによって適用される刑法や民法に違いがありません。
明治憲法下でも高級官僚も一般の人も(家族法分野で言えば、婚姻や親子関係など)皆同じ法の適用がありましたので、明治憲法で臣民の権利義務とわざわざ分類したのは無用な分類だったと12月29日に書きましたが、明治憲法は「臣民」と表示することによって臣と民を分けたのではなく一体化を図った・・領民全員が権力機構の一員・手先になるべきであり「権力対象になる民は存在しない」とのフィクションを構成したのでしょうか?

軍国主義とは7?(検非違使庁・・令外官)

検非違使庁に関する本日現在のウイキペデイアの記述からです。

平安時代の弘仁7年(816年)が初見で、その頃に設置されたと考えられている。当時の朝廷は、桓武天皇による軍団の廃止以来、軍事力を事実上放棄していたが、その結果として、治安が悪化したために、軍事・警察の組織として検非違使を創設することになった。
司法を担当していた刑部省、警察、監察を担当していた弾正台、都に関わる行政、治安、司法を統括していた京職等の他の官庁の職掌を段々と奪うようになり、検非違使は大きな権力を振るうようになった。
官位相当は無い。五位から昇殿が許され殿上人となるため、武士の出世の目安となっていた。
平安時代後期には刑事事件に関する職権行使のために律令とはちがった性質の「庁例」(使庁の流例ともいわれた慣習法)を適用するようになった。
庁例(ちょうれい)とは、平安時代後期に検非違使庁が刑事事件に関する職権行使のために適用した慣習法としての刑事法。「使庁之例」あるいは「使庁之流例」とも称された。
検非違使の活動は原則律令格式に基づくとされていたが、犯罪捜査・犯人逮捕・裁判実施・刑罰執行の迅速化のために検非違使庁の別当が別当宣を出すことで律令法に基づく法的手続を省略することが出来た。検非違使庁別当は参議・中納言級の公卿から天皇が直接任命したために、その別当宣の効力は勅旨に準じ、律令格式を改廃する法的効果があると信じられた。こうした権威を背景にして、検非違使は時には律令格式を無視した手続処理を行うようになり、それを「先例」として事実上の法体系を形成していった。これが庁例である。
庁例に関するウイキペデイアの記事からです

庁例は律令法に比べて簡潔・敏速・実際に優れているが、三審制の原則が無視されて一審によって処断された。
事実上律令制形骸化→日本独自の慣習法が生まれてきた始まりと言えるでしょうか?
源平などの武士が担当していたことから、ドーテルテ大統領になってからのフィリッピンの現場射殺のように現場処分・・相当荒いことをやっていたに見えます。
江戸時代の火付盗賊改方に関するウイキペデイアの記事からです。

明暦の大火以後、放火犯に加えて盗賊が江戸に多く現れたため、幕府はそれら凶悪犯を取り締まる専任の役所を設けることにし、「盗賊改」を1665年(寛文5年)に設置。その後「火付改」を1683年(天和3年)に設けた。一方の治安機関たる町奉行が役方(文官)であるのに対し、火付盗賊改方は番方(武官)である。
この理由として、殊に江戸前期における盗賊が武装盗賊団であることが多く、それらが抵抗を行った場合に非武装の町奉行では手に負えなかった[1]。また捜査撹乱を狙って犯行後に家屋に火を放ち逃走する手口も横行したことから、これらを武力制圧することの出来る、現代でいう警察軍として設置されたものである。

