国(くに)とは?5

聖徳太子以前から日本列島人が朝鮮半島には任那という拠点・領域を確保していたし、新羅と百済の攻防に関与していることも以前から知られていたのですから、その時の日本列島の諸集団を束ねるトップ集団があったとすればどこの誰だったかの特定が必要ですが、こういう議論が全く聞こえて来ないのが不思議と気がつきました。
私が知らないだけですが・・。
当時も日本列島の集団やその代表者は自分の集団をどのように表現していたか?でしょう。
例えば漢倭奴国王・前漢時代・・紀元前の金印が知られているように、聖徳太子より約600年以上前にも時代に応じた交流があり、多分列島まとめて倭の人たち・・倭国と言われていたことは後漢の記録で明らかです。

漢書』地理志(著者:班固)
夫れ(それ)楽浪(らくろう)海中(かいちゅう)に 倭人(わじん)有り。 分れて(わかれて)百余国(ひゃくよこく)と 為る(なる)。 歳時(さいじ)を 以て(もって)来り(きたり)献見す(けんけんす)と云ふ(いう)。
(原漢文)

漢書は後漢時代に執筆されたものですが、前漢時代を書いた史書です。
要するに紀元前1世紀の日本列島の状況で、列島百余国の代表が訪問してきている様子を書いています。
代表が訪問するということは、代表を送るべき集団がその頃あったということでしょう。
日本がどう思おうと米英では日本をジャパンと呼ぶ事実があり、日本列島人も当時地域最大国の前漢から倭人の国と言われていたので周辺国も倭の国と言ったでしょうし、日本列島人も自国を名乗る時に倭の国からきたと名乗ったことでしょう。
これがある時・・白村江の大敗(663​年10月)以降、多分大和政権が日本列島を代表するようになった時点から、日本国と自称するようになったのでしょう。
冊封体制を前提にすると国というのは如何にも属国になったようなイメージですが、そんな序列意識以前に集団間の交流があったはずです。
秦始皇帝以来の冊封体制を前提にすると、自分の地域集団を「国」というのは隷属前提になりますが、その前の周の時代には支配下の地域豪族を当初諸侯・公と言っていたのが後(春秋戦国)に国となり王となって行ったように変化を経ています。
冊封体制はいわば秦の天下統一以来始まった新しい秩序名称に過ぎません。
秦始皇帝による統一以前→冊封体制成立以前の日本列島では自分の先祖からの地域集団を「くに」と表現していたとしてもおかしくないでしょう。
先祖伝来の表示「くに」に漢字の国を当てただけとすれば、縄文の昔・・数千年以上前からの言語かもしれません。
クニとサトに関するネット検索の結果、以下の通りの意見が見つかりました。
http://k-amc.kokugakuin.ac.jp/DM/detail.do?class_name=col_dsg&data_id=68516

くに

Kuni
区切られた領域・行政的な単位。人間が住む生活領域を指すことばとしてはクニ(国)・ムラ(村)・サト(里)・コホリ(郡)等があるが、万葉集の歌にはムラ・コホリは見られない。これらはともに朝鮮語とみられており、在来の和語としてはクニ・サトが生活領域をあらわす語彙であった。クニは77例、サトは76例、用例もほぼ同数であるが、意味的には顕著な違いがみられる。すなわち、クニの用例中、40例ほどは「知らすクニ」「食すクニ」「まつろはぬクニ」等々、地方的レベルと国家的レベルの別にかかわらず、統治すべきものとしての行政的、政治的な領域を示す語として用いられる。クニは治めるべき場所であり、「国占め」という語に見られるように占めるべき領域であった。これに対してサトは「我が住むサトに」(15-3783)、「サト見ればサトも住み良し」(6-1047)などに典型的に示されるように、住むべき場所というニュアンスが強い。語源的には、サト(sato)のトはミナト(minato)、セト(seto)等のト(to)で、特定の場所を示す語、サは神聖さをあらわす接頭語であろう。人の住む場所を讃美する語である。一方、クニは境界をあらわすクネ(方言)と関連があると思われる。クニの本義が区切られた空間であるとすれば、この語が行政的な領域を示す語として定着する理由は理解しやすくなる。漢字は「邦」(9-1800)、「本郷」(19-4144)が各1例、他はすべて「国」が当てられている。「邦」は「封」に同じく、天子から領有を認められた封土の意であるが、「国(國)」は境界線で囲まれた土地のことをいう。和語のクニと漢字の國は、互いに相通ずる意味をもつ語であった。「天の下に クニはしも さはにあれども」(1-36)のようなアメ/クニの対は天下思想に基づくもので、天の下界である地上のすべてを一つの領域として観念できるようになってからの表現である。

西條勉

和語としてのクニに関する前半部分はど素人である私の直感とピッタリの論説です。
後半「一方」以下の漢字の「国」に当てはめる意見は、冊封体制が始まってからの意見としては、国=冊封された区域という意見があっているでしょうが、私の関心はもっと以前・・三内丸山紀元前5900〜4200年・・まだ中国の周王朝すら誕生前から三内丸山遺跡時代にも交易をしていた以上は、自分たちの居住地域を表す言語があったはずです。
それを国というか地方というか別として最初の言語を知りたいものです。「くに」に邦を当てたり国を当てたりする前の文字到来前の和語としての「くに」とは何かです。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC