前政権(日本支配)否定と韓の労働運動2

支持率が下がっても任期で守られ不満爆発寸前まで持ちこたえて任期満了退任する仕組みだと、(パククネ大統領の場合任期満了まで持ち応えられませんでしたが今後これが慣例になるのかな?)次期大統領は前政権政策に対する不満を煽って正反対の支持を背景にする以上は前政権の全否定しかないし、前政権の責任追及に走りやすい土壌となるのでしょう。
投票時には絶大人気で選出されるものの、その反動で?すぐに期待はずれになるが、任期制のために嫌になっても付き合うしか無い・この鬱屈が大統領退任の都度嵐のような攻撃を対象になる心情風景かもしれません。
しょっちゅう絶大人気による新大統領選出という現象自体が、危うさをあらわしているとも言えます。
我々弁護士業務でも、この数十年かなり頃減りましたが根拠なく絶大な賛意を表する人がいる場合、いつ根拠ないクレーマーに変身するか怖いリスクの大きい客です。
弊履のごとく捨て去る気持ちの根本は、本音では否定感情があるものの尊敬されたり社会風潮・空気を読んである政治家や芸能人が人気があるときには批判できない分、人気や地位を失うと、一気に本音が表面化するのでしょう。
セウオール号事件やろうそく集会のようなイベントが一度成功?すると我も我もと火がついたように広がるのも便乗型国民意識によると言えるでしょう。
我が国でもメデイアがブームの元を作り、それに便乗する人が多い場合・いわゆる炎上現象で有名人が降板させられることがありますので、政治家や有名人はメデイアの標的にされるのを極度に恐れるようになっています。
最近では河野防衛相が自分は雨男で・・と発言したことをどういう仕組みか不明ですが、台風被害で頑張っている国民の神経に触った?雨男というレッテル貼りは許されないという批判?謝罪撤回に追い込まれたとのニュースが出ています。
https://www.asahi.com/articles/ASMBY3J8QMBYUTFK003.html

河野防衛相が「雨男」発言を謝罪 「不快な思いを」
2019年10月29日12時37分

朝日新聞は謝罪に追い込んで自慢でしょうが、こういう瑣末な批判ばかりに終始する大手メデイアの役割こそ考えさせられます。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191029-00000060-dal-ent

千葉市の熊谷俊人市長が29日、ツイッターを更新し、河野太郎防衛大臣が「地元では雨男と言われた」などと発言したことに「被災地の首長として全く気になりません」とつぶやいた。

えらい!我らが千葉市長です。https://www.nikkei.com/article/DGKKZO51465420X21C19A0PE8000/

閣僚辞任「政権に緩み」56% 世論調査、内閣支持層でも4割
2019/10/28付 日本経済新聞 朝刊
重要閣僚が辞任したにもかかわらず、内閣支持率は横ばいだった

こんな子供染みたこととばかり議論するために国会やメデイアがあるのでしょうか?
閣僚になってから威張り散らしたりすればおごりや緩みというべきでしょうが、閣僚になる前の言動を挙げつらっているだけです。
国会は政策を議論すべき場であって、公職選挙法違反かどうかは、司直のやるべきことです。
司直が大物政治家・実力者の不正を見逃している場合には、巨悪を暴くために国会で質疑するべきでしょうが、もともと法違反があればどんな軽微事案でも立件するs制度設計ではなく、程度問題で説教して帰すなど、軽微な太陽の場合には軽微処理することを法が予定していて、そのために起訴便宜主義という制度があるのです。
権力者に甘い便宜主義の乱用を防ぐために検察審査会というお目付制度もあります。
刑事処分されないのを誰も不満に思わない程度の軽い違反行為を、メデイアが与党であれば取り上げるのはなぜでしょうか?
野党なら問題にしないが与党なら許せないという一方的基準があるのでしょうか?
もりかけ騒ぎもそうでしたが、メデイアの騒ぎ方と民意が大幅にずれているので支持率に影響しない結果になるのでしょう。
韓国では大統領退任後例外なく不幸な結果が待っているのは、極端から極端へと支持が入れ変わる社会意識の構造に原因があるように思われます。
ちなみに現在の文大統領当選時の支持率と現在の変化を見ると以下の通りです。https://www.nikkei.com/article/DGXLASGM02H4Z_S7A600C1FF8000/

