大政奉還と辞官納地1

大名があえなく失職してしまった流れを見ると、大政奉還後に諸候会議の議長にでもなれると思っていたら直ぐに領地返納命令→朝敵になってしまった徳川慶喜に似ています。
大名の場合巨額の借金を踏み倒していた以上は、(経営能力がないと言うことです)現在の政治感覚から言っても経営責任を取るのは当然だったと思われますが、徳川家の場合どうでしょうか?
慶喜の場合、大政奉還の理由として以下に紹介する通り「・・・政刑当ヲ失フコト不少(少なからず)今日之形勢ニ至候モ畢竟薄徳之所致不堪慚懼候・・」と自ら、政権担当能力ないことを披瀝しているのですから、政権担当出来ないならばその裏づけたる領地も返納しろと言われたのは一応の理が通っています。
以下は、07/18/05「明治以降の裁判所の設置1(大政奉還)」で紹介したところですが、もう一度大政奉還時の原文を紹介しておきましょう。
大政奉還の上表文
○十月十四日 徳川慶喜奏聞
臣慶喜謹而皇国時運之沿革ヲ考候ニ昔 王綱紐ヲ解キ相家権ヲ執リ保平之乱政権武門ニ移テヨリ祖宗ニ至リ更ニ 寵眷ヲ蒙リ二百余年子孫相承臣其職ヲ奉スト雖モ政刑当ヲ失フコト不少今日之形勢ニ至候モ畢竟薄徳之所致不堪慚懼候况ンヤ当今外国之交際日ニ盛ナルニヨリ愈 朝権一途ニ出不申候而ハ綱紀難立候間従来之旧習ヲ改メ政権ヲ 朝廷ニ奉帰広ク天下之公議ヲ尽シ 聖断ヲ仰キ同心協力共ニ 皇国ヲ保護仕候得ハ必ス海外万国ト可並立候臣慶喜国家ニ所尽是ニ不過ト奉存候乍去猶見込之儀モ有之候得ハ可申聞旨諸侯ヘ相達置候依之此段謹而奏聞仕候 以上詢


祖宗以來御委任厚御依賴被爲在候得共、方今宇内之形勢ヲ考察シ、建白ノ旨趣尤ニ被思食候間、被 聞食候、尚天下ト共ニ同心盡力ヲ致シ、 皇國ヲ維持シ、可奉安 宸襟 御沙汰候事

上表分最後の「乍去(さりながら)猶見込之儀モ有之候得ハ可申聞旨諸侯ヘ相達置候依之此段謹而奏聞仕候」の文意は(前後の事情勉強不足のため)不明ですので、ここで自己流の推測で書いておきます。
「見込みの儀もこれあり候えば」・・何の見込みと言うのでしょうか?
まさか,奉還してもどうせ朝廷には運営能力などないからその後徳川家に運営を頼むしかないと言う見込みでしょうか?
上表文提出の前日、二条城に諸候またはその代人としての重臣を集めて、この上表分の下書きを披露していますが・・。
上表の前日二条城で諸候に示した下書きの最後は、以下の通りになっています。

十月十三日慶喜諸藩ニ示ス書
「我 皇國時運ノ沿革ヲ觀ルニ(以下上表分とそっくり同じです)・・・乍去、猶見込之儀モ有之候者、聊忌諱ヲ不憚可申聞候。」

同日老中副書

今般上意之趣ハ、當今宇内之形勢ヲ御洞察被遊候處、外國交通之道盛ニ開ニ至リ、御政權二途ニ相分候而者 皇國之御綱紀難相立ニ付、永久之治安ヲ被爲計候遠大之御深慮ヨリ被 仰出候儀ニ而、誠以奉感佩候、殊ニ從前之御過失ヲ御一身ニ御引受、御薄德ヲ被爲表、御政權ヲ 朝廷ヘ御歸被遊御文言等、臣子之身分ヨリ奉伺候得者、何共以奉恐入、涕泣之至候、就而者、此上益以御武備御充實相成不申候而者、決而不相成儀ニ付、各ニ於テ聊氣弛無之、前文之御趣意相貫、御武備相張候樣、一際奮發忠勤、精々可被申合候

老中副書は第二次世界大戦敗戦時の「耐え難きを耐え・・」と似たようない言い回しで,「殊ニ從前之御過失ヲ御一身ニ御引受、御薄德ヲ被爲表、・・・何共以奉恐入、涕泣之至候」と感激した上で、この上は、一致団結して諸候はいよいよ武備を怠らず忠勤に励むようにと言う内容です。

郡司3(令外の官?)

