「さと」(郷と里)2(村)

明治維新で小集落を大量に集めて現代の郡市町村制が布かれましたが、「村」や町に吸収された多くの旧集落(古代から続く「むら」)は、大字小字として名を残したのと同じです。
里部に関するウイキペデイアでは以下の通りです。

『周礼』によれば、五家を隣、五隣を里とするので、25戸であったとする。また距離の単位として300歩あるいは360歩(唐以降)を意味した(漢代頃400メートル強で唐代550メートル強)。なお現代では日本の尺貫法において4キロメートル、中国の市制において500メートルとされる。

上記の通り、中国の里は25戸ですし、日本の「さと」は50戸単位で規模が違うし、距離単位でも現在日本の1里は四キロメーターに対して現在中国の1里はわずか5百メーターです。
300歩四方といえば、日本の1町歩の面積(千坪=千歩・・1反歩=300歩・1畝30歩)に大方合いそうで・千葉市内の現在小学校の面積が大方この基準のようです。
日本では古代からムラが集落の基本単位のように理解しているのですが律令制では村の制度をそのまま取り入れず、明治の地方制度改革で初めて公式に「村」の名称が公認されたように見えるのは何故でしょうか?
村に関するウイキペデイアです。

近代化以前の「村」は自然村(しぜんそん)ともいわれ、生活の場となる共同体の単位だった。江戸時代には百姓身分の自治結集の単位であり、中世の惣村を継承していた。
江戸時代にはこのような自然村が、約6万以上存在した。また、中世初期の領主が荘園公領とその下部単位である名田を領地の単位としていたのに対し、戦国時代や江戸時代の領主の領地は村や町(ちょう)を単位としていた。
近現代の大字(おおあざ)といわれる行政区域は、ほぼかつての自然村を継承しており、自治会(地区会・町内会)や消防団の地域分団の編成単位として、地域自治の最小単位としての命脈を保っている面がある。
明治時代に入ると、中央集権化のため、自然村の合併が推進された。こうして、かつての村がいくつか集まって新たな「村」ができたが、これを「自然村」と対比して行政村(ぎょうせいそん)ともいう。

私は明治以降の村と区別するむら意識は古代からも群がる群れる・という和語から来ているので明治以降取り入れた漢字の村とは成り立ちが違うと思っていましたが、ウイキペデイアの解説では、行政村と自然村という区分けをしているようです。
古代のムラを現在用語である村と表現しているのは納得し難いですが、現在の行政単位としての村制度の中で生き残っている大字小字の原型という点は私の個人的的理解と同じです。
さらに自然村は、中世の惣村に始まるという学会?の傾向には直感的に納得し兼ねます。
それまでは散在していたが戦乱等で自衛のために?(映画7人の侍の学問的説明・・)地域共同体が強まったというのですが、古代から鎌倉時代まで人類が一匹のトラのようにバラバラに住んでいたかのような説明はいかにも不自然です。
短期的に見れば、荘園制度が発達して庶民がその下人として働く(自作農皆無?)時代には、自然発生的集落は衰亡していたかもしれない・この説明は江戸時代の商人の住み込み丁稚小僧らは自分の家を持てなかったのと同じイメージで説明されてもっともらしいのですが、安寿と厨子王の設定もそのようばイメージです・・仮にその意見が、実証研究に裏づけられているとしても、それは長い人類の発展過程では(日本の場合何千年という縄文時代の存在から考えても)荘園全盛期は一時的例外に過ぎない事象に過ぎないのではないでしょうか?
惣村に関するウイキペデイアの記事です。

中世初期(平安時代後期〜鎌倉時代中期)までの荘園公領制においては、郡司郷司保司などの資格を持つ公領領主、公領領主ともしばしば重複する荘官、一部の有力な名主百姓(むしろ初期においては彼らこそが正式な百姓身分保持者)が管理する「」(みょう)がモザイク状に混在し、百姓、あるいはその身分すら持たない一般の農業などの零細な産業従事者らはそれぞれの領主、名主(みょうしゅ)に家人、下人などとして従属していた。百姓らの生活・経済活動はモザイク状の名を中心としていたため、彼らの住居はまばらに散在しており、住居が密集する村落という形態は出現していなかった。

漢字になる前の集落・村に関心がない・・何でも漢字にしないと落ち着かない人が書いているのでしょうか?