文大統領の支持率84% 韓国歴代で最高
2017/6/2 20:55

https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2019-09-20/PY3XVHDWLU6C01

2019年9月20日 11:18 JST
韓国の文在寅大統領の支持率は2017年5月の就任以降で最低となった。韓国ギャラップの世論調査が示した。
9月第3週に実施された調査によると、文大統領の支持率は40%と前回調査の43%から低下。これまでの過去最低は4月第1週の41%だった。
不支持率は49%から53%に上昇し、過去最高を記録。

韓国では上記の通り支持率84%が2年で41%→不支持率53%になるのですから、振幅が激しすぎる・・まだ民主政治をするには民度が成熟していないようです。

米国占領政策2→乱闘国会

イラク侵攻の際にありもしない大量殺戮兵器を主張して正当性強調したのと同じレトリックで米国政府は対日戦争正当性を訴えるため奴隷状態にある朝鮮民族の解放戦争という宣伝を行ってきたのです。
西欧の植民地との比較では格段の厚遇でしたし、朝鮮神自身が自発的に対米戦に参加していたのです。
例えば以下の通りです。
https://cocolo-journal.com/archives/14333#toc4

朝鮮半島では、大日本帝国陸軍が清国軍を打ち破ったときの「軍旗」が旭日旗だったため、
中国から朝鮮独立を認めさせた“象徴旗”として称えられていました。
『アサヒグラフ』1938年10月19日号の朝鮮人特別志願兵の特集ページでは、
旭日旗を掲げて行進する4300名の「朝鮮聯合青年団」の写真が掲載されています。
当時、朝鮮人にとって50倍前後の倍率の志願兵に選抜されることは、大変な名誉でした。
志願兵に採用されなかった全朝鮮の若者15万人は「朝鮮聯合青年団」を組織しました。

こんな欧米植民地があったでしょうか?
このような偏った刷り込みを前提に朝鮮半島に上陸し、占領政策を遂行するにあたっては必然的に日本統治実績をけなし、良い面を米軍支配の実績にすり替えるしかなかったでしょう。
これが戦後朝鮮人の反日意識形成→反日運動の源流です。
慰安婦問題の具体的証言では、ジープに乗せられ、ドラム缶がどうのなど米軍支配下の出来事だったことが明白になっていますが、それでもこれが日本軍の悪事として世界に流布されてきました。
米軍に対する不満であれ、自国政府に対する不満であれ、韓国国民は反日を唱えれば全て許されるように思い込んで70年以上経過したことになります。
ところで26日にヤルタ会談の一部を紹介したように米国や連合軍軍自体、日本軍・日本政府要員撤退後、朝鮮民族による自主政府樹立までの手助け・・いわゆる自立にまだ無理のある民族としての国際評価を前提に米国が太平洋諸島の信託統治領同様に保護者になる・・国連概念の信託統治としての関与予定でした。
一人前になるまでの短期占領政治の予定が、朝鮮戦争勃発→休戦状態で固定されてしまったので国連軍としての米軍駐留が今に至るまで続いている結果、長期的に米国宣伝(日本統治配が如何にひどかったかの刷り込み教育)の直接的影響下におかれました。
74年といえば2世代以上に渡って日本人がいかに人道上ひどいことを朝鮮人に対して行ってきたか、道徳のない民族であるかの虚偽教育を生まれたときから受け続けてきたのですから、おそるべき隣国が誕生していることになります。
昭和60年大頃まであっ本当のことを知っている世代がいたので、学校教育や目でアイデアが煽っても親世代は冷めたところがありましたが、平成に入ると、日本統治を経験した世代がいなくなり、学校教育やメデイアの流し続ける反日宣伝を盲目的に受け入れる・・日本を憎む世代ばかりになってきたようです。
これが慰安婦その他何でもでっち上げては「そのくらいの仕返しをしないと気がすまない」という気分になってきた素地ではないでしょうか?
朝鮮半島の南半分・大韓民国は建国以来米国の唱える大戦の大義?に縛られて日本支配の道義否定を国是のようにして始まった結果、占領政治では日本支配時代との違いを鮮明にするためにもっと目に見える改革・成果が必要となりました。
日本の統治方法はいきなりの制度変更ではなく、教育制度の一般化によってヤンパンの特別権力維持の源泉・・ヤンパンの文化独占を打破してヤンパンの文化的優位性を崩していったのですが、米国はもともとこういうじっくりした政治は苦手である上に、対日戦争の名分として日本の朝鮮統治を批判して来た手前、早期に目に見える成果が必要でした。
そこで(今の投資ファンド同様に短期成果を求める傾向がもともとある上に)日本を戦争に引きずり込んだ戦争の正しさを証明するためにもドラスチックな改革の必要性があり、地道な時間のかかる自発的発展を待ってられなくなり、結果的に強権的改革が多くなった・韓国国会では何か法案を通すためには、日常的に乱闘→強行採決になっていった原因の一つと思われます。
https://www.sankei.com/politics/news/150629/plt1506290039-n1.html