上記のように適正手続の整備された平和な社会に乗じて犯罪が過激化すると、例外的に武装警察組織・現場制圧部門がどこの世界でも必要になることがわかります。
保険制度が完備すると乱診乱療の弊害が起き、生活保護の不正受給が起きるように何事も悪用が起きるものです。
国際社会で言えば、パックスアメリカーナの支配する社会が完備し、武力行使が制限されるようになるとこれをいいことにして(平和な国では取り締まりが甘いし、刑罰が軽くなる一方なので)却って粗暴な武力行使を誘発するようになります。
フィリッピンの現場射殺命令やメキシコ国境の壁建設不法入国者の強制送還等の新たな制度構築の動きは、この反動ともいうべきでしょうか?
何事もその社会状況に応じた制度が必要であって、その社会の実態を無視してある制度が良いと強制する間違っていますし、社会の変化に応じた制度変更を何でも反対するのは間違いです。
断固たる取り締まり実施の問題点は、要は民主主義を守るための規制か私益・独裁政権維持の為の思想統制目的かの違いですが・・。
共謀罪反対論の吹聴する「家族のちょっとした会話が共謀罪の対象になったり、飲み屋での会話が共謀罪の共謀認定されたり、通信傍受されるような運用」はあり得ないと書きましたが、法制度がどういう効果を持つかは、末端の(現行犯逮捕や裁判所の令状発布のなど)運用次第になるように思われます。
世界の制度研究したという学者の講演の批判を18年10月7〜8日に書きましたが、法というものは運用する仕組みの実態とセットで研究発表しないと法制度の意味がわかりません。
フランスでは刑事制度運用に対する信用があるから昨日紹介したような法制度ができたのでしょう。
思想によるレッテル貼りに戻りますと、手続のちょっとした違いだけで「軍国主義国家」かどうかの区別が出来るのでしょうか?
「軍国主義」と言う表現からして手続の違いではなく「主義」・・思想を裁く意味合いが強いとみるのが普通でしょう。
思想を裁き出したらその基準は何もありません・・厳密な議論をする学説でさえ「ある学派に属する」と言うだけではその範囲不明・・学者によっていろいろなハバがあるのが普通です・・まして政治行動を持って、特定の色付けするのは無理です。
投票基準として候補者の思想傾向が何色かどう言う人柄かを個人的に判定して投票するのは正確でなくとも相応の意味がありますが、権力的不利益処分基準・・占領して良いかどうか・・個人で言えば他人の家を占拠し、家人を支配下に置き従わなければ殺していも良いと言う権利の基準に占拠される人の主義主張を持ち出す(居住者が野蛮人・軍国主義者なら何をしても良い)のでは危険過ぎます。
文字どおり専制政治になります。
アメリカは、戦時中には病院船や学童引き揚げ船を撃沈し、一般人の住む市街を集中爆撃し、最後には原爆投下するなどした挙げ句に戦闘終了後には本来終結するとすぐに相互に引き上げルールを守らずに、長期にわたる占領政治をしてきました。
主権尊重・・戦争勝敗に拘らず主権を侵害出来ないなど400年も前から国際的に決まっている戦争のルールに全面的に反してきました。
そこには「勝てば人間を牛馬のように使役しても良いとするアメリカの奴隷使役の経験・思想があり、その思想の適用として日本を永久にアメリカに隷属させてしまう目的だったことが垣間見えます。
タマタマ、ギャング同士の仲間割れ・・朝鮮戦争が起きたので日本が助かっただけの話です。
日本のポツダム宣言受諾直後の占領政治は、・・奴隷国家化・・降伏したインデイアンに対するような処遇を想定していたとしか理解出来ない占領政治のやり方でした。
非人間行為を平然と出来る・・考えるアメリカ人とは何者か?の関心で16年8月25日「キリスト教国の対異教徒意識」以降書いてきました。
西欧では1648年のウエストファアーリア条約以降漸く「喧嘩に勝ってもやっては行けない限界がある」ことを支配層間の協議で「理性的に?」理解したものの、未だに心底納得していない・・本音では、異教徒は動物と同じ扱いで良いとする基礎原理思想「正戦論」の精神にまだ浸っている状態であることが分ります。
そのためには相手に仕返しされる心配がないと分れば、直ぐに理性のタガが外れてしまうレベルと言うべきでしょう。
報復力こそが最大の抑止力・・報復力のないものに対しては、虫けらのごとくどんな非人道的人体実験も可能とする思想を前提にするのが報復力の維持・・相互に核兵器を持つことが戦争抑止力になると言う平和思想論です。
北朝鮮もイランもこの論理で頑張っています。