https://kotobank.jp/word/%E6%9D%91-140799

むら【村】
〈むら〉とは農林水産業,すなわち第1次産業を主たる生業とするものの集落単位の総称であり,商工業者を主とする〈まち〉に対応する概念である。したがってそれは人類の歴史とともに古く,地球上どこにでも存在する普遍的かつ基本的な社会集団であるといえるが,〈むら〉のしくみや経済的機能は,民族により,また同じ民族であっても地域により,時代によって,きわめてまちまちである。ましてやその人口の多寡,村境域の構造,集落の形態,耕地のあり方,さらにはその法的な性格などということになると,〈むら〉とはこういうものだということを一律に規定することは,はなはだ困難である。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について

上記が一般的な理解でしょう。

国(くに)(郡)とは?2

郡とは何かですが、大宝律令制定前の木簡には全て評(こおり)の表示しかないということですから、日本ではそれまでは評(こおり)と書いていたようです。
そうすると「評」(こおり)とは何かに戻りますが、評に関するウイキペデイアの説明では、

奈良県明日香村石神遺跡で平成14年(2002年)に第15次調査が行われた。7世紀後半の池状遺構や東西大溝から他の遺物とともに木簡も出土した。その木簡の中に、乙丑年(天智4年・665年)に国 – 評 – 五十戸(五十戸は「さと」と読み、「里」と同じ意味)の地方行政組織が全国に行き渡っていたことを示すものがあった。

とあり評里性という語も見えるので今の郡市町村制同様に、評(こおり)の下に里(50戸単位)がいくつか所属する形であったようです。
ちなみに50戸単位は今でも実務上重要指標です。
高度成長に伴う大都市人口集中→首都圏で宅地造成華やかなりし頃・・都市計画法が制定されて無秩序な宅地開発の規制が始まりました。
都市計画区域のうち市街化調整区域では原則として(農家住宅等の各種例外を除き)住宅建設が許可されない仕組みですが、50戸連坦(たん)といって現状として約50戸の連たんする地域であれば新築住宅許可になる制度が利用されていました。
連たんをネット検索するとすぐ出ますが、例えば佐賀市の説明です。
https://www.city.saga.lg.jp/main/51905.html

佐賀市では、既存集落の維持・活性化等を目的に平成20年7月1日より、市街化調整区域内の開発行為等の許可基準に50戸連たん制度を追加しております。(川副町、東与賀町及び久保田町は平成22年10月1日から適用)

話題が逸れますが、千葉市周辺では無秩序市域の広がりを防ぐ目的の都市計画法施行(昭和44年頃)直後から例外に当たる「50戸連たん」の運用を利用して雑木林や畑地等の宅地化が行われてきましたので「50戸連たん」しているかどうかが実務上重要でした。
佐賀市ではバブル崩壊後約20年経過後の平成20年になって、この制度利用が始まったと言うのですから時間差と利用目的の逆方向性に驚くばかりです。

都市計画法 (昭和四十三年六月十五日) (法律第百号)
(都市計画の基本理念)
第二条 都市計画は、農林漁業との健全な調和を図りつつ、健康で文化的な都市生活及び 機能的な都市活動を確保すべきこと並びにこのためには適正な制限のもとに土地の合理的 な利用が図られるべきことを基本理念として定めるものとする。
(区域区分)
第七条 都市計画区域について無秩序な市街化を防止し、計画的な市街化を図るため必要があるときは、都市計画に、市街化区域と市街化調整区域との区分(以下「区域区分」とい う。)を定めることができる。
第三十四条 前条の規定にかかわらず、市街化調整区域に係る開発行為(主として第二種特
定工作物の建設の用に供する目的で行う開発行為を除く。)については、当該申請に係る開
発行為及びその申請の手続が同条に定める要件に該当するほか、当該申請に係る開発行為
が次の各号のいずれかに該当すると認める場合でなければ、都道府県知事は、開発許可を
してはならない
1〜10略
十一 市街化区域に隣接し、又は近接し、かつ、自然的社会的諸条件から市街化区域と一
体的な日常生活圏を構成していると認められる地域であつておおむね五十以上の建築物(市
街化区域内に存するものを含む。)が連たんしている地域のうち、政令で定める基準に従い・・・以下省略