世界を震撼させてきた韓国・武闘派国会。ただここ数年は、暴力沙汰はほとんど沈静化している。
実は「国会先進化法」と呼ばれる法律が2012年5月に成立している。時期的には、先に紹介した「催涙弾事件」の後ということになる。
法律では「与野党間で意見の食い違いがある法案を本会議に上程する場合、在籍議員の5分の3以上が賛成しなければならない」と規定されている。乱闘につながりがちな対決法案の緊急上程、強行採決を防ぐ措置なのだろう。
ただ、暴力こそは影を潜めたものの、あまりに高いハードルであるため、今度は肝心の法案処理がままならなくなった。2014年の7月国会で法案処理にいたった案件はゼロ。続く9月国会で90本余りの法案を一気に成立させるという荒業を繰り出さざるを得なかった。

上記のように乱闘国会が常態化していたので今度5分の3の特別多数制度にするしかなかったので、そうしてみるとどんな法案も通らなくなったというのですから、ほぼ漫画状態です。
工場のように先進設備を導入すれば、ちょっと機械操作を練習すればすぐに製品になって出てくるのとは違って、社会制度というのは制度・器だけは真似できても運営は人民の能力次第です。
国会も労組も同じ人民の能力にかかるものですから、乱闘国会同様に韓国では労働運動の激しさも有名ですが、韓国社会は何事も妥協して決めていく経験がないまま現在に至っている状態です。
民主社会では労組のあり方も重要な要素です。
韓国労働運動については報道を通じたイメージしか知らなかったのですが、ネットでは以下の論説が出ていますのでこれを明日以降一部引用して行きます。
以下紹介する韓国の激しすぎる労働争議関連の論考には米占領軍は占領当初政策方針として「1945年10月30日に軍政法令第19号の国家緊急事態宣言の中で『過去40年間存続してきた絶対的奴隷状態から労働者を救出しなければならない』と強調し」

たと紹介されています。

カイロ宣言と米国朝鮮政策1(日本道義否定)