大政奉還と辞官納地4

大和朝廷成立時の地方豪族は、国造から郡司に横滑りしたときには、国の造から郡「司」になったので、この時点で独立の豪族ではなく朝廷の「司」の一人になったと言う意味ですから、版籍奉還後大名が知藩事に任命されたのと形式は同じでした。
廃藩置県で大名があっけなく失職させられたのに比べると、古代豪族は地元に何も迷惑をかけていなかった・そのときの実力者だったので、地域内の諸問題解決には派遣された国司は彼らに頼るしかないし、臨時的なつもりの郡司の地位を朝廷が奪えせなかった・・安泰だったどころか逆に地歩を固めて行く一方だったのとの違いです。
では,徳川家が大政を奉還し,将軍職も辞職しますがまだ諸候を率いる指導力を持っていた筈なのに何故これが消滅してしまったのでしょうか?
前回まで書いたように徳川家スタッフは本来の能力から言えば充分だったのに、薩長と岩倉によるクーデターにうまくやられてしまったと言うことでしょう。
倒幕の(密勅・・偽勅?)名分をなくさせるために先手を打って大政奉還し,それでも将軍である限り諸候への指揮命令権を持っていることから、これに異を唱えて軍事力を結集しつつあった薩長に対してこれまた先手で将軍職の辞職を申し出て薩長による武力行使を封じて行きます。
基本的には前回書いたように、京・大阪における徳川方の軍事力が弱体だったことによる譲歩しかなかったことによるものですが・・・。
アヘン戦争でのイギリスと清朝の戦いみたいで、数ばかり多くても勝負になりません。
こうして薩長(繰り返し書いていますが、薩摩藩・長州藩の呼称は明治の政体書以降のことで当時はこういう呼称はありませんでしたが、一般にあわせてここでは薩長とか薩摩藩邸と書いています)としては政治交渉では打つ手がなくなったところで、島津家の挑発に乗せられて鳥羽伏見の役が勃発するのです。
これも政治の一面ですから,結果から見れば政治手腕が薩長と岩倉派の方が1枚上だったとも言えますが,その基礎にある軍事力の差が大きな作用をもたらした筈です。
薩長側では戦端を開けば勝てると踏んでいたので、挑発を繰り替えしていたし、慶喜側としては負けそうなので譲歩に譲歩を重ねていたのですが、末端の武断派は軍事力の劣勢を分らないのか分ろうとしないのか、個人的に息巻いていれば気が済む無責任なやからです。
「近代兵器に頼るなどそんな弱気でどうする・・文句を言う奴は一刀両断にするまでだ」と叫んで喝采を浴びるような手合いです。
エセ豪傑がのさばると軍の近代化が進まないのは当然です。
ところで、25日に紹介した慶喜の上表分を読むと「反対ばかりしていて何を言いたいのだ諸候会議をやるから言いたいことがあれば出て来て言え」と言う態度がアリアリです。
実際この頃の倒幕派の主張は尊王攘夷・・現実離れしたことを言うばかりで「それなら外国とどう交際すりゃ良いのさ!」と言うことになります。
天皇主催の会議での議論で決着を付けないと,在野の反対ばかりでは危急存亡の時なのに前に進まないと言う焦りがあったでしょう。
上表分の一節を紹介します。
「朝権一途にいで申さず」とは、無責任な反対論ばかりで困ると言う意味でしょう。
これでは綱紀立ち難く・・示しがつかないと言うことです。
それで「朝廷ニ奉帰広ク天下之公議ヲ尽シ 聖断ヲ仰キ」・・聖断であれば反対する理由がないだろうと言うことで「同心協力共ニ」海外万国に伍して行こうとのべています。  
「朝権一途ニ出不申候而ハ綱紀難立候間従来之旧習ヲ改メ政権ヲ 朝廷ニ奉帰広ク天下之公議ヲ尽シ 聖断ヲ仰キ同心協力共ニ 皇国ヲ保護仕候得ハ必ス海外万国ト可並立候