上記34条11号が50戸連たんの例外規定です。
都市計画法が昭和43年にできたのは急激な都市人口増加→無秩序に市街化が広がる圧力・需要が多かったからその規制が必要になったからですが、その分千葉県等の東京郊外型需要地では抜け穴探しの競争も熾烈だったので50戸練炭の例外申請が多かった・・我々弁護士にくる相談事例が多かったということでしょうし、急激な市街地拡大がなかった佐賀市の場合昭和40年代どころかバブル期の影響もなく平成20年頃になって放置していると市域縮小一方?になってきたので逆に50戸連たんを利用して住宅建設需要を取り込もうという時代になったのでしょうか。
しかし住宅需要の前提たる人口増がないのに、「郊外に家を建ててもいいよ!」というだけではユーターン需要が起きるわけがない・せっかくUターンする気になった人の新築妨害をしない程度でしょうか?
大宝律令以前においても我が国では集落単位として50戸が一つの目安になっていたことがわかります。
現代的産物と思われる都市計画制度の基礎として、古代の集落単位である50戸連たんを採用している・・物事には古い歴史があって決まっていくことが分かります。
どんどんテーマがそれますが、里の関係でいえば「郷里」「故郷」という熟語があります。
郷と里の関係はどういうものでしょうか?

国(くに)とは?1

臣民と国民の違いに戻ります。
民を表現するのに人民と言うときには、ときの権力を覆すことを望む意味を含む用語として生まれてきた・・いわゆる不平分子とすれば、政府は支配下の民を人民と言いたくないのがわかります。
それならば、明治憲法制定当時既に旧刑法で採用していた「国民」を採用すればよかったはずなのに明治憲法で何故採用しなかったのか不思議です。
国民より臣民の方が良いとしたのは、王政復古にこだわる勢力への配慮・妥協の産物でしょうか?
もしかして?当時まだ日本「国」という表現が一般的でなかったとすれば、「日本の民「=日本「国」のたみという概念思考自体が一般的でなかった・特定の人しか考えていなかったのでしょうか?
しかし、明治憲法の表題は「大日本帝国憲法」ですから、大日本帝国国民とすればよかったはずです。
ただし私の個人的興味ですが、いつから日本列島全域を表現するのに「日本国」と言うようになったのかが、この際気になります。
以下見て行くように大和王権成立前の紀元前の前漢時代から倭「国」と呼ばれていたし日本列島の当時の祖先らもそのように自己表示していたようです。
明治政府がそれを否定していたか?というと明治四年の遣欧使節に対して翌五年に明治天皇の発行した全権委任状を見ると大日本国の国璽を押捺しています。
そうとすれば明治政府が何故日本国の民(たみ)という自然な表現をしないで「臣民」という無理筋?定義を何故したか不明です。
古代律令制から明治維新まで、国といえば地方の単位・今の都道府県よりほとんどの場合小さい地方単位でした。(千葉県でいえば安房、上総、下総の3カ国)
いつから日本60豫州の総称として日本「国」というようになったのでしょうか?明治維新後に地方制度として廃藩置県断行後、古代律令制導入以降の地方制度であった国の制度がなくなりました。
それまでは国という単語は、三河国、駿河国、上総国など国内地域の単位だった筈ですが・・。
日本列島の一部の表現だった国の制度がなくなってから日本列島全体の表現になったのでしょうか?
地域単位を表現するのに、和語でない借り物のの漢字の「國」とか邦、州とか郡や県、村・郷、邑を利用するからややこしいのだと思います。
「みどりなす黒髪」という表現が有名ですが、同じく「みどりご」という表現もあります。
これを漢字にすれば嬰児ですし赤ちゃんです。
日本では草花が生き生きと生命力に輝いている状態を「みどり」といい、中国では生き生きした若葉の色を緑というので、偶然一致して緑という漢字を当てただけなので、今になると緑=グリーンという漢字文化が身につきすぎると、緑=色の名詞である現在では黒と緑が同じ?なんで「緑なす黒髪」というか、赤ちゃんを「みどりご」というか?意味不明になっているに過ぎません。
大学生の頃か?大人になってからか中国の揚子江を長江というと知りましたが、遣唐使だったかの日本人が渡船場で地名を聞いたらそこが揚子江(中国語で別の発音ですが)と教えられて(その入江のことのことだったらしいのですが同じ「江」というから間違ったのです)これが日本に伝わり、長江全体の川の名前かと思ってしまったというのもあります。
漢字利用前の和語としての「くに」や「むら」とは「何」だったのでしょうか?
コトバンクによると以下の通りです。
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD-55694

くにとは
一定区域をなす土地を表わす言葉で,現在では,土地,人民,政府をもつ国家のこと。歴史的には,さまざまの範囲を呼ぶのに用いられた。日本に農耕生活が始り,人々が政治生活を営むようになると,従来の「むら」が「くに」と呼ばれるようになった。『後漢書』に,1世紀の倭国に百余国があったというのは,このような「くに」の分立状態を示している。
「豊葦原の中つ国」 (→葦原中国 ) といった国土の総称にも用いられていた。

一部地域の表示にも列島全体の表現にも使う融通無碍げというか、外来語・漢字が入ってきて無理な当てはめが行われたから起きた現象でしょう。
ある外国語が入ってきた時に、道具や社会の仕組みあるいは文学表現等の概念がその社会にある場合にはすぐにこれに当てはめれば済むのですが、ないときあるいはかなり違う時にそれを当てはめると大きな違いが生じます。
例えば、パスタをそのままソーメンと訳してみると共通性は麺というだけで、お互いまるで違うものをイメージして会話することになります。
社会制度の場合、一方の話者が、100万人規模の集団をイメージして「国」の話をしている時に数十人の部族社会しか知らない未開部族の人は自分お部族の人間関係をイメージしているとお互い意思疎通がズレまます。
いまのように世界中の情報が行き渡っていない時代に、「4月頃を春」と言うとの共通認識があっても日本人が桜の季節を前提にいろんなことを南洋の人に言っても、なぜ春が待ち遠しいか楽しみか理解不能でしょう。
言語学でどうなっているか知りませんので素人的無責任想像ですが、人の集合体である「むら」が一定の地域性(同じ川の流域など)を持つようになる・・婚姻は超古代から濃密な血族間婚姻の危険を避ける知恵が生じでいるので、ムラができた当初から周辺他血統のムラとの通婚が必要→これを繰り返すうちに周辺村落同士の共通価値観形成が緩やかに進みます。
私の一家は東京大空襲の結果焼け出された結果、幼少期は地方で育ったのでその時の見聞経験でしかないですが、その地域の風習で見ると多くは徒歩日帰り圏内からの嫁取り婚だったようです。
後になって考えると当時(戦後から今に続く)〇〇郡という地域がほぼこの範囲と重複していることが分かります。
例えば、現在の都道府県制度の前の国制度時代には、下総国に属した江戸川両岸地帯の葛飾郡(こおり)・・葛飾北斎で有名ですが・・だいたいこの程度の文化共同体地域です。

輸入規制2とラストベルト地帯

輸入規制に頼ったラストベルトの解説です。
http://www.crosscurrents.hawaii.edu/content.aspx?lang=jap&site=us&theme=work&subtheme=INDUS&unit=USWORK059

ラストベルト (さびついた工業地帯)
イリノイ、インディアナ、ミシガン、オハイオ、ペンシルバニア諸州を含むアメリカの地域は「ラストベルト(さびついた工業地帯)」と呼ばれています。この呼び名は、これらの地域の多くの産業が時代遅れの工場・技術に依存していることからつけられました。
1970年代、激しくなる国際競争への対応策として製造業者がこれらの地域からアメリカの他の地域やメキシコに工場を移転、かつて繁栄していた工業地帯の経済が悪化したことによりこの名称が幅広く使われるようになりました。
これらの地域では、工場閉鎖にともなって失業者が増加し、多くの人々はこの地域を去りました。デトロイト、セントルイス、クリーブランドなどの都市、あるいはインディアナ州ゲリー、オハイオ州アクロンといった比較的小さな都市は、都心が衰退してしまったラストベルトの都市の例です。デトロイトは、現在も世界最大規模の製造業の中心地ですが、製造業が衰退していく中で、製造業への依存を減少することができずにいます。

ただし最近、産業の高度化に施工した企業が現れて持ち直しているようです。
上記によれば、企業自体が適応してラストベルト地帯から別の地域へ逃げ出して国際競争に適合していった経緯がわかります。
輸入規制を求めて古い体質にしがみついていたのは、企業経営者ではなく(新しい分野に挑戦できない?)従業員・労働組合だったようです。
企業経営者の方は古い体質グループを放置して他地域に進出してシリコンバレー等で新たな産業を起こして行ったようです。
古いマンションの修繕改築の話し合い(住民の多くが老人)に時間を費やしているより、近隣にできた新築マンション買い替て逃げて姉妹振りマンションはスラム化一方になったようなものです。
企業の方はラストベルト地帯から逃げていたということは、企業は自由競争の必要性・時代適応必要性を認めていたこと・新機軸の製造業に変身する必要性を認めていたことがわかる・・反対していた主役は、新時代についていけないリストラされる人材多数抱えている労働組合だったことになります。
労働組合の名誉のために書きますと、村落社会や町内会その他すべて団体というものは現状を全体とした運営ですので、新時代に適応できる有能な人材はホンの数%でしょうから、多数に従う民主主義の弱点でもあります。
現状変更になんでも反対するのは、組合の特性というわけではありません。
一般社会は自然発生的に生じていることが多いこともあって(陰であんな格好してとか、あんなことを言ってとか・・白い目で見られる・村社会は窮屈と言われることがあっても)直接規制がなく個々人の自由行動の幅が広い(本人さえ陰を気にしなければ良い)のに対して、組合では何でも「機関決定」というものが幅を利かしすぎて違反の問責?追求できる統制委員会的仕組みががっちり整備されて(左翼系組織も似たような傾向ですが)いる点が大きな違いでしょうか?
ソ連の粛清が有名でしたが共産党支配の中国では党紀違反を理由にある日突然党幹部の消息不明になったりしていますが、粛清支配を基本的体質とするソビエットのDNAを受け継いでいるからでしょうか?
日本では中国のように党紀違反を理由に党から拉致され取り調べを受けるような事態は起きていません(そういう権限がありません)が、組合の機関決定重視姿勢はこれの思想影響を受けているので機関決定の重みは似たようなところがあります。
ましてユニオンショップ制やクローズドショップ制の米国では、労組加入しないとその企業で採用しないし解雇する仕組みですから労組から除名されると職を失う効力があり、異論が許されない仕組みです。
ユニオンショップ制に関するウイキペデイアの説明です。

採用時までに労働組合加入が義務付けられ、採用後に加入しない、あるいは組合から脱退し、もしくは除名されたら使用者は当該労働者を解雇する義務を負う、という制度。雇い入れ時には組合員資格を問わないという点で、組合員のみの採用を義務付ける「クローズド・ショップ」とは異なる。これに対し、労働組合の加入を労働者の自由意思に任せるのが「オープン・ショップ」である。

日本の労働法ではこう言う硬直的システムを取り入れなかったので柔軟経営ができたのですが、日本で唯一の強制加入団体は日弁連と各単位弁護士会でしょうか?
昨今弁護士会の政治活動が増えてくると、強制加入システムに不満を言う若手弁護士が増えてきたのは当然の成り行きではないでしょうか?
任意加入の場合機関活動家?が独走しすぎると一般会員が脱退したり、新規加入が減っていくので組織率がバロメーターになりますが、強制加入だと、過激全学連のように機関活動家が牛耳っているのか多数支持を得ているのかが不明になります。
日本で唯一の強制加入団体である弁護士会の場合、不満な人は会活動参加を敬遠するくらいしかない→その傾向が実質的バロメーターになります。
米d国は自由主義国とは言うものの実際には規律が強すぎて個々人が自由な言動ができない仕組みのようです。
こういう頑迷な組織支配するところから、企業の方が逃げ出します・これがラストベルト地帯になった原因です。
企業にも適地を選ぶ権利があります。
ハンマーで日本製品を叩き壊していた背後の主役は、変化に応じられない労組だったイメージです。
こんなところでやってられないと多くの製造業は中西部工場をそのままにして、(チャイナプラスワンの先行事例?)他の地域で新工場設置・・新条件で募集・雇用するため?に動いたので取り残されたのでしょう。

国を選べる時代2(輸入規制1)

米国は自由競争〜市場開放を主張しながら日本が戦後復興すると繊維〜電気〜鉄鋼〜自動車等々で貿易赤字が増えると日本製品をハンマーでぶち壊すパフォーマンスをしたのが今でも記憶に残っていますが、こんなバカなことをしても衰退を免れることはできません。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO35787290W8A920C1000000/

日米自動車摩擦 1970年代から繰り返す歴史 2018/9/27 6:30
米デトロイトなど自動車産業の集積地では、日本車がハンマーで叩き潰される「ジャパン・バッシング」のパフォーマンスが繰り広げられた。