朝鮮半島の北半分がソ連圏に入ったので北の朝鮮人は、古代価値観を基本にして生きているソ連・ロシア民族支配をすんなり受け入れて安心したでしょうが、日々食うのに忙しい・・人口の90%以上を占める庶民にとって政治意見を言えないことや表現の自由の制限など日常何の不自由も感じないことを24〜25日に書いてきました。
表現の自由にこだわる芸術家でも普通の芸術活動である限り・同時代の緊迫した時代精神気分を表しているなどの評価を後世に受けるとしても、その程度のことで表現が規制されるとは考えにくく、99、99%の芸術家は政治などに関係なく、創作活動を自由にできてきたと思われます。
明治以降の漱石、島崎藤村の詩集などの文壇、日本画に表現の自由による制約を見る人は少ないでしょう。
江戸時代に世界に冠たる文化発達繚乱したのは、西洋近代の権力分立・人権思想の有無と関係なかったのです。
そもそも芸術家自体人口の1%もいないでしょう。
アメリカ占領下に入った南半分(現韓国)は、微温的な日本統治という緩衝装置がなくなり欧米価値観ストレートな政治文化の浸透に見舞われたことになります。
米国の中南米、南ベトナムその他各地支配・指導は、現地民族ごとの微妙な気持ちの汲み取り能力に欠けた・いわゆる投票箱民主主義・あんちょこな民主主義の押し付けが国情に合わない結果、多くの国で失敗の連続でした。
米国の対日戦争の大義として朝鮮民族の日本隷属からの解放を宣伝してきた米国としては、朝鮮占領政策では日本が進めていた以上の急速な近代化を目ざす必要に迫られていたことは、推測に難くありません。
朝鮮族の対日不満の源泉は旧特権階層の権益剥奪と教育の機会均等・四民平等・を徹底すれば国民大多数のストレス社会化が進みます。
自由競争社会化すればするほど、底辺層の方が富士の裾野のように最大多数になるのが原理です。
日本の場合文明開化によって新たな職域が量産され、失業した武士の多くを吸収しましたし、産業構造変化までひと世代程度の期間余裕があったので、紡績〜繊維から家電組み立てなどの構造変化も1世代以上の時間軸があり次世代がうまく適応できてきました。
新興国の場合工場設備丸ごと導入パターンですから、最新技術導入があんちょこな分に比例して産業構造・主役が変わって行く構造変化が5〜6年サイクルでくるので、日本に追いつくスピードは自慢でしょうが、それに比例してどんどん振り落とされ置いていかれる人が増えてストレス過多社会になって行きます。
ルーズベルト政権は対日開戦の大義名分として日本の朝鮮人民に対する過酷な植民地支配〜中国での南京虐殺などを国内外で大宣伝してきました。
対日開戦を奴隷状態にある悲惨な朝鮮人民解放戦と位置付けてきたのです。
フセインが大量破壊兵器を隠していると称してイラク侵攻を正当化したのと同じ手口です。
競争社会に対する不満を吸収する方向で米軍支配による「日本支配がひどかった」という反日宣伝が不満に火をつける形で、ガス抜きしていく効果を発揮していたと思われます。
アメリカの対日プロパガンダの公式記録がカイロ宣言に出ています。
1943年に出された連合国のカイロ宣言の一部・対朝鮮関連部分のみ紹介します。
カイロ宣言に関するウイキペデイアの記事からです。

対日方針を協議するため1943年(昭和18年)11月22日からエジプトのカイロで開催されたフランクリン・ルーズベルト米大統領、ウィンストン・チャーチル英首相、蒋介石国民政府主席による首脳会談を受けて、12月1日に発表された「カイロ宣言」。
以下はカイロ宣言の日本語訳[1]。
「ローズヴェルト」大統領、蒋介石大元帥及「チャーチル」総理大臣ハ、各自ノ軍事及外交顧問ト共ニ北「アフリカ」ニ於テ会議ヲ終了シ左ノ一般的声明ヲ発セラレタリ。
各軍事使節ハ日本国ニ対スル将来ノ軍事行動ヲ協定セリ。
日本国ハ又暴力及貧慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ
前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス

日本文化否定4(日韓併合2→近代化促進)