しかし、薩長にとっては政治的意見の相違で反対していると言うよりは、今で言う政局・・権力闘争の勝利に目標があったのですから、慶喜の正義論だけでは学者の議論になります。
島津家は元々公武合体論で(天障院篤姫も送り込んでいるし)当初は諸候会議で決めて行く路線でしたが,慶喜が就任すると彼が京都での議論の主導権を握ってしまい、島津の意見が容れられないことが多くなって見切りを付けて行ったようです。
皮肉なことですが、将軍家が無能だから政権を任せられないと言うのではなく,有能な将軍に代わったことで、却って諸候会議が有力諸候である島津の意見で進まなくなったのが倒幕に方向転換した原因でした。
政治能力として有能と言えるかどうかは別の議論でしょうが、ともかく弁は立つし理論派でもあったでしょう。
むしろ先代の家茂くらいの方が、諸候(島津その他有力者)を立てながらやって行くので、幕府が長持ちしたかも知れません。
この段階では薩長としては理由があろうがなかろうが、ともかく徳川家をとつぶしてしまいたい・・何らかの口実を設けて戦端を開く・・その結果朝敵として殲滅してしまうことが究極の目的だったことになります。
この点は徳川家康が自分の生きているうちに、(国家安康の銘文などに)言いがかりでも何でも付けて大阪城を攻め滅ぼしてしまおうとしたのと同じです。

大政奉還と辞官納地3

大政奉還の上表に対して将軍辞職と領地返納命令(辞官納地)(12月9日のクーデター)で応じたのは言いがかりも良いところで、徳川恩顧の大名(会津・桑名くらいでしょうか)新選組が憤激したのは当然です。
道理に反しているので,三職会議のメンバーでは、岩倉と薩摩系(大久保と久光)だけの主張に過ぎず先ず山内容堂が異を唱えこれに後藤象二郎や越前や尾州であったかが同調して決着がつかず休憩を挟んで、軍事力を背景とする説得で休憩後に漸く辞官納地が決まったもののその内容は・まだ具体的ではありませんでした。
その後日を追ってクーデターに対する諸候の非難が高まって、結果的に慶喜側が巻き返して行き、クーデター効果が失いつつありました。
(辞官納地論もうやむやになりかけていました)そこで薩摩が挑発するべき非常手段として江戸での撹乱工作が行われます。
これに対して庄内藩が薩摩屋敷の焼き討ち実行して応えたのが伝わり洛中での軍事衝突を避けて大阪城に引き上げていた会津桑名や徳川家主戦論派が勢いを得て押し出して行った結果、(薩摩の挑発に負けたのです)鳥羽伏見の役が起きてしまいます。
どうせ戦うことになるならば、島津久光による3000の兵を率いての上洛段階で,これを阻止すべく軍兵を率いての上洛を朝廷名で禁じておけば良かったのです。
倒幕目的でのクーデター計画もある程度知られていたのですから,当時の朝廷内の公卿会議構成員はみんな左幕派でしたのでやる気になれば可能でした。
あるいは上洛して来ても、会津・桑名兵が御所の警備を死守していれば,ここでの大規模な戦闘をすれば,島津の方を長州同様(禁門の変)の朝敵にしてしまえば良かった筈です。
これを傍観していて,衝突を避けて大阪へ引き上げてから,押し出して行くのは戦略的に失敗だったことになります。(後講釈は誰でも出来ますが・・・)
平治の乱で義朝が清盛の上洛を阻止出来なかった故事と似ています。
幕府側は総力結集どころか、戦意盛んなのは会津と桑名の兵が主力でしたが,それでも薩長兵力に対して数では勝っていたらしいのですが,指揮系統のない状態であるばかりか近代装備化度・・兵力的に劣っていました。
戦端が開かれると待ってましたとばかりに慶喜朝敵論が文句なしに決まってしまいます。
以下朝敵として追討令が出た瞬間です。