今回の韓国での日本製品不買運動の開始にあたっても日本製品配送用の?ダンボール箱を報道陣の前で踏みつけるパフォーマンスが行われましたが、馬鹿げている点は同じです。
不当な政治力で割高なものを庶民が買わされているならば弱者の抗議活動は正当ですが、輸入品は逆に大幅な冷遇・ハンデイを抱えて競争しています。
① 生産段階で母国生産地と違う輸出先現地の法令適合するための調整
② 右ハンドルを左ハンドルにしたり現地気候風土や現地使用傾向に合うように微妙な調整するなど需要地向きに仕様変更するコスト
③ 長距離輸送のためのコストと発注後納品までの時間がかかる
④ 入国段階での検査手続きや関税がかかる
⑤ 税関手続き等の専門業者の介在
⑥ 販売には系列販売店・アフターサービスの提供等のため一定規模のシステム構築が必要であるが、当初は販売量が少ないために初期先行投資がかさむ
⑦ 異民族への輸出の場合言語環境の違いなど営業活動上のハンデイ

等々のハンデイこそあれ、輸入業者が現地生産者より優遇を受けている不当な関係はありません。
ハンマーで壊すなどのパフォーマンスは、自由競争で負けているのを政治力で市場原理を歪めて現地企業保護を訴えるもの・自由競争反対論の宣伝をしているように見えます。
メデイアは内心「こんなバカなことをするようではアメリカもおしまいだ」いう意図で報道していたのかも知れませんが・・パフォーマンスするグループは、「現地製品が日本製品より劣っていても高く売れるようにしろ!」という主張をしていたことになります。
すなわち、冷蔵庫や車の売れる量が一定量とした場合、輸入制限すれば現地製品がわり高でも一定量まで売れる関係になりますので、輸入制限を求めるのはこういう目的で行っていることになります。
交渉結果を見ると騒動の都度数量制限が決まっていたようです。
上記引用の続きです。

対米自動車輸出台数を制限する「自主規制」を導入することになった。日米間の輸出自主規制は繊維や鉄鋼で前例があった。自動車の自主規制の枠は初年度に168万台。80年の実績(182万台)を下回る水準に設定された。自主規制は93年度まで続くことになる。

米国は自由主義経済の守護者のようなふりをしながら対日関係では繊維〜家電〜鉄鋼〜半導体その他いつも事実上輸入制限して自国民に割高な商品を買わせて来ました。
こういう米国の偽善主張は日米戦争をしかけた時から米国の伝統芸であり、対イラク戦争にもつながっていきます。
日本も農業保護が聖域と称して農産物輸入制限を続けてきましたし、後進国は産業がひ弱なために一人前に育つまでの保護としての関税が認められてきました。
米国の場合、一旦国際優位に立っていた産業老化に対する保護という面でまだ国際合意のない分野ですので二重基準の弊害が目立つのかもしれません。
これから成長する子供を大人と一緒に競争させるのは良くないという・後進国保優遇論理は理解しやすいのですが、世界トップ企業が新興企業の挑戦を受けて衰退していくのを保護する論理・政治が行われれば、新たな利便性を追求する新興企業が生まれにくくなります。
後進国の場合期間猶予をもらう間に成長するチャンスを活かせることが多いのですが(子供が大人になってもみんなが横綱や一流の格闘者にになれませんが、二流の人は二流まで育つ可能性が多いということです)しますが、老化する人が時間をもらってもその間老化が進むだけです。
米国が対日輸入制限をもとめた業界は、例外なく時間猶予の効果なくジリ貧になっていったのは当然です。
老人は大事にされるべきですが、いつまでも権力を握るのは老害になるのと同じです。
鉄鋼製品その他米国企業が輸入規制を求めて政府もその方向へ動くために消費者は一定量しか輸入品を買えない→割高な現地生産品を強制的に買わされる結果になります。
前近代の悪代官と悪徳商人が結託して商品不足にして、価格を吊り上げるような不当政治を国民の多くが本当に求めているのか不思議です。
数量制限は・・消費者だけが損するのではなく生産者も安くて性能の良い繊維・鉄鋼製品、半導体、車等々を使えないと困る・・輸入制限しない国地域の企業に比べて競争力を失っていきます。
米国の対日輸入制限効果は、中西部工業地帯だけに及ぶのでなくアメリカ全土の競争力に及ぶ、輸入制限に頼っているより、新時代適合を進めるしかないというのが全米企業家の思いだったのでしょう。
既存工業地帯での改革は反対者(労働者)が多く無理と見た企業家は、チャイナプラスワン同様に米国内の他地域への新規投資に走ったようです。
これが世界に冠たる中西部工業地帯がラストベルト地帯と言われるようになった原因でしょう。

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