日本統治は欧米の直接的植民地化より優しかった・・例えば以下に紹介するようにヤンパン制度をすぐに否定・強制するのではなく、ヤンパンが独占していた教養を庶民にもいきわたるように庶民あいての教育制度を創設するなどじっくりと変える政策でした
旧支配層にとっては日本政府による全国的教育制度確立→四民平等の理念普及=李氏朝鮮時代から続くいわゆるヤンパンの超優越性全面否定の衝撃は大きかったでしょう。
特に特権剥奪で零落した多く(自由競争になってもエリートとして生き残る人の方が少ないのが普通)の旧支配層にとっては内面不満が溜まっていたでしょう。
日本統治期間が1910年の併合から1945年までの35年間ですから、ヤンパンの独占であった教育を受ける仕組みを貧富差なく享受させる日本の教育制度を全国に普及させるのに約10年以上かかったとすれば、日本式教育を受けた世代が開校当初の入学者からでも約25年しかないことになります。
ヤンパン(両班)制度を併合後何年で廃止したか知りませんが、ヤンパン制度がなくなくなってから生まれた子供でも、事あるごとに元はこんなに尊敬される身分であった・・今威張っているあの人は、私たちと対等な口をきけずハイつくばっていたのに・・としょっちゅう愚痴を聞かされて育っていた人がやっと20台前後で日本統治が終わったことになります。
新教育制度が朝鮮民族の意識変化に与えた影響は激しいものだったでしょうが、日本敗戦時で見れば没落したヤンパン階層はまだほぼ全員生き残っている時に日本支配が終わったことになります。
牛馬扱いから人間として教育を受けられ解放された庶民にとっては、全て幸福になったかと言えばそうはいきません。
自由競争になったからといって全庶民が勝ち上がるのは不可能で、自由競争で頭角を現せるのはほんの一部・・多くは負け組・激しい変化に批判的な気持ち・・深層心理を持つ人の方が多かった可能性があります。
日本でも戦後直後は学歴がないから出世できないという言い訳ができたのに、能力さえあれば全員大学進学できる時代が来るとそういう言い訳ができなくなりました。
同じく韓国でも身分平等化によって、あいつとは生まれつきの身分が違うから・・という逃げ道をなくして却って苦しい思いをする人が増えたことになります。
この逃げ道がなくなった帰結が何年でも就職浪人等を厭わない受験地獄長期化の原因です。
日本の場合、廃刀令等で士族の特権廃止と同時に?秩禄処分として一定の公債支給があった事を紹介した事(06/19/04「明治政府の合理化1(廃刀令と家禄制の廃止)金禄公債証書1」以下」)がありますが、それでも旧士族の不満が溜まり各地の反乱になりました。
この反乱の結果、一種のガス抜きになって、明治新体制が確立し近代化運動が地について改革が急速に進む安定効果になりました。
戦国時代が終わったのちに不要になった戦力の縮小・・この不満が島原の乱や由井正雪の乱になったのですが、その後安定しました。
自由民権運動の推移を見ると、もともと新政府要人が、政府内論争に敗れて下野して外部から異論を唱える側に回ったのが始まりですが、政府要人が政府の外に出ることを下野すると表現されたように現在野党の語源でしょうか?
明治政権は勤王VS佐幕の政変でしたが、自由民権運動の主役は旧佐幕系ではなく、新政府内の意見相違・・与党が派閥に割れたような関係です。
08/04/05「法の改正と政体書」07/18/05「明治以降の裁判所の設置2(3治政治体制)」前後で何回か紹介していますが、新政府は、政権発足直後から、幕藩体制の全面機構改革・・府県三治制→廃藩置県→武士の生活保障問題などに直面していました。
政体書は慶応4年ですから、維新直後のことです。
旧佐幕系はもともと開国派と言うか外交交渉の経験もあるなど文明開化政策採用によって、有能な人材が多くどんどん登用されていきますが、(歴史に残る有名人だけではなく官僚機構自体旧幕臣に頼らない限り無理でした・薩摩人は巡査程度の仕事しかなかった)薩長土肥政権では長年攘夷思想で領内を煽ってきたことから支持者との間で内部矛盾に悩まされるようになっていたのです。
民権運動の母体は尊皇攘夷に懲り固まった文字通り時代遅れの集団に根を置く人材が支持母体であったために彼らの突き上げに応じるしかなく、征韓論が通らない不満を名分に反旗を翻したものです。
フランス革命のブリューメルの反動みたいなことはロシア革命でもどこでも起きますが、日本の場合、旧士族反乱は地元でも支持されず各個撃破されていきます。
だいぶ前に書きましたが、日本の場合文明開花によって、新産業職場が大量創出
され他ので適応力のある人材は皆職を得られて、失業している元士族は本当に役立たずの少数派だったからです。
不平士族の乱収束以降行き場をなくしたエネルギー・・何か不満をいう場を求めて今度は、(本音では文明開化・社会変革には反対・・改革反対・士族の特権を残せという時代錯誤方向ではなく)表向き自由民権運動等改革を過激に進める方向・議会設置・憲法制定等を求める改革派に転じます。
政府憲法案では欧風化には十分でない欧米のように完全人権擁護せよなどと・結局なんでも反対運動の走りですが、表向き近代化貫徹を目標にした運動にして、革新勢力の看板に頼るようになります。
実質的には政府案が完全でないとケチをつけて何でも反対する点は、「やれる事から少しずつ改革しましょう」という実務的提案に対して西欧に比べてこの点が抜けているので反対などと結局今できる改革に応じないようになった点・「なんでも反対」では当時から今の革新系野党に至るまで同じです。
日露戦争時の講和条約に反対・もっとやれと煽り、戦後の日本独立に全面講和以外反対・安保条約に反対などなど要するに占領政治を終わらせ民族独立しようというのに結局反対でした。
日本の独立に世界中全員一致が賛成しない限り反対という論理の意味を理解できる人がどれだけいるでしょうか?
日本の防衛についても世界中が賛成しないと反対というのが日米安保条約反対の基本思想ですが、防衛というは侵略して来る敵がいるから必要なのであって、その敵が賛成する防衛構想などあり得ません。