慶喜追討令
「去る三日、麾下の者を引率し、剰前に御暇遣され候会・桑等を先鋒とし、闕下を犯し奉り候勢、現在彼より兵端を開き候上は慶喜反状明白、始終朝廷を欺き奉り候段、大逆無道、最早朝廷に於て御宥恕の道も絶え果て已むを得させられず追討仰付けられ候。兵端既に相開き候上は、速やかに賊徒御平治、万民塗炭の苦を救せられ度き叡慮に候間、今般仁和寺宮征討将軍に任ぜられ候に付ては、是迄偸安怠惰に打過ぎ或ひは両端を抱き候者は勿論、仮令賊徒に従ひ譜代臣下の者たりとも、悔悟憤発、国家の為尽忠の志これ有り候輩は、寛大の思召にて御採用在らせらるべく候。戦功により、此の行末徳川家の儀に付歎願の儀も候得ば、其の筋により御許容これ有るべく候。然るに此の御時節に至り、大義を弁えず賊徒と謀を通し、或ひは潜居致させ候者は、朝敵同様厳刑に処せらるべく候間、心得違これ無き様致すべく候事」

如何にも感情的な以下の文言は,むしろ薩長側が待ち受けていたことを言い表しています。
「現在彼より兵端を開き候上は慶喜反状明白、始終朝廷を欺き奉り候段、大逆無道、最早朝廷に於て御宥恕の道も絶え果て已むを得させられず追討仰付けられ候。」
薩長連合軍対幕府連合軍の戦力比が仮に5対15であっても、この挑発に乗ると朝敵になることから戦意その他で大きなマイナスになってしまいます。
せっかく政治的に勝ちかけていた時に下部で挑発に乗ってしまった・・、下部の暴走を止められなかったのが徳川側の失敗でした。
慶喜は京での会議で理路整然の意見を述べるには有能だったと思われるのですが、 三職会議に徳川一族の越前や尾張徳川家が入っていることや中立の芸州藩が入っていることなどを見ると、論理が先立って政治的多数派工作には不向きだった可能性があります。
上記のように相手に先手先手をとられて次第に後退して行く慶喜のやり方には徳川内部の武断派には理解不能・・譲り過ぎの印象があり、慶喜の信望が今一不足していたことが災いしたのでしょう。

大政奉還と辞官納地2(王政復古)

大政を奉還しても,「猶見込之儀モ有之候者」なおその先に見込みあるから心配するなと諸候群臣に前日に示したのは分りますが,同じ文書を天皇への上表にそのまま使ったのでは、天皇に対して失礼ですが、消し忘れだったのか意味不明です。
当時の「見込み」は(今は可能性に重心があるの)と違って、単に「この先、どうなるのか気になること・・」くらいの意味だったかも知れません。
その上で,二条城では群臣に対して「いささかの忌諱を憚らずに意見を述べよ」と言ったことになります。
諸候に示した文書では「候者=そうらわば」と仮定形になっているのに対して、天皇に対する上表分では「候得バ」と過去形(この場合の「バ」は「・・ので」という意味?)になっているのも気になります。
心配する向きが多かったので,諸候に意見を求めて欲しいといった内容になります。
確かにこの後朝廷は急いで諸候を京へ招集していますが、形勢・・様子見をするために殆どの大名が上京せず朝廷側で督促のために何回も文書を出している様子です。
11月半ばに島津が3000の兵を率いて上洛し,12月8日にようやく山内容堂が到着して、これを待って翌12月9日が岩倉らによるクーデターとなります。

慶應三年十二月八日
(実際の布告は12月9日(1868年1月3日)ですが、何故か底本では8日付らしいのです・・この日岩倉邸に集まった薩摩・土佐・安芸・尾張・越前各藩の重臣に示した原稿が出回っているからでしょうか?
・・繰り返しますが,このコラムは私の独自の研究ではなく,ウイキペディアなどからの引用文プラス想像です。
 復古大號令布告