  

平安中期以降在庁官人を正式に郡司として任命されることが多くなって行ったと書いている解説が多いのですが、上記のように兼任から始まっていたとすれば、当たり前のことです。
郡司が在庁官人を兼ねているのではなく、国衙の役人を郡司に任命する逆転現象・・この時点で古代の国造系の世襲ではなくなり、実力による入れ替わり戦があったのでしょう。
ですから国造が横滑りした大宝律令制定時の郡司と実務官僚として台頭して来た郡司とは同じ地元勢力とは言っても能力差があって入れ代わっている可能性があるし、後期郡司は郡衙として自分の役所を持っていませんので、律令制下の郡司とは性質が違っています。
後述するように郡司は荘園の係争に関与して行くのですが、鎌倉時代まであっちについたり(公家や寺社・国衙領)こっちに(武家支配地)ついたり、向背常ならぬ複雑な役割を果たして行くので、正確な認識が現在伝えられなくなったように思えます。
郡司そのものではないですが、平将門の動きを見れば分りますが、国府の下働きをしているかと思うと地元豪族同士の争いの仲裁をしたり、その内国府に刃向かって正面から国府攻撃をしてしまって反乱軍になってしまうのです。
現在知られている郡司は、平安中期以降の国府で働く裏方の郡司ですので、地方採用の現場職員みたいな扱いで正式文書にあまり登場せず、令外の官のような日陰的職名・裏組織みたいな印象が強いのは、上記のような郡司の内容実質の変更があるからです。
令外の官と言えば、その代表的官職は検非違使庁ですが、この長官としては武人の源為義が知られています。
律令制からはみ出した地元実力者は、こうした裏組織から頭角を現して行くしかなかったのです。
専制君主制・律令制プラス科挙制が予定していた階層は、王族とこれを支える官僚グループと食料と兵士供給源の農民ないし例外的な商人等平民しかなく、地方豪族やその発展形態の郷士や武士層等中間層は予定していなかった階層です。
中央集権・専制君主制の中国では、中間層が存在しない仕組みで清朝崩壊までずっと来たことから分るでしょう。
中間層が下から湧いて出て来る仕組みは、世界中で我が国だけの特異性かも知れません。
西洋の騎士や弁護士、僧侶は貴族の次男以下が天下って行くものであって、下から湧いて来るものではありません。
西洋中世の騎士に該当する?弁護士や裁判官の給源も庶民・「地下人」と言われる裸足で地面に接している階層から出る仕組みが我が国の特徴です。
中国で千年以上も続いた科挙制は庶民が受験する仕組みではありませんでした。
弁護士や裁判官になるのに大金がかかる・・法科大学院へ行かないと受験出来ないとか修習生の期間給与をなくしてしまい、その間の生活費が出ないのでは、庶民の登竜門ではなくなってしまいます。
かなりの資金力のある階層の子弟しか受験出来ないとなれば、絶えず下から這い上がって来る人材で成り立っている我が国独自の社会構造を変質させて行く大きな問題をはらんでいることが分るでしょう。
中国の社会を発展形態のモデルと理解していた当時としては、地方豪族=郡司さんは、その内消滅するかと思いきや見事変身して私荘園と朝廷管理地との双方に出入する便利な実力者・・事件屋みたいに変身復活して来たのです。
後期郡司は大和朝廷にとっては、中央集権統治・これを具現した律令体制に従わない眼の上の瘤みたいなものでした。
大和朝廷としては、制度発足時には国府の権限強化によって次第に消滅させて行くつもりで時間を掛けていたのでしょうが、国府権限強化が実現してみると逆に国府・国司の実務を実質握られてしまい、国司グループが立ち枯れてしまいます。
郡司=地方豪族はしぶとく生き残って、国司制度が立ち枯れると、この対で貰っていた郡司の役職・官名自体意味を感じないほど自立して行きます。
武士が武士のままで、例えば源義朝は左馬頭、清盛の場合、安芸の守(保元の乱以前)播磨の守を歴任し最後には太政大臣にまで上り詰めます。
武士の地位が上昇して行き、武士のままで正式な官名を受けるようになって行きますと、令外の官の(裏組織)ような印象の郡司職は不要になって行ったので歴史の表舞台に出なくなったのでしょう。
発展的解消と言うか、律令制の骨抜きに合わせて在地領主層・武士層が頭角をあらわして行き、源平の争乱を経て鎌倉府成立となります。
班田収授法施行後も荘園側は不輸不入の権などの設定により、大和朝廷の実権を徐々に奪って行きます。

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