日本文化否定3と日韓併合1

洋服で言えばセンスがあり、センス通りおしゃれができる経済力のある一握りの人にとっては制服廃止は朗報ですが、それ以外は(これが大多数)お仕着せの制服の方が能力差が出ないで気楽ですし、自由恋愛も同様で本人が決めないで結婚もお見合いでどんどん決まって行くと誰でも結婚できます。
朝鮮族の人たちは何も考えなくても良い古代専制支配体制下の最貧生活が気に入っていたのに、国家発展のために無理矢理に開国自由化に放り出されて精神がついていけないのが韓国民のように見えます。
この点では、日本敗戦後古代社会を引きずるソ連や中共の支配を受けて李氏朝鮮時代的古代社会意識に復帰した北朝鮮では物質的な豊かさがない代わりに、精神面では身の丈にあった幸福な印象を持つ・韓国でチュチェ(主体)思想が一定の支持を得られるようになっている所以でしょう。
北朝鮮は国際競争に大きく出遅れていますが、旧共産圏秩序に従うかぎり、内部で人民が古代的価値観で個々人の自由がなくとも・・結果的に経済発展せずにいくら貧しいままであろうとも介入を受けないので権力者にとって国内政治の自由がありました。
戦後関与したロシア民族も中国も古代価値観濃厚な社会でしたので、よその国に対する近代化圧力が少なかったのでしょう。
国力がないと大国の植民地にされる19世紀型弱肉強食の時代が終わったものの、ソ連崩壊後米国一強下で湾岸〜イラク戦争(フセイン氏が殺され)やリビア(カダフィ氏)の経験で、米国的価値観に従わないと侵略され民主化に応じない支配者が殺されてしまう時代に入りました。
イラクフセイン政権が、非民主的であったとしても民主化された?今の混乱状態と国民にとってどちら亜幸福かを比較すれば米国の余計な介入の酷さは明白です。
リビアだって同じです。
ソ連崩壊後中露による保護関係が希薄化してきた(北朝鮮の国際孤立化が進んだ)結果、米国介入の脅威を感じた結果、支配権→国民安寧を守るためには核武装しかないと思い定めたようです。
他国と比較して貧しく諸外国と見劣りしても国内混乱がない方が国民にとって重要ですし、自由化による国民の精神不安が少ない方が良い・余計な介入をしてくれるな!というのが北朝鮮の主張であり核武装化による介入阻止が、唯一の生き残り策と考えたのではないでしょうか。
明治維新当時の日中朝の社会意識の差を見ると、日本は鎌倉〜江戸時代を通じて徐々に実務的改良を繰り返してきた積み上げ社会→生活様式・思考の合理化があったのに対して、「04/10/05「不平等条約改正に対する日本政府と清朝の違い(漢承秦制の思想と社会の停滞)」以下で何回か紹介しましたが、朝鮮中国の場合社会構造が古代王朝性を理想としてきた結果、古代制度思想のまま停滞していた違いがありました。
この違いが西洋列強の進出影響を日本より早く受けながら、日本のように素早く受容し取り入れられなかった違いになった原因です。
日清戦争の結果、李氏朝鮮は、日本主導の開国に強制的に切り替わり、(それまで宗主国のお墨付きがいるという名目で開国〜近代化を拒んできた拒否の名分をなくした高宗が、ロシア公館へ逃げ込むなど抵抗を続けました。
今の韓国同様に?国際合意を事実上反古にする密書を連発しては抵抗していたところ、ロシア自体が手を引く事態になったので、世界的に信用を失い独立国としての当事者能力が疑問視されるようになりました。
以下の通り戦後体制を決めたヤルタ会談でも戦後独立を認めず、信託統治となる扱いになっていたことから、当時の朝鮮民族に対する国際理解が分かるでしょう。
ヤルタ階会談の取り決めに関するウイキペデイアの記事です