德川内府從前御委任ノ大政返上將軍職辭退之兩條今般斷然被
聞召候抑癸丑以來未曾有之國難
先帝頻年被惱
宸襟候御次第衆庶之所知候依之被決
叡慮
王政復古國威挽囘之御基被爲立候間自今攝關幕府等廢絶即今先假ニ總裁議定參與ノ三職ヲ被置萬機可被爲行諸事神武創業ノ始ニ原ツキ縉紳武辯堂上地下ノ無別至當ノ公議ヲ竭シ天下ト休戚ヲ同ク可被遊
叡念ニ付各勉勵舊來驕惰ノ汚習ヲ洗ヒ盡忠報國ノ誠ヲ以可致奉 公候事

一 内覽 勅問御人數國事御用掛議奏武家傳奏守護職所司代總テ被廢絶候事
一 三職人體(姓名略ス)
一 太政官始追々可被爲興候間其旨可心得候事
一 朝廷禮式追々御改正可被爲在候ヘ共先攝籙門流ノ儀被止候事
一 舊弊御一洗ニ付言語ノ道被洞開候間見込ノ向ハ不拘貴賤無忌憚可致獻言且人材登庸第一ノ御急務ニ候故心當ノ仁有之候ハ早々可有言上候事
一 近年物價格別騰貴如何トモ不可爲勢富者ハ其富ヲ累ネ貧者ハ益窘急ニ至候趣畢竟政令不正ヨリ所致民ハ王者ノ大寶百時御一新ノ折柄旁被惱
宸衷候智謀遠識救弊ノ策有之候者無誰彼可申出候事
一 和宮御方先年關東ヘ降嫁被爲在候得共其後將軍薨去且
先帝攘夷成功ノ
叡望ヨリ被爲許候處始終奸吏ノ詐謀ニ出無御詮ノ上ハ旁一日モ早ク御還京被爲促度近日御迎公卿被差立候事
 右之通御確定以一紙被仰出候事

12月9日佐幕派の占める御前会議終了により公卿が退出した後で、午後にはこれを決行して御所の9門を薩摩を中心とする兵が固めてしまいます。
これによって幕府も幕府寄りの摂関家・上級公卿の役職も全部廃止してしまい政府機関が3職(これが次の政体書で太政官制度になって行くのです)だけになるクーデターでした。
12月9日夕刻からの最初の三職・小御所会議での辞官納地論は社長を辞めるならその給与ももらえなくなるのは当然と言う論理になるのでしょうか?
しかし幕府の仕事に関しては家禄の外に役料制度があり(足高の制)役職に耐えられずに辞職した場合その役料を失うのは分りますが、先祖伝来の領地経営権まで失う謂われがないので、大政奉還と領地返納命令とは論理的に結びつきません。
社長の給与や社宅は返すとしても自宅や先祖伝来の農地・山林まで取り上げられる理由はありません。
国家全体の大政をする能力がない・指導力がない(謙遜の表現に過ぎません)ので覇者の地位を下りると言うだけで、自分の領地経営能力がないと言うものではありません。
経団連会長職をやめることと自分の会社が国家に没収されることとは関係がないことです。
ただ、朝廷(倒幕側)としては大政を奉還されても直轄領がないのでは裏付ける経済が成り立たないので、円満解決では慶喜の思惑通りに諸候会議を天皇の名で主宰するだけで、最大軍事力のある徳川家の意見が重きをなすことになってしまいます。
それでは薩長にとっては、今まで通りでしかない(これが慶喜の思惑でした)ので、ここで道理に反しても徳川家に喧嘩を売って勝負に出た・・徳川領の没収しかなかったとも言えます。
没収が成功すると薩長プラス旧徳川領の税収が新政権の経済基盤になるからです。

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