台湾と朝鮮半島について
台湾について、米ソ両国はカイロ会談で決定していた中華民国への返還を改めて確認した。また朝鮮半島は、当面の間連合国の信託統治とすることとし、第二次世界大戦後になって北緯38度線を境に暫定的に南側をアメリカ、北側をソ連へと分割占領にする事と決定した。しかし、米ソの対立が深刻になると、その代理戦争が朝鮮戦争となって勃発し、朝鮮半島は2018年に至る現在も、38度線を境に分断されている。

ソ連は占領後すぐに朝鮮から手を引いてしまったように、1900年頃にロシアが関わりを避けるようになった理由・私には今のところ知らないだけですが、イメージ的理解では「御し難い民族」と手を焼いたからではないでしょうか?
高宗が理不尽な要求をくりかえしたのでロシアが手を焼いたのか?
日露戦争の結果によるのか、日露戦争前だったかの時期すら詳細不明・・どういうことで手を引いたか不明です。
国際合意のもとに外交権を剥奪する(一人前の交渉・当事者能力がないので世界混乱を防ぐために被保護国化する必要があるという国際暗黙合意)ために日韓併合が国際的に推進されるようになりました。
日本としては日韓併合はリスク・負担が大き過ぎるという伊藤博文らの反対論が根強かった・・今で言えば、「北朝鮮を20年間預かって日本と同レベルのインフラ整備してやって一人前の国に教育してやれ」と言われたら国難的受け止め方になるのと同じです。
実務能力に長けた伊藤博文らの反対論が今になると正しかったと思われますが、当時ロシア南下政策の脅威が国際的(ロシアを除く西欧列強)になお大きかったこともあってやむなく引き受けるようになった流れと思われます。(この辺は私個人の造像です)
朝鮮民族はこうして西洋列強の支配下に入って急激な近代化圧力を受けることなく、アジア的意識に理解ある日本という緩衝文化を経て微温的近代化に進むチャンスを与えられたのです。
日本文化はもともと無理しない統治を基本にするものですから、これに従い朝鮮族の様子を見ながらの微温的改革でしたが、開国近代化に反対する事大党とのせめぎ合いで国論が纏まらなかった朝鮮民族にとっては、大きな衝撃だったでしょう